正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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長崎海軍伝習所の日々

『長崎海軍伝習所の日々』ファン・カッテンディーケ著
オランダからの第二次海軍教育班として来日し、1857年9月、長崎に到着。

―――――――

■海軍伝習所創設の経緯

日本の政治は、嘉永六年(1853年)ころから従来にない動揺を示した。
安政の初め、徳川幕府は四囲の情勢から、
200年堅持した鎖国政策を持続することが不可能になったと観念して、
にわかに開国政策に転ずる腹を決め、さしあたり幕府が最も憂慮する、
欧米諸勢力の我が国安全に対する脅威に
対抗できる近代的欧式海軍を創設することにした。

そしてこの旨を、時の長崎オランダ商館長ドンケル・クルチウスに
内密に告げて、オランダ政府からこの計画の実現のための協力、
並びに軍艦の建造または購入の斡旋について、
何分の意向を確かめるよう手続きをとってもらいたいと申し入れた。

それに対しオランダ政府は、近年衰微の一途をたどりつつあった対日貿易の
促進と政治的理由から、幕府の要求に応ずる方針を決め、
幕府が欧式海軍を創設せんとするならば、
先ず幕府はオランダより教師を招聘して、日本青年に近代科学の知識を授け、
艦船の操縦術を習得さすことが必要であることを告げ、

また軍艦の建造・購入の件については、
当時ヨーロッパの政局極めて不穏なる状態にある折柄、
幕府の希望に副うことは頗る困難ではあるが、
政局安定の暁にはまた改めて考慮すると回答した。

この結果、幕府は長崎に海軍伝習所を設けて、
そこに旗本だけでなく、諸藩の青年にも入所を許し、
オランダ人教師から近代科学並びに海軍に関する教育を受けさすこととして、
オランダより海軍教育班を招聘したが、
そのオランダ教育班は二次にわたって来朝した。

その第二次教育班長であったのが、この『滞日日記抄』の著者、
オランダ海軍二等尉官リッダー・ホイセン・ファン・カッテンディーケ
であった。

これより先オランダ政府は、
軍艦の建造または購入の斡旋方につき幕府より依頼を受けたが、
前述の通りヨーロッパ政局の不安を理由に謝絶したので、
幕府は改めて東印度ジャヴァの造船所に注文することにした。

これを知ったオランダ政府は、
幕府がさほどまでに軍艦を欲しがっているならば、
それをむげに放置することはできないとして、
終に2隻をオランダにおいて建造することを引受けたが、
その中の1隻のヤパン号(のちの咸臨丸)が
安政四年(1857年)3月竣工したので、それを日本へ回航することになった。

そしてこれを機会に駐日オランダ海軍教育班の交替を行うことにして、
このファン・カッテンディーケを班長とする第二次教育班を編成し、
これをヤパン号に乗り込まして日本へ回航する任に当たらした。

当時西洋科学に触れる機会が少なかった我が国青年を、或は講義に、
或は実地訓練に、熱心に指導して西洋科学の基礎知識を授け、
やがてその生徒らは科学・技術・産業・軍事等あらゆる方面において、
指導的地位を占め、遂に世界の人々をして目を瞠らせる程の
長足の進歩を遂げしめて、我が国文化の偉大なる先達者となった。

かくの如く日本人固有の英知と才能をよく見出して、
これを独り日本人にのみならず、世界人類の福祉増進のために
役立たしむべく練磨してくれたファン・カッテンディーケの功績は、
我が国民が決して見落としてはならないところであろう。

天保の末期1840年ころイギリス・フランスは、
あたかも支那と阿片戦争に没頭していたため、
未だ十分その猿臀を我が国にまで伸ばすいとまがなかった。

ロシアはそれより先に黒龍江地方に接する千島・樺太を蚕食しようと策謀し、
アメリカはその捕鯨船が出漁区域を拡大して、
漸次日本の近海にまで乗り出して来るに及んで、
我が国との間に屡々面倒な問題を惹き起こした。

そこで早く日本と修交条約を結んで、
問題が発生すれば直ちに日本政府と交渉に入り、
迅速かつ直接に解決の途を求めようとした。

一方これら諸国は、もし我が国が依然として鎖国政策に拘泥し、
彼らの交易を許されたいとの要求を斥けるならば、
武力に訴えても素志を貫徹しようという程の険悪な気構えを示していた。

