正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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●『大正ニッポン観察記』 ハンス・モーリッシュ著
著者のハンス・モーリッシュ(1856~1937)は世界的によく知られた
オーストリア帝国出身のドイツ人植物学者で、1922年9月から25年3月まで、
東北帝国大学の招聘に応じて仙台に赴任し、
当時新設されたばかりの生物学教室で植物生理学及び解剖学を講義しました。
―――――――
■日本の大学
学生はみな、所属する学部のちがいにかかわりなく、
紺色の洋風仕立ての制服を着て、同じ紺色のお皿のような形の帽子をかぶる。
そして革靴か、木でできた日本独特のスリッパ(下駄)をはいている。

学生たちとはおしなべてとてもよい経験をした。
彼らは謙虚で礼儀正しく、勤勉でなかなかインテリジェンスもあり、
なかにはたいへん才能に恵まれた者もいる。

残念なことに眼鏡をかけている学生が多い。
本当に近視で眼鏡をかけている者もいるが、
なかにはインテリ・学者をよそおうために
近視のふりをしている者もいることはたしかだ。

こんなに近視が多いのも不思議ではない。
なにしろ小学校のときから、
あの小さな込み入った文字を読み書きすることで、
目はたっぷり酷使されるのだから。
・・・略・・・
日本で生活していると、いろいろな機会に贈り物をもらうことが多くなる。
外国人教授も例外ではない。
どこへ顔を出しても(客として招かれたときも、施設を訪ねたときも、
あるいは学会で講演を行ったときも)かならず贈り物をもらったものである。

学生が遠慮がちに私の研究室の戸をたたき中に入り、
帰るきわになって、さもほんのついでであるかのように、
私にほんの小さなつまらないプレゼントを贈ることを
許してもらいたいと言うのである。

その中身はたとえば、故郷の絵葉書、きれいな漆の箱、
日本人形、風呂敷、写真、かわいらしい日本刀の模型、
もぎたての柿の入った小箱、有名な魚の薫製などである。

はじめはこういったものを受取るのに、
何とはなしにばつの悪さを感じたものだ。
というのも、大学教授たるもの学生からプレゼントをもらうなど、
西洋の風習に反することであるし、
学生にしてもそのような贈り物をすることは、
「人気取り」と見られてしまうからである。

しかし日本では別の考え方をする。
つまり人々がたがいに贈り物を贈ったり贈られたりすることは、
感謝の気持ちのあらわれなのである。

■日本人の礼儀正しさについて
国や人々について、
ほんのつかの間の印象しか持ち帰れない世界漫遊者たちは、
かたよった、あるいは大げさな見方で日本について語り、極端に賛美するか、
あるいは何でもかんでも片端からこきおろすかしているが、
それらはかならずしも日本について真実を伝えているとはいえない。

しかし次の点についてだけは、
日本を知る者もあまりよく知らない者も、一人残らずみな意見が一致する。
すなわち、日本人は世界でもっとも親切で礼儀正しい民族である
という印象である。

■贈り物
いかにして贈り物を相手に渡すかという、
その渡し方の中にみごとに洗練された手際が映し出される。
日本人は贈り物をするために人を訪ねても、
決してすぐにはそのことを口にしない。
贈り物のことはあくまでも、
取るに足らないことのように振舞わねばならない。

だからそれを口にするのは最後の最後になってから、
それもいわばどうでもよいことのように言う。

つまり贈る側は、たとえそれがどんなに立派で高価な品であろうと、
つまらないものをお渡しする無礼をお許しくださいと
言ってわびるのがふつうなのである。

小奇麗に包装することにかけても、日本人は正真正銘の名人である。
そして包んでから贈り物を送るとき、もしくは直接手渡しするときに、
彼らは特別な心配りをみせるのである。

高価な置物などは絹の布か上質の和紙につつみ、
軽くてつやつや光る桐の小箱に入れる。
そうしておしまいに水引と呼ばれる赤と白半々の結び紐でくるめるのである。
包みの右側には、先のとがった熨斗と呼ばれる紙片がつけられ、
さらに贈り物がたいしたものでないことをそれとなく伝えるために、
上半分に「粗品」と書き入れるのである。

■使用人への思いやり
日本人が大変やさしい性格の持ち主であることは、
使用人の扱い方を見てもなるほどと合点がゆく。
日本では一般に使用人に対してつっけんどんな態度はとらず、
おだやかに思いやりをこめて接する。

使用人や女中がこっぴどく叱られたり、
はずかしめられるような扱いを受けているのを、
私は一度も目にしたことはなかった。

それどころか、忍耐強さにかけては少しは自慢できる私ですら、
とうの昔に堪忍袋の緒が切れてしまっているであろうと思われる場合でも、
使用人に対してたいへん物静かに忍耐をもって接し、
相手の立場を思いやっているさまを見て
脱帽してしまうことさえ珍しくなかったのである。

日本では、たとえ使用人たちの方に罪があろうとも、
人前で彼らを叱りとばすのは不作法なこととされている。
使用人を叱るときには、誰も見ていないところで、
しかもなるべく言葉少なに叱るのである。

■手紙
日本人は手紙を書くとき、何よりもまずていねいさを心がけ、
相手に対する細やかな心配りを忘れない。

ふつうまずはじめに、友の健康を喜び、
自分のほうはなにごともなく元気でやっているから
心配は無用であると述べる。

そしておしまいに、この取るに足らない文面に目を通してくれた労に感謝し、
相手がこれからも元気で幸福に暮らすことを願う。

そして最後の最後に、国家の繁栄のためにも健康にはくれぐれも
気をつけるようにと念を押すのである。
こうした手紙に使われる紙は、われわれの感覚からすると、
浪費としか思われないような分量に達することがしばしばである。

日本人のていねいさは言葉づかいにもあらわれる。
日本人は三通りの話し方をする。
すなわち、目下の者に対して、同等の者に対して、
そして目上の者に対してそれぞれ言葉を使い分けるのである。

