正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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『日米開戦の真実』 佐藤優 著 より引用

日米開戦直後の1941年12月のラジオ放送 『米英東亜侵略史』 大川周明

【「門戸開放」提唱の経緯】

・・・略・・・この太平洋制覇の理想は、
1880年代から次第にアメリカに浸潤しはじめてきた帝国主義と相結んで、
アメリカの東亜政策もようやく積極性を帯びるようになりました。
そして、この新しき帝国主義の最も勇敢なる実行者は、
今日の大統領フランクリン・ルーズベルトの
伯父セオドア・ルーズベルトであり、
その最初の断行が、1898年の米西戦争を好機として、
フィリピン群島及びグァム島を獲得したことであります。

戦争の当初において、時の大統領マッキンリーは
「アメリカはフィリピン群島の強制的併合を行わんとするものに非ず、
予の道徳的規範によれば、かくのごときは犯罪的侵略なり」
と声明したにもかかわらず、
後には「神意」と称してフィリピン統治を
アメリカに委任することを要求したのであります。
その一切の献立を行ったのが、
取りも直さず海軍長官であったルーズベルトであります。

アメリカはスペインの統治に不満だったフィリピン独立運動者を煽動し、
これを援助してマニラのスペイン守備隊を攻撃させました。
この時アメリカは数々の約束を彼らに与えたが、
彼らを片付けるに足る軍隊がアメリカ本国から到着するに及んで、
一切の約束を蹂躙し去ったのであります。

すなわちフィリピン独立党はアメリカに欺かれて、
その手先となってスペイン軍と戦い、
その後に彼ら自身も葬り去られたのであります。

当時日本の民間にはフィリピン独立運動に援助を与えた人々も多く、
アメリカの悪辣なる手段を痛憤したのでありますが、
日本政府は「いかなる国が南太平洋で日本の隣邦となるよりも、
アメリカが隣邦となることをよろこぶ」として、
米国のフィリピン併合に賛意を表したのであります。

いまやアメリカは「イギリスが香港に拠るごとく、我らはマニラに拠る」
と公言し、フィリピンを根城として東亜問題に容喙する実力を養いはじめ、
1899年には国務長官ジョン・ヘイの名において、
名高き支那の門戸開放を提唱し、
翌1900年には、支那の領土保全を提唱したのであります。

この二つの提唱は、アメリカ人の言い分によれば、
ある程度まで利他的政策であり、支那に同情し支那を援助せんとする希望から
出たものであるというのでありますが、それは偽りの標榜であります。

第一にヘイはこの政策を提唱するに当たって、
いささかも支那自身の希望や感情を顧みず、
支那政府は門戸開放に同意なりや否やの問い合わせさえ
アメリカから受けたことがなかったのであります。

ヘイの提唱は、支那に対するアメリカの権利を一方的に主張したもので、
要するに支那はアメリカの同意なくしては
いかなる国にも独占権を与えてはならぬ、
関税率を決めてはならぬ、相互条約を結んでもならぬという要求であります。

まさしくヨーロッパ列強は、アメリカに先んじて支那において
それぞれ勢力範囲または利益範囲を確立していたので、
立ち遅れたアメリカは、支那に対する自国の政治的・経済的発展に
大いなる障碍の横たわれるに当面し、
これを撤去するために門戸開放を唱えたのであります。

また、その領土保全主義は、支那が列強によって分割される場合、
アメリカの現在の準備と立場では、
自分の分け前が甚だ少なかるべきことを知っていたので、
支那における自国の利益を消極的に守るために他ならなかったのであります。

すなわちロシア及びイギリスが、
すでに武力と領土占領の手段によってその勢力を支那に張り、
とくにロシアが将来も同様の手段を遂行せんとするのに対し、
アメリカは門戸開放と領土保全とを提唱する以外、
支那における現在及び将来の帝国主義的利益を擁護するために、
いかなる現実の手段ももたなかったのであります。

【ハリマンの満鉄買収策】

・・・略・・・アメリカにとっては、太平洋を支配するということは、
東亜を支配するという意味であります。
東亜を支配するということは、支那満蒙における資源の開発、
その広大なる市場の獲得、その高率なる投資利益において、
他国よりも優越した地歩を確立するという意味であります。