そこでこの容易ならぬ情勢を知るオランダは、
長い間親交を続けて来た信義上から、逸早くこれを日本に通報して、
差し迫っている国難を未然に防止させようとした。

しかし新勢力圏の獲得に目の眩んだ連中は、
もはや日本の政策など問うところに非ずと言った気構えで、
しゃにむに鎖国の厳門を破って闖入を企てた。

かくの如く、文化年度の頃より頻りに我が辺海に出没する
欧米人の傍若無人の振舞は、幕府の自尊心を傷つけること甚だしかった。
さらばといって施す術もなく、
ただ呆然として彼らの暴状に目を瞠るに過ぎなかった。
この状態はやがて、内政面に大きな波紋を捲き起こさずには済ませなかった。

■咸臨丸の回航

オランダから贈呈された観光丸
オランダから贈呈された観光丸

1856(安政三)年私は勅命によって殖民大臣付きに補せられ、
日本の将軍のためにキンデルダイク造船所にて建造せられた
百馬力の蒸気船ヤパン(咸臨丸)をその目的地に回航し、
同時に私と同行する人員の一部をもって、さきに1855(安政二)年より
57年までペルス・ライケン中佐指揮の下に、
日本において航海学およびその他の科学の教育を
担当せしめられていた海軍派遣隊と交代すべき命令を受けた。

今ここに何故オランダが、日本に派遣隊を送ったかの理由につき、
一言述べることは、あながち無駄ではあるまい。
日本政府は、オランダ国王ヴィルレム3世が
折角与え給いし忠告も容れなかった。

しかし我が国は常に、日本がヨーロッパ国民を
もっと寛大に取り扱う制度を設けるよう慫慂してきた。
そうして今度こそは前よりも、もっと成功の見込みがついて、
再び提案を出しうる時機の到来を狙っていたのである。

また両国の古い友好関係からしても、
強制的手段に訴えるということは、許さるべきではなかろう。

かくて我々の望みを達する方法としては、
幕府に風説書
(長崎の商館長がその義務として、オランダ船入港のつど入手した海外情報を
長崎奉行を通じて幕府に提出したもの)の提出を拒否し、
また場合によっては、出島を引き揚げるより以外に、途はなかった。

しかし幕府の遅疑逡巡の態度は、むしろ憫むべきで、
我から相談を断るということは、一般の利害にももとり、
また出島の商館を引き払うということも、時すでに遅い。

オランダは及ぶかぎり幕府の期待を裏切らないようにして、
その日本における勢力を維持しなければならない。
かくてオランダは、あらゆる科学的進歩の誘導者となり、
また海軍派遣隊までも付けて蒸気船スームビング(観光丸)を日本に贈呈し、
科学的進歩のために助力しなければならなかったのである。

最初はこれほど尽くしても、
おそらく日本を正しい道に導くことはできないだろうと思っていたが、
結果は予想を遥かに越えて、
江戸の保守派は、未だ勢力を失墜していなかったにもかかわらず、
日本人のヨーロッパに対する考え方がガラリと大転換をしたことは、
見のがし得なかった。

土地の人々は、船の入港の光景を久しく見なかったところに、
船から暗闇の中で二発の砲を放ち、到着を知らしたものだから、
忽ち市民の間に大騒ぎを起した。

私がこれを敢えてしたのは、つまりは夜中には何事も起こらないと
安心しきった気持でいるお人好しの日本人の夢を、
多少とも醒まさせようとの考えからであった。

当時の長崎港風景
当時の長崎港風景

見る見るうちに、周囲の山の上に一面に火が点けられたが、
それは実に見惚れるばかりの美しい光景であった。

それから程なく、
私は大勢の供の者を引率した二人の武士の訪問を受けたが、
これらの武士は、私にいろいろうるさいほどの質問、例えば
「あなたは妻帯しているか、そうして子供は何人あるか」
などといった質問までもするので、
遂に私はもうよい加減に止めて貰いたいと断ると、
彼らはこれが日本の掟なのだからと弁解する。

問答表の質問事項に全部答え終わって、
私はこれで掟の要求は皆満たしたし用事は済んだはずだと思うがと言うと、
今度は自分らの時計と、私の時計とを比べてみたうえで、
やっと休息することを許した。

翌朝暁の空が次第に明け渡るにつれて、絵を見るような光景が展開した。
長崎湾は伊王島のあたりから奥へ大きくタライ形をなし、
その周りは殆ど残らず急峻な山で取り囲まれて、
その山々は、水際から頂上まで、家やお寺や或は砲台が立ち並び、
一面に目醒めるばかりの青々とした樹木や垣根
あるいは小さな畠に取り囲まれている。

