正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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●『勝海舟の嫁・クララの明治日記』
著者のクララ・ホイットニーは、クララの父が、
東京に開設した商法学校(商法講習所、一橋大学の前身)の
所長兼教師として家族共々赴任してきたことにより来日しました。
日記はクララが15歳になる1875年(明治8年)から始まり、
1891年(明治24年)12月11日で終わっています。
1886年(明治19年)に勝海舟の三男、梅太郎のもとに嫁ぎましたが、
その年の日記から引用します。
―――――――
1876年(明治9年)11月3日。今日はミカド陛下の誕生日で、
ミカドは29歳になられたと思うが、確信はない。

私は前に約束したとおり、お逸
(注:勝の三女逸子でクララと同い年なので一番の親友)を訪ねた。
いつものように早く起き、顔を洗って着替えをし、
8時半までには行く準備ができあがった。

まず銀座に行って、この親切な友達のために贈り物を買った。
街はなんと華やいでいたことだろう!
いろいろの種類の旗が、どの窓にも入り口にも華やかに翻っていた。

私たちだって決して流行に遅れたわけではない。
二階のベランダに、手製のアメリカの旗を守るように、
日本の旗を二本高く立てたのだ。

母は「日本の旗の真ん中の太陽が満月のように見えるから、
わが国の星がとてもよく調和するわね」と言った。

精養軒ホテルは、紅白の提灯と旗で美しく飾られていた。
そして今晩、その提灯がともされた時には、効果は抜群だろう。
たいへんな人出で、特に外国人と役人が目立った。

勝夫人と、おこまつと、お逸が出迎えて下さったので、
私はお辞儀をして挨拶をし、お土産を出して中に入った。
客間へ行く間、おこまつとお逸は私のまわりで踊り浮かれ、
お母様は後ろからおごそかについていらっしゃった。

帽子掛けや傘立てや、鹿の角のある長い廊下を通り過ぎて左へ曲がると、
広い薄暗い部屋があり、
そこには屏風と本棚と油絵と、風変わりな寝台があった。
隣の部屋とは襖で仕切られ、次の間にはテーブルと椅子が置かれていた。

皆私の帽子を褒め、勝夫人はご自分の頭にかぶってごらんになった。
赤い花と黒のビロードが皆さんのお気に召したらしい。

やがて、およねが日本の着物をいっぱい抱えて入ってきたが、
お逸が言うには、私がこれを着なくてはいけないのだそうだ!
私はしばらく抗議したが、結局着ることになった。
それはお逸の冬の着物だった。

靴下ははいたままで、私はすっかり立派な貴婦人になっていた。
それからお逸が反対に私の服を着込むと、家族全員が大変面白がった。
自分の姿が見えるように、みんなが長い鏡を持ってきてくれた。
勝夫人は、お嬢さんに「顔が黒いから、洋服が台なしだ」とおっしゃった。

それから羽根をついて遊んでとても楽しかった。
やがて食事の時間になって、
お逸とおこまつと私はめいめい小さな丸いお盆の前に坐った。
お盆の上には吸い物、魚、海草、西洋わさびとご飯がのっていた。
私はお箸を使ってご飯から食べ始め・・・
それから、わさびを食べてみたら、ほんの少しだったのに、
辛くて辛くて、気が遠くなりそうだった。

食後また羽根つきをした。ウィリイ(クララの兄)、よね、逸、
おこまつ、梅太郎、七郎と私、それに時々奥様も加わった。
奥様はすばらしくお上手で、非常に陽気でいらっしゃった。
とても楽しかったし、それに家族の中にまで迎え入れていただいて、
日本人の私生活を見るよい機会に恵まれた。
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●『明治日本印象記』「オーストリア人が見た100年前の日本」
アドルフ・フィッシャー著
アドルフ・フィッシャー(1856~1914)はオーストリアの東アジア美術史家、
東アジア民族研究家、ケルン市東洋美術館館長で、初めての来日は1892年で、
1897年に結婚したフィッシャーは、新婚旅行の目的地としても日本を選んで
います。明治時代は武士道精神が日本国民の間に行き渡っており、その中で
育ってきた国民は、当たり前のことをしていても、当時の世界から見て
賞賛されるだけの社会道徳を自然に身につけていたといえます。
―――――――
数世紀にもわたって支配した政権が、
突然政治的役割を放棄したこともさることながら、
現政権に対抗して旧幕府を守りたてて少しでも戦っていこうと
試みる政治勢力が日本に皆無なことはまったく信じ難い。

かつての勤皇、佐幕両派は、祖国の繁栄発達ということのみを
目標に掲げる一つの党派に融合した。
すべての国民がこの理想をあらゆる特権的利益、党派の利益に
優先させているわけで、日本はまさに幸福な国である!

