正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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『大東亜戦争の正体』 清水馨八郎 著 より引用

◆『紫禁城の黄昏』が明らかにした真実

結局大東亜戦争の直接の発端となったのは、
満洲における日米の権益争いであった。

では、満洲とは何か。当時世界が日本を非難し、孤立した日本が
国際連盟を脱退する破目になった原因が満州国の建国であった。

満州国は果たして日本の傀儡政権だったのか、
その満洲問題の本質、真実を知れば、
どちらに正義があったか自ずから解明されるはずだ。
それを知るかっこうの書物が『紫禁城の黄昏』である。

この魅力的な題名の書は、清朝最後の皇帝・溥儀の家庭教師として、
皇帝の人となり、紫禁城の内幕、満洲問題と日本との関係を内側から
つぶさに観察した、イギリス人による貴重この上ない歴史の証言である。

原著は1934年刊行であるが、近年、中山理氏によって完訳され、
渡部昇一氏の監修で出版された。

渡部氏の監修の言葉に
「『紫禁城の黄昏』が、極東軍事裁判に証拠書類として採用されていたら、
あのような裁判は成立しなかったであろう。
こう言うだけで、本書の価値を知るには充分である。
もちろん、何が何でも日本を悪者に仕立て上げたかった東京裁判所は、
本書を証拠資料として採用せず、却下した」と。

この本を書いたレジナルド・ジョンストンは、当代一流のシナ学者で、
宣統帝溥儀の家庭教師となった人である。
この本は、満洲事変後のアメリカ・イギリスの対日政策が根本から間違って
いるということを、動かしがたい証拠を以って言及しているのである。

この書が決定的に主張していることを一言でいえば、
「満洲は絶対シナではない」という点である。
ジョンストンの、「シナには近代欧米的な意味での国家は、
かつて存在したことがなく、いろいろな王朝があっただけである」
という指摘に驚かされる。

考えてみれば周王朝と唐王朝では人種が
ほとんど別になっているといわれているし、
元王朝は蒙古民族の王朝であり、清王朝は満洲民族の王朝であり、
決していわゆるシナ人の王朝ではなかった。
これが満洲問題を理解する鍵であったのだ。

そのシナで「滅満興漢」が叫ばれ革命が起こり、
満州族最後の皇帝溥儀は紫禁城から追い払われた。
皇帝は家庭教師のジョンストンと共に日本公使館に逃れた。
次に父祖の地である満洲に戻って、そこで皇帝になりたいと思っていた。
その溥儀の夢を支援したのが日本であったのだ。

とすると満洲というのは日本が侵略してつくったわけではない。
その前の柳条湖事件は、
満州国に満洲皇帝を招き入れるための悪者の除去作業だったといえる。

満州国は傀儡政権だと言われるが、満洲人の正統な皇帝が、
先祖が「清」を建国した場所に戻って、
大臣も満洲人か清朝の家来で構成された。

東京裁判のさい、梅津美冶郎の弁護人だったブレイクニー少佐は
この本を提出したが却下されてしまった。
これを証拠として認めると、先に渡部昇一氏の言としても紹介したように、
東京裁判の戦犯は誰もいなくなってしまうからである。

ジョンストンのこの本には、溥儀が喜んで序文を寄せている。

しかし溥儀は東京裁判の当時ソ連軍に捕まっており、脅かされていたので、
序文は自分が書いたものではないと供述した。
もし序文は自ら筆を執ったと彼自身が認めれば、
彼は日本政府に拉致されて皇帝になったのでなく、
自ら望んで日本に助けてもらって皇帝になったということを
認めることになる。

そうすると東京裁判自体が成り立たなくなるのである。
だから、この本は証拠として採用されなかったのだ。

ジョンストンは次のように書いている。
二十世紀初頭の満洲は実質的に、完全にロシアに占領されていた。
清朝はロシアを追い払うために何もしなかった。
ところが日本は日露戦争でロシアを打ち破った。
それがなければ遼東半島ばかりか、満洲全体がロシア領の
マンチュリアスタンになっていたことが明白であった。

日本はロシアの植民地になりかけていた満洲を助けた。
そこへ清朝から皇帝が帰ってきた。それを日本が助けて、一体何が悪いかと。

この論理が成り立たなければ、
日本は中国を侵略したという汚名から逃れることができなくなる。
だが、この論理はきわめてまっとうなもので、
日本が満洲を侵略したと言い募るほうが無理だということに、
そろそろ気がつくべきである。

