正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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●『横浜ものがたり』 セオダテ・ジョフリー著
本名ドロシー・ガッドフリー・ウェイマン(1893~1975)。
1919年(大正8年)6月から1922年(大正11年)夏まで、
大正時代の横浜に住んだアメリカ夫人。

ドロシー
横浜ものがたり_ドロシー

■日本人の公園でのマナー

ウスイ(お抱えの人力車夫)と私は一年中花々を追って歩いた。

ドロシーとウスイ
横浜ものがたり_ウスイとドロシー

桜の花見で私が次に好んだところは、私達の本牧の家に程近い三之谷である。
この公園はかつて日本のある紳士が所有していたが、海岸に面し、
急な白い崖と高い山に囲まれた何万坪かの庭園は一般公衆に開放された。

低地には大きな池があって、
夏になると見事なピンクと白の蓮の花が茶碗のように空に向って咲き開いた。

泉水にはコイ金魚が泳ぎ、水面には茶色の鴨が浮かぶ。
入口で観覧客は糸につなげられた白いお麩を買う。
鴨の住処の小島と池をつなぐ丸木橋の上から麩を投げると、
最初の一片が水面につくや否や水中に変動が起こる。
大きく尾をひるがえして輝くばかりの金魚[錦鯉]と
軍艦色の鯉が無数に姿を現す。

見物人がよく食べさせるのだろう彼らは怪物の様に大きく太っている。
想像できますか、3フィートもあってアナコンダのように太った金魚を!

樹々の間に輝く朱塗りの鳥居の連なっている境内は聖域を意味する。
曲がりくねった険しい山道を登ると英雄を祀った小さな社があった。
その社はほんの3フィートの巾しかない白木の社で、
尖った屋根の下の木の棚の間から英雄の名の書かれた碑が見えた。

私がここを訪ねた時はいつも必ず2、3人の信者が手を打ち、
手を合わせて祈っている姿を見かけない事はなかった。
祈祷者には男も女もいたが、ことによく見かけたのは軍服姿の兵隊である。
カーキ色の軍服をつけ、
脇の下に軍帽を挟み直立して坊主頭を下げる姿であった。

ある日、私は同国人(アメリカ人)の行為を
本当に恥ずかしいと思った事があった。
その時祈願を捧げている2人の兵隊の邪魔にならないように
社の後ろに座ったのだが、その灰色の木に痛々しくもペンナイフで
「ハロー、フリスコ(サンフランシスコ)J.H.S.1915」
と堀り刻まれているではないか。

なんと言う無意味ないたずら。
もし日本人がアメリカで私達の教会に
この様な傷をつけたら何が起こるであろうか。

日本人が他人の持ち物を尊重することにかけて
アメリカ人は学ぶべきところが多い。

百万長者の原氏は庭園を開放したあと
その一部に高い樹々に囲まれた私邸に住んでいた。
ごく小さな表札が門にかかって庭園の観賞は自由だが、
それ以上は立ち入らないようにと書かれていた。

庭園のほぼ中央には寒い風よけの藁葺屋根の東屋があり、
その炉端にはいつも火がくべられてベース・ドラムくらいの
大きさの鋳物の湯気を出す薬缶が吊るされていた。
ベンチが土間に並べられ、
火のそばの大きな籠には茶碗がいっぱい入っていた。
見物人たちは自由にベンチに座って持ってきたピクニック弁当を楽しみ、
好きなだけ熱いムギチャを頂戴することができた。

ハラサンの庭師はいつも薬缶を
一杯にしておくように言いつけられていたのである。
私が見た一場面を紹介して
我々のアメリカの公園の情景と比べていただきたい。

セントラル・パークやボストン・カマンの月曜の朝の飛び散る新聞紙、
アイスクリームのコーン、ピーナッツの皮、ランチ・ボックス、紙ナプキン、
「芝生に入るな」の立札。

制服のお巡りさん達は一生懸命秩序と外見を保とうとする。
私達の”表通り”にある消火栓のふたが必要に迫られて
頑丈な鉄鎖でしばりつけられているのを覚えていますか。
我々の林の中のピクニック場には宴のあと
空き缶やら壊れた壜やらのゴミが散乱している。

それから日本の三之谷の風景を読んでいただきたい。
東屋は大木の繁る険しい崖のふもとにあった。
一枚の花崗岩の切石が橋になって、
その下を小さなせせらぎが池に流れ込んでいた。
池面に広がる象の耳のような睡蓮の葉、
麩を追って泳ぎ回る鯉に触れると葉がゆれ動く。

鮮やかな着物を着た日本の子供達の投げる真っ白な麩をもらいに
真っ黒な鯉が集まってくる。歌麿の浮世絵を思い出させる景色である。

桜の栄光は、よく詩に唱われるように白い花びらと共に散り去ってしまった。
その後はかすかな霧のように蒼い新芽を吹き出しつつ
池の端に立ち並んでいる。

美しいライラック、朱色の旗のように躑躅(つつじ)の花が
山の斜面に投げかけられてくる。
やがて水端は紫の菖蒲に縁取られ、
藤棚に薄紫の藤の花房が咲きこぼれ藤色と紫の合唱となる。

日本は5月である。
日本人の一かたまりが下駄音も高く
せせらぎにかかる石の上を歩いて東屋に向って行った。
それは15日、労務者の休日であった。
父親は老母と妻と四人の子供を公園に散歩に連れて来たのであった。

子供達は目を丸くして私を見入っていた。
オバアサンはさすがに年の功で落ち着いて、
「今日は、ごめん下さい」と挨拶をした。

彼らは竹の節を利用した柄杓で薬缶からお茶を汲み、
取っ手のない湯呑茶碗に移す。
オバアサンは母親の背でむずかる子をあやし、
塩辛いお煎餅を与えて黙らせた。

彼らは下駄を脱いでベンチに座り、
お茶を飲みながら回りの景色を賞でていた。
父親は煙草入れを取り出して三服ほどふかす。

子供達はそれぞれ蛇口の水でお茶碗を洗うともとの籠の中に収めた。
やがて彼らは鼻緒の中に足指を入れるとみんな揃って帰って行った。

そう、ここに公園がある。
恐らく200人くらいの日本の家族達が毎日訪れるであろう。

しかしここでは紙くずの一片も道端で見かける事はないし
花の一枝を折っていく者もいない。
東屋は自由にお茶を提供し、籠に盛られた200個もあるであろう茶碗の中に
ただ一つも汚れたり、欠けた茶碗は見られない。
もとより袂に隠して持ち帰るなどとは思いつくべくもない。 

庭師が時々掃除しているのを見かけたことはあるが、
東屋の使用人も樹立を巡回する警備員も監視人も居ないのである。
日本人は公共の庭園を自分個人の庭のように注意を払う。
世界でこれだけの誇りを持った民族に
出会うにはかなり広く旅せねばならないであろう。