すでにこの点で日本は幸福であり、賞賛に値するのだが、
さらにこの国は、ヨーロッパのすべての国から、
思想の自由があるという点で羨望されている。

数ヶ月前、私は日本人の友人と話し合った際、
たとえばオーストリアでは数年来、国と教会が闘争しているが、
それは教会が学校教育、
すなわち国民教育を独占しようとしているからだと述べた。
驚いたその日本人は次のように反論した。

「僧侶は学校でなにを求めようとしているのですか?
わが国では仏僧であろうと神主であろうと、
聖職者が学校に介入することなどけっして許されませんよ。」

あわれなヨーロッパ人である私は、
これを聞いて勇気をなくし、おずおずとたずねた。

「それでは宗教教育はどうなっているのですか?」

「宗教ですって?」

そこで彼は次のように続けた。
西欧式の考え方によれば、日本ではそもそも宗教の講義は行われず、
ただたんなる道徳教育があるだけだ。
上級学校ではさらに儒教や古代中国の道徳哲学に関する書物の
講読があるものの、それだけで十分だというのだ。

「あなたはどう思いますか?」
彼はさらにつづけた。
「あなたは日本では、聖職者の介入がないために、
ヨーロッパよりも子供たちが両親に対し、より粗暴な、情けない、
敬意を欠くような態度をとったり、
国民全体が一層、非行、犯罪に走ると思いますか?」

わたしは公平に見て、実際に日本人ほど礼儀正しく、上品な民族はなく、
西欧人がしきりにビールや火酒を飲み、トランプ遊びにふけるのにひきかえ、
日本人にはいささかも粗暴な趣はなく、
自然とすべての美に対する愛を育てていると告白せねばなるまい。

人はだれしもこの幸福な島国で、
春、とくに桜の季節を京都や東京で過ごすべきだ。

その季節には、思い思いに着飾った人々が、
手に手をたずさえ桜花が咲き乱れる上野公園はじめ、
すべての桜の名所に出掛けてゆく。

彼らはその際、詩作にふけり、自然の美と景観を賛美する。
・・略・・
男女の学童は桜花が咲き乱れる場所へ旗を何本も立てた柵を作り、
その中で遊戯を楽しんでいる。
色とりどりの風船、凧、それに紙製の蝶が空中に飛び交い、
その間、目も覚めるような美しい着物を着た幼い子どもたちが、
色鮮やかな蝶のように、袂を翻して舞っている。

世界のどの土地で、桜の季節の日本のように、明るく、
幸福そうでしかも満ち足りた様子をした民衆を見出すことができようか?

たんに若者ばかりでなく、老人も花見に出掛け、
傍らに即席の藁葺小屋ができている桜樹の下にたむろする。
小さな可愛らしい容器に注がれた茶や酒を飲みつつ、
花見客は優雅に箸を使い、
キラキラ光る漆器の皿にのっている握り飯や菓子をつまむ。
清潔、整頓、上品さがいたるところで見受けられる。

優雅さとすぐれたしきたりが調和しているこの有様は、
下層の労働者にすら備わっている日本人の美的感覚の発露である。

ヨーロッパでは、こうした調和は、
ただ最上流階級の人々にしか見出されないであろう。
・・・略・・・
桜花が咲き乱れる10日あまりの間、
日本ではだれしも数日間はまさにのんびりした気分になる。
教会の祝日だからではない。
日本人の生活と密着している自然が
「いまこそ外出して楽しめ。そして幸福になれ!」と命令するのだ。
日本人にとって自然への愛、
生まれながらの美的感覚が生涯を通じて忠実な同伴者となる。
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●『東京に暮す』1928~1936 キャサリン・サムソン著
キャサリン・サムソン夫人は1883年イギリス生まれで、外交官の夫と
1928年(昭和3年)から39年9月(昭和14年)まで東京で暮しました。
その間日本の社会、文化、慣習の研究にも精を出し、日本人と一緒のバスに
乗り、わざわざ2等の列車に乗り、旅先では日本人と一緒に温泉に浸かり
盆踊りの輪に加わったりしています。
―――――――
日本にしばらく滞在してイギリスに戻った時にまず聞かれるのは
「日本人はイギリス人のことをどう思っていますか」ということです。