この畠は、また山の畝の田と同様に梯子段式に
人間の手によって作られている。

誰でも海旅の後にはちょっとした事にも感嘆し易いものであるが、
そうした気持以外に、実際長崎入港の際、
眼前に展開する景色ほど美しいものは、
またとこの世にあるまいと断言しても、あながち褒め過ぎではあるまい。

朝早く私は入港の許可を得て、
いよいよ出島の船着場に向かい、進航を始めた。
自分の肚には、出島とはどんな所か、
また我々を待ち受けている日本の人たちはどんな人々か、
我々の2ヵ年の日本滞在を愉快に過ごさすも、また不愉快に送らすも、
皆その人々の態度一つにかかっているのだから、
早くその人たちに会ってみたいという気持があったのだ。

岸辺を見渡すと沢山の人が出ているようだ、
港内には4隻のオランダ船と多数の日本小舟が羅集しているほかに、
ロシア船のアメリカ号がいるのを見受けた。
同船にはロシア海軍提督プチャーチン伯爵閣下が搭乗していた。

先ずバタヴィアからの主なるニュースを伝えてから、持参した手紙を渡した。
私は皆が手紙を読んでいる間に、出島の検分や、日本人との面会、
またオランダ人が教育を施している場所の視察などをした。

奉行屋敷の庭に、製帆所とフレガット船の船具が置いてあって、
そこで生徒は実地の訓練を受け、建物の内で学科を受ける。

この建物は夏季の教場としては誂え向きだが、
冬季には殆ど寒さに耐えられなかった。

蓋しその教場というのが、
ただ薄い紙を張った障子で室内の空気を温めるだけで、
ほかに何らの暖房装置も無かったからだ。

概して私の見たものはすべて気に入った。
そうして先に来ていろいろの経験をした人々も
皆善いことばかり話して聞かすので、
ここで2年を過ごすのだと思っても少しも嫌気がささなかった。

当時の長崎の町
当時の長崎の町

1855年(安政二)にオランダ国王ヴィルレム3世陛下は、
将軍に1隻の蒸気船を献上された。

その時、同時にその船を用いて日本人を教育するために、
将校機関部員および水兵をもって組織された一派遣隊をも付け給うた。
日本人は欣んでその国王の思召しを受けるとともに、
感激のあまり同派遣隊所属の人々には、
200年来厳守された規則をなげうって、
自由に長崎市の内外を往来しうることすらも許可したのである。

これら士官および部下たちは日本に雇われているのではなくて、
蘭領東インド派遣のオランダ艦隊に属し、
給料はオランダ政府から支給されたのである。

その指揮官は、日本人に航海学の教育を授ける任務を帯びていた。
将軍はこれら派遣隊の出島滞在に要する費用に対し、
金銭的補償も与えないで派遣隊をただで使うこと欲しなかった。

そこで一定の手当を支給したが、
なおこの他にもいろいろの恩賞があったから、
両者を合すればかなり莫大な額に上ったといえるだろう。

私は日本人が常に我々に対し、及ぶ限りの優しみをもって接し、
未だかつて何事も私に相談することなしに、
勝手に行ったことなどなかったことを認めねばならぬ。

ヨーロッパでは日本および日本人に対し先入主を持っているが、
それもあながち無理もない。
例えばキリスト教徒に対する残虐な掃滅、
2世紀以上も頑迷に固守された鎖国、オランダ人の出島幽閉――
これは何れの著書も憤激に満たされている――のごとき事実は、
ヨーロッパ人をして日本人に良い感じを持たしめない理由である。

しかし、日本人の外国人取扱いを非難する者は先ず1848年に出版された
フォルブスの著『支那滞在の五ヵ年』を一読するがよかろう。
その一節に次のようなことが書いてある。

「イギリス人は広東で、自宅に檻禁されているも同然である。
散歩しようとて散歩する町が殆どない。
たまたま町に出れば侮辱されるに定まっている。いや自宅においてすら、
狂暴な民衆を防ぐに安全を感じられないことを経験した。些細な原因でも、
きっと激昂の酬いが憐れな外国人の頭上に下され、
自分の家が損害賠償を受ける微塵の望みもなくして
民衆にブチ毀されていくのを見ていなければならない」

これによっても我々の隣国人たるイギリス人が、
ただ将来の飛躍を望むばかりに、つい最近まで、
広東でどれほど酷い目に遭うのを隠忍したかをよく知ることができる。

これに反して、日本にいるオランダ人は、密貿易を行ったり
国法を犯したりする者に当然与えられるべき処分とか威嚇をも、
侮辱というならば論外だが、さもなき限り、
未だかつて我々は日本人から侮辱された例はない。

