正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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●『ザビエルの見た日本』ピーター・ミルワード著
ポルトガル人、フランシスコ・ザビエルは1549年に鹿児島に上陸しました。
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私がこれまでに会った国民の中で、キリスト教徒にしろ異教徒にしろ、
日本人ほど盗みを嫌う者に会った覚えはありません。
大抵の日本人は字が読めるので、私達の教会の祈りもすぐに覚えます。
日本人はとても気立てがよく、驚くほど理性に従います。
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●『ヨーロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス著
ルイス・フロイスもポルトガル人で、
ザビエルの影響を受けて1562年に日本にやってきました。
―――――――
ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことは
きわめて大事なことで、厳格に行われる。
日本では娘達は両親にことわりもしないで
一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。

ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へ出ない。
日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている。

我々の子供はその立居振舞に落着きが無く優雅を重んじない。
日本の子供はその点非情に完全で、全く賞賛に値する。

我々は全ての物を手を使って食べる。
日本人は男も女も、子供の時から二本の棒を用いて食べる。

※ヨーロッパでナイフ・フォークが使われだしたのは17世紀以後。
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●『シュリーマン旅行記・清国・日本』ハインリッヒ・シュリーマン著

シュリーマンはドイツに生まれ、1865年に日本に来ました。
トロイアの遺跡発掘で有名です。
―――――――
船頭たちは私を埠頭の一つに下ろすと
「テンポー」と言いながら指を四本かざしてみせた。
労賃として4天保銭を請求したのである。これには大いに驚いた。
それではぎりぎりの値ではないか。
支那の船頭たちは少なくともこの4倍はふっかけた。

税関も開いていた。2人の官吏がにこやかに近づいてきて、
オハイヨ(おはよう)と言いながら、
地面に届くほど頭を下げ、30秒もその姿勢を続けた。

次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。
荷物を解くとなると大仕事だ。
できれば免除してもらいたいものだと、
官吏2人にそれぞれ1分(2.5フラン)ずつ出した。

ところがなんと彼らは、
自分の胸を叩いて「ニッポンムスコ」(日本男児?)と言い、これを拒んだ。
日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは
尊厳にもとる、というのである。

おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、
彼らは言いがかりをつけるどころか、
ほんの上辺だけの検査で満足してくれた。

一言で言えば、たいへん好意的で親切な応対だった。
彼らは再び深々とおじぎをしながら、
「サイナラ」(さようなら)と言った。

日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。
どんなに貧しい人でも、
少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。
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●『江戸・幕末滞在記』エドゥアルド・スエンソン著
スエンソンはデンマークに生まれ、フランス海軍に入って、
1866年横浜に上陸しました。
―――――――
「私はかつて、まだ年若い青年が、大名やゴロジョー(御老中)と、
同僚や自分と同じ身分の者と話すのと同じ率直で開けっ広げな
会話をする場面に居合わせたことがある。

青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方、
自己の尊厳を主張することも教えられているのである。

こうした社会的秩序、ならびに諸階級の間で非情によく発達した独立心は、
日本人がなぜ中国人やほかのアジアの民族より
すぐれているかを説明して余りある。

後者においては唯一者の意志しか聞かれないし、
それに対して自分の意見を述べるような大胆な真似をする者はいない。
日本という国は、その構成員がたとえどんなに抑圧されているにしろ、
誰であろうと他人にやすやすと屈服するようなことはない。

彼らが文句なしに認める唯一のもの、大君から大名、
乞食から日雇いに至るまで共通な唯一のもの、それは法である。

日本の上層階級は下層の人々をたいへん大事に扱う。
最下層の召使いが主人に厳しい扱いを受けたなどという
例を耳にすることさえ稀である。
主人と召使いとの間には通常、友好的で親密な関係が成り立っており、
これは西欧自由諸国にあってはまず未知の関係といってよい。
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●『絵で見る幕末日本』エメェ・アンペール著
アンペールはスイス人で、1863年に長崎に上陸しました。
―――――――
私は、よく長崎や横浜の郊外を歩き回って、農村の人々に招かれ、
その庭先に立ち寄って、庭に咲いている花を見せてもらったことがあった。
そして、私がそこの花を気に入ったと見ると、
彼らは、一番美しいところを切り取って束にし、私に勧めるのである。