ごく当たり前の質問ですが、答えはそう簡単ではなく、
いろいろ考えてしまいます。
・・・略・・・
日本人の暮しや気質について考えれば考えるほど、
答えは「日本人はイギリス人のことなどまったく頭にない」
というのが正しいのではないかと思えてきます。
・・・略・・・
それから質問者に言っておかなくてはならないのは、
イギリス人は日本にいる外国人のほんの一部にすぎないということです。
私たちは日本では、イギリス人のAさん、
イギリス人のBさんというように大勢の外国人の中の一人として扱われ、
概して好意をもって迎えられます。

ところがイギリスでは、
アジアについて何らかの知識を持っている人の大半が、
アジアの民族は支配されるべきものだと考えています。
ビルマ、香港、上海、セイロン(スリランカ)、
マレーシアに住んだことのある人が日本で快適な暮しをしたいと思ったら、
それまでの態度や行動様式を改める必要があります。

植民地の統治者であることと、
政府がその国の人民によって非常に見事に機能している国に
外国人として暮らすこととはまったく別のことです。
・・・略・・・
日本人とイギリス人の共通点はスポーツ好きということです。
しかも世界中で日本ほどスポーツマン精神が浸透している国はありません。
日本のテニス選手は、勝っても負けても見せる
明るい笑顔で欧米の観客を魅了しています。

繊細な心の持ち主である日本人はスポーツを芸とみなしています。
私はイギリスと日本以外の国で、素敵な淑女や頑強な紳士が、
相手が見ていない隙に、非常に打ちにくいラフの中から打ちやすい位置へ
ゴルフボールを移すのを一度ならず目撃しました。

日本人やイギリス人が絶対にいんちきをしないとはいいませんが、
両国民ともスポーツをする時は真剣で、
このようないんちきはめったに見られません。

日本人とイギリス人の基本的な類似点は派手よりは地味を好むこと、
静かで落ち着いた態度を好むということです。
そうでないイギリス人もたくさんいますが、
私たちが理解し尊敬する性質や行動の基準と、
日本人がよいと考えるものはとてもよく似ているのです。

イギリス人が地味な服装を好むということは、
イギリス人の性格を考えると納得がいきます。
特に優秀な人は別として、イギリス人は謙虚さを好み、理想とします。

従って自慢とか、謙虚さの無い知識のひけらかしを嫌い、
そういう人たちを信用しません。

この傾向は日本人になるともっと強くなります。
だから自慢したり威張ったりする日本人に会うと、
私たちの方が驚いてしまいます。

日本人は非常に謙虚な国民で、
慎み深い振舞いや言葉遣いがすっかり身についています。
彼らも他の国民のように誇り高いのですが、自慢することを嫌います。

日本人としての誇りを持ち、
かつ外国人から学ぼうという謙虚な姿勢のために、
日本は今日の世界の中で重要な位置を占めるようになったのです。

ところで、イギリス人と日本人が対等に競うことができる芸が一つあります。
それは園芸です。
どちらの国の庭園も有名ですし、イギリス人はバラやスイートピーなどに、
日本人は桜、梅、松に夢中になります。
自然環境はまったく異なりますが、田舎を愛する心と、
自然の一部を柵で囲い、自然の中にもう一つ自然を作るということは、
両国民の生来の特徴のようです。
・・・略・・・
しかし、もっと重要なのは、
両国が非常に古い歴史を持つ国であるということです。
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●『ベルギー公使夫人の明治日記』エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
著者は、ベルギー王国弁理公使として東京に着任した夫の
アルベール・ダヌタン男爵と共に1893年(明治26年)10月2日来日しました。
翌年アルベールは特命全権公使に叙せられ、在任中、東京の外交団首席を
7年間務め、1910年(明治43年)、東京で逝去しました。
夫人は英国人として生まれ、夫と同じく、わが邦の国民を完全に正確に
評価しておられ、国民もまたご夫妻に親愛の情を抱いていました。
彼女の日記の中から、日露戦争当時の部分を抜粋いたします。
―――――――
◆1903年(明治36年)10月9日
日本とロシアは開戦前夜の状態にある。
どうすればそれを回避できるのか判断することは難しい。
ロシアは今までの約束にもかかわらず、
満州の占領を諦めようとする気配がない。
・・・略・・・
日本はかなり喧嘩腰でひどく憤慨している。
ロシアは日本がはったりをかけていると思っているが、
彼らはそのことを思い違いしている。
日本がこの上なく真剣だということは一点の疑いもない。