・・・略・・・

そしてアメリカの太平洋進出、従って東亜進出は、
日露戦争直後から初めて大胆無遠慮となってきたのであります。

・・・略・・・

多年にわたる東亜進出計画をいよいよ実行に移すに当たって、
どこを最小抵抗と睨んだか。それが満蒙であります。

日露戦争によって国力を弱めていた日本の勢力圏満蒙が、
実にアメリカ進出の目標となったのであります。

ルーズベルトの調停によって行われた日露両国の講和談判が、
なおポーツマスにおいて進行中のことであります。

アメリカの鉄道王と呼ばれたハリマンが、
条約によって日本のものとなるべき南満洲鉄道を買収するために、
1905年8月下旬、秘かに日本に来朝したのでありますが、
極力彼に奨めてこの来朝を促したのは、
時の東京駐在米国公使グリスカムであります。

ハリマンがいかなる弁舌をふるって
日本政府を籠絡したかは詳しく存じませんが、
日本は遂に彼の提議を容れて、驚くべき内容を有する覚書が、
10月20日付をもって桂首相とハリマンとの間に成立したのであります。

・・・略・・・

ハリマンは、この覚書を手に入れたその日の午後に、
すぐさま横浜から船に乗って帰国の途に上がりました。

そのちょうど三日後に、ポーツマス条約を携えて帰朝した小村全権が、
その覚書を見て驚き、かつ憤り、極力反対を唱えて遂に政府を動かし、
これを取り消させたのであります。

・・・略・・・

【日本が東亜進出の障碍に】

・・・略・・・アメリカは大体において
常に日本に好意を示してきたのであります。
しかしハリマンの計画ひとたび失敗するに及んで、
日本に対するアメリカの態度は、次第に従前とは違ってきたのであります。

それはアメリカが、日本をもってアメリカの東洋進出を
遮る大いなる障碍であると考えはじめたからであります。
ここにアメリカの甚だしき無反省と横暴とがあります。

東亜発展は日本にとって死活存亡の問題であります。
さればこそ国運を賭してロシアと戦ったのであります。

ところがアメリカの東洋進出は、
持てるが上にも持たんとする贅沢の沙汰であります。
アメリカはその贅沢なる欲望を満たさんがために、
日露戦争によって日本が東亜に占め得たる地位を、
無理矢理奪い去らんとしたのであります。

実にこの時より以来、アメリカは日本の必要止むなき事情を無視し、
傍若無人の横車を押しはじめたのであります。

横車の第一は、日露戦争の終わった翌年すなわち1906年に、
突如当時の東京駐在代理公使ウィルソンをして、
下のような提言を日本政府に向かって為さしめたことであります。

「満洲における日本官憲の行動は、すべて日本商業の利益を扶植し、
日本人民のために財産権を取得せんとするにありて、
このため該地の日本軍隊の撤退を了する頃には、
他の外国の通商に充つべき余地は希有、もしくは絶無たるに至るべく、
世界列国の正当なる企業並びに通商に対する門戸開放に同意すといえども、
日本従来の僭越なる専権に鑑み、
こうした行動は合衆国政府の甚だ遺憾とするところなり。
日本政府は、露国があえて該地方に実質的の国家的統制を
為さんとして失敗せるに鑑み、切に反省せん事を望む」

こういう乱暴な文句をつけたのであります。
十万の生霊を犠牲にし、二十億の金を使って、
満洲からロシア勢力を駆逐したのでありますから、
ここに日本が商業的発展を試み、あらゆる企業を計画することは、
当然至極のことなるにかかわらず、
すでに日露戦争の翌年から、アメリカはこのような横槍を入れております。

次には翌1907年のことであります。
支那において事業を営むことを主としているイギリスのボーリング商会が、
秘かに支那と交渉を進め、
京奉線すなわち奉天から北京に至る鉄道の一駅新民屯から、
まず北方法庫門に至り、
ゆくゆくは北へ北へと延ばしてシベリア鉄道と連絡する斉々哈爾(チチハル)
までの鉄道敷設権を獲得したのであります。

当時の奉天のアメリカ総領事は、有名なストレートであります。

・・・略・・・

このストレートは、あらゆる機会を捉えて日本を抑えつけ、
アメリカの力を満洲に扶植する覚悟で着任したのでありますから、
ボーリング商会が法庫門鉄道敷設権を獲得しますと、
彼は直ちにアメリカをこれに割り込ませたのであります。

この鉄道は満鉄と並行して、
シベリア鉄道と渤海湾とを結びつけるものでありますから、
この鉄道が敷かれることになると、
満鉄は大打撃を受けなければなりません。

・・・略・・・

従って、小村全権が北京において満洲善後条約を支那と結んで、
次のように約束しております。

「支那政府は南満洲鉄道の利益を保護する目的をもって、
自ら該鉄道を回収する以前においては、該鉄道の付近において、
もしくはこれに並行していかなる鉄道をも敷設せず、
また該鉄道の利益を害するいかなる支線をも敷設せず」。