このことで、日本語を習得するのがますます困難になる。
・・・略・・・

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●『ミットフォード日本日記』A・B・ミットフォード著
『The Garter Mission to Japan』(ガーター勲章使節団日本訪問記)
アルジャーノン・バートラム・フリーマン・ミットフォードは、
幕末から維新にかけての1866年(慶応2年)10月から1870年(明治2年)1月まで、
英国公使館の書記官としてパークス公使の下で、
同僚のアーネスト・サトウとともに勤務しました。
外務省辞職後の1873年にアメリカへ旅行した際に、
サンフランシスコから日本に2度目の訪問もしています。
そして約33年後の1906年(明治39年)2月、ガーター勲章使節団の主席随員、
「リーズデイル卿」として3度目の来日となりました。
その時の日本滞在中の記録がこの本です。
『ガーター勲章』は英国の勲章の中でも最も古く、最も位の高い勲章です。
この使節団は英国国王エドワード7世から明治天皇へガーター勲章を捧呈する
ため、国王の弟コンノート公の第一王子アーサー殿下を御名代として派遣
されました。明治維新の動乱期、そして日露戦争に勝利した日本を再び見た
A・B・ミットフォードの日本評です。
―――――――
■横浜到着
1906年(明治39年)2月19日の早暁、
11隻の大きな軍艦が殿下を歓迎する礼砲を鳴らし、
軍楽隊がゴッド・セイヴ・ザ・キング(英国国歌)を奏した。

松の木の生い茂る箱根の山々が遠くに望まれ、
それは私の記憶の通りに美しかったが、一番素晴らしかった光景は、
雪を被って朝日に輝く、比類なく美しい富士山が、
その優美な曲線を損なう一点の雲もなく、
神秘的な円錐形を見せて、天高くそびえている姿であった。

それは、この山の女神である「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)が
古き時代の日本の精神に則って、日本の友人であり、
同盟者である国王エドワード7世の使者を歓迎しようと、
その優美な姿で立ち迎えてくれたのかと思わせるようであった。
・・・略・・・
錨を下ろすと同時に、駐日英国大使サー・マクドナルドが、
殿下の日本滞在中、その接待の役を務める何人かの
著名な日本の政府高官と一緒に乗船してきた。

その中でもとくに著名な人物は黒木大将と東郷(平八郎)提督であったが、
彼らの偉業は世界中に鳴り響いていたのである。
我々が彼らと初めて会見した時、
少なからず興奮していたことは想像できると思われる。

東郷提督は静かな口数の少ない人で、
どちらかといえば物憂げな表情をしていたが、
きげんの良い時には極めて優しい微笑を浮かべることがあった。

彼の表情は優しく穏やかで、話しかけられていない時は、
時折、瞑想に耽っているらしく、ほとんどいつもじっと地面を見つめて、
頭を少し右へかしげていた。

これと反対に黒木大将は、日焼けしたがっしりした体格で、
まるでオリンピック競技の選手のように鍛錬された、
典型的な軍人タイプであった。
彼はいつも陽気で、愛想がよくどっしりとしていて、
物事の良い面を見ようとする人物であった。
この二人ほど一目見た時、対照的な人物はないだろう。

しかし、二人には共通した特色があった。
彼らの謙遜と自制心は、まさに人々の心をとらえるものがあった。
彼らが話すのを聞いて、本当に彼らが日本の歴史の上ばかりでなく、
世界の歴史に残るような立派な役割を
果たした人物だとは信じられないだろう。

両者ともに、誇らしげな様子は全く見られなかった。
ここに私がとくに強調しておきたいのは、
私の日本滞在中にいろいろな種類の多くの日本人と話をしたが、
さきの日露戦争の輝かしい勝利を自慢するかのような発言を、
一度も耳にしなかったことである。

戦争に導かれた状況と戦争そのものおよびその結果について、
全く自慢をせずに落ち着いて冷静に話をするのが、
新しい日本の人々の目立った特徴であり、
それは全世界の人々の模範となるものであった。

このような謙譲の精神をもって、
かかる偉大な勝利が受け入れられたことはいまだにその例を見ない。
・・・略・・・
かくて我々の長い航海も終わり、
まさに天皇日和ともいうべき天気に恵まれて、
我々はお伽の国への第一歩を踏み出したのである。
・・・略・・・

■皇居でのガーター勲章捧呈式
殿下は3度礼をされて天皇の前に進み、
国王自筆のお手紙を陛下に手渡された後、
ゆっくりと威厳をこめて次のような挨拶の言葉を読み上げられた。

「陛下。私は尊き主君であり、伯父である国王陛下の命を受けて、
国王のあたうる限りの友情と尊敬の最高の印を、
陛下がご受納下さいますようお願いに参りました」

「陛下もご存じのように、ガーター勲章はエドワード3世によって
およそ600年前に制定された騎士の勲章であり、
英国の騎士の勲章としては最高のものであります。
元来、これを受けるのは君主としての国王と皇太子
および24人の騎士に限定されており、
その通り、今日まで受け継がれてきました。
しかし、現在は英国国王ととくに親密な関係にあるか、
または同盟を結んだ国の皇帝、国王、王子に、
この勲章を 贈るのが習いとなっております」

「私が今日ここに参りましたのは、この由緒ある最も高貴なガーター勲章を
陛下に贈呈することを委任されたからであります」

「陛下こそ、騎士道と勇気と名誉の象徴であるこの勲章を受けられるのに、
最もふさわしい君主であると考えられたエドワード国王の深い友情の表れ
として、どうぞ、この勲章をお受け取り下さるようお願い致します」

この挨拶の言葉は長崎(省吾)氏の通訳によって陛下に伝えられ、
次のようなご返事があった。

「殿下をお迎えすることは私として欣快の至りであります。
殿下のお持ちになった名高い高貴な騎士の勲章を、
エドワード国王陛下の友情と善意を重ねて
明証するものとしてお受け致します」

「かかる栄誉を受けるのみならず、その栄誉に加うるに殿下を今回の特使
として選ばれたことに対し、国王陛下に私が心から感謝していることを
お伝え下さるようお願いします。
さらに陛下に私の心からの尊敬と変わらぬ友情と愛情を確かに
お伝え頂くと同時に、末長きご健康とご安泰を
深く祈念していることをお伝え頂きたいと思います」