◆1904年[明治37年]2月6日
久しく戦争の暗雲をはらんで、
今か今かと懸念されていた危機が遂に現実のものとなった。
今日アルベール(夫のベルギー公使)がローゼン男爵(ロシア公使)に
会いに行くと、彼は外務省から戻ったばかりだったが、
外務大臣の小村男爵が、日本政府はロシア駐在公使の栗野慎一郎氏を
ペテルブルグから召還する予定だとローゼン男爵に通告したそうだ。

それと同時に小村男爵は、ローゼン男爵とロシア公使館の館員一同に、
できるだけ速やかに日本を離れるように要請したという。
ローゼン男爵はアルベールに落着いた口調でこう話した。
「これは当然の帰結ですな」。
アルベールは可哀そうな男爵夫人をちらりと見かけたが、
彼女の顔には悲歎の色が浮かんでいた。
アルベールはすぐに公使館へ戻って、本国政府に
「日本はロシアと国交を断絶した」という趣旨の電報を打った。
・・・略・・・

◆1904年[明治37年]2月7日
昼食のあと、私たち二人でローゼン男爵夫人に会いに行った。
彼女は思ったより落着いていた。
彼女はこの戦争は、三年は続く必死の戦いになるだろうと言った。
・・・略・・・
彼女は一所懸命に自制していたが、
私には彼女がとても悲しんでいるのが分かった。
一方クダチェフ公女(ロシア公使館一等書記官クダチェフ公爵の妹)
のほうは、彼女が私にちょっとした頼み事をしてからお互いに
お別れを言って抱き合ったとき、気の毒な公女の頬を涙が流れ落ちた。

私たちは彼女とその兄が大変好きだったし、
二人とも大の日本びいきだったので、彼らを本当に可哀そうだと思った。
・・・略・・・
アルベールは事態を全く的確に見通していた。彼は日本が真剣であり、
最初から本腰を入れていたことをよく承知していたので、
本国政府に絶えずそういう趣旨の報告書を書いていたのである。
これに反してその他の人の多くは、
最後の瞬間まで日本は虚勢を張っているのだと思っていた。

◆1904年(明治37年)2月10日
日本政府の外交問題顧問のデニスン氏に路上で出会った。
彼は今受取ったばかりの日本軍がロシアの軍艦二隻を済物浦(現在の仁川)
の港外で撃沈したというニュースを聞いて、ひどく興奮していた。

ロシアの軍艦は港外に出たとき、
日本軍の「いざ、きて戦え」という信号を見た。
日本軍はその通り実行したのである。

その後さらにニュースは続く。
日本軍に投降することを拒んだロシアの軍艦は自沈の道を選び、
乗組員はフランスの軍艦に救助された。
これが日本軍にとって最初の勝利であった。

二度目の日本の勝利は、
真夜中に旅順とロシア軍艦の間に日本の軍艦が入り込んで、
ロシア艦二隻を魚雷で撃沈し、もう一隻を大破して座礁させたことである。
これによって哀れなロシア軍としては全部で五隻の軍艦を失ったわけで、
一方済物浦で日本の水兵は唯の一兵も戦死しなかった。
今や旅順港外で激しい戦闘が行われているということなので、
今夜にもその結果がわかるだろう。
・・・略・・・

◆1904年(明治37年)2月15日
日本の新しい軍艦2隻(一等巡洋艦“日進”と“春日”)を
回航してきた英国の海軍軍人を、歓迎する準備が大がかりに行われている。
この出来事に対する熱狂ぶりはすさまじい。
2隻の軍艦は既に横須賀に到着している。

