正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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●『日本その日その日』 エドワード・シルベスタ・モース著
大森貝塚を発見したエドワード・シルベスタ・モースの日本観察日記です。
第一章は「1877年の日本、横浜と東京」から始まります。
―――――――
■正直な日本人に感心

不思議な有様の町を歩いていて、
アメリカ製のミシンがカチカチいっているのを聞くと妙な気がする。
日本人がいろいろな新しい考案を素早く採用するやり口を見ると、
この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような
保守主義に縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。

私は人力車夫が4人いる所に歩みよった。
私は、米国の辻馬車がするように、
彼等もまた揃って私の方に駆けつけるかなと思っていたが、
事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異なった麦藁を4本拾い、
そして籤を抽くのであった。

運のいい一人が私をのせて停車場へ行くようになっても、
他の3人は何等いやな感情を示さなかった。

汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、
途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車のこしきにぶつかった。
車夫たちはお互いに邪魔したことを微笑で詫び合っただけで走り続けた。
私は即刻この行為と、
我国でこのような場合に必ず起こる罵詈雑言とを比較した。

何度となく人力車に乗っている間に、
私は車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気がついた。

また今迄の所、動物に対して癇癪を起したり、
虐待したりするのは見たことがない。口小言を言う大人もいない。

これは私一人の非常に限られた経験を、
もっとも私は常に注意深く観察していたが基礎として記すのではなく、
この国に数年来住んでいる人々の証言に拠っているのである。

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。
私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。
錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、
日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、
触ってならぬ物には決して手を触れぬ。

私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、
間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついて
それを持って来たが、
また今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を3枚持って来た。

この国の人々も所謂文明人としばらく交わっていると
盗みをすることがあるそうであるが、
内地に入ると不正直というようなことは殆ど無く、
条約港に於ても稀なことである。

日本人が正直であることの最もよい実証は、
3000万人の国民の住家に錠も鍵もかんぬきも戸鈕(ちゅう)も、
いや、錠をかけるべき戸すらも無いことである。
昼間は辷る衝立が彼等の持つ唯一のドアであるが、
而もその構造たるや10歳の子供もこれを引き下し、
あるいはそれに穴を明ける得る程弱いのである。

いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。
それは日本が子供達の天国だということである。
この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、
他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、
その自由を濫用することはより少なく、
気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。

赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人々なりの背に乗っている。
刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、
五月蝿く愚図愚図いわれることもない。

日本の子供が受ける恩恵と特典とから考えると、
彼等は如何にも甘やかされて増長してしまいそうであるが、
而も世界中で両親を敬愛し
老年者を尊敬すること日本の子供に如くものはない。

日本人の綺麗好きなことは常に外国人が口にしている。
日本人は家に入るのに足袋以外は履いていない。
木製の履物なり藁の草履なりを文字通り踏み外してから入る。
最下層の子供達は家の前で遊ぶが、
それにしても地面で直かに遊ぶことはせず、
大人が筵(むしろ)を敷いてやる。
町にも村にも浴場があり、そして必ず熱い湯に入浴する。

我国に於ける防海壁に沿う無数の地域には、
村落改良協会や都市連合が撲滅を期しつつあるような
状態に置かれた納屋や廃棄物やその他の鼻持ちならぬ物が目に入る。

全くこのような見っともない状態が、
都鄙いたる所にあればこそ、このような協会も出来たのである。

汽車に乗って東京へ近づくと、長い防海壁のある入江を横切る。
この防海壁に接して簡単な住宅がならんでいるが、清潔で品がよい。
田舎の村と都会とを問わず、富んだ家も貧しい家も、
決して台所の屑物や灰やガラクタ等で
見っともなくされていないことを思うと、うそみたいである。

我国の静かな田園村落の外縁でしばしば見受ける、
灰や蛤の殻やその他の大きな公共的な堆積は、どこにも見られない。

優雅なケンブリッジに於いて二人の学者の住宅間の近道は、
深い窪地を通っていた。
所がこの地面はある種の屑で見事にもぶざまにされていたので、
数年間にわたってしゃれに「空缶渓谷」と呼ばれた。

日本人はある神秘的な方法で、彼等の廃棄物や屑物を、
目につかぬように埋めたり焼いたり利用したりする。
いずれにしても卵の殻、お茶のカス、その他すべての家の屑は、
綺麗にどこかへ持って行ってしまうので、どこにも見えぬ。