支那がこういう約束をしておきながら、
ボーリング商会に法庫門鉄道の敷設を許可することは、
疑いも無く条約違反でありますゆえに、日本は強硬にこれに抗議し、
遂に支那をして一旦与えた許可を取り消させたのであります。

さりながら、ストレートは、
決してそれくらいのことで思い止むものでありません。彼は翌1908年、
支那当局者との間に満洲銀行設立の約束を結んだのであります。
当時支那の実権を握っていたのは袁世凱であります。
袁世凱は、日露戦争前並びに日露戦争中は、
我が国に非常なる好意を示していたのであります。

それはロシアという共同の敵があったからであります。
ところが日露戦争以後、
ロシアに代わって日本が満洲に勢力を張るに至りますと、
今度はアメリカの力を借りて日本の満洲における発展を
掣肘しようという方針に変えたのであります。

この袁世凱の親米政策を利用して、
ストレートは当時の東三省総督・徐世昌及び奉天督弁・唐紹儀と相図り、
満洲における鉄道の敷設並びに産業の開発を主目的として、
その金融機関たる満洲銀行を建てることを承諾させ、
二千万ドル借款の仮契約を結んで、
よろこび勇んでアメリカに帰っていったのであります。

アメリカはこの銀行を機関として、
満洲において日本と角逐して鉄道並びに事業を始めようとしたのであります。

ところが日本にとって幸福であったことには、
この年袁世凱が政変のため失脚し、
彼の政敵だった醇親王が支那の政治を執るようになりましたので、
ストレートの計画は今度も失敗に終わったのであります。

【米国務長官の驚くべき提案】

アメリカは日支両国の間に満鉄に並行する鉄道を敷かぬという
約束があることを知っていたにもかかわらず、
またボーリング商会と合作して企てた法庫門鉄道計画が
失敗したのにも懲りず、
1909年、またもや極秘の間に支那政府と交渉を進め、
渤海湾頭の錦州から斉々哈爾(チチハル)を経て、
黒竜江省愛琿に至る非常に長距離の鉄道敷設権を得たのであります。

この錦愛鉄道は、この前の法庫門鉄道よりも満鉄にとって
いっそう致命的なる並行線であります。

この並行線の敷設権を支那から得たのは、
1909年10月のことでありますが、
11月に至りて国務長官ノックスは、
まず英国外相グレーに向かって、二つの驚くべき提案を行ったのであります。

第一は英米一体となって満洲の全鉄道を完全に中立化させること、
第二は鉄道中立化が不可能の場合は、英米提携して錦愛鉄道計画を支持し、
満洲の完全なる中立化のために、
関係諸国を友好的に誘引しようというのであります。

英国外相はこの提案に対して体よき拒絶を与えたにかかわらず、
ノックスは12月4日、このうえ二案を日・支・仏・独・露の各政府に示し、
かつ英国政府の原則的賛成を得たと通告し、
これらの諸国に対して「同様に好意ある考慮」を求めたのであります。

この突飛なる提案に対して、日露両国はもとより強硬に反対し、
ドイツ・フランス・イギリスもアメリカを支持しなかったので、
この計画もまたまた失敗したのであります。

・・・略・・・

このように手を変え品を変えても成功しないので、
アメリカは今度は列強の力を借りて目的を遂げようというので、
その前年に成立した英米独仏の四国借款団を利用することとし、
その借款団から支那に向かって英貨一千万ポンドを貸し付け、
これによって支那の貨幣改革
及び満洲の産業開発を行う相談を始めたのであります。

これは取りも直さず、アメリカ一国では従来やり損なったから、
列強と共同して日本を掣肘しようという計画であります。

ところがこれまた日本にとって幸いであったことは、
あたかもこの頃に武漢に革命の火の手が上がり、
清朝は脆くも倒潰して支那は民国となったので、
この交渉も中絶の姿となったのであります。

それにもかかわらず、新たに出来た民国政府は、
この四国財団に政費の借款を申し込んだのであります。

この申込みを受けた四国財団は、日露両国を無視しては支那との
いかなる交渉も無益なることを知っていたので、
結局日露両国を加えた六国借款団を作ることにしたのであります。

・・・略・・・

列国政府がこの声明を承認したので、
1913年6月22日正式に六国借款団の成立を見るに至りました。
ところで、日露両国がこのような条件の下に参加してきたのでは、
思うように満洲進出が出来なくなったので、アメリカは翌1914年に至り、
六国借款団は支那の行政的独立を危うくするという口実の下に、
勝手にこれを脱退したのであります。