・・・略・・・

ここで予期しなかった素晴らしい好意が示されたのである。
殿下がガーターを陛下の膝下にお着けしたその瞬間、
事前に打ち合わせた合図によって、
陰に控えた楽隊が再び英国国歌を演奏し始めたのである。

その効果は電撃的で、儀式全体の雰囲気を非常に盛り上げた。
確かに日本人は儀礼的なことにかけては熟達した民族である。
我々の国王に対して、これ以上優雅に感謝の意を表す方法を
他の民族が考えつくだろうか。

■徳川慶喜公との再会
1906年2月21日、午前9時30分に何人かの日本の貴族が
殿下の訪問客として見えることになっていたので、
それまでにたくさんの用事を片づけなければならなかった。

訪問客の中でも最も著名な人物は前将軍徳川慶喜公爵であった。
この偉大なる人物は静岡の城に隠棲し、
以前の家臣のために茶の製造事業を興すかたわら、
自分は野外でのスポーツや漢詩を作るのを趣味とした。

彼が失脚する寸前、30歳の時の彼を覚えているが、
徳川公爵は私が今まで会った人物の中でも
際立って立派で上品な風貌を備えた人であった。

しかも、それだけではなかった。
彼は極めて人好きのする優雅な態度と魅力的な物腰を備えていた。
背は高くなかったが、非常に均整がとれていた。
顔立ちは彫りが深く、口も歯も非の打ちどころがなかった。

顔色は明るいオリーブ色で、
その手も脚も彫刻家のモデルにしたいほど優美であった。
彼がほほえむと、顔全体が明るくなった。
年をとった現在でも、彼の立派な外見はほとんど変わらず、
その魅力はすべてそのまま残っていた。
・・・略・・・
数日後、アーサー殿下の昼食会に招かれた彼と再び会ったので、
その時かなり長い話をした。

私の名前が変わったので、
最初、彼は私が誰だか分からなかったようであったが、
説明すると私のことを思い出して、極めて打ち解けた態度で話を始めた。

「あなたと大坂で会った時から思うと、世の中は随分変わりましたね」
というのが彼の最初の言葉であった。本当に大きく変わったものだ。

最後に彼を見た時のことを覚えている。
それは伏見の戦いの後で、戦いに敗れた将軍が、
大坂へ馬に乗って戻ってくるところであった。

彼は護衛の武士たちに囲まれて、兜をかぶり、面頬をつけ、
日本の古式豊かな鎧を着て、軍勢の先頭に立っていた。

それは決して忘れることの出来ない絵のような光景であったが、
その日は歴史の上で運命の分かれ道となった日であったのである。

■京都再訪
1906年3月8日、神戸上陸の前に、我々一同は片岡提督に別れを告げに行った。
提督の艦隊は日本水域を航行中の殿下に対し、
かくも堂々と名誉の護衛を務めたのだ。

神戸に上陸すると、
10隻を下らぬ軍艦が放つ告別の礼砲が周囲の山々にこだました。
岸壁での殿下の歓迎ぶりは、よそと同じような熱狂的な歓迎であった。
私が1868年、維新当時、そこに最初に上陸した時、
神戸は、兵庫の郊外にある荒れ果てた土地が広がった地域で、
小屋一つなかった所だが、この数十年の間に文字通り無一物から、
およそ27万の人口を有する第一級の重要な都市に成長した。
・・・略・・・
現在、神戸は輪出入貿易のお陰で日本でも第一級の港になっている。
・・・略・・・
神戸から京都までは大した距離ではなかった。
・・・略・・・
駅から京都の市内を通って馬車を進めると、
歓迎の声が今までよりもさらにひときわ高くあがった。

私は黒木大将と京都府知事と一緒に馬車に乗っていた。
歓声が最高潮に達した時、知事は私にこう言った。

「あなたは、この歓声が単なる意味のない叫びと思ってはいけません。
あなたが巡遊されているこの国中のすべての学校で、すべての子供たちが、
どんなに小さい子供でも、
日本へきたこの使節団の意味を十分に教えられているのです。
子供たちは皆、それが天皇陛下に最高の敬意を表するため、
甥御の殿下を使節として送られた英国国王をたたえるためだ
ということを存じております。

それだけでなく、日英同盟の大切なことも教えられております。
ですから、何も分からずに喝采しているのではなく、
心からの歓迎をしているのです」
・・・・略・・・

我々が横浜に上陸した最初の瞬間から、ずっと最後に至るまで、
歓迎の声に真実の音の響きがあったことは、
私が確信を持って言えることである。
このような教育方法は、教練や体育訓練と同様に、
我が国の学校教師が同盟国日本からヒントを得てしかるべきものであろう。
・・・略・・・
大名とサムライが、彼らだけで新しい日本を形づくるのに
成功したわけではないといっても言い過ぎではないだろう。
彼らに必要だったのは、ミカドの宮廷の協力であり、
それなくしては革命は大名と将軍の単なる内戦に終わったに違いない。
・・・略・・・
奈良とその神聖な森を見物したので、京都へ戻って西郷京都市長の
古風な日本式晩餐会に出るための着替えをしなければならなかった。

晩餐のために着替えるというのは簡単なことのように思えるが、
この夜の場合はそれが全く簡単なものではなかった。

招待状には「日本服を着て出席されたし」と明記されており、
我々が最初、東京へ着いた時、西郷市長は京都からわざわざ使いを寄越して、
我々の体の寸法を計らせて銘々に日本の着物を贈るという
大変な親切をしてくれたのであるから、彼の希望に従うしかなかった。

日本の着物を着るということは、我々の誰一人解決し得る問題ではなかった。
いろいろ紐を結ぶところがあるので、手ほどきを受けたことのある人しか、
そのこつが分からず、考えられないような無作法な着方になる恐れがあった。