◆1904年(明治37年)2月19日
日本軍は14日に旅順で再び勝利を得た。
攻撃は真夜中に激しい吹雪を衝いて行われ、
駆逐艦2隻が真っ暗闇の中でロシアの軍艦2隻を損傷させるのに成功した。

彼らの行動は終始極めて勇敢であった。
日本軍は、ロシアの軍艦から砲火を浴びせられたが、
敵艦の爆発音を聞くまで撤退しないで留まっていた。
日本側の損害は皆無であった。

◆1904年(明治37年)2月24日
私は赤十字社の婦人支部の会員として登録されることになった。
私は日清戦争の後でメダルを授与されて、既に赤十字社の会員になっている。

赤十字病院へ行って、3、4時間包帯巻きの奉仕をする。
三宮男爵夫人と鍋島侯爵夫人が、作業の監督としてきていた。
伏見宮妃殿下もお見えになっていた。
全部で30人以上の婦人がきていたが、私だけが唯一の西洋人であった。

それは非常に興味深い仕事で、作業は極めて整然と運営されていた。
これからできるだけ頻繁に通うことになるだろう。
私は自宅でも負傷者のために頭巾その他のものを作るのに忙しい。
青木子爵夫人とその令嬢がお茶にきた。
彼らは私に赤十字社の芝居に出演してほしいと言う。

◆1904年(明治37年)3月10日
日本は再び海戦で勝利を挙げて、ロシアの水雷艇一隻を撃破した。
日本軍はこの戦いで極めて義侠的な振舞いをした。
ロシアの水雷艇が沈没し始めたのを見ると、
彼らはひどく荒れた海に二度も乗り出して
ロシアの将兵の救助に努めたのである。

最後に水雷艇が波の下に消えようとしたとき、
日本軍は沈んでゆく艇に掲げられた国旗を救おうと再び舟を出して、
艇がまさに視界から消える寸前に旗をとり外した。

◆1904年(明治37年)3月28日
日本軍が旅順港に7隻の輸送船を沈めて、
二度目の閉塞作戦を行ったという話を聞いた。
完全な成功とは言えないが、決定的な障害となるだろう。
いつものようにその行動は全く勇敢そのものであった。
雄々しく気高い廣瀬少佐は、無事船から降りたあと、
一人の水兵を救いに再び船に戻った。

彼が沈みつつある輸送船からボートに乗り移った瞬間、
飛来した砲弾で戦死したのである。
日本軍は沿岸での小規模な戦闘で勝利を得た。
これは陸地における最初の戦いであった。

◆1904年(明治37年)5月2日
鴨緑江の渡河作戦に日本軍が成功したニュースの詳報が入ってきた。
それは熾烈な戦いで、日本軍は800名を失ったが、
ロシア軍の死傷者は3000名近くで、結果として日本軍の完全な勝利となった。
日本軍は30名の将校と多数の兵を捕虜にし、
28門の大砲を捕獲して、7箇所の要塞を破壊した。

以上は昨日すなわち1日に起きたことだが、
日本軍が河の二箇所に別々に橋を架けて
激しい戦闘の下に実際に鴨緑江を渡ったのは4月30日であった。

◆1904年(明治37年)5月7日
日本軍がさらに九隻の商船を沈めて、
遂に旅順港の閉塞に成功したという重大なニュースが入ってきた。

◆1904年(明治37年)5月7日
日本軍に恐ろしい大惨事が起こったというニュースが届いた。
日本が所有する軍艦の中でも最優秀の艦である初瀬が、
ロシアの機雷に触れて爆破沈没した。

また吉野と春日が衝突し、吉野が沈没した。
初瀬は2度機雷に接触し、2度目に沈没した。
これら2隻の軍艦の沈没によって、800人の命が失われたという話である。
・・・略・・・

◆1904年(明治37年)5月27日
日本軍が再び勝利を得て金州を攻略し、
次いで南山を占拠したという話を聞いた。

ロシア軍は地雷を敷設し、あらゆる可能な方法で塹壕を掘って身を隠して
いたので、南山の戦闘は16時間に及ぶ熾烈な戦いとなった。
ロシア軍は丘の上にいるという有利な立場を利用し、
地雷を敷設したり鉄条網を張りめぐらすなど、
あらゆる防御措置を講じていたので、日本軍は突破口を開くまでに、
このような障害物をすべて克服しなければならなかった。
・・・略・・・