本牧の家で息子たちとドロシー
横浜ものがたり_本牧の家で息子たちとドロシー

■契約万能に侵される日本

日本に着いてから初めての夏、私は山手の家を住みよくするため、
ウスイ(専属の人力車夫)と一緒に随分店屋を回ったものだった。
そうした或る日、弁天通りの陶器屋のウィンドーで美しい花瓶を見つけ、
そこの主人に同じデザインでディナー・セットを注文したいと聞いてみた。
「できますよ、オクサン。
でもこの絵付師から見積りをもらうことはできません」という返事であった。

古参者達からよく注意されていた私は、
注文を出す前にどうしても見積書を出すように主張した。
さんざんああだこうだと苛立たせたあと、
奇妙な発音通りのアルファベットで書いた見積りをよこした。

それによるとディナー・セットは90円、
3ヶ月後のでき上がりということであった。

その後間もなく、着物を着た小僧がよろよろと自転車に乗って
デザインのスケッチを6枚持ってきた。
いずれも日本の歴史的逸話を画いた美しい下絵であった。
鎧や衣裳の詳細は勿論のこと、
無造作な黒い髪の毛もよく見ると一本一本丁寧に画かれていた。

3ヶ月の待望期間が過ぎると、
私は喜び勇んでディナー・セットを受取りに陶器屋に赴いた。
その後週に2、3回は催促に行くようになったが、それがまた3ヶ月続いた。

店の主人が苦笑しながら言うことには「しかたがない」だけである。
そして巧みな商法で、良いセットができるまでと
私はもう一セットのディナー・セットを買わされてしまった。

漸くセットが我が家に運ばれた時、私の長い忍耐は充分に報いられた。
美術愛好家は晩餐の席で、
このような芸術品はものを食べるのに使うのはあまりに勿体無い、
美術館に属する傑作だと賞賛を惜しまなかった。
私は図らずも日本最高の芸術家の創作による
すばらしい食器の持主になってしまったことに気がついた。

この事は私を俄に欲張りにして、
絵師が生きているうちにもっと作品を手に入れようと思い立った。
陶器屋の店主はもう作品は望めないと言い張って、
どうしても注文は受け付けてくれなかったが絵師の住所は教えてくれた。

サイトー・ホードーの工房は、
テラスの農園を上った山の上の岩にこびりつくように建っていた。
彼の妻が入れてくれたお茶をいただきながら、
私は通訳を通じてどんなに彼の芸術を評価しているかを話し、
もっと蒐集を増やしたいと頼んだ。

ホードーは前かがみの小男で、
金縁眼鏡をかけた取り付きにくい人物であった。
彼は私の賞賛を冷たく聞き流し、追加注文は頑として引受けなかった。

すっかり失望し、訳もわからずしょんぼりと帰る途中、
私は通訳にホードーの態度の説明を求めた。

「ヒロセサン、どうしてホードーは仕事をしたくないのでしょう。
もう彼は金持ちになってこれ以上働きたくないのかしら。」
「ヒロセサン、説明して下さる?」

「はっきり言うのはつらいことです。
オクサンはお聞きになりたくないでしょう」

「お願いしますよ、ヒロセサン」

「それなら申し上げましょう。ホードーが貴女の為に仕事をしたくないのは、
貴女のことを芸術すべてを金で評価し金銭のやりとりだけにしか
興味がないと思い込んでしまったのです。
彼はそのような考え方に大変傷つけられて、
もうお金では片付けられない問題になってしまったのです」

私はヒロセサンから、
開港後に欧米諸国が貿易に関する契約とか見積りとか裁判時に効力を発揮する
”最終価格”などというものを持ち込む前には、
日本には伝統的な職人気質というものがあって、
その哲学がずっと守られてきたということを学んだ。

日本では労働と資本の駆け引きは考えられないことだった。
双方とも暗黙の紳士協定で結ばれ、
職人は労力と時間に厭目をつけずただ可能な限り技能の向上に励めばよい。
一方、注文主は作品が出来あがった時点で
金額についてどうこういうことはできない。

世間は、似合わない高額を請求する職人も
ケチな支払いぶりを見せる御前様も同様に許さない。

このエピソードを山手の食卓で語った時、
私の夜食の客人たちは皆私を物笑いの種にして座興にした。
それでも私はヒロセの語ってくれたことを信用した。

本牧の家はあまりに海辺に近いため、
庭の地面は粗い小石のようで容赦なく陽光を照り返して
熱気を一段と強くしていた。

私はダンナサン(夫チャールズ)に、
庭に何か緑を入れなければとても夏中我慢できそうにないと訴えた。
彼は早速、造園会社に連絡をつけて、
その近代的な会社は便箋に英語で社名の入った見積りを送ってきた。
金200円也。
ダンナサンはとんでもない、私達には緑の庭は望めないと断ってしまった。

私はゴミヤサンに相談を持ちかけたところ、
彼は喜んで私が作りましょうと引受けてくれた。
彼は直ちに約束を果たしにかかった。
60以上の年齢と本業ではない仕事にもかかわらず、
彼は2マイルほど先の土取り場に日に5、6回も往復して
2杯のバケツに黒土を入れて運んできた。

仕事は1ヶ月かかった。彼は台風や吹き寄せを避けるため、
垣根の内側にぐるりと黒土の床を盛った。
即ち150フィート×50フィートの敷地の内側に
3フィート巾で2フィートの厚みの黒土を運び込んだのである。

彼は北側に風よけの壁を作った際に余った煉瓦を使って
土が流されないように縁を作った。
そしてつるはしで土をほぐして木が植えられるようならした。

「もうできました、オクサン。」
と彼は誇らしげに言った。

「ほんとうにきれいによくできました。
ゴミヤサン。お勘定をしたいのですけど。」

「ほんとにつまらない仕事ですけど、下手な仕上げで恥ずかしいんですけど、
もしオクサンがこれでよろしいとおっしゃるんなら9円お願いします。」

1ヶ月もの労働がたった9円とは。
欧化された造園会社は全く同じ小庭の造形に100円要求した。

私は勝ち誇って、かつて私を笑い者にした人々に
この事件の次第を説明した。

当時の本牧
横浜ものがたり_当時の本牧

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●『明治日本体験記』 グリフィス著 原書1876年初版
ウイリアム・エリオット・グリフィスは、福井藩の招きで、
自然科学の教師として、明治維新直後の、1870年12月29日に27歳の時、
日本に着き、1874年7月25日までを日本で過ごしました。
―――――――
通訳の岩淵が福井からの五人の武士の到着を告げた。
アメリカ人を迎えに130マイルを旅してきたところであった。