【中立声明を無視して参戦】

さて、1914年は世界大戦の始まった年であります。
日本は日英同盟の誼みを守り、ドイツに宣戦して連合国側に参戦しました。

するとアメリカの最も恐れたことは、
このどさくさ紛れに日本が支那及び満洲において、
火事場泥棒を働きはせぬかということであったのであります。

そこでアメリカはこの年8月21日、
無礼極まる通牒を日本に向かって発しております。

その文面はまず

「合衆国は日本のドイツに対する最後通牒につき、
意見を発表することを見合すべし」

というもので、ほとんど日本を属国視しております。
日本が最後通牒を発するのに、
アメリカから文句をつけられる因縁は、毛頭ないのであります。

さらに

「またヨーロッパの戦争の状態如何にかかわらず、かつて声明するごとく、
アメリカは絶対に中立を維持することをもって、その外交政策となす。
そして合衆国政府は、日本の意向について左のごとく記録するの機会を有す」

と豪語したる後、
第一に日本は、「支那において領土拡張を求めざる」こと、
第二に「膠州湾を支那に還付する」こと、
第三に「支那国内に重大なる動乱もしくは事件の発生する場合において、
日本は膠州湾領域外において行動するに先立ち、アメリカと共同する」
ことを要求しているのであります。

誠に無礼極まる申し分でありますから、
日頃アメリカに対して妥協的態度に出ることを習慣としている日本政府も、
この乱暴なる申し分には取り合わなかったのであります。

・・・略・・・

戦局が段々と進んで連合国側の勝算がほぼ明らかになりますと、
アメリカは存分に漁夫の利を収めるために、
以前の声明などは忘れたかのように大戦に参加したのであります。
いざ大戦に参加してみると、今までのように日本と相争っていたのでは、
甚だ心がかりになりますので、
1917年、アメリカからの提案によって
いわゆる石井・ランシング協定が成立し、
アメリカははじめて東亜における日本の立場を承認したのであります。

「合衆国政府及び日本政府は、
領土相接する国家間には特殊の関係を生ずることを承認す。
従って合衆国政府は日本国が支那において特殊の利益を有することを承認す。
日本の領土の接壌する地方においてことに然りとす」。

この協定によってアメリカは一時日本の意を迎えたのであります。

・・・略・・・

一方、このように日本の意を迎えながら、
アメリカは世界大戦の最中においても、満洲に発展する機会さえあれば、
無遠慮に自国の立場を作ろうとしました。

例えば1917年、ロシア革命によってツァー政府が倒潰し、
列強がシベリアに出兵することになりました時、
アメリカは東支鉄道及びシベリア鉄道の管理権を握るという
強硬なる主張を列強に向かって発したのであります。

これも実に乱暴な提案であります。

日本は当然これに反対し、結局連合国特別委員会を作り、
その委員会が両鉄道を管理することになりました。
叙上のような始末で、日露戦争以後におけるアメリカの東亜進出政策は、
その無遠慮にして無鉄砲なること、
近世外交史において断じて類例を見ないところのものであります。

それは藪医者が注射もせずに切開手術を行うような乱暴ぶりであります。

しかも数々の計画がその都度失敗に終わったにかかわらず、
いささかも恥じることなく、いささかも怯むことなく、
矢継ぎ早に横車を押し来るに至っては、言語道断と申すほかありません。
我々はアメリカのこのような気性と流儀とを
はっきりと呑み込んで置く必要があります。

【日本が屈服した日】

ワシントン会議は、太平洋における日本の力を劣勢ならしめることにおいて、
並びに東亜における日本の行動を掣肘拘束することにおいて、
アメリカをしてその対東洋外交史上未曾有の成功を収めさせたのであります。

米国が東洋に向かって試みた幾度かの猪突的進出は、
その都度失敗に終わりましたが、ワシントン会議においては、
かつて欲して得ざりしことを、一応は成し遂げたのであります。
当時アメリカ人が上下を挙げて喜んだのも当然であります。

しかもアメリカはこれをもつて満足しなかったのであります。
アメリカはワシントン会議によって
日本の戦闘(艦)を制限し得たのでありますが、
それだけではまだ枕を高くして眠ることができない。

アメリカと日本のように、
きわめて遠隔な距離を隔てて相対している間では、
大きい巡洋艦が時として戦闘艦以上の効力を発揮することがあります。

こうしてアメリカが主動者となって、
今度は主力艦以外の軍艦制限の目的をもって召集されたのが、
ジュネーブ会議及びロンドン会議であります。

そしてこの二つの会議においても、
日本はワシントン会議におけると同じく、
アメリカの前に屈服したのであります。

ただしアメリカに屈服したのは日本だけではありません。
実にイギリスまでがアメリカの前に頭を下げ、
アメリカよりも劣勢なる海軍をもって甘んずることになったのであります。
これは世界史における非常の出来事と申さねばなりません。