◆1904年(明治37年)9月5日
鎌倉の村で行われた日本軍の遼陽占領の祝賀会を見物に出かけた。
ここを占領するために行われた戦闘は一週間続き、
死に物狂いの恐ろしい戦いであったが、
結局日本軍は目的を達成するのに成功した。

鎌倉では、煙突や大砲などすべてを備えた完全な姿の
軍艦の木造の模型が出来上がっていた。
大勢の人達がこの巨大な模型の軍艦を引いて村中を練り歩き、
音楽と軍歌と雄叫びの声がそれを伴奏した。
・・・略・・・

◆1904年(明治37年)11月25日
英国公使館の晩餐会で、前線から帰ったばかりの
アメリカのキューラー少佐の隣に座った。
彼は私に、旅順の陥落までもう長いことはないと確信していると語った。
・・・略・・・

◆1904年(明治37年)12月30日
ボナー夫人と一緒に、東郷平八郎提督と上村彦之丞提督の凱旋の模様を
見ようと駅まで行った。二人の良い写真を数枚撮ることができた。
群集が大勢つめかけており、日本の名誉と偉大さを守るために
多大な貢献をしたこの二人の英雄を迎えて、
大変な熱狂ぶりを呈し、盛大な歓迎が行われた。

◆1905年(明治38年)1月2日
朝の10時半頃、旅順が新たに最後の攻撃を受けて
陥落したという大ニュースが日本の新聞の号外として出た。
乃木将軍はそれを誇りにして当然である。
彼は戦争が生み出した最高の人物であるとの世評が高い。

遂に日本が多大の生命を犠牲にした目的が達成されたのである。
「旅順の要塞は防御の状態におかれているが、
それは難攻不落の要塞としてロシアのために役立つ準備が整っている」
と豪語したアレクセ―エフの自慢話は一体どうなったのだろう。

◆1905年(明治38年)1月4日
・・・略・・・
降伏の条件はロシア軍にとってこの上ない好条件である。
将校は、戦争が続いている間、日本軍と二度と戦わないという誓約をすれば
帰国できるが、もし宣誓しなければ捕虜として残ることになる。
一般の兵卒はいずれにせよ捕虜として収容される。

◆1905年(明治38年)1月25日
ロシアにおける事態は日に日に深刻になってきている。
宮殿の前に集まった大勢の暴徒が、警官隊によって射撃された。
新聞によると2000人の人が殺されたということである。

皇帝と皇后はペテルブルグを離れ、まさに完全な革命の状況を呈している。
現地では新聞は一つも発行されていない。
私たちが東京の慈善事業および戦争義捐金のために
上演した芝居「最後のママ」は、熱狂的な観衆で満員の盛況となり、
非常な成功を収めた。
・・・略・・・

◆1905年(明治38年)3月5日
私たちはフランス公使館の晩餐会に出た。
ドイツ公使館書記官のフォン・エルカート氏は
最近捕虜収容所を訪問してきたので、
ロシアの捕虜について色々な情報を私に話してくれた。

彼の話によると捕虜はすばらしくよく待遇されていて、
何でも欲しい物を与えられ、あらゆる世話と配慮を受けているそうだ。

それにもかかわらず、多くの者が外へ散歩に出かけるとき、
日本兵が付添う命令を受けていることについて、
強く苦情を申し立てていると言う。私はこう言わざるを得ない。
「捕われの身でない紳士でいるほうが、
捕虜でいるよりもちろん楽しいことでしょうね」

◆1905年(明治38年)5月28日
三宮男爵からアルベールへきた電報によって、
いま大きな海戦が行われているという最初の噂を聞いた。

◆1905年(明治38年)5月29日
アルベールは真っ直ぐに東京へ向かった。
私は横浜のホーキンズ夫妻の家へ着いたときに、
日本軍が大勝利を得たということを聞いた。
その夜、劇場で演説がいくつかあり、
大変な熱狂ぶりで万歳が何度も唱えられた。