だとすると、柳条湖事件にも、
日本は肩身の狭い思いをする必要はまったくない。
この事件は満州国をつくるために
侵略者で匪賊の頭領である張学良を追い払っただけのことである。

何度も言うが、満洲はシナではないのだ。
シナ人にとっては万里の長城外の化外の地にほかならないのである。

戦後生まれた中国は、日本のお陰で手に入れた満州を、
マンチュリアという呼称を嫌ってシナ領土の
東北にあった固有の土地であるかのごとく、
ここを「東北」地方と呼んで自らの泥棒行為をゴマ化している。

五族協和の満州国の成立でシナ人は
毎年100万人が移住して王道楽土を楽しんだ。
満州国の存在で一番得をしたのはシナ人であった。
満洲は今の中国の経済を支える宝庫だ。
中国政府は日本に深甚なる感謝を捧げるべきである。

〓〓〓〓〓引用おわり〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

日本の満州権益は、1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)』
によって得られた正当なものでした。

満州内では日本人や日本の関係施設などが、
さまざまなテロ攻撃を受けていました。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html

しかも、その武装盗賊テロ集団に武器や資金の支援をしていたのは
アメリカ(→張学良や中国国民党を支援)や、
ロシア(→共産パルチザンを支援)でした。

しかし日本政府は何ら有効な対策を打とうとせず、
「嫌なら帰って来ればいい」という態度だったのです。

そこで準備万端で一気にやり返すため、奉天(現瀋陽)郊外の
柳条湖付近で日本軍(関東軍)が南満州鉄道の線路を爆破して(柳条湖事件)、
警察行動である満州事変が勃発したものです。

5ヵ月後の1932年2月上旬にはテロ集団を満州から追放する事に成功し、
満州の治安は回復しました。

他の列強国が閉鎖的なブロック経済を構築していくなか、
日本は生きていくための日本独自の経済圏をめざしていたこともあり、
そもそも1911年の辛亥革命で支那満州は別になったはずでしたので、
1932年3月1日、日本がバックアップして清の宣統帝溥儀が満州国建国を
宣言し、支那に侵略されていた満州を満州族が取り戻しました。

その後も満州-支那の国境付近で張学良軍や中国国民党軍が
テロ攻撃してくるので、それらを排除する作戦などを行ない、
1933年2月初旬、熱河作戦。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-466.html
1933年5月3日~25日、関内作戦。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-467.html

1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で満州事変は終結しました。

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【満州の歴史】
●1616年、女真族が「後金」王朝を建てる。
●1636年、「後金」が朝鮮を征服。国号を清(清国、清朝)と称し、
民族名を「女真族」から「満洲族」に改める。
●1644年、清国(満洲族)は万里の長城を越えて「明」を倒して領土を拡大。

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●1911年10月10日、辛亥革命
支那人(漢民族)たちが清王朝(満州族)を打倒して清国政府を、
その故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、中華民国を建てた。
これで支那は満州から分離独立して支那と満州は別になったはずだった。
「満洲」は民族の名満州と支那は別
●1912年1月1日、中華民国成立(支那独立)宣言。
孫文(漢民族)を初代臨時大総統とする中華民国が南京に成立。
1911年の辛亥革命で漢民族(支那人)たちが清王朝(満州族)を打倒し、
清国政府をその故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、翌1912年1月1日、中華民国を
建てたので支那と満州は別になったはずだったが、中華民国は清朝の支配地域
を全て継承したいがため、漢民族とチベット民族、ウィグル民族、
蒙古(モンゴル)民族、満州民族は、つまり「中華民族」であるという
新たな民族概念を創出し、漢民族だけでなく「中華民族」の土地は
すべて中華民国(支那)の土地だと主張するにいたり、チベット、ウイグル、
蒙古(モンゴル)、満州が独立するのを認めなかった。
日本は満州に権益があったこともあり、親日の満州族やモンゴル族を支援し、
治安を良くして発展することに尽力した。
★「支那」呼称について★満洲★清★辛亥革命~第一次国共合作
清朝(満州族)は北洋軍閥を率いる袁世凱に反乱軍(辛亥革命)の鎮圧を
命じたのだが、袁世凱は反乱軍(革命派)側と極秘に連絡を交わし、
事態収拾のため「中華民国」を建てて革命派の孫文を臨時大総統にする事を
清朝に進言する代わりに、すぐに自分を大統領にする事を孫文に求め、
自分が大統領に就任したら、清朝の皇帝・宣統帝を退位させ、
共和制に移行する事も孫文と約束していたので、
約束どおり孫文は大総統を去り、袁世凱が大総統となった。
1912年2月12日、袁世凱は最後の皇帝・宣統帝を退位させ清朝は滅亡、
しかし袁世凱は孫文と対立し、革命派を弾圧して独裁体制を取るようになり、
革命は名ばかりとなった。