私がその代わりに金を出そうといくら努力しても、無駄であった。
彼らは金を受け取らなかったばかりか、私を家族のいる部屋に連れ込んで、
お茶や米で作った饅頭(餅)をご馳走しない限り、
私を放免しようとはしなかった。

日本人の間に認められる表情の活発さと相貌の多様性は、私の意見では、
あらゆる他のアジア民族よりも、より自主的であり、
より独創的であり、より自由である知的発育の結果である。
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●『ロングフェロー日本滞在記』
チャールズ・アップルトン・ロングフェロー著
ロングフェローはアメリカ人で、1871年、27歳のとき横浜へ到着した。
彼は若いだけあって、侍の服装をして写真を撮ったりしています。
当初の滞在予定を大幅に延長しました。
―――――――
日本人は僕の見た所ではいたって感じの良い人たちで、
気立てが非情に良いようだ。
日本と言う国は、僕が見たことのある中で間違いなく一番美しい国だ。

緑の色でイギリスを凌ぎ、
豊かな緑色の草木に被われた山や平地に細分化されている。

東海道では苔やツタに被われた大木の下の並木道沿いの見通しのよい眺めが、
どの曲り角でも、またどの方向に向かっても続いているのが見られる。

僕は江戸で日本式の家を手に入れて、
あと5ヶ月ほど滞在することを考えている。
この古い親しみ深い国を今すぐ離れることはとてもできない。

僕の見たところ、日本の子どもは11、2歳になるまでは、
世界でも最も幸福な子どもに違いない。
泥まんじゅうをこねたり、羽根つきをしたり、巧みに凧を揚げたり、
ボールで遊んだり、芝居ごっこをしたりと、遊ぶのに忙しい。
それも道の真ん中でね。
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●『英国人写真家の見た明治日本』ハーバート・G・ポンティング著
ポンティングは1901~02年何度か来日していますが、
欧米では、1910年にスコット大佐の第二次南極探検隊に加わり
記録写真を撮った写真家として知られています。
また彼は日露戦争にも従軍しています。
―――――――
家の中での婦人の演ずる役割について、人々の見解が分かれることはない。
彼女は独裁者だが、大変利口な独裁者である。
彼女は自分が実際に支配しているように見えないところまで支配しているが、
それを極めて巧妙に行っているので、
夫は自分が手綱を握っていると思っている。

そして、可愛らしい妻が実際にはしっかり方向を定めていて、
彼女が導くままに従っているだけなのを知らないのだ。

・・・略・・・ 

プラットホームに立っていると、
そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。
乗っていた捕虜の全員が戦争から開放された喜びで、
大声で叫んだり歌を歌ったりしていた。

反対の方向から別の列車が入って来た。
それは日本の兵士を満載した列車で、
兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。

ロシア兵と日本兵はお互いの姿を見るや否や、
どの窓からも5、6人が頭を突き出して、皆で歓呼の声を上げた。

ロシア兵も日本兵と同じように懸命に万歳を叫んだ。
列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、
不運?な捕虜のところへ駆け寄り、
煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。

一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、
その頬にキスしようとする者さえいた。
私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。
 
松山で、ロシア兵(捕虜)たちは優しい日本の看護婦に
限りない賞賛を捧げた。
寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作の
一つ一つを目で追うその様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。

何人かの勇士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、
恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。

ロシア兵が先頃の戦争で経験したように、過去のすべての歴史において、
敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは
一度もなかったであろう。