襖が開くと、5人の頑丈な男が入ってきて、
こちら向きに前へならって一列に立った。
どんな儀式が始まるのかひそかに待ち受けた。

一瞬のうちに男たちは床の上に膝を折って座り、両手を伏せて、
そのままたっぷり15秒間、頭を下げていた。
それからパッと身を起して、羽織を広げて、はかまに手を入れて正座した。

次に代表が岩淵にものものしい書状を渡して読むように言った。
それは福井の大名からのもので、福井の政府筋の挨拶と福井まで
アメリカ人教師をお連れするよう述べてあった。

不意の客と予告してある客についての差別は、
旅館とその経営者に関していうと、高度な文明国と同様に日本にもある。

冬、日本の宿屋に突然入ると、冷蔵庫にいるほど身震ぶるいが生じ、
しびれをきらしてわびしく待つ間、グリーンランドのことを
思いやっていると、ようやく火と食事が運ばれ、体が暖まり気分が和らぐ。

けれども大津では、
馬を中庭に乗り入れると、赤々と燃える火が用意してあった。
靴と外套を脱ぐと、最上の部屋に案内された。
寝床には絹のふとんが重ねて敷いてあり、
部屋の真ん中にこたつがあったのが最高にうれしかった。

気の毒だが文明国の読者、西洋の未開人には、
こたつが何かわかりますか。わからなければ教えましょう。

部屋の真ん中のあの1フィート四方の畳をあげてみなさい。
そこに深さ数インチの石で内張りしたくぼみがある。
太った赤いほっぺたの女中が十能いっぱいの燃えている炭をそこに入れる。

その上から櫓を真似てその名をとった「やぐら」という
高さ1フィートの木の枠を置く。
さらにその上に大きなふとんを広げて掛ける。
それは即席のむろで、ふとんをまわりにかけて体を焼くのである。
なかに小さな熱の天国があって、
体のふるえをぽかぽかするぬくもりに変えてくれる。

日本が未開の国でひどい所だと信じている不平家を、
十分間で、この国は天国だと喜んで言明する熱狂的な人に変えるのが、
こたつであると断言してもさしつかえない。

正午、近江の国境を越えて越前の国に入り、
2時にその一画である福井藩の領地に入った。
「わが藩主」の支配下に入ったので、その証拠を見たいと思った。

その期待どおりであった。
村ごとに名主(村長)が晴着をつけて出てきて、歓迎の挨拶をした。
村から半マイルも前まで挨拶に出てくることもあった。
うやうやしく地面にひれふして歓迎をすると、
先頭に立って急ぎ足で村の中を外れまで案内し、
そこでひざまづいておじぎをし、「サヨナラ」を言って別れた。

昼2時間休んで昼食をした後、夕方ごろ敦賀に着いた。
町の役人が出迎えて、町一番の旅館へ案内してくれた。

8人の仲間はその晩いつもと違って陽気であった。
2人の芸者が歌、踊り、酒をふるまいに登場した。
数人の武士がいわゆる男だけの珍しい、たくましい踊りをした。

私の部屋には中国の阿片戦争を題材にした外国船、大砲、
戦術の生々しい絵のある日本語の本があった。
手垢がついてページのすみが折れているところから、
繰り返し読まれたことがわかる。

この本は阿片戦争後まもなく日本で発行されていて、
まさかの時の日本人の心の準備にされていた。
・・・略・・・
武生を出て山あいを福井へと向った。
2時間元気よく馬に乗って行くと福井が見えてきた。
見るのはただ黒っぽく広がる屋根の低い家、大きな寺院、
切妻、天守閣、竹薮、それに森であった。これが福井であった。

例によって役人が町境まで迎えに来た。
熱心に見たがる人でにぎわう通りを馬で行く。

まもなく橋を渡り川を越えると、急に止まって、
木の立ち並ぶ美しい庭の門を通り、
大きな古い立派な家の玄関先で馬をおりて中に入った。

絹物の晴着を着て、刀を差し、草履にちょんまげの数人の役人から会釈と、
今は慣れていないがたぶんうまくなると思われるような
不器用な心のこもった握手とで、迎えられた。

そしてこれから私が住むことになる家に入った。
日本式家屋で、アメリカ人が生活を豊かにするための
ものを入れて洋風化してあった。
障子や窓にはガラスが入れてあった。
ピークスキル・ストーブ(持ち運びできる石炭ストーブ)が
真赤にたいてあって、暖かく歓迎してくれた。
美しい寝台、洗面器台、上等の家具が置いてあった。

こんなものがどうして手に入ったか不思議であった。
しかしそれはすぐわかった。
一人の愉快な目の役人がたどたどしい英語で
「私ニューヨーク行きました。私わかります。あなた好きですか」
と言ったからで、私はすぐ相手の手をにぎって友人になった。
その後佐々木(権六)は私の右腕になった。

それから食事になった。
日本人にとってこの外国文明の人物は特に興味があった。
皿、ナイフ、フォーク、薬味瓶立て、
飾り皿の並んだ大きな食卓の椅子に座る。

ピカピカの料理道具を使ってスープ、魚、
野菜、肉の盛大な食事を経験する。
肉、ぶどう酒、甘美な菓子が味覚を満足させ、腹を満たす。

これらのことは外国文明のすぐれていることを
明らかに日本人に証明しているように思われた。

私の料理人が前日に福井に着いていたので、
一行8人は飲食物の品数の多い外国式食事についた。
役人が帰った後、トランクを開け、住居にアメリカの家庭の雰囲気を
出すために部屋飾りをしてその日を過ごした。

藩庁の大広間には藩主と重臣が私を待っていて、
中村が護衛をし、岩淵が同席して通訳をすることになっていた。
一行が乗った馬は大名屋敷前の大名通りと呼ぶ堀に面した広い通りを進んだ。

藩庁の正門に着いて馬を下りた。
小石を敷いた庭の広い石畳の道を通って行った。
戸口の前に大きな高い玄関がある。小姓がひざまづいて迎えてくれた。
また役人の一人が絹ずれの音をたてて迎えに出て来た。

靴を脱いで中に入った。
やわらかくて念の入った清潔な畳の廊下を通って謁見の間に着くと、
型どおりに中に案内された。小姓と侍者がひざまづく。
大名と六人の家臣が立って迎えてくれた。
テーブル、椅子、握手は当時まだ新しい物事であったが、
そこにはすでにあった。

藩主の前に進み出て礼をすると、藩主は寄って来て手を差し出し、
あとで知ったことだが、歓迎の言葉を述べた。
握手の後、藩主から直筆の手紙を渡された。
岩淵は最初から畳に両手両膝をつけ、
顔をふせて座り、上目遣いに話した。

