正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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『ハル回顧録』 より引用

◆民主主義国の根本的な弱み

当時(1930頃)英仏の力ははるかに勝り、
ドイツははるかに劣っていたのであるが、
どうしてドイツが優越の地位を占め、
ひいては英仏の存在までもおびやかすようになったのだろうか。

これは世人がいつまでも疑問とする問題の一つであるが、
その理由は、英国もフランスもわざわいを
事前に防ぐための戦争をしようとしなかったことにある。

英国における孤立主義的な気分の強さは米国に劣らなかった。
フランスが1923年にルールに侵入したのは
予防手段をとろうとしたものであったが、
これは英国のはげしい反対を招き、
ポアンカレー内閣はこのためにつぶれてしまった。
その後フランス政府は予防戦争に乗り出す勇気を失ってしまった。

ここに民主主義国ないし人民が重要な発言権をもつ政府の
根本的な弱みがある。
こういう国はいろいろの面ですぐれた面を持ってはいるが、
不幸なことに外からの危険が目の前にせまった場合、
ゆっくりと、あまりにもゆっくりと行動するという伝統をもっている。

純粋な民主主義は、アテネの市民が文明への貢献として
作り出したものであるが、この小さな国の国民は、
外からの危険がせまった時に、戦うべきかどうかを人民投票に問おうとした。

この指導性の不足、政府当局の指導ということに考えの足りなかったことが、
アテネ人をとらえて奴隷にしようとした
侵略者の乗ずるところとなったのである。

◆日ソ不可侵条約締結
 
ヒトラーがソ連を攻撃するだろうということは半年も
前からわれわれは有力な証拠を持っていた。
だから6月22日の知らせ(ヒトラーのソ連侵入)にもわれわれは驚かなかった。

1941年1月、ベルリン駐在商務間のサム・ウッズから私に
極秘の報告が届いた。ウッズは一人のドイツ人の友人を持っていた。
この友人はナチスの反対者だったが、ドイツ政府の各省、中央銀行、
党の高級幹部などに深く食い入っていた。

この友人が、ヒトラーの司令部で、対ソ戦の準備についての会議が開かれて
いるということをウッズに知らせたのは1940年8月のことであった。

私はこの報告の内容をソ連大使ウマンスキーに伝えさせることにした。
私はそうすることが、米国がソ連に対してとるべき正しい態度だと確信した。
私はそのころ私の要請に応じて米ソ両国の意見の食い違いを調整するために、
何回もウマンスキーと会談していたウェルズに、
この情報をソ連大使に伝えるように頼んだ。ウェルズはその通りにした。

ウマンスキーはこの情報を本国政府に伝えるといっていたが、
彼がそうしたことは疑いない。
それがソ連の政策にどういう影響を与えたか、
はっきりしたことはわからない。

だがそれからわずか三週間後に、
スターリンは突然日本の外相松岡との間に不可侵条約を結んだ。
当時松岡はとても不可能だと思いこんでいたのであるが。

スターリンがこの条約を結んだのは、
ヒトラーが欧州でソ連の攻撃を計画しているという考えに立って、
極東における自国の地位を守るためであったことは疑いない。

ヒトラーがソ連攻撃を計画しているという情報を得たことは、
日本との交渉にあたって特に私に役立った。
これによってソ連と日本の同盟はあり得ないと見てよかったから、
われわれは日本に対し強い態度をとることができた。

独ソ戦はわれわれになんのむずかしい問題も起さず、
われわれはヒトラー打倒の希望をあらたにした。
私はホワイト・サルファー・スプリングズから
絶えず大統領とウェルズに連絡をとり、
ソ連にできる限りの援助を与える約束をするようにと説いた。
大統領はハリー・ホプキンスをロンドンから
モスクワに派遣してソ連の軍事的必要を視察させた。

◆スターリンの人柄に感銘

外相会議の最終日の10月30日(1943年)の夜、
クレムリンのエカテリーナ大帝ホールで、
代表団を招待したスターリン元帥主催の夜会が開かれた。

私はスターリンの右側の席についた。
このために私は長い食事とそのあとの催物の間を通じて
スターリンと話をするすばらしい機会に恵まれた。

彼は先ず「今度の会議は大成功でした」といった。
私はすぐに、「全くあなたのお陰です。あなたが英、米と一緒になって
協力を土台とする世界計画に加わる決定的な一歩を、
ソ連に踏み切らせてくれたからです」と答えた。
彼はこれに満足した様子だった。

この時の話全体を通じて、スターリンは、平和のための、軍事上、政治上、
経済上の国際的協力の計画を無条件に支持する考えを表明した。

だがそのあとで、スターリンは非常に重要なことを述べた。
彼は連合国が首尾よくドイツを打ち負かしたら、
ソ連は日本との戦争に参加することを明言して私を驚かしまた喜ばせた。

スターリンは、私がこの問題についてリトヴィノフ大使と
話しあったことを念頭においていたのかも知れないが、
彼はこの話を全く自分の方から持ち出した。

彼は結論として、極秘の情報としてこれを
ルーズベルト大統領に報告してよいといった。
わたしは心からお礼を述べた。
この時のスターリンの言明はきわめて率直であった。
彼は力強く自発的にこれを言明し、何の代償も求めなかった。

1945年2月のヤルタ会談で、
スターリンは同じ約束を文書の形で大統領に与えた。

しかしこの時われわれは、千島や樺太の一部を含む多くの領土変更の譲歩を
アジアで与えることに同意した結果として、これにこぎつけたのである。
私は1944年11月に国務長官をやめていたから、
どういう情勢の変化がこれらの譲歩を必要としたのかわからない。
2009/04/13 09:00|年表リンク用資料
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