◆1905年(明治38年)5月30日
東京へ戻ってから、やっと大海戦の詳しい話が分かった。
日本軍は総数33隻のロシア艦隊全体を捕獲または撃沈したが、
一方日本軍は3隻の水雷艇を失ったにすぎず、
戦死者は116名、負傷者は538名であった。
これは驚くべき華々しい偉業である。

重傷を負ったロジェストウェンスキー(バルチック艦隊司令長官)
は捕虜となった。彼の旗艦は戦闘の比較的初期の段階で撃沈され、
捕虜になった時は80人の将校と共に水雷艇に移乗していた。

この海戦は「日本海海戦」と称されることとなった。

海戦の始まる前に、東郷元帥は次のような電報を大本営に打った。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす」
この電報に対し、海軍大臣山本提督は次のように変電した。
「連合艦隊の大いなる成功を祈る」
5月30日に東郷提督は再び電報を打った。
「敵の第一および第二艦隊の主力はほぼ撃滅せられたり。御安心を乞う」

東郷提督は何とすばらしい人物だろうか?
生来の並外れた謙虚さに加えて、
士族階級の者すべてが受けることを強いられたスパルタ的訓練が、
この驚くべき人物の持って生まれた勇敢さと
冷静な肉体的勇気を強化したのである。
彼こそ「日本のネルソン」と称されるのにふさわしい。

―――――――
アルベール・ダヌタン男爵が臨終に際して、天皇皇后両陛下に宛てた遺奏書
(明治天皇記第12より)

「陛下、皇后陛下
余は日本国に幾多の年月を経過したる後、
今や全く資産を有せざる余が寡婦を残して瞑目す。
願わくは両陛下、余が寡婦の為に慈悲の御心を垂れ給わんことを。
ダヌタン男爵夫人は余と等しく常に両陛下に対し
深厚なる敬意を以って満たされたり。
余等は実に日本国を余等の第二の本国として思量せり。
茲に余は両陛下並に皇統の幸福を祈り、
併て上帝の日本国を加護あらんことを懇祷す。
余は最早僅に手に筆を執り得る迄衰弱したり。

男爵 アルベール・ダヌタン」

両陛下はこれにお応えになり、
夫人をお召しになって、皇后陛下より相応の大金が直接手渡された。
―――――――

◆1905年(明治38年)6月7日
私たちはバークレイ家で夕食をした。
バケナム大佐が戻ってきたという話をそこで聞いた。
バケナム大佐は英国公使館付海軍武官で、彼とジャクスン大佐の二人だけが、
戦艦に同乗して大海戦を目撃することを許された海軍武官であった。

彼は朝日に乗艦し、他の士官と共に艦橋で観戦した。
何の遮蔽物もない艦橋を降りて、
安全な司令塔にいて下さいと何度も言われたが、
彼はどうしても艦橋に留まると言い張って、
戦闘の間ずっと記録をとり続けた。
・・・略・・・
日本軍は悪魔のごとく戦い、その砲撃は百発百中だったが、
ロシア艦隊の砲撃は全くでたらめだった。
・・・略・・・

◆1905年(明治38年)10月13日
(注:この年の8月12日に調印された第2回日英同盟協約を記念して
日本を表敬訪問するため、ノーエル提督率いる英国シナ艦隊が
10月11日横浜に入港した。)

祝賀の行事は昨日の繰返しであった。
日比谷公園で芸者がビールを無料で接待したため、
思慮の足りないこの行為の結果として、
その日あとになって見られた光景は
決してその場にふさわしいものではなかった。

しかし、英国の水兵と日本の水兵が一言も言葉が分からないのに、
お互いに肩を組んで、楽しそうに歩き回っている姿は見ていて面白かった。
どこの店でも「勇敢な同盟国兵士に値引き販売」
と書いた貼紙を掲示していた。

◆1905年(明治38年)10月22日
東郷提督が東京へ帰ってきた。
首都東京へ戻る前に、提督は日本国中で一番神聖な場所、
すなわち伊勢神宮へお参りして、
輝かしい勝利を達成できたことに対して敬虔なる感謝を捧げた。

この英雄の凱旋を歓迎して、
おびただしい数の群集が集まり、すばらしい装飾が飾り付けられた。

新橋駅の前に焼き石膏で作られた巨大な凱旋門が建てられた。
私たちは駅まで馬車を走らせて、数枚の写真を写した。

私は今までにこれほど大勢の人々が集まったのを見たことがない。
彼らは最高に熱狂し、割れるような歓声を上げていたが、
それにもかかわらずみんな実に秩序整然としていた。