次に長い名前の身分の高い家臣を紹介された。全員がテーブルについた。

10歳から12歳のかわいい男の子の小姓が
小さな茶碗を金属の茶托にのせて運んできた。
みんなが茶碗を持ち上げると、小姓は低くおじぎをして静かに出て行った。

藩主と家臣から、名前と身分が漢字で書いてある、
人目をひく白い紙切れの名刺を渡された。

松平茂昭、福井藩主。
小笠原盛徳、大参事。
村田氏寿、大参事。
千本久信、副参事。
大谷遜、権小参事。
大宮定清、家令職。

にぎやかな話し合いになった。
おかげで岩縁の二枚の舌は一時間近くいそがしかった。
初対面の堅苦しさが解けてきてくつろいだ気持になり、
そのうち愉快になってきた。

そして終わりごろにはお互いにうまくやっていけると諒解しあっていた。
アメリカ人の自由と日本人の気楽さが
初めての者同士を友達にしたと言えよう。
教育と文化が、二つの民族、宗教、文明に
横たわる湾にたやすく橋を架けるのである。
この上品で洗練された紳士たちの前で、
私は心から打ち解け、一時間が楽しく過ぎた。

大名の直筆の手紙は次のようであった。

「貴国の大統領が壮健であられるのは慶賀の至りであります。
福井の青年に科学を教授するため、はるばる遠い所から
さっそく海を越え山を越えて到着されたことは、
大きな喜びであるとともに深く感謝する次第であります。
学校と学生に関する事柄については、
教育を担当する役人が充分にご相談に応じます。
福井は奥地であるので、何かとご不便をおかけすると思います。
何なりと入用の節は遠慮なくお申し出ください。」 松平福井藩知事

この言葉が私を福井に迎え入れるにあたって、そのすべての基調になり、
福井在住の一年あまりの間、絶えずあふれるばかりの親切を受けた。

藩主、役人から学生、市民、子供にいたるまで、私を知って、
にこにこしながらおじぎをして「お早うございます、先生」と
挨拶してくれた人たちから受けた尊敬、
思いやり、同情、親切しか、今は思い出せない。

私は目が覚めた。拳銃はいらなかったし、警護も必要でなかった。
福井の人々の心をつかむことができた。
そして今、最も幸福な思い出の中に福井の人びとがいる。

好きになった人のなかに大名の息子(松平康荘)がいた。
元気なよく笑う子で、4、5歳ぐらい、
ひらめきのある目をしたおもしろい子で、
アメリカの子供に負けないくらい快活である。

次の日から正規の仕事が始まった。回されてきた馬に乗って学校へ出かけた。
学校は城の本丸で前の藩主の住居であった建物である。
これから先入ることになる自分の部屋で、学校の役人と面会した。

テーブルにはいつものカステラ、みかん、梅の生け花があり、
いつどこにでもある茶が出され、小さなパイプでタバコが吸われた。

化学の教師をほしがっていた人が、
化学とは何かについて漠然とした考えしかないことは明白であった。
けれども人々は金をかけ、辛抱強く、
必要な器具や講義室を設置しにかかった。

準備について意見がまとまったので、
学校を見てまわるため、ほかの部屋を案内してもらった。
学校が大きくて繁栄しているのには驚いた。
全部で800人ぐらいの学生がいて、
英語、中国語、日本語、医学、兵学の各部門に属していた。

数百人の青少年が教師とともに床にあぐらをかき、
読書、学科の暗記、漢字を書く練習をしていた。
すでにちょんまげを切りおとした学生もいた。

この者たちをはたして規律正しい学生にきたえることができるだろうか。
そう思った。しかし2、3ヶ月後にはもう学生から信頼と愛を受けていた。
学生から習うことが多かった。
この熱心な若者から礼儀と尊敬の念を失わないように気をつけねばならない。

品行の自負と威儀、勤勉、勇気、紳士的振舞、
洗練と愛情、真実と正直、道徳などにおいて、
私の見聞する限りでは学生は私と少しも違うところはなかった。
「愛はいつも盲目」だというが、この場合、だんじて盲目ではなかった。

■女性蔑視どころか、かかあ天下の日本

私に当てられた古い屋敷は建てられてから197年たっていて、
これまで代々同じ一族が住んでいた。
この家は柴田勝家の古城があった所に建っていた。

それは堅い材木でできた大きな古い家で、
広い部屋と長い明るい廊下があった。
幅60フィート、奥行き100フィートの一階建てだが、
部屋数は全部で12。床はやわらかくてきれいな畳が敷いてあり、…。

このようにしてこの住居で数世紀にわたって、
先祖代々の地所の上で、一族が平和にくらし、繁栄してきた。

やがて外国人がやって来ていろいろな災難が起きた・・
内乱、革命、将軍の打倒、天皇の再興、封建制度の強制的廃止と。

大変化が福井の様子を変えた。知行高が減って、一族は粗末な場所に移り、
家来や小作人は散り散りになり、そして今外国人がここに来た。

古い文明を破壊するための新しい文明を持ってくるのを手伝いに、
知識の建築者として私は福井に来た。

しかし、因習打破主義者になることは難しかった。
しばしば自分に問うた。

なぜこの人たちをそのままにしておいてはいけないのか。
みんな充分に幸福そうだ。
「知識を増すものは憂いを増す」というではないか。
古い祠でさえ、人間の信仰と崇拝を神聖にするため奉納されてきたのだ。

この見捨てられた神殿の石を取り除くのは、
私ではなく、誰か他人の手にまかせねばならない。

かつて位牌があり、燈明と香が燃えていた家族の小礼拝堂(仏間)を、
食堂にするとは何といやしい考えか。

信仰もまたそうである。
もしも私達の信仰が神聖なら、他人の信仰も神聖なのだ。

家の同居者について一言ふれないわけにはいかない。
日本到着の第一日目に召使が選ばれて、
未来の主人に会わせに連れられてきた。

佐平をはじめて見た時、佐々木がもっと顔立ちのいい男を
召使として選んでくれなかったのが残念で仕方なかった。

また最初、新しい召使が独り者だと思って失望した。
家族のある既婚の男に来てもらうつもりだった。
その方が同じ屋根の下で実際の日本人の生活を
見ることができると思ったからである。

このように失望は大きかったが、反面、うれしいこともあった。
佐平は百姓の出ではなかった。東京へ旅をしたことがあった。
小者として戦いに出たこともあった。頭がよくて人に仕えるのに適していた。
職業はかつて大工であったから、家のことを手際よくした。

佐平は見た目よりも心がきれいであった。
陽気で、忠実で、勤勉で、主人思いであり、
呼び出しにはすぐ応じるし、子供に対するように気を使う。

そして佐平は「神が最も気高く造りたもうたもの」であった。
主人の金銭を正直に扱うだけでなく、だまされたり、
無知からくる損失のないように、番犬のように機敏に頭をはたらかせた。