それと同時に、どこの国の婦人でも、
日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。

私の前線での幕僚昼食会の席で、
第一師団司令官の黒木陸軍大将の隣に座ったとき、
黒木大将は“日本の兵隊の挙げた業績について話すときに
忘れてはいけないのは、これらの行為を成し遂げたのは
決して日本の男子だけではないということです。

もしわが国の兵隊がその母親から、
義務と名誉のためには全てを犠牲にしなければならないという
武士道の教育を受けなかったら、
今日の成果を挙げることができなかったでしょう。

日本の婦人は非情に優しく、おとなしく、そして謙虚で、
これからも常にそうあってほしいものだと思います。

また、それと同時に大変勇敢でもあり、我が国の兵隊の勇気は、
大部分、小さいときにその母親から受けた教育の賜物です。

一国の歴史の上で婦人の果たす役割は大きく、
どこの国でも、もし婦人たちが、何にもまして勇敢で優しく謙虚でなければ、
真に偉大な国民とは言えません。

兵隊と同様に、日本の婦人は国に大きな貢献をしているのです”と話した。
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●『シドモア日本紀行(明治の人力車ツアー)』
シドモア女史(1856~1928)はアメリカの首都ワシントンの
ポトマック河畔に日米友好の桜を植えることに尽力した、
米国立地理学協会の初の女性理事で、紀行作家です。

初めて日本を訪問したのが明治17年(1884)27歳の時でした。
その後何度も日本を訪れています。
日本から3000本の苗木が贈られ、明治45年(1912)3月、
ポトマック公園において桜の植樹式が行われ、
苗木がタフト大統領夫人と珍田駐米大使夫人によって植えられました。

今では8000本の桜がポトマック河畔を包み、
毎春“ワシントン桜まつり”が盛大に催されるということです。
第1章では単調で寂しい西回り(サンフランシスコ~横浜)よりも
東回りコースを薦めています。
―――――――
◆日米友好の桜

東洋の万事が西洋世界にとって驚異です。
半信半疑になりながらも、この紛れも無い非現実的姿に遭遇すると、
全く摩訶不思議な感動に包まれます。

とにかく日本のすばらしさを味わうために
アジア大陸の果てへ足を伸ばして、この島国へやってくるべきです。

東回りコースの船旅では、スエズ運河から長崎沖の手前まで、
アジアの民衆は無言のまま腰をおろし、汚物、ぼろ布、無知、
悲惨の中に漬かり、何の不満もなく暮らしているのが目にはいります。

不衛生で醜悪な環境にいる中国の民衆、あの濁った河、茫漠とした平原、
黄褐色の丘陵を通過し、
さらに朝鮮半島のうら寂しい海岸に別れを告げて進みます。

最初に出会う日本は、海岸線から離れた緑の島です。
絵のように続く丘陵や頂上に至るまで、その光景はまるで夢の天国です。
家並みは玩具(おもちゃ)に、住民はお人形さんに見えます。

その暮らしのさまは清潔で美しく、かつ芸術的で独特の風情があります。
この牧歌的島嶼に住む国民と西方2ヵ国(中国、朝鮮)の国民、
この東洋3大王国の間には、肉体的特徴以上に大きな違いがあります。

礼儀正しく洗練された東洋の華・日本は、陽気で明るく友好親善に満ち、
魅力あふれる審美的民族の島であることは、誰しも認めざるを得ません。
険しく変化に富む海岸は豊かな色彩にあふれ、
山腹は一年中深く柔らかな緑に覆われています。

さらに扇、提灯、箱、皿のデザインで馴染み深い富士山、
大空を背景にくっきりと映し出されたこの円錐形は
周囲の景観を完璧に仕上げます。

庶民の日常生活は、とても芝居じみ、かつ芸術性に富み、
装飾的工夫に満ちており、これが掛け値なしの現実です。
街道や店屋は入念に配置された舞台の大道具であり、
気取ったポーズの群衆が行き交います。
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神奈川を過ぎ東海道を上がるとリチャードソン(生麦事件の被害者)
の碑があります。
彼は1862年9月14日薩摩の大名(島津久光)の行列に
遭遇して斬殺されました。