外国人は日本に数ヵ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。
即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、
驚くことには、また残念ながら、
自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、
日本人は生まれながらに持っているらしいことである。

衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、
あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、
他人の感情についての思いやり・・・・
これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、
最も貧しい人々も持っている特質である。

こう感じるのが私一人でない証拠として、
我国社交界の最上級に属する人の言葉をかりよう。

我々は数ヶ日の間ある田舎の宿屋に泊まっていた。
下女の一人が、我々のやった間違いを丁寧に譲り合ったのを見て、
この米国人は「これ等の人々の態度と典雅とは、
我国最良の社交界の人々にくらべて、
よしんば優れてはいないにしても、決して劣りはしない」というのであった。

■日本の植木屋さんは世界一

隅田川の川開き
隅田川の川開き

この国民に奇形者や不具者が著しく少ないことに気がつく。
その原因の第一は、子供の身体に気をつけること。
第二には殆ど一般的に家屋が一階建てで、
階段が無いから子供が墜落したりしないことと思考してよかろう。

指をはさむドアも、あばれ馬も、噛み付く犬も、角ではねる牛もいない。
牡牛はいるが必ず紐でつながれている。

鉄砲もピストルもなく、椅子が無いから転げ落ちることもなく、
高い窓が無いから墜落もしない。

従って背骨を挫折したりすることがない。
換言すれば重大な性質の出来事の原因になるような状態が、
子供の周囲には存在しないのである。投石は見たことがない。

我々からして見れば、
日本人が彼等の熱い風呂の中で火傷して死なぬのが不思議である。

この広い世界を通じて、どこでも子供達が、
泥のパイや菓子をつくるのを好むのは面白いことである。

日本の路傍ででも、小さな女の子が柔軟な泥をこねて
小さな円形のものをつくっていたが、
これは、日本にはパイもパンもないので、
米でつくる菓子のモチを現しているに違いない。

この国の人が――最下層の人でさえも――が、
必ず外国人に対して示す礼譲に富んだ丁寧な態度には、絶えず驚かされる。
私は続けさまに気がついたが、
彼等は私に話しかけるのに先ず頭に巻いた布を解いて、
それを横に置くのである。

一台の人力車が道路で他の一台に追いつき、それを追い越す時、
我々は早く東京に着きたくて急いでいたのでこれをやった車夫に必ず詫び、
そして、通訳の言によると
「お許しが出ますれば・・・」というようなことを言う。

我々は多くの美しい生垣を通過した。
その一つ二つは二重の生垣で、内側のは濃く繁った木を四角に刈り込み、
それに接するのは潅木の生垣で、
やはり四角に刈り込んであるが、高さは半分位である。

これが町通りに沿うてかなりな距離並んでいたので、実に効果的であった。
日本の造園師は、植木の小枝に永久的の形がつく迄、
それを竹の枠にしばりつけるという一方法を持っている。

私の見た一本の巨大な公孫樹(いちょう)は、一つの方向に、
少なくとも40フィート、扇のように拡がりながら、その反対側は、
日光も通さぬ位葉が茂っていながらも、3フィートとは無かった。
樹木をしつける点では日本人は世界の植木屋中第一である。

我国の園芸家が日本人の持つこの巧妙な芸術に注意を向けたならば、
どんなに立派な食卓の中心飾りが出来ることであろう。

日本に着いてから数週間になる。
その間に私は少数の例外を除いて、労働階級、農夫や人足達、
と接触したのであるが、彼等は如何に真面目で芸術的の趣味を持ち、
そして清潔であったろう!
遠からぬ内に、私はより上層の階級に近づきたいと思っている。
この国では「上流」と「下流」とがはっきりした定義を持っているのである。

下流に属する労働者達の正直、節倹、丁寧、清潔その他我国において
「基督教徒的」とも呼ばれる可き道徳のすべてに関しては、
一冊の本を書くことも出来る位である。

東京でアサクサと呼ばれる一郭は、外国人に珍しい観物の一つである。
大きな寺院が付近の低い住宅の上にそそり立っている。
この寺院に達する路の両側には、
主として玩具屋や犬の芸当や独楽まわし等の小店が櫛比している。