その上、佐平には女房、赤ん坊、子守の女中といった家族があった。
これを知ったのは一週間たってからで、恥ずかしそうに、
まるで不興を買うのを覚悟のように、
女房がいることを知らせに来たのである。

その時、女房は玄関の入口の陰で「旦那さん」が
どういうかを聞くために待っていた。女房を紹介してもいいですか。
この言葉に私が満足げに驚くのを見て佐平は嬉しそうに、
にやっと笑ったかと思うと、さっそく赤ん坊の手を引いてきた。
女房がよろよろ歩いて出てきた。後ろに小さな女中がつづいた。

母親、赤ん坊、女中が順々にひざまづき、
畳にうつむいて手をつき額をこすりつけた。
それから正座して、恥ずかしそうに新しい主人の顔を見上げた。
私はみんなに立つように命じ、その三人の姿を自分の目に写し取った。
佐平の女房の立派な体格は貧弱な亭主を全く貧弱に見えさせた。

情愛の深い母であり、悋気の強い、用心深い妻であった。
たえず愉快にはしゃぎ、笑うとゼリーでいっぱいの
深い鉢をゆさぶった時のことを連想させた。働き者であった。
言うことは研ぎたての剃刀のように鋭く、
とくに亭主殿が芸者と酒に金を使いすぎてきた時はそうであった。

というのは佐平には、
それがなければ人の鑑になるような、この二つの欠点があったのだ。

それは主人の私にも一目瞭然であった。
喉を酒の漏斗にすることがよくあった。

また夜は芸者遊びをするのが道楽で、真っ赤な顔をして、
からっぽの財布を持っておそく帰ってくることがよくあった。

そして帰るが早いか女房の説教をたっぷりきかされた。
これは鎌倉について読んだのとは
全く違う種類の「幕府」(かかあ天下)であった。

禁断の高価な木の実を食べた次の日の朝の佐平のきまり悪そうな目と、
士気阻喪した様子で私にはいつもそれとわかった。

赤ん坊は見れば見るほど目のパッチリしたかわいい子であった。
名前を佐太郎という。年は二つで、やっと重心をとることができた。

部屋を横切って家の中を渡り歩いたが、時々畳の上に腹這いになった。
その子は最初の紹介の時、大人のように頭をひょいと動かして、
「お早う、先生」とかん高い声でいったが、
幼児語のため先生がチェンチェイに聞こえた。
そこですかさずその子に「チェンキー」とあだ名をつけた。

おぶん(お盆)というチェンキーの
お守りをする女中のことを忘れてはならない。
赤ん坊を抱っこしたり、おむつを変えたり、おんぶしたりする。

年は11で、やせていて、弱そうで、悲しそうな顔をした子供であった。
やさしい言葉をかけてやると、
しぼんだ花に雨がかかったように元気になった。

白昼、表通りで無花果の葉をつけないで風呂に入るイブには
多少見慣れてはいるが、私の福井の家では初めての外国人の前だから、
女性が全裸を見せるのは思いとどまるだろうと思っていた。
何と無駄な思い!

あのおとなしい女房が冷たい空気をものともせず無邪気に着物を脱いで、
チェンキーを抱いて風呂につかり、化粧をした。
終わると次におぶんが入り、つづいて亭主、兄弟、叔父、権次が入った。

みんな水を沸かしたり運んだりして立ち働いた。
彼らは誰もじろじろ見たりはしなかった。
手伝うこと以外には何の興味も示さなかった。
これが普通の光景で、
女の顔や手を見るぐらいの気持しか起こらないものらしい。

■グリフィスの見た封建制決別の日

7月18日(1871年)

まさに青天の霹靂!
政治の大変動が地震のように日本を中心から揺り動かした。

その影響はこの福井でもよく観察できた。
今日、町の武士の家には激しい興奮が渦巻いている。
武士の中には三岡(福井藩士、由利公正)を殺すと
おどしている者がいるという。

というのは三岡は1868年の功績で収入を得、
また福井で長い間、改革と国家の進歩の中心人物であったからである。

今朝10時に、東京からの使者が藩庁に着く。にわかに学校で騒動が起きた。
日本人教師と役人が全員、学監室に呼び出された。
数分後に会うと、その人たちの大方は顔が青ざめ、興奮していた。

たった今届いた天皇の声明によると、武士の世襲の所得を減らし、
名目だけで任務のない役所を廃止し、
それに付けた給金は天皇の国庫に渡すよう命じている。

役人の数は最小限まで減らす、藩の財産は天皇の政府のものになる。
福井藩は中央政府の一県に変わる、
そして役人はすべて東京から直接に任命されることになる。

この変化は私にいい影響を与える。
いままで学校の管理に14人の役人があたっていた。
「船頭多くして舟山に登る」。

ところが今は、わずか4人。藩庁から役人が訪ねてきて、
私の4人の護衛者と8人の門番が免職になると告げた。
これからは2人の門番しかいない。

福井の地方役人の数は500から70に減らされる。
役人という厄介者を振り捨てるところである。
昔から日本の最大の災いは
働かない役人とごくつぶしが多過ぎることであった。・・・・新生日本万歳。

7月19日

今日の学校は、役人は不在。
そのため私の教える科には、いつもの役人の騒ぎ立てや邪魔がなかった。
特筆すべきことだ。学監室は空っぽだった。

県庁の定員は昨日までの太った身体が
骸骨になったように、最小限度になった。
学生が言うには、町の老人の中には心配で気が狂いそうな人がいるし、
少数の乱暴者がまだ三岡らの天皇支持者を、
こんな状態にしたのはお前らだ、殺してやると言っている。

けれどもちゃんとした武士や有力者は異口同音に、天皇の命令を褒めている。
それは福井のためでなく、国のために必要なことで、
国状の変化と時代の要求だと言っている。

日本の将来について意気揚々と語る者もいた。
「これからの日本は、あなたの国やイギリスのような
国々の仲間入りができる」と言った。

10月1日

今朝早くから裃姿の武士が告別の準備をして城に集まってきた。
私は9時に大広間に着いた。この感動を与えた光景は一生忘れないだろう。

部屋を仕切っている襖は全部取りはずされて、大きな畳の間になった。
そこに福井藩3000の武士が位階の順に並んでいた。
各自、のりのついた礼服を着て、頭部を剃り、
銃の撃鉄のようなちょんまげをつけて、正座して、
自分の前にまっすぐに立つ刀の柄を両手で握りしめていた。

この武士たちの垂れた頭は
この重大な事態から生じる思いでいっぱいであった。
それは封建領主との別れというだけのものではなかった。
自分らの祖先が700年間生きてきた制度の厳粛な埋葬であった。