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正統史観年表(トップページ)の1931年9月18日『満洲事変』の前後をご覧下さい。

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my日本・S

http://sns.mynippon.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=354905

『溥儀、満州族王朝』

明朝中国、敵だったモンゴル民族の元朝の首都北京に対抗して
南京が首都だったが明朝3代目皇帝は元朝が作った北京の宮殿を改増築。
それが紫禁城で遷都。
この明朝は李自成によって滅ぼされ、李は順朝中国を建国するが、
その順朝は建国から1ヶ月ちょっとで満州族軍(清朝)によって滅ぼされる。
その際李が紫禁城に放火して焼失させたが清朝が再建。
以降も皇帝はそこに住む。

■愛新覚羅ヌルハチ
順朝を滅ぼした時の清朝皇帝は既に3代目。
満州族(女真族)は以前既に金朝で中国を統治した歴史があったが、
元朝に滅ぼされた後討伐され、明朝の分断統治などでバラバラになった。
それを愛新覚羅ヌルハチが統一し、明朝に抗戦しつつ金(後金)建国。
ヌルハチの息子(2代目皇帝)が女真を満州、金を清に改称したとされる。
3代目皇帝から徐々に漢字を使用したようだ。

■愛新覚羅溥儀
その清朝最後の皇帝が清朝第12代(即位時2歳)、
満州国初代にして最後の皇帝愛新覚羅溥儀。
無論紫禁城に住んでいた。
清朝末期は日本の明治維新を手本に内閣や議会制移行を試みるも、
南京を拠点に勢力拡大していた孫中山率いる
革命軍との交渉によって孫の地位(臨時大総統)を
清朝2代目内閣総理大臣袁世凱に譲渡して溥儀は退位する。
しかし溥儀退位詔書の上諭にあるように、退位には優待条件が設けられた。

中華民国は清朝王室を外国君主同様の待遇をし、それの保護などの協定。
なので清朝が打倒され中華民国が建国して政権が移行しても、
溥儀などはそのまま紫禁城に住んでいた。
しかし何せ中華民国は、情勢不安定で軍閥内戦の時代なので
洪憲皇帝、張勲復辟などのドタバタの後、
馮玉祥が政権を握ると優待条件を破棄。
溥儀らは紫禁城から追い出される。溥儀18歳。

イギリス人家庭教師ジョンストンの手引きで
イギリス大使館に亡命懇願するも「日本に行けよ」と厄介払い。
その通り日本大使館に行くと歓迎され、後に天津の日本租界に移住。

東陵事件の屈辱を味わって満州族国家再建を強く誓ったらしく、
テロ頻発のどうしようもない国「中華民国」に
手を焼いた日本もそれを応援することになり、
実際満州族国家は満州国建国で実現し、
溥儀は26歳で天津日本租界から民族の故地満州に移るが、
この時の満州国は執政を元首とする立憲君主制国家。帝国ではない。
これについて児島襄の著書「東京裁判」と
溥儀の自伝「わが半生」ではまったく逆の歴史
(「わが半生」では溥儀が帝政を望み関東軍が否定。
「東京裁判」では関東軍が帝政を薦めるが溥儀が拒否)
なのだが、溥儀の「わが半生」は共産党指導で「書かされたもの」
なので信憑性足りるものではない。

結局日本の終戦で満州族は後ろ盾を失い、満州族国家は消滅。
その土地は台頭した共産主義勢力に掌握され現在に至る。

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満州地域における日本人や日本関係施設の被害
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関東軍1万人で張学良軍30万人らを満州から追放した。
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『満州事変』についての反応
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東京裁判 弁護側資料 満州関連
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「リットン報告書」について~『 アメリカの鏡・日本 』より抜粋
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『リットン報告書』は日本の正当性を裏付ける内容だった!
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満州事変前~満州事変~支那事変まで
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義和団の乱
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1900年(明治33年)、ロシアが『義和団の乱』に乗じて満洲を占領。
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満州事変を生んだ内外要因 ブロック経済から生き延びるために
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満洲事変
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門戸解放宣言(通牒)
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もう一つのアメリカ合衆国 『満州』
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大東亜戦争までの内閣
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日米開戦前 日本の和平努力
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ハル・ノートに対する日本の回答入電「これは戦争を意味する」
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隠蔽が続く大東亜戦争の発端
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2009/04/14 09:00|年表リンク用資料
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