しかし、親切で巧みな手助けを得られたので、迎えの馬車が来る頃には、
我々は正確な着付けをした日本紳士の装いを済ますことができた。

日本の着物ほど快適な着物を見つけることは難しいだろう。
それを着ていると、夏は涼しく、冬は温かくて寛げるのだ。

なぜ日本人は着物を捨てて、我々の不恰好な服装をしようとするのだろうか。
私にとって具合の悪いことが一つだけあったのは、
親指の分かれている白い足袋で、足指が痛く感じられたのだ。
しかし、これも慣れの問題だろう。

衣服の問題に関しては、市長の晩餐会は万事が逆さまであった。
我々英国人の客が全部日本の着物を着ているのに、
日本人の客は全部洋服なのだ。
東郷提督も黒木大将も、その他の人たちも、
今度の旅行に日本服を持参していなかったので、
晩餐会にはとにかく持っている服を着るしかなかった。

それは実に奇妙な光景だった。
我々の一行の中には、日本服をきちんと着こなした紳士としては、
全くそぐわない箸の使い方をする者もあった。

黒い洋服の連中は、ごく気楽な様子だったが、
それと反対に、着物組は当惑することが多く、
可愛らしい器用な手で絶えず手助けしてもらわなくてはならなかった。

畳の上に座るにしても、洋服組はきちんと正座しているのに、
哀れな着物組は、実にぶざまな格好で足を伸ばして座らざるをえなかった。

このようなことすべてが、夕食の接待に忙しい可愛い芸者たちの目に
面白く映ったらしく可笑しさを隠し切れなかったようだ。
・・・略・・・
彼女たちはいつも当意即妙の受け答えをし、
冗談が分かるのも早ければ、それに応酬するのも早い。
陽気にふざけて楽しそうに笑いはしゃぐ。

この少女たちの中の数人はほんの子供で、
誰か監督がついているわけでもないのに、
礼儀作法を厳格に守っているのは驚くほどであった。
・・・略・・・

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●『明治日本見聞録』エセル・ハワード著
「英国人家庭教師婦人の見た明治の日本の記録」
エセル・ハワードは、明治34年(1901)から同41年(1908)まで7年間にわたって
島津家(薩摩)の家庭教師として渡来したイギリス人女性です。
―――――――
■日本に来て

ある朝、私は一通の手紙を受取った。
それは私に日本に行って家庭教師をする意思はないかという手紙であった。
それまで私が日本に対して抱いていた印象といえば、
日本人はいつも笑いを絶やさない陽気な民族で、
住む家は地震がくればトランプで作った家のようにすぐ壊れてしまうが、
たちまちのうちに建て直されるといった程度の知識しかなかったのだが、
しばらくためらった後に、日本へ行く決心をした。
・・・略・・・
先方の申し出では、私の教育するのはある貴族の息子たちで、
両親がなく、その長男は「大名」だとのことであった。
・・・略・・・
日本の貴族中の貴族ともいうべき薩摩の殿様の家庭に住み込んだ最初の
外国人女性として、この本を書く資格があるのではないかと思っている。
・・・略・・・
日本での最初の寄港地は長崎で、そこでは英国領事の温かい歓待を受けた。
次の日は神戸に停泊したが、
そこで見たものが私の日本での第一印象となった。

一人の日本人の男を見て、大層気味悪かったのを覚えている。
彼は苦力が泥だらけの道で履くような木靴を履いていた。
それはスリッパのように爪先を防水紙で覆ってあり、
5~6インチの木片が二つ底に取り付けられていた。

そのためそれを履くと大変背が高く見えるのである。
この男は普通より背が高かったが、
寒い時に着るようなねずみ色の綿入れを着ていた。
・・・略・・・
男は手を暖めるため着物の中に両手をたくし入れてしまうので、
まるで手がないかのように袖がぶらりと下がってしまうのである。
その男がわれわれのほうに駆け寄ってきたとき、
両袖がぶらぶらと揺れて、どうみても腕なしとしか見えない恰好であった。
私は驚きのあまり飛び下り、
この国にかつて長く住んでいた同行の船客たちに大笑いされてしまった。

もう一つの光景は、その後一度も見なかったが、
私にとっては一層のショックであった。
大勢の子供たちがお寺の境内で赤ん坊を背負って遊んでいたが、
それはそんなに珍しいことではない。

しかし、女の子の一人が着物の中に小さな犬を入れており、
まるで赤ん坊のように背中に背負っていた。
そして、頭しか見えなかったので、
初め見たとき、私はそれが奇形児だと思って、驚いて真っ青になった。
・・・略・・・

われわれは、2月17日早朝横浜に到着した。
同行の友人たちが日本で一番美しい山である富士山を見ましょうと
誘ってくれたので、甲板へ出てみた。
山はすっぽり雪に覆われ、その斜面に朝日が輝くのが見えたとき、
なんとすばらしい景色であろうと思った。
この時の印象は、おそらく一生忘れられないだろう。
・・・略・・・
船で御一緒になったサンドイッチ卿はとても親切な方で、
私のこれからの生活が寂しいものになるであろうことをよく理解されていた。
彼は、その後数ヶ月日本に滞在し、各地を旅行されたが、その間、
私に同情と支援とを惜しみなく与えていただいたことに深く感謝している。
・・・略・・・
(島津家の屋敷の)ドアが開いて最初に迎えてくれたのは、
ホワイトヘッド(英国公使館一等書記官)夫人だった。
彼女にはベルリンの英国大使館で会ったことがあり、
先に亡くなられたビクトリア女王を偲び、喪服を着ておられた。
彼女の後ろに一歩下って、
これから私の教え子となるかわいい四人の少年たちが並んでいた。
・・・略・・・
その傍らに14歳ぐらいの若者が立っていた。
彼は紺の制服を着て、襟には金色の桜の花びらの徽章が付いていた。
これが公爵であって、私が彼と握手を交わした後、
式部官の長崎(省吾、のち宮中顧問官)氏が進み出て、
その場の紳士たちを紹介してくれた。
・・・略・・・
私は、家具や食器類がなぜありきたりの物を
使っているのか大いに疑問に思っていた。
公爵家は裕福だと聞いていたので、
経済を節約している様子らしいのがどうも理解できなかった。

後になって本当のことがわかった。
それにはちゃんとした理由があったのであり、確かに立派な理由だった。
ここに西洋教育を採り入れようとした目的は、
その中から可能なかぎり最上のものを学びとろうがためであった。

この子たちのような立派な武士の子弟に、贅沢な家がなぜ必要なのか?
勇気と剛健を養うためにそんなものが役に立つのか?
人格は日常生活における質素と克己によってのみ陶冶されるのである。
家具や装飾がなくとも、家さえあれば充分ではないか?
これが彼らの考え方なのであった。
・・・略・・・
私は、この家の長男がいつもどんな扱いを受けているか初めてよくわかった。
一人の召使いが入って来て、
公爵に私が馬車を使ってよいかどうか伺いをたてた。

公爵は威厳に満ちた顔で黙ったままであり、
彼の椅子の後ろに立っていたお付の人が彼に代わって答えた。
後になって重要な事柄はすべて彼の許可を得る必要があることがわかった。

不思議に思われるかも知れないが、
私にはこの若い公爵が普通の14歳の少年のようには感じられなかった。
ある点では彼は大人であった。

私のような外国人にさえ、彼の権威といったものが微妙に感じられた。
彼は私の教え子という立場にあり、私の言いつけはすべてよく守り、
厳しい服従も決して辞さなかったが、それにもかかわらず、
彼がこの家の主人であることがなんとなく常に感じられた。

■公爵と四人の弟たち

最初の日、私に渡された書きつけには、
私の教え子たちの名前と年齢が次のように書かれていた。

公爵…島津 忠 重 14歳5ヶ月
男爵…島津 富次郎 9歳9ヶ月
男爵…島津 諄之介 8歳5ヶ月
………島津 韶之進 7歳2ヶ月
………島津 陽之助 6歳2ヶ月

私は最初、子供たちがひどく内股に歩くのが不可解だった。
その時は知らなかったのだが、日本の貴族社会での古くさい行儀作法では、
内股のほうが行儀よいとされていたのである。

最初のうちは、子供たちにこの癖をやめさせようとする努力で、
他の仕事よりも何にも増して疲れ果ててしまった。

しかし、他のことと同様、
まもなく彼らは躾にすばらしく早く順応するようになった。
何分おきかに絶えず「足をもっと開いて」というのが、
私の口癖になってしまったので、大変疲れてぼんやりしていたある日のこと、
われわれの訪問客であったドイツ大使アルコ・ヴァレー伯爵が、
何かの拍子で足を内股にして腰掛けているのを見て、
ついうっかりと「足をもっと開いて」といってしまったほどだった。
・・・略・・・
島津家は顧問の選定に関しては、ほんとうに恵まれていた。
というのは、日本の重要人物が何人もその中に含まれていたからである。

著名な元帥大山公爵をはじめとし、卓越した政治家で、
経済界や政界で大きい勢力を持っていた松方(正義、のち公爵、政治家)侯爵、
歴史的に武功の名高い西郷(従道、隆盛の弟、元帥)侯爵、
世評高い海軍大将樺山(資紀、海軍大将)伯爵、
それに皇太子(大正天皇)や弟君たちの御幼少時代の
養育係であった海軍大将川村(純義)伯爵、
以上五人の人たちが、
私の着任当時、子供たちの後見人である叔父を補佐して、
顧問に選ばれていたのである。
・・・略・・・

■通訳

東京には津田(梅子)女史によって設立されたすぐれた女学校があったが、
女史は非常に利口な愛嬌に富んだ婦人で、偉大な教育者であった。
私の通訳の優秀な者は、皆この学校の卒業生であった。
これらの通訳を通じて、私は日本の学生の生活の内情を知ることができた。
学校を卒業してからも彼らの目標は、自分自身の向上に向けられていた。
稼いだ金は外国語を完全に習得するためか、
職業につくための準備教育を受けるに必要な費用にほとんど費やされていた。
・・・略・・・
克己的な生活は娘たちだけに限ったわけではなかったようだ。
日本の学生たちの生活はすべて勤勉そのものであり、
賞讃や尊敬に値するものが多々あった。
・・・略・・・

■子供たちとの生活

自分の仕事が済むと、私はときどき二階へ上がっていって、
子供たちの寝顔をのぞき込むのだった。
夜はことさらに孤独を感じるので、これは私の寂しさをまぎらせてくれた。

彼らは髪の毛を短く刈って、
私の作ってやったピンクと白のパジャマを着てとてもかわいらしかった。
私は自分の腕の中に、かわいい子供を抱きしめたい気持ちに何度もなった。

しかし、ここへ来た最初の日から、
子供たちにキスをしないという日本の習慣を私は固く守ってきた。
・・・略・・・
キスのことと言えば、
日露戦争当時のある出来事は記録に留めておく価値があるだろう。

日本の軍司令官の前に、
一人の兵隊がロシア人の捕虜の両手を縛って連れてきたので、
司令官は驚いていった。
「どうして捕虜にそんな扱いをするのだ?」
「閣下、彼は私を咬もうとしたのです」というのが答えだった。
事の真相は、捕虜がその兵隊からお茶やよい食べ物や
たくさんの煙草などをもらったお礼に、
侮辱になるとは露知らず、感謝のつもりでキスをしようとしたのだった。
・・・略・・・
自分の仕事を進捗させたい熱意に燃えて、
私は日本語の会話を習う決心をした。
そして、手始めに日常使われる「ありがとうございます」という言葉を、
私の女中から教わった。
・・・略・・・
最初の頃の私の会話の試みは、
女中の言葉を借りれば「まるで、あぶなっかしい」ものだった。

それは彼女が私に、
日本人の習慣や意向についてなんらの助言も説明もせずに、
日本語を全く言葉どおりに通訳したからである。

その一例として、陛下の侍従のある夫人が私の家を訪問した際、
きわめて礼儀正しく日本の習慣に従って、
自分の家および家族やそれに関することを謙遜し、
そして、私に関することすべてを賞めそやした。

そして、私をお茶に招待してくれたのだが、
私の通訳はその招待をこう伝えたのである。

「奥様は貴女に来ていただくように、
そして貴女の御光来によって、家が清らかにされることを願っています。
彼女の家は大変きたなく、住居は全く荒れ果て、
醜い子供たちがいます。どうか貴女が来て、きれいにしてください」。

これを聞いた時の私の驚きと心配とは、
どう表現してよいかわからないほどだった。
私は彼女が私を家に招んで、
家の掃除を手伝ってもらうように頼んでいるのだと思い込んだ。

未だサインされていない契約書のことが心に懸かり、
仕事がだんだんに増えていきそうな気配があるのに、
こんな申し出でを受けて、私はすっかり不安になってしまった。
後になって、これが誤解だったとわかって、
われわれは大笑いしたものである。
・・・略・・・
贈り物そのものについていえば、その贈り方はきわめて優美なものであった。
私は最初の贈り物を受取ったときのことを覚えているが、
それを開けるのがもったいないと思ったほどである。

それは真っ白な紙で包まれ、とても綺麗な紅白の紐で結わえられ、
斜めに折った紙切れが上のほうについていた。
その紙切れには、干した魚の妙な小さい切れ端が包んであった。
日本文字が上に書かれていたが、
私にはそれが私の名前か贈り主の名前かわからなかった。

贈り物は全部こんなやり方で包装されているので、
いくつももらうとそれを解くのはさぞ大変な仕事になるに違いない。
しかし、このやり方は贈り主の深い心尽くしを
必ずや相手に大変好ましいものとして印象づけるに違いない。

■学習院

公爵と弟たちは、「学習院」と呼ばれていた華族学校へ毎日通っていた。
この学校は、名前はそうであったが貴族だけに限定されていたわけではなく、
家職の子弟でも入学を認められている者もあった。
・・・略・・・
この独特の制度は、上にも下にもすばらしく融通の利くものだった。
例えば、今の皇太子殿下(のちの大正天皇)が7歳になって
この学校へ入学されたとき、殿下とその侍従は、
院長の乃木大将にその朝正式に迎えられたのである。
・・・略・・・
子供たちは、クリケットより野球を好んで遊んだが、
おそらく学校でやっていたからであろう。
・・・略・・・
大体において、子供たちの学校生活がきわめて楽しかったことは確かで、
学校に行かずに家に留め置かれることが罰の一つとみなされていたことは、
子供たちがいかに学習院の生活を愛したかをよく物語っている。
・・・略・・・
先生たちの中には、私の助けになると思った人たちが一人二人いた。
私はときどき学校へ行って、子供たちの授業を参観したが、
子供たちの成績改善を目指す私の努力に対して、
先生たちからも多大の同情が寄せられたものだった。
彼らの中には英語を上手に話す者が何人かいた。

末の子の先生は、毎週私に英語で書いた報告書をよこしたが、
私の帰国後もその学期の成績について
報告書を送ってきたので大層感激したものである。
・・・略・・・
学生たちは、普通は学校の制服を必ず着ることになっていたが、
休祭日は例外で着物に戻って寛いでいた。

男の学生も女の学生も「袴」という裾の分かれたスカートを穿いていたが、
それはよそ行きの場合は絹で、
ふだん着はサージのような布地で作られていた。
この袴の色は学校によって違っていた。
赤が一番多く使われ、
主として色合いの違いで区別されたが、紺も同様に人気があった。
慣れないうちは西洋人にとって、日本の学生は皆同じように見えるので、
誰かれを見分けるのは不可能に近かった。

教育制度に関しては、日本は東洋で抜きん出て高い水準を保っていた。
東京には清国から何千人もの留学生が来ていたが、
彼らは都会の人々と同じ服装をしていた。
そして、何人もの日本女性が毎年のようにシャムや
その他のアジアの国々へ、家庭教師として出かけていた。
・・・略・・・

■滞在中の外国人について

私の国の人々についていえば、
日本滞在中に彼らの言動が私の気に障ったことが何度かあった。

ある日、子供たちと汽車の旅をしたときのことであるが、
たまたま車室の予約をしていなかったのだが、同じ車内の一人の婦人が、
われわれの一行が大人数なので入っては困ると大声で抗議し、
さらに一緒の車室にたくさんの小猿がいるのはいやだとつけ加えた。

この言葉は、私の生徒たちにもはっきり理解できた。
私はこのように、西洋人が日本人のことを
赤い顔をした日本の猿に似ていると言うのをよく耳にしたが、
私が同じような経験をしていなかったらもっと驚いたにちがいない。

全く日本人だけの間に数ヵ月暮らした後、ある日、鎌倉の海岸に出てみると、
数人の外国人が木綿の着物を着て泳いでいるのに会った。
彼らの際立って青い目や巨大な体格や赤ら顔は、
その瞬間私に赤い猿を思い出させたのである。

英国人やアメリカ人の多くは、機智と礼儀正しい心遣いに欠けていたので、
私はしばしばつらい思いをし、かなり当惑させられたことがあった。

特に、どの階級の日本人にも
「ジャップ」という蔑称を使うことがそうだった。
それは不作法で敬意を欠くのみならず、国民そのものを大いに憤慨させた。
無知のためか、あるいはごく当たり前の常識や感情に欠けるためか、
いずれにせよ、私に大層恥ずかしく腹立たしい思いをさせた旅行者に
何人か出会ったことがある。
・・・略・・・

■戦勝祝賀会

私に一番印象の深かったのは、
公爵が東京の日本館の庭で催した園遊会である。

それは戦争終了後、東郷提督の栄誉をたたえて行われたもので、
お客は日本人に限られていたので、
私が招待客の一人となることができたのは大変ありがたいことだった。
・・・略・・・
宴会の終わり頃に、国民の英雄でこの日の主賓である東郷提督が
椅子に乗せて担ぎ上げられ、3回胴上げされたが、これも薩摩の習慣であった。
・・・略・・・
このことがあってまもなく、私はある宴会で東郷元帥の隣に坐り、
彼のことをさらによく知る機会に恵まれた。
私は、彼の顔がすばらしい慈愛と平和の表情を湛えているのを見て感動した。

戦いの恐怖を経験して戦地から帰ってきた現代の英雄たちにも、
同じような表情が見られる。
彼らの安らかな表情は、死後の世界を垣間見たせいのように感じられた。

日本のネルソンといわれ、また日本海軍の父といわれた東郷提督について
私の受けた印象は以上のとおりで、日本海軍の優秀性は他に比類なく、
その戦力は連合国の間で第三位を占めている。
・・・略・・・
東郷提督は、日露戦争での連合艦隊司令長官で、旅順港を砲撃し、
バルチック艦隊が到着するまで三ヶ月間自分の艦隊を隠し、
そして、敵が数においてはるかに勝っていたにもかかわらず、
ついにロシア軍を完全に敗走せしめた、その人なのであった。

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●『ジャポン1867年』 L・ド・ボーヴォワール著
維新直前の日本に来たフランス人青年の日記
―――――――
■横浜 4月23日

きょうわれわれは、はじめて日本の都市内部の探検をおこなった。

まだ人気のない、黒焦げのもえのこりが目につく一部の地域は別として、
この町が昨年11月の恐ろしい火災のため
完全に破壊されたとは誰も気づかぬであろう。

道路は大変幅が広くて真っすぐだ。
どの家も縦材でつくられ、ひと刷毛の塗料も塗られていない。
感じ入るばかり趣があり、繊細で清潔かつ簡素で、
本物の宝石、おもちゃ、小人国のスイス風牧人小屋である。

日本国民は木材を見事に細工する。
滑り溝を走る隔壁、縦の棒で出来た細い枠ぐみ、
その格子の上には綿毛で覆われ、光を通す紙が貼られる。

こうしたもので支えられる、軽いが丈夫な屋根を見るのは興味深い。
一軒の家がこのような紙製の薄い間仕切り壁しか持てぬということは、
わたしの思いも及ばなかったところである。

日が暮れてすべてが閉ざされ、白一色のこの小店の中に、
色さまざまな縞模様の提灯が柔らかな光を投げる時には、
魔法のランプの前に立つ思いがする。

われわれはすでに挨拶の言葉を話しはじめている。
「オハイオ」はボンジュール。「オメデト」はわたしはあなたを祝う。
「イルーチ」はきれい、魅力的。
「セイアナラ」はまたお目にかかりましょうだ。

それにこの民族は笑い上戸で心の底まで陽気である。
われわれのほんのわずかな言葉、ささいな身振りをたいへんに面白がる。
男たちは前に述べたとおり、
ちょっとしたものを身に付けただけでやって来て、
われわれの時計を調べ、服地にさわり、靴をしげしげと見る。

そして、もしも彼らの言葉をまねて少々大胆すぎるほど不正確に発音すると、
口火用の筋状に巻いた火薬に火をつけたように、
若い娘たちの間から笑いがはじける。

そこからわれわれは弁天の社へ赴く。
薫香、香水、何千という奉納物、大きな鐘から取るに足りない手芸品、
要するに清潔さを別にすればシナの寺塔と何一つ変わるところはない。

ああ、あのように不潔、下品なあの中国を離れて間もない今、
どんなに深い喜びの気持で日本への挨拶をすることであろうか。

ここでは物みな実に明るく、美しい色調をもって眼に映ずるのである。
何という対照であろう。
健康を害う沼のどろどろした汚泥から、こんこんと湧き出る泉の、
底の見える冷たい流れへ、死の平原から永遠の緑へ、
または石ころを投げ、熊手を振るってわれわれを殴り殺そうとした民衆から、
この地球上で最も温和で礼儀正しい住民へと転換するのである。

先へ行くと織物を売る女が、
店の畳に腰をおろすよう、にこやかな笑顔で招く。
これは彼女にとってたいへん名誉なことであるらしい。
その証拠にわれわれが近づくと平伏し、顔を畳にすりつけるのである。
急いで彼女はわれわれ三人に可愛い茶碗でお茶を出し、
パイプに詰める煙草を供する。

そして、うやうやしい手付きで細い小さな棒二本を使って、
火のついた木炭を差し出す。
庶民の一婦人のこの優雅さを、
動作の些細な点に至るまでのすべてを描き出すことは、
わたしにはとてもできないであろう。
彼女の顔立ちには表情があり、にじみでるごく自然な女らしい愛嬌があった。

この場合と限らず、どんな家でも人が訪ねて来れば、
同じような敬意のしるしに出会うであろう。
これにはわれわれはびっくり仰天し、感心し、
われわれを野蛮人扱いする権利をこの民族に心底から認める。

路上で殴りあいも口論も見かけなかったし、誰彼となく互いに挨拶を交わし、
深々と身をかがめながら口もとにほほえみを絶やさない。
われわれが努めて愛想よくする時でさえも、
この日本人たちに較べれば態度がぎこちなく、
彼らにはそのつもりがなくても愛嬌がある。

■4月24日

わたしは、日本人以上に自然の美について敏感な国民を知らない。
田舎ではちょっと眺めの美しいところがあればどこでも、
または、美しい木が一本あって気持のよい木陰のかくれ家が
旅人を休息に誘うかに見えるところがあればそんなところにでも、
あるいは、草原を横切ってほとんど消えたような
小径の途中にさえも、茶屋は一軒ある。

われわれが馬からおりるとすぐに、ニ、三人の娘がやさしく愛らしく
お茶と飯を小さな碗に入れて持ってくる。
老婦人が火鉢と煙草をすすめる。
他の小径を通ってやって来た日本人の旅人も、
われわれと同じように歩みをとめる。

彼らはわれわれに話かけるが、
たいそう愛想のよいことをいっているに相違ない。
当方としては彼らの美しい国をどんなに愛しているかを
伝えられないことが残念であった。

しかし、古くから馴染んで日本人同然のランドウ氏は、
彼らの丁寧に語ることをすべて通訳し、われわれの礼儀正さを彼らに伝える。

それから一同は再び出発し、湾の奥深い所に見える遠い村まで下りてゆく。
そこでは、これはどの道を通る場合も同じだが、
その住民すべての丁重さと愛想のよさに
どんなに驚かされたか、話すことは難しい。
「アナタ、オハイオ」(ボンジュール、サリュ)、
馬をとばして通り過ぎるわれわれを見送って、
茶屋の娘たちは笑顔いっぱいに叫んだ。

思うに、外国人が田舎の住民によってどのように受け入れられ、
歓迎され、大事にされるかを見るためには、日本へ来てみなければならない。
地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ。
そして、こうも違うわが母国の方へ思いを移すとき、悲しくなる。
―――――――
楽しかった日本滞在は、ここにこうしてついに終わった。
植物が大地にうっそうと生い茂った自然と、
その住民が生来持っている親切な心とは、
時がたつにつれてますますわれわれを喜ばせた。

わたしの思い違いであればよいのだが、
当地へ恐ろしい紛争(国内の対立)を持ち込んだのは西洋人で、
この国のすべての階級をそそのかしている根深い革命も、
大部分はわれわれの仕業であるとわたしは率直に信じている。

約30年前には、日本は、国家的階級制度を
ひとつの神聖な常態とした封建法の下に、
ひとりで生き、栄えて幸せであったことを考えてもらいたい。

今日警戒の叫びは、
かまびすしくこの全土にひろがって、上を下への騒ぎである。
西洋文明の名にかけて、革命は日本の門戸に迫る。
それが急激であればあるだけ一段と恐ろしい衝撃を戸口で支えるために、
中世とわれわれの世紀というこの上もなく相反する二つの基礎的原理が、
何ら過渡的段階を経ることなしに、まさに相闘おうとしているのである。

シナについては、西洋は反道徳的で不名誉な阿片の戦いに
初名乗りを上げたのであるが、
さらにもう一度、イギリスのいいなりになって、
平和な国民の中に不和の種を蒔かねばならぬ羽目に陥った。

海の女王の商船にと同様、労働する人口にも、
新しい必要な食糧を供給しなければならなかったが、
それも、マンチェスターの汽缶がいつも煙をあげ、
なおいっそう煙をあげるのを見るためであり、
それ自身で自足している一民族に、
われわれの生産物を強制的に買わせるためであったのである。

従って日本を無理やり登場させ、われわれの意志を法となして通商を強制し、
一民族に向って、
「われらこそは最も強きもの、われらの世紀においては人間社会の一部が
孤立して立て籠もることは許さぬ。
われらはお前らに友好を強いにやって来たのである」
といわなければならなかったのである。

1842年、シナにおけるイギリスの戦闘と阿片戦争の噂が
にわかに伝わってきて、平穏な日本を不安に陥れた。
日本は孤立して生きることしか望まず、そこでは神聖な掟が外国人に
近づくことをひとつのけがれとして禁じているのであった。

日本人が、シナの屈辱、ヨーロッパの武器、船舶の驚くべき力、
そして最後に南京条約について知るや否や、大君の顧問の一部は、
これらの出来事の中に、この国に対する脅迫と警告とを同時に見てとった。

そこから「外国党」と呼ばれたものが生まれ、
また信仰的「国家的」党は熱狂的に抵抗したのである。

前者は、異邦人たちはシナだけでは満足しないであろう、
日本の門戸を強圧的に叩きにやって来るであろうと予見し、
その先例はすでに1644年のポルトガル、1674年のイギリス、1805年のロシア、
最後に1844年のオランダにあるとし、彼らを迎え入れる、
あるいはむしろ友としてこれを受け入れるべきであるとし、
そのためには禁令を改めるよう忠告した。

後者はそれと反対に、シナ人は意気地なしで腰抜けであった。
外国人は砲撃をもって迎えるべきであったと、狂信的態度で叫んだのである。

サイは投げられた。
不幸なこの国は、相反する二つの徒党に分かれ、数年の間、
それぞれの徒党の首領は決闘に暗殺をかさねて、
われわれがその沿岸に出現する時の下準備をしなければならなかった。

大名、大君、ミカドのあいだの国内的紛争の外で、
ロシアとアメリカ合衆国の策謀により、
日本の将来の独立が脅かされることはないか。

この二強国中第一の国は、極東においてある政策に専念し、
すでに多くの成功をかちとったが、
もしシナと日本とが力をひとつに合わせてそれを妨げないならば、
その政策は彼にさらに重要な成功を確実にするのである。

日本におけるツァーの代理人は、江戸には決して駐在せず、
ヨーロッパ人の同僚とはもっぱら別行動をとるかに見える。

おまけに保護すべき商業上の利益もわずかしか持たないので、
彼はその影響力を弱めるような多くの衝突を回避し、
政治的目的ひとつにその力を蓄えておく。
その目的とは、
日本の北方領土を蚕食しながらロシアの属領を拡大することである。

サン・ペテルスブールの政府は、
このようにしてサハリン島の最大部分を占領するにいたった。
もしイギリス艦隊が好機を逸することなく、
はっきりと意味を示した牽制運動をおこなわなかったならば、
同政府はいまごろは全島を占領していることであろう。

しかし、このような紛争は容易に予想し得るので、
ロシアは、極東における自己の属領の境界を
さらに押し広げるための都合のよい機会を、
間もなく再び見出すものと当然考えてよいのではあるまいか。

そのため、ロシアはアメリカ合衆国の援助を受け、
これと緊密な同盟を結んだようである。
ロシアは自分のため、年間を通じて開かれた港を確保すべく、
日本の北辺において何とかして領土の併合を実現とようと試みるであろうが、
合衆国はこれを承認するものとわたしは確信している。

ひとつの地域から、このような危険がすべて遠ざけられることを祈る。
そこには実に多くの幸福の種があり、
われわれにはそれを飛躍的に発展させるよう努力する義務があるのだ。
西洋の列強とは利害関係のない活動によって助長された知能と生産力が、
日本の太陽の下で自分にふさわしい立場を獲得することを祈る。

その時、無為徒食、崩壊寸前のサムライ階級は小さくなり、
姿を消して終わるであろう。

その時こそ日本は、わが身を包む産着を引き裂き、
近代文明の舞台に登場すべく、すべての帆を張って、
中世の封建制から脱出してゆくであろう。

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