一人ひとりの表情が遠くを見つめているように思えた。
その目は過去をさかのぼり、
不確実な未来を探ろうと努めているように見えた。

私は武士の心がわかると思った。刀は武士の魂、武士は日本の魂であった。
その刀がその名誉の場所からとり外され、無用の道具として捨てられ、
商人の墨つぼと台帳のために道をあけねばならないのか。
武士が商人以下になるのか。
名誉が金銭より劣ると考えられるようになるのか。
日本の心が日本の富を枯渇させようとする
卑しい外国人の水準にまで下げられるのか。

前越前藩主、福井藩の封建領主、
そして明日からは一介の貴人になる松平茂昭が、
大広間へと広い廊下を進んで来た。

そして松平は痛切な思いを言葉には出さずに、
家来の居並ぶ中を大広間中央へと進んだ。
そこでは筆頭の家臣によって、簡潔で立派な藩主の挨拶が代読された。

藩の歴史、領主と家臣の関係の歴史、
1868年の改革をもたらした原因と天皇家を元の権力へ戻したその結果、
地方の藩主にその封土を返還せよとの天皇の命令の理由が、
次々と簡潔に流暢に述べられた。

終わりに、藩主は家来全員に
その忠誠をすっかり天皇と皇室に移すように頼んだ。
それから落ち着いた適切な言葉で、家来の新しい関係、家来自身、
その家族、財産の成功と繁栄を祈って、藩主は家来に厳粛な別れを告げた。

武士を代表して、その中の一人がみなの気持をよく表した挨拶をした。
前領主としての藩主のことにも優しい言葉でふれ、
そして今後は天皇と皇室の忠実な臣民になる決意を宣言した。

これで式が終わった。前大名とその家臣が城の広間を退場した。
大名はそのままアメリカ人教師の家に向った。
私は大名に会い、喜んで迎えた。大名は数分腰をおろした。

そして福井の若い人を教える私の努力に心から感謝し、
東京の家へ遊びに来るように勧めた。
私はそれに答えて、受けた多くの親切に対して感謝の気持を表した。
それからアメリカ人の礼儀と日本人のそれにならって、
別れのことばを交わした。

10月2日

今日は町じゅうが大騒ぎをしているように見えた。
通りは晴着姿の町の人でいっぱい。田舎からも数千人が来ている。
みな藩主を最後にひとめ見にやってきた。それは告別の集まりである。

数百人の老人、女、子供が泣いていた。
1000人の連隊が12マイル離れた武生まで藩主を護衛する。
忠実な家臣3、4人、侍医の橋本、侍僕が東京まで付いて行く。

今日のこれと似た場面が、おそらく今月いっぱい日本の多くの城下町で
まのあたりに見られたことであろう。

人々が天皇の命令に服従しないで、藩主を行かせまいとした藩もあったが、
一般にどの別れも出立も、悲しく、静かで、礼儀正しかった。

■グリフィスが見た日本女性の地位

しかし、アジア的生活の研究者は、日本に来ると、
他の国と比べて日本の女性の地位に大いに満足する。

ここでは女性が東洋の他の国で観察される地位よりも
ずっと尊敬と思いやりで遇せられているのがわかる。
日本の女性はより大きな自由を許されていて、
そのためより多くの尊厳と自信を持っている。

子女の教育はよくなっており、
この国の記録にはおそらくアジアのどの国よりはるかに多くの
すぐれた女性が現れるだろう。
まさにそういう時機に、
公立・私立の女学校が開設されて、女学生が通学している。

この問題の根は銭湯をのぞいたぐらいでは見つからない。
歴史、文学、芸術、理想を調べてみなければならない。
それには西洋の理想や偏見を基準にしてはいけない。
西洋人が潔白であり宗教的だと見なしているものの中に
非難すべきことが多くあるのを、日本人は正しい目で見ている。
だからこれらの判断は公平でなければいけない。

123人の日本の君主のうち9人までが女性であった。
神権の管理人は処女の神官である。
日本の女性はその機知と天才によって母国語を文学語にした。
文学、芸術、詩歌、歌謡において、名声と栄誉の長い巻物にのっていて、
その額に日本人が少なくとも高名の色あせない花輪を置いた
最も輝かしい人たちのなかに、女性の名前がまじっている。

その女性たちの記憶は、暗唱、引用、読書、屏風、巻物、記念碑、壁、扇、
茶碗の上の文章や絵画など、太平洋の東と西の外国人讃美者さえ喜ばす
絶妙な芸術作品として、いまなおみずみずしく残っている。

紳士淑女の道、道徳律、宗教的戒律が手本として試されるような人生の難儀に
あたって、日本人の示した栄光、勇気、艱難に耐えること、
立派な死に際、親孝行、妻の愛情などの記録が残っている。

中でも歴史と物語文学、実際の日常の出来事のなかに、
男性に課せられたどんな苦しみや悲しみも共にする
女性の力と意志が示された例がいくらでもある。

女性についてこれまでのところ、私の意見は、
世界のカスが日本のカスと出会う港町の生活を
いそいで垣間見た結果ではなく、内地の都市や日本の首都に
数年生活してみてわかったものであることを忘れないでほしい。

さらに私は日本の普通の女性を他の国の普通の女性と並べて見ている。
また神国の男性と社会との関係で女性の地位を述べている。

そしてアジアの他の諸国に比べて日本は、
女性に対する尊敬と名誉にかけてはアジアの指導者であると信じたい。

インド、ビルマ、中国の外国人居住者が日本に来て驚きかつ喜ぶのは、
日本人の女性への応じ方で、
尊敬と思いやりの気持があまりにも大きいことである。
女性が纏足させられることはないし、
中層・下層階級の女性もアメリカなみにほとんど自由に出歩ける。

アジア的、偶像崇拝的、かつ独裁的である国では考えられないような、
社会的自由が日本の女性の間に広まっている。

日本人は一方だけに通じるのがよい規則だと思っている。
夫が同じ理由で妻から離縁されることはない。
勿論、日本の女性は気転、言葉、愛嬌、魅力など、
一般に外からは見えないが、
そのためにかえって強い手段で夫を支配することができる。

男性は刀、筆、離縁、栄光を笠に着るが、
女性はもっと上手な説得力で御殿にいても藁屋にいても主人を支配する。

日本の家庭には、開港場にしか住まないたいていの外国人には
なかなか認めにくいほど善良で道徳上健全なものがあり、
すばらしい女子の教育の場が見られる。

そこでは上層階級の女子に限り、
初歩の文学教育は個人の教師か女教師の手で行われた。

下層階級の女子は過去二世紀に国中に広まった私塾で教えを受けた。
初等教育がすむと、日本女性が特別に使用する書物の勉強が始まった。
この書物は相当な社会的地位にあると
自負している日本の家庭にはどこにもある。