その日、外国人は東海道に近寄らないように警告されていたにもかかわらず、
無鉄砲なブリトン(英国)人たちは、
故意に大名行列の中を馬で横切りました。

この侮辱が原因で、彼らは家来によって攻撃され重傷を負い、
リチャードソンは道端で絶命し、他の仲間は逃走しました。

行列が通り過ぎたとき、一軒家から若い娘が走り出て
死体に茣蓙(ござ)をかけました。
さらに夜間自分の家に運んで弔い、友人らが引き取りにくるまで隠しました。

日本文字で追悼文の刻まれた石碑が、
リチャードソンが倒れた地点に立てられています。
事件以来、親切な黒い瞳の娘スーサン(鈴さん?)の茶店は、
外人たちのお気に入りの名所となり、彼らは乗馬や馬車でやってきました。

その娘さんはつぶらな瞳、鷲鼻を持つローマ人的容貌の背の高い女性で、
ヒロインとしてぴったりです。
特に乗馬散策者たちは茶店に立ち寄り、茶、鰻、車えび、蛤、落花生、
カステラ、ビールを求め、スーサンに会うことに御執心です。
・・・略・・・
日本の家族は、見晴らしのよいところが好きで必ず出かけ、
最小単位の住居空間である筵(むしろ)の掛かった建て場(簡易小屋)
でキャンプをします。

そこには木炭火鉢、土瓶と五、六個の茶碗セット、
緋毛氈を広げた低いベンチが二、三脚備えられています。

山水庭園や景観に一見識もつ国民の情熱は、
絶えず美しい景色の見渡せる場所を探し回って確保します。

日ごろ倹約家の主婦も、家族の子供らと一緒に心地よい場所を
とるためたくさんの銅貨を払い、山道を行くハイカーに明るい声をかけます。
日本人であろうと外国人であろうと、日本は旅行者にとって特別の国です。
日本の至る所に、山登りしたり、渓谷で釣りをしたり、
狩猟のため山奥の窪地に身を隠したり、
水辺に張り出した狭い岩棚に腰掛けたりできる場所があります。

旅をする誰もが茶店や夏の山仲間、
囲炉裏の上でやかんがちんちん沸いている建て場に出合います。

また、どこでも湯水、茶、米、果物、卵、茶碗、皿、
グラス、コルク栓抜きが簡単に手に入ります。
これが当たり前だと思い、清潔な日本の茶屋や居心地よく景色の見渡せる
簡素な建て場に慣れ切った旅行者には、
この後中国へでも追放されたら、その有り難みがよく分かるでしょう!
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●『オーストリア皇太子の日本日記』
著者のフェルディナント大公は、1914年、大正3年6月24日、
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで暗殺され、
これを契機にオーストリアはセルビアに宣戦布告して
第一次世界大戦が勃発したことはご存知の通りです。

その著者が世界一周旅行を綴った世界旅行日記の中で、
日本に滞在したときの日記を抜き出したのがこの本です。
約1ヵ月間日本に滞在し、長崎から日光あたりまでを見学しています。
ちょっと京都へ行く途中での、安芸の宮島を記した部分の引用です。
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きょうまで、日本に来てから提供された宿舎の
どれにも驚かされつづけてきたが、ここ宮島の宿舎に比べると、
そのどれもが眺望のよさ、調度の独創、立地の魅力という点で
ずいぶんと見劣りがする。途中、林間の幽谷を抜けていった。