お茶屋や菓子屋もないではないが、
ここに於ける活動と陳列との大多数は、子供の興味を中心にしたものである。
鳩の餌を売っている場所もある。
鳩は大群をなしてお寺の屋根から舞い降り、
地面の上や餌をやっている人々の上にとまる。

私は「河を開く」というお祭りに行った。この正確な意味は聞かなかった。
このお祝いは隅田川で行われるので、東京中の人が何千人となく
河の上や河岸の茶店に集まってくる。我々三人は晩の八時に加賀屋敷を出た。
車夫は急いでいたので全速力で走りながら、
人々に通路をあけさせるために「ハイ、ハイ、ハイ」
と叫び続けるのであった。

川の光景には思わず茫然とした。
広い川は見渡す限り、各種のボートや遊山船で埋まっていた。
我々はある大名の庭を横切ることを許されていて、
この家の召使いが我々のために河の端に椅子を持って来て呉れた。

数分間座っていた上で、我々はもっと近く見物することにきめたが、
恰度その時一艘の舟がお客を求めながら河岸に沿って静かに近寄った。
我々が乗ると間もなく舟は群集の真中まで漕ぎ出た。

この時我々の眼前に展開された光景以上に不思議なものは、
容易に想像できまい。
ありとあらゆる大きさの舟、大きな、底の四角い舟、
日除けや天蓋を持ったのが多い立派な伝馬船・・・

それらはいずれも日除けの端につるした色鮮やかな
提灯の光で照らされている。
そして舟の中央には必ず敷物がひろげてあり、
その上では大小とりどりの皿や酒徳利をならべたのを取巻いて、
家族が友人と共に坐り、芸者達は三味線をかき鳴らして、
奇妙な作り声で歌を歌う。

広い川はかくの如き提灯で照らされた舟で完全に被われている。
ある舟では物静かな酒盛りが行われ、すべての舟に子供が乗っており、
そしてどちらを向いても気の良さと行儀のよさとが見られる。

河の向う岸では橋に近く光輝燦爛たる花火が発射されつつあり、
我々はこの舟の迷路の中で、衝突したり、後退したり、
時に反対の方向に転じたりしながら
一時間ばかりかかってやっとそこへ行くことが出来た。

近寄って見ると、10人ばかりの裸体の男が大きな舟に乗って
ローマ蝋燭を発射したり、複雑な性質の花火を仕掛けたりしている。
その有様にはまったく肝をつぶした。これは実に忘れられぬ光景であった。

乗船した河岸に帰ろうとして、
我々は反対の方向に進む多くの舟とすれちがった。
船頭達は長い竿で舟を避け合ったり、助け合ったりしたが、
この大混雑の中でさえ、不機嫌な言葉を発する者は一人もなく只
「アリガトウ」「アリガトウ」「アリガトウ」
或は「ゴメンナサイ」だけであった。

かくの如き優雅と温厚の教訓!而も船頭達から!
何故日本人が我々を、南蛮夷狄と呼び来たったかが段々に判ってくる。

■江ノ島実験所と周囲に見る日本人

江ノ島実験所
江ノ島実験所

私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を
研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。

日本には3、40の「種」が知られている。
私は横浜の南18マイルの江ノ島に実験所を設けた。
ここは漁村で同時に遊楽の地である。
私がそこに行って僅か数日経った時、若い日本人が一人尋ねて来て、
東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した。

日本語がまるでしゃべれぬことを述べると、
彼は大学の学生は全部入学する前に英語を了解し、
かつ話さねばならぬことになっていると答えた。

私が彼を見覚えていないことに気がついて、
彼は私に、かつてミシガン大学の公開講義で私が講演したことを語った。

そしてその夜私はドクタア・バーマアの家で過ごしたのであるが、
その時同家に止宿していた日本人を覚えていないかという。
そのことを思い出すと、成る程この日本人がいた。
彼は今や政治経済学の教授なのである。
彼は私がミシガン大学でやったのと同じ講義を
黒板で説明してやってくれと希望した。

(割ったスカートと言った方が適している)衣服のヒラヒラするのを
身に着けた学生が一杯いる大きな講堂は、
ズボンと婦人の下ばきとの合の子みたいなハカマを、
スカートのようにはき私にとっては新奇な経験