欧米諸国の女性と比べ、標準的に見て、
日本の女性は美しいものへのあの優雅な趣味では全く同等の資格があり、
服装や個人の装身具においてもよく似合って見える。

また礼儀作法が女性らしく上品であることでもひけをとらない。
美、秩序、整頓、家の飾りや管理、服装や礼儀の楽しみを
生まれながらにして愛することでは一般に日本女性にまさる女性はない。

子供の教育者として日本の女性は、
才能と知識のゆるす限り子供の養育に細心の注意を払い、
心をこめてやさしく身を粉にしてつくすことでは、
いかなる文明国の母親にも優るとも劣らない。

日本の新しい女子教育が日本にとって重要なことは、
いくら評価しても足りない。
日本がいま経験している革命は完成されねばならない。

日本の指導者が確信し、約束している新しい改革が、
国民に正しいと認められ、国民の家庭生活の一部になる必要がある。

新政府の仕事は家庭において遂行されねばならない。
社会の基盤は家庭にあるからである。

どの国でも国家は家庭のようなものである。
政治の形態は色々あっても、大きくなった家族に過ぎない。

どこの国でも普通の家族のことがよくわかれば、
その国の政治の現実が容易に理解できる。

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●『明治日本の女たち』 アリス・ベーコン著
彼女はアメリカ人で1858年生まれ。1872年にベーコン家が岩倉使節団に
連れられて渡米していた12歳の山川捨松(後の大山巌伯爵夫人)の
ホスト・ファミリーとなったことから、当時14歳のアリスとは姉妹同然に
暮らし、津田梅子らとも知り合いました。このような縁で、1888年に来日し、
華族女学校や東京女子高等師範学校で英語を教え、1899年に2度目の
来日時には、津田塾大学の前身である女子英学塾の教壇にたちました。
―――――――
■日本の礼儀作法について

日本では礼儀作法は行き当たりばったりに学ぶものではない。
適当に周囲を見渡して真似するだけではだめである。
作法は専門家について学ぶのだ。

日常生活のこまごまとしたことすべてに決まりがあり、
礼儀作法の師範はそれらを熟知している。
こうした師範の中でも、とくに有名な人たちがいて、
それぞれ流派を作っている。

作法は細かい点では異なっているが、主要なところはどの流派も同じである。
お辞儀ひとつとっても、体と腕と頭の位置に決まりがある。

ふすまの開け閉て、座り方と立ち方、食事やお茶の出し方など、
すべてに細かい決まりがあり、若い女性に教え込まれる。
 
しかし、教えられるほうはうんざりしていることだろう。
私が知っている今どきのふたりの若い女性は、
礼儀作法のお稽古には飽き飽きしていて、
できることならさぼりたいようだった。

お作法の先生が帰ってしまった後に、
彼女達が先生のしゃちこばったいかめしいしぐさを茶化して、
ふざけているのを目にしたこともある。

ヨーロッパ風のマナーが、古くからある日本の日常の礼儀作法に
どれだけ浸透していくのかはまだわからない。

しかし、礼儀作法の師範のような人は
時期に過去の遺物になってしまうのではないだろうかと、少しばかり残念に思う。

日本の若い女性が、予期せぬことに直面してもけっして取り乱さないのは、
しっかりと礼儀作法を教えこまれているからではないだろうか。
アメリカの若い女性ならば、ぶざまにまごついてしまうような場面でも、
日本の女の子は落ち着き払っている。

ここまで、私は昔の日本で女性に許されていた教育について述べてきた。
こうした教育は効果的で、じつに洗練されたものであった。

ペリー提督によって眠りを覚まされる前に教育を受けた魅力的な
日本の婦人を知る外国人は、
誰もが昔の日本の女子教育のすばらしさを認めるだろう。

こう書いていると、柔和な顔に輝く瞳をした、ある淑女の姿が目に浮かぶ。
東京に住んでいたときに、彼女と親しくなれたのは幸運なことだった。
夫に先立たれ、子供を抱えて文無しになった彼女は、
東京にある官立学校で裁縫の先生をして、わずかな収入を得ていた。

貧しくて多忙な日々を送っていたはずなのに、
いつも完璧なまでに貴婦人然としていた。
礼儀正しく、微笑みを絶やさず、知的で洗練された読書家で、
質素で家事をそつなくこなす、日本で過ごした楽しい時間をふり返るたびに、
彼女のことが思い出される。
こうした女性こそが、昔の日本女性の教養をよく示している。

■侍の女たち

侍の女性の心意気が今日でも健在であるのは1895年の日清戦争の際に
彼女たちが示した優れた行動力と忍耐力からも明らかだ。

自己を犠牲にする昔ながらの精神は、正しいとは言えないかもしれないが、
多くの立派な行為を生み出した。

日本の女性はアメリカ人には想像できないほど
あらゆる面で男性に依存しているにもかかわらず、
夫や兄弟、息子たちを笑顔と明るい言葉で
危険と死の待つ戦地へと送り出した。

愛する者をお国のために捧げるのに、
悲しみの涙を見せるのは不忠であるとされた。
最愛の者が戦死したという知らせを受けても、けっして取り乱しはせず、
国家のために家族が犠牲になるのは
家にとって栄誉なことだと言える忍耐力を持っていた。

このような献身的な日本女性の様子は、津田梅子氏がニューヨークの
『インディペンデント』紙に書いた以下の記事からもわかるだろう。

私の心に浮かぶのは、
若いひとり息子を明るい笑顔で戦場に送り出した、ある年老いた女性である。
晩年を迎えた彼女にとって、息子は唯一の頼れる存在であった。
まだ若いうちに夫に先立たれ、辛く悲しい人生を送ってきたが、
息子が教育を受けて良い人生が送れるよう、並々ならぬ努力をしてきた。

ようやく彼が職に就いて、家計を支え、大切に育ててくれた母親に
報いることができるようになってほんの数年しか経ていなかった。
息子とその妻をとても誇りにしている母親の姿は微笑ましいものだった。
年老いた母はその小さな家庭で、安心して老後を送れるはずだった。

しかし、一瞬にして、すべてが変わってしまった。
息子が戦場へ送られることになったのだ。
それでも、母親はまったく表情を曇らせることもなく、
笑顔で、楽しげに出発準備の手伝いをした。

ひとりでいるときも、他の人たちといるときも、
ため息をついたり、悲しそうな表情を見せたりすることは一度もなかった。
息子にでさえ、心配したそぶりを見せなかった。

お国のために、そして自身の名誉のために出陣する息子の
精悍な兵隊姿を見た彼女の顔は喜びで満ち溢れていた。
戦場へ赴く兵士には、生死にかかわらず、名誉が与えられるのである。