樹齢幾百年という老樹が枝を差し交わして気持ちの良い樹陰をつくり、
渓谷の底には透きとおった細川が流れ、
色あざやかな魚たちが元気に泳ぎ回っていた。

そして、樹間に岩の台地がそそり立ち、
それぞれ別の建築意匠で建てられた小家屋が瀟洒に点在し、
一棟一棟が各自にあてがわれた。

行く道のところどころ、
水音のにぎやかな小川がせき止められては小池をなし、
その水上にあずまやとベランダが杭に支えられて建っていた。
ひと休みできるようにと畳が敷かれ、
さらに水音を聞きながらまどろめるようにと、
ふかふかの布団も用意されていた。

これら気品あふれる建物はそれぞれ優美な小道や、
石段や、小橋で結ばれている。

また、岩間には、ここにひとつ、そこにひとつ、
湧泉からゴボゴボと水が高く噴き出し、
舟形に彫られた石のくぼみに流れ落ちていた。
その船形の石は、さまざまな水草や蔓草によって、
あるいは縁取られ、あるいはからみつかれていた。
・・・略・・・
夕刻、暮色が迫ると、ノミで彫られたくぼみに灯火がともされ、
あたりの闇がはらわれる。
このようなセンスはよほどの美の達人でなければなしえないものであり、
このような鋭敏な想像力は、
自然美に対する感受性や深い詩情の裏打ちがなければありえないものだ。

小屋は、仕上げも造作も一棟一棟それぞれ異なり、
多彩な感覚をふんだんに見せていた。

眺めているだけで、日本の工匠の造形感覚がいかに豊潤なものか、
驚きが尽きなかった。
といって、こうした造形感覚が多彩である一方、
一棟一棟をつらぬいているものは小粋なセンスだ。

建築材料は、おもに木材のほか竹、畳、和紙だ。
思うに、工匠たちは、簡素きわまりない建て方で目の快楽を誘おうと、
その類まれな技量をおしみなく発揮したのだろう。

もちろん室内の調度も美の規範に忠実で、じつに趣味の良いものであった。

同じ東アジアでも、中国の芸術は
けばけばしいほどの極彩色を特徴としている。
が、日本の芸術は・・ときに色彩の多用ということもあるが・・
芸術的節度、全き調和、親密な空気、
それに、生をできうるかぎり快適に形作ろうという穏やかな態度が特徴的だ。

生の喜び、好もしい感性、きわだつ美の感覚。
こうした日本人の本性ともいうべきものが日常生活の随所に見られ、
ごく深いところで自然と不離に結びつき、
外国人の胸中にこの国と人びとへの共感を呼び起してしまう。
・・・略・・・
宮島の周囲にも土産物屋や露店が数限りなく軒をつらね、
巡礼に訪れた者は、こぞって土産物を買い込んでいる。
・・・略・・・
わたしは、こうした露店に立ち寄り、すてきな品々、
とくに小机、花活け、玩具、曲がった木で何かの形を模した物、
それ以外にも数百点、馬車一台分ほども買い込んだ。
・・・略・・・
晩餐は、池中のあづまやで、
楽団ふたつが奏でる音楽を耳にしながら開催された。
食堂は、わたしたちにはちょっと不慣れな造作だったが、
室温はじつに快適そのものであった。

だから、同じようなこしらえの食堂が夏のオーストリアにもあれば願っても
ないが、それは、宮島の快適な晩餐に乱入してきた蚊を我慢できればの話だ。
・・・略・・・
すでに夜がふけていた。
しかし、わたしたちは和服に身をつつみ、池中のあづまやに坐し、
煙草をくゆらし、談笑し、シャンパンをたらふく飲み、
そして、周囲の自然に身をゆだねた。
が、かえってその魅力ゆえに、
いっそう短時日の宮島滞在がただただ口惜しかった。

その後最後に、細流の冷涼な水に身をひたした。
わたしたちはあづまやのベランダから水に飛び込み、
提灯の赤い光に照らされながら水の中を嬉々として跳ねまわった。

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外国から見た日本_1
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外国から見た日本_2
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外国から見た日本【現代版】
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日本にやって来た欧米人の日本の印象
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