大ブリテンは海洋を支配すと高嘯して、
世界第一の海軍を国家の神聖なる誇りとしてきたイギリスが、
今やその王座をアメリカに譲ったのであります。

ここで我らは心静かにアメリカの国際的行動を観察してみたいと存じます。
自ら国際連盟を提唱しながら、その成るに及んでこれに加わることをしない。
不戦条約を締結して、戦争を国策遂行の道具に用いないということを
列強に約束させておきながら、
東洋に対する攻撃的作戦を目的とする世界第一の海軍を保有せんとする。

大西洋においては英米海軍の10対10比率が、
何ら平和を破ることないと称しながら、
太平洋においては日米海軍の7対10比率さえ
なおかつ平和を脅威すると力説する。

ラテン・アメリカに対しては門戸閉鎖主義を固執しながら、
東アジアに対しては門戸開放主義を強要する。

例えば往年邦人漁業者が、
メキシコのマグダレナ湾頭に土地を租借しようとした時、
これをもってアメリカのモンロー主義に反するものとする決議案が、
アメリカ上院を通過しております。

それにもかかわらず、東亜においては、日本の占め来れる地位は、
アメリカがメキシコまたはニカラグアにおいて占める勢力の十分の一にも
及ばざるにかかわらず、
門戸開放主義の名においてこれをも否定し去らんとするのであります。

総じて、これ無反省にして、
しかも飽くなき利己主義より来る矛盾撞着の行動であります。

アメリカの乱暴狼藉このようであるにもかかわらず、
世界のいかなる一国もアメリカに向かって
堂々とその無理無法を糾弾せんとする者がなかったのであります。

我が国もロンドン会議において、
それだけに補助艦比率の10対10を主張して
何の憚るところなかりしのみならず、
ワシントン会議以後の情勢変化、及び不戦条約の精神を盾として、
主力艦6対10の比率変更をさえ要求し得たにかかわらず、
当初から7対10の比率をもって甘んじ、
しかもその主張さえアメリカのために拒否されて、
いっそうの劣勢をもって甘んじたのであります。

すべてこれらの会議は、簡単に軍縮会議と呼ばれておりますが、
決して単純なる海軍会議ではありません。
30年にわたる執拗極まりなきアメリカの東亜政策全体を顧みることによって、
これらの会議の真実の意味を、始めて正しく理解し得るのであります。 

【敵国に誉めそやされたロンドン条約調印】

我らは意気揚々としてロンドン会議を引き上げた
アメリカ代表スティムソンが、この年(1930)5月13日、
上院外交委員会において以下のような説明を試み、
口を極めて日本代表及び日本政府を賞揚したことを
今日といえども忘れることが出来ません。

「我ら合衆国代表の眼目とせるところは、
我が海軍が日本海軍を凌駕すべき製艦計画を完了するまで8年間、
日本をして現勢力のままに在らしめる事であった。

6インチ砲巡洋艦に関しては、我らは我が保有量を7万5千トンより
14万3千トンに拡張するまで、日本は現状を維持すべきことを要求した。
我が国は、この条約によって6インチ砲巡洋艦を
倍加し得ることになったにもかかわらず、
日本は現在保有する9万8千トンより
わずかに2千トンを拡張し得るに過ぎない。

日本は本国において海軍拡張論者の猛烈なる運動があり、
海軍当局は国民の支持後援を得ていた。
それゆえに予は、日本代表はロンドン会議において
非常に困難なる仕事を成し遂げたと断言する。

我らは、日本が勇敢にもその敵手が自国を凌駕するまで
その手を縛るような条約を承認した事に対し、
その代表及び政府に最大の敬意を払いつつ、会議から引き上げて来た。

我らは故意に潜水艦を日本と同等にした。
これは潜水艦の総トン数を縮小すれば、
それだけ我が国を有利に導くからである。
そして日本は1万6千トンの縮小に同意した」

ロンドン会議における日本代表及び日本政府は、
アメリカ代表から「敵が自分よりも優勢なる艦隊を建造するまで、
自分の手を縛るような条約に調印した」と言って、
その「勇敢」を誉めそやされたのであります。

・・・略・・・

ロンドン会議は、アメリカがどんな手段を使っても太平洋の覇権を握り、
絶対的に優越した地歩を東亜に確立するために、日本の海軍を劣勢ならしめ、
無力ならしめ、そうした後に支那満蒙より日本を駆逐せんとするものです。
2009/04/17 09:00|年表リンク用資料
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