正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1811年、ゴローニン事件

1811年(文化八年)、北方領土及び千島列島近海を測量する途中、
薪や水が欠乏して、国後島に立ち寄ったロシア艦隊ディアナ号をみて、
国後島を守備していた南部藩兵は、
4年前のロシア船の択捉島襲撃事件もあったので、
艦長ゴローニンら8名を捕らえて、松前へ送った。

翌年、艦長を奪われたディアナ号は副長リコルドが指揮して、
再び国後島近海までやってきた。
そこで沖合いを運行する一隻の日本船を発見し、
艦長ゴローニンらの消息を聞き出そうと捕まえた。

その船に乗っていたのが、択捉島の漁場視察の高田屋嘉兵衛だった。

嘉兵衛はカムチャッカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ
連行されたが、かれは滞在中、副長リコルドと同じ部屋で寝起きし
「一冬中に二人だけの言葉をつくって」交渉し、
嘉兵衛はロシア語も勉強し両国間の事情を調べ、
先年の択捉島襲撃事件は、レザノフが勝手にやったことであり、
ロシア政府の命令でなかったこと、ロシアは侵略の意図は無いことを説明し、
ロシア政府が幕府に謝罪すれば、ゴローニンらは釈放されるであろうと、
ねばり強く説明した。

日露間の非常に難しい問題に嘉兵衛は事件の解決に全力をもってあたり
人質解放に尽力した結果、
1813年(文化十年)、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の釈放交換が
おこなわれ日露の紛争を平和裡に解決された。

ゴローニンは帰国して3年後に出版した『日本幽囚記』は、
ロシアのみならずヨーロッパ各国でもたちまち翻訳され、広く読まれた。

リコルドもその顛末記を出版。
ゴローニン救出に携わった高潔な日本人として、
嘉兵衛の存在がロシアとヨーロッパに知れ渡った。

わが国でも文政八(1825)年にオランダ本から訳され
『遭厄日本紀事』として紹介されている。
幽閉中、さらに村上貞助や上原熊次郎にゴローニンらは
ロシア語を教授した。

このようななかで、江戸時代の文化年間(1804~1817)に
根室の金比羅神社とその付属社として
弁天島に市杵島神社(いちきしま)を建立した。
金比羅神社には、高田屋嘉兵衛の銅像が建立されている。
現在穂香金比羅神社に「願主 高田屋嘉蔵」と書かれた一個の鈴が
奉納されている。

高田屋嘉蔵は嘉兵衛の弟。
2010/03/21 06:00|年表リンク用資料
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