東郷提督は駅から馬車で市街を通って皇居に向かうとき、
その歓迎ぶりに控え目ながら喜んでいる様子だった。

私は翌日の観艦式を参観するため、急行で横浜へ向かった。
そしてホーキンズ夫妻の家に泊まった。
あらゆる場所に無数の群集が群がり、
駅を通り抜けることさえ難しいほどだった。

横浜の市街は様々な旗や色とりどりの提灯で美しく飾りつけられていた。
確かに日本人は装飾技術において他を抜きん出ている。
あらゆるものが実に綺麗に出来ていて色彩豊かである。

◆1905年(明治38年)10月23日
講和を祝う大観艦式が行われた。
ホーキンズ夫妻と私は、グラント海軍大佐から英国軍艦サトリッジ号の上で
観艦式を見物するように招待を受けていたので、
途方もなく早い時間に起きなければならなかったが、
軍艦の上で楽しい一日を過ごすことができた。

サトリッジ号の下舷の丸窓から、
天皇陛下の御召艦浅間の写真を何枚か撮るのに成功した。
日本の軍艦が200隻と、その他に多数の英国軍艦がいたが、
遠くの方に捕獲されたロシアの軍艦が数隻いた。
私たちは観艦を行う浅間の勇姿を堪能した。
・・・略・・・
艦隊は3度礼砲を放ったが、1回ごとに21発の弾丸を放った。
それは実に荘重で感動的な場面であった。
私たちが下艦したときは五時を過ぎていた。

夜になってから私たちはイリュミネーションを見に行った。
全部の軍艦が照明されて、
列になった電球がその輪郭を浮かび上がらせており、
どの艦の旗も様々な色の電球に照らされて燃え立つように鮮やかだった。
それはすばらしい光景であった。

◆1905年(明治38年)10月24日
横浜から12時の汽車に乗って、東郷提督とその他の提督を歓迎するために、
山本権兵衛提督が主催した海軍クラブ(水交社)の園遊会に出席した。
・・・略・・・
園遊会で東郷提督に紹介されて、この偉大な人物と話をした。

彼は小柄な痩せた人で、極めて謙虚な遠慮深い態度であった。
彼がネルソンの偉業を凌駕しないまでも、
それに匹敵する業績を挙げたとは信じ難いことだ。

宴会の席で私は彼の隣に座り、私のもう一方の側にノーエル提督が座った。
食堂はすばらしく立派に飾り付けてあった。当日の来客は2000人にのぼった。
・・・略・・・
ノーエル提督がスピーチをして、
その中で東郷提督の健康を祝して乾杯をすると、
万歳の叫び声が何度も繰返して起こった。

◆1905年(明治38年)11月3日
今日は天長節である。外交団一同と日本政府高官に賜った皇居の御餐会で、
天皇陛下が次のようなお言葉をお述べになった。

「本日わが誕生日に当たり、ここに各国公使、諸大臣、
諸官その他の名士を歓待することは私の大いに喜びとするところであります。
不幸にして一時中断されていたわが帝国の平和が、
再び回復したことを声明できるのは喜びに堪えません。

本日お集まりになった各国の代表者の君主および大統領のご健康を祝し、
合わせて帝国と各国の友情の絆が一層強固になることを
衷心から願うものであります」
・・・略・・・
小村男爵が外務大臣官邸で天長節を祝う晩餐会を催した。
アルベールが日本の天皇の御健康と、
合わせて桂伯爵の健康を祈って乾杯をし、
桂伯爵がそれに答えて返礼の乾杯をした。 

◆1906年(明治39年)2月19日
コノート公アーサー殿下が本日、日本へお出でになった。
殿下は天皇陛下にガーター勲章を贈呈なさるために、
特使として派遣されたのである。

私は馬車に乗って、駅まで殿下のご到着を見に行った。
それは華やかな光景であった。
天皇陛下ご自身が殿下を駅までお出迎えになったのである。
・・・略・・・
かつていかなる外国の皇族に対しても、
これほどの名誉が与えられたことはない。

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