その日本の外国人取扱いをかれこれと非難するのは、
いったい正しいか否かと、むしろ反問したいくらいだ。

それどころかオランダ人は、往昔より幕府の手厚い保護を受け、
奉行は幕府から彼らの安全を護る責任を負わされていた。
これが時に厄介と思われるような規則にも
服さなければならぬ結果を伴った次第である。

我々と日本人との間を隔てた堅氷が融け、
我々が打ち解けた態度で日本の士官や生徒たちと交際を始め、
そうして信頼を受けているという心証を握ってから、
我々はますますこの国民の善良なる側面を知ることができた。

そうしてこの印象はひとり我々の側のみでなく
相互的であったと言っても差支えないと信じている。

私は一般に日本国民は辛抱強い国民であると信じている。
彼らはお寺詣りをするのが務めであると考えており、
我々がお寺に詣ることも非常に喜ぶ。

彼らの年長者に対する尊敬心および諸般の掟を誠実に遵守する心がけなど、
すべて宗教が日本人に教え込んだ性質であり、
また慈悲心が強く惨虐を忌み嫌うのは日本人の個性かとさえ思われる。

長崎にはお寺の数が60、まだその外に小さな御堂は数知れない。
また僧侶および役僧の数は700を超える。
こんなに沢山の徒食者やお寺を守り立てていくことは、
住民僅か6万の長崎にとっては実に容易ならぬ負担であるに違いない。

まだその上に、乞食は皆家々で一文、
あるいは金がなければ一掴みのお米を恵まれる。
この乞食の商売は女もやっている。

私はこうも考える、すなわち日本にはあまり貧乏人がいないのと、
また日本人の性質として慈善資金の募集に掛るまでに、
既に助けの手が伸ばされるので、それで当局は
貧民階級の救助にはあまり心を配っていないのではなかろうかと。

日本では婦人は、他の東洋諸国と違って一般に非常に丁寧に扱われ、
女性の当然受くべき名誉を与えられている。

もっとも婦人は、
社会的にはヨーロッパの婦人のように余りでしゃばらない。
そうして男よりも一段へり下った立場に甘んじ、
夫婦連れの時でさえ我々がヨーロッパで見馴れているような
あの調子で振舞うようなことは決してない。

しかし、そうだといって、決して婦人は軽蔑されているのではない。
私は日本美人の礼賛者という訳ではないが、彼女らの涼しい目、美しい歯、
粗いが房々とした黒髪を綺麗に結った姿のあでやかさを、
誰が否定できようか。

女は下層階級の者でも一般に淑やかで、
その動作は外国人と付き合う場合の態度でも、すこぶる優雅である。
彼女たちは、ヨーロッパ人が女に気をくばる親切さを非常に喜ぶ、
その長崎婦人の何気ない浮気をば、
夫がカンカンになって怒っている光景を私はしばしば目撃した。

これから間もなく私は蒸気船にて航海をなすことを定義し、
3月30日海軍伝習所長、大目付木村様および艦長役勝麟太郎らとともに
生徒16名、水夫50名を引き連れて乗船した。

良い天気に恵まれて愉快に五島に向け航海したが、
ここでは夜は五島に属する一島の樺島の西岸にある或る港に投錨した。

幕府の肚はその威光を付近の島々に輝かすために
蒸気船咸臨丸を使用したかったらしい。

我々の船は狭い五島の海峡をば、
しかも水夫たちのいろいろの指示を受けながら、幸いにも無事通過した。
強い潮流がその海峡を東に流れている。

それ故、船は進むのに非常な困難を覚えた。
機関部員は監督のオランダ将校1名のほかは全部日本人ばかりであったが、
この難航を立派に切り抜けた。

私は最初、彼らがとても24時間も力一杯
蒸気を焚き続け得ようとは予想しなかった。
私はこの旅行で大いに得るところがあった。
また生徒らも、この航海によって船を動かすことの
いかに難しいものであるかを実地に覚えた点において、
非常に役立ったと思っている。

海軍伝習所長も大いに満足して、
幾度も繰り返し私に感謝の辞を述べていた。

そうして復活祭の第一日には沢山の鶏卵、
四頭の豚、魚、野菜、蜜柑などの贈り物を届けてくれた。
彼は私に、こうした航海は今後も繰り返しやって貰いたい。
また鹿児島、平戸、下関へも行くようにしたいと言っていた。
私はむろん喜んでそれを承諾した。