戦艦赤城を指揮し、黄海の戦いの最中に戦死した
坂元艦長の年老いた母親についても、感動的な逸話が語り継がれている。
艦長は母と妻、三人の子を残して死んでいった。
戦死が確認されると、海軍より使者が派遣され、
家族に悲しい知らせがもたらされた。

まず、妻に伝えられたが、使者が家を去る前に、
その知らせは母親の耳にも入った。
母親は士官のいる部屋までよろめきながら出ていって、
しっかりと礼儀正しく挨拶をした。
目に涙はなく、声もはっきりしていた。

そして、「お知らせを聞いて、息子が多少なりとも
お役に立てたことがわかりました」と言ったのだった。

このような例は枚挙にいとまがない。

しかし、以上の話だけでも、
今日の日本に残る精神を理解してもらえるだろう。
このような教育を受けた女性が家庭を守っている日本が勇敢な国で、
その兵士たちが戦に勝ち続けるのは当然であろう。

今、世界を驚かせている日本の精神や勇気は、
女性の存在に負う面もあるのだから、
日本国中の妻や母親の栄誉もたたえられなければならないだろう。

■日本の職人たち

平民階級を語る上で忘れてならないのは、その多くを占める職人である。

日本が芸術や造形、色彩の美しさを大切にする心が
いまだにある国として欧米で知られているのは、彼等の功績である。

職人はこつこつと忍耐強く仕事をしながら、
芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。
買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で、
見本を真似して同じ形のものや納得できないものを作ることはけっしてない。
日本人は、貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。

一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、
例外なくうんざりするほど下品である。

アメリカの貧困層は、最悪の趣味のものに囲まれて生活するか、
まったく装飾がほどこされていない家具や台所用品を購入する以外ない。
優美なデザインの品物は珍しいので値段も高く、
金持ちしか手に入れることはできない。

だから、私たちアメリカ人にとって、
「安い」ことは「下品」であることを意味する。

しかし、日本ではそうではない。
優美で美しくても、とても安価なものもある。
あらゆるものに優雅で芸術的な感性がみられる。
もっとも貧しい平民でさえも、人間の本能である美的感覚に
訴えかけるようなちょっとした品を所有している。

もちろん日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。
しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、
どこにでもある、安い日用品であった。

貴族から人夫にいたるまで、誰もが自然のなかにも、
人が作り出したものにも美を見出し、大切にしている。
安価な木版画、藍や白の手ぬぐい、毎日使われる急須と茶碗、
農家のかまどでみかける大きな鉄製のやかんは、
大名屋敷の蔵にしまわれてある豪華なちりめん布、銀の香炉、
繊細な磁器、優雅な漆器に劣らぬほど美しくて気品がある。

高価な品々は言うまでもないが、こうした物の存在は、
日本で広く美の感性が共有されていることを示している。

たいていの職人は自宅で作業する。
人は雇わず、父親が子どもに技を教え、家業を手伝わせることが多い。

家は狭いけれども、清潔で品がよい。
畳が敷いてあって、上品な茶器があり、壁に小さな掛け物がかかっている。
日本は大都会でも、冬のあいだでも、花が安く手に入る。
貧乏でも気軽に買うことができるから、
部屋の片隅にはいつも美しい花が生けられている。

欧米の下層階級は19世紀の文明を支えるためにひたすら働かされているので、
このような美の感性を失ってしまった。

日本人にとって、「人生は食べるだけではない」のだ。
人生は美しくもなければならない。
この美を大切にする心が、日本人を上品で洗練された存在にする。
だから、日本の労働者は、
アメリカの日雇い労働者よりあらゆる面で優れているのである。

日本を訪れる外国人は、
日本人が外国のものを何でも真似ようとするのを見て驚いている。
日本人には舶来品の質の良し悪しを
見極める能力が欠けていると偉そうに批判する。

しかしその一方で、日本の工場では、
日本人なら見向きもしないような悪趣味な陶器、扇子、掛け物、
屏風が生産され、このような物知り顔の外国人向けに輸出されている。

そのような醜い製品を外国人が大喜びで買うのを見て、
作った本人はとても不思議に思っている。
要するに、双方の文明がお互いの美の定義をまったく理解していない。
それぞれにまったく異なる美的感覚があるのだ。

■日本の召使いたち

来日したばかりの外国人がこの国の召使いの立場を理解するのは、
なかなか難しいことである。

召使いとその主人の一家とのおおらかな関係は、
無遠慮であるように見えるし、彼等は自立した行動をとることが多いので
主人の直接の命令に背いているようにも映る。
正しいと思うことを、自分が一番良いと考える方法でやってしまう。

主人の日常生活や財産を管理し、買物をする役目をになう執事から、
人力車を引く車夫や馬の世話をする別当にいたるまで、万事この調子である。

この国では、
何も考えずに主人の命令にひたすら従うことは美徳とみなされない。
召使いであっても、自分なりの考えをもたなければいけない。
主人の命令の趣旨が理解できなければ従うべきではないのだ。

そのため、日本に住む倹約家のアメリカ人主婦は、
家事を取り仕切ろうとして絶望的な気持になる。
アメリカの主婦は家事の細かいところまで管理するので、
召使いは命令どおりに動く機械的な労働力にすぎない。

日本の家では、
出迎えた召使いと正式な挨拶を交わすのは当然のこととされている。
客間へ通されたものの、女主人が外出中であれば、召使い頭が客をもてなす。

主人に代わって歓迎の言葉を述べ、お茶やお菓子を出す。
家人が皆留守であれば、女主人が帰るまで一緒に客間に座って、
客が退屈しないように話し相手となりさえする。
このように、日本の召使いは、
欧米の使用人のように社会的に軽んじられる存在ではない。

客は部屋に出入りする召使いにも挨拶をする。
召使いは目上の者の会話について知っていることがあれば、
ためらうことなく口をはさむ。

むろん、自由な発言が許され、大切にされ、
ときには大きな責任が与えられるとはいえ、
あくまでその立場をわきまえているので、傍若無人には見えない。

小説『小公子』のなかで、
ある召使いが若い主人のとんちんかんな発言を聞いて
思わず吹き出してしまったため、あやうく解雇されそうになる場面がある。

私の生徒たちは英語の授業でこの箇所を読んでとても驚いていた。
欧米の召使いは主人の会話にいっさい興味を示してはならないどころか、
内容を知っているそぶりすら見せてはいけないし、
いかなる状況においても話かけられない限り、口を聞いても、
ほほえんでもいけないということに仰天していた。

特定の身分の人間にそのような野蛮な制限を課す欧米の文明とは
いかがなものかと、この賢い少女たちは考えていたに違いない。

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『長崎海軍伝習所の日々』
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外国から見た日本_1
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外国から見た日本【現代版】
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日本にやって来た欧米人の日本の印象
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