江戸はほとんど毎年、地震、
火事または流行病など、何かの災厄に見舞われる。

1858年(安政五)は大火の年で、
4月には江戸で長崎全市ほどの広い町が灰燼に帰した。
このことは艦長役の勝氏が夫人から受取った音信によって
私に語って知らせたのであるが、
勝氏の全財産はその大火のために失われたとのことである。

それだのに勝氏は笑いながら
「いや、それしきのこと、何でもござらぬ、
1856年の折はもっと凄うござった」と平気で付言していた。
実際、この世の事はすべてが比較的である。

4月15日、港内を帆走していた11人乗りのスループが顚覆したのを見たとき、
容易ならぬ椿事に見舞われたと思ったが、
舵手のデ・ラッペル君の機転によって何の不祥事もなくて済んだ。

飽浦に作られた工場
飽浦に作られた工場

春の心地よい天気は、
またもや汽船で旅行をしてみたいような気持を起させた。
今度は平戸と下関を訪れることにした。

海軍伝習所長は今度は同行しないことに決め、
その職権を勝麟太郎氏に委ね、2人の目付役を付けた。
私は同所長が同行しないことに不平を抱こうとはしなかった。
いやむしろ我々すべては彼のそうした決定を喜んだ。

大目付役は、どうもオランダ人には目の上の瘤であった。
おまけに海軍伝習所長はオランダ語を一語も解しなかった。
それに引き替え艦長役の勝氏はオランダ語をよく解し、
性質もいたって穏やかで、明朗で親切でもあったから、
皆同氏に非常な信頼を寄せていた。

それ故、どのような難問題でも
彼が中に入ってくれればオランダ人も納得した。

しかし私をして言わしめれば、彼は万事すこぶる怜悧であって、
どんな具合にあしらえば我々を最も満足させ得るかを
直ぐ見抜いてしまったのである。
すなわち我々のお人好しを煽て上げるという方法を発見したのである。

江戸奉行の息、伊沢謹吾氏も艦長役の一人であったが、
彼もまた旗本出の生徒十六名を率いて乗船し、
さらにオランダ士官も乗り込んだ。

元来このような窮屈な旅行には、えてして悶着が起こり易いのであるが、
12日間も続いた航海中一度も気持を悪くするようなことは起らなかった。

生徒は皆々名家の子弟であるにかかわらず、
彼らは常に賎しい水夫のごとく立ち働き、
また船室は全部これをオランダ士官に提供するは勿論、
すべての点において教官に対し礼儀を失わなかった。

我々はこれらの人々と同船して、実に愉快な日を送った。
皆々快活で日本語とオランダ語のチャンポンで、
面白い会話を交わしたりなどした。

一部の者はオランダ語を非常によく解し、
練習のためお互い同士、オランダ語だけで話していた。
私はこの航海によって如何に日本人が航海術に
熟達したがっているかを知って驚いた。

ヨーロッパでは王侯といえども、
海軍士官となり艦上生活の不自由を忍ぶということは
決して珍しいことではないが、
日本人、例えば榎本釜次郎のごとき、
その先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、
2年来一介の火夫、鍛冶工および期間部員として
働いているというがごときは、
まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。

これは何よりもこの純真にして快活なる青年を一見すればすぐに判る。
彼が企画的な人物であることは、
彼が北緯59度の地点まで北の旅行をした時に実証した。ま

た機関将校の肥田浜五郎氏
(1830~1889。咸臨丸の蒸気方士官。幕府が石川島で千代田型を造ったとき、
その六十馬力蒸気機関を製作した。明治十五年海軍機関総監)
も特筆さるべき資格がある。
オランダや他のヨーロッパ諸国では、とても望まれないようなこと、
すなわち機関将校がまた甲板士官でもあって、
甲板士官の代役を勤め得るというようなことが、
日本では普通に行われるのである。

4月21日我々は平戸に向って出帆した。
話に聞けば、平戸にはかつて我々の祖先が住んだという家の遺跡が
今なお残っているとのことであるから、
私はかねがね一度この地を見たいと熱望していたのである。

我々の船が平戸の町の前に着いた時、
沢山の船が田助村の小さな港に入っていると聞いたので、
我々の船もそこに錨を卸して田助村を見物に出かけた。

そこには妙な人間がいて、我々の行く所へはどこへでも随いてくる。
そうして何か驚いたような風をしていた。
2009/04/08 09:00|年表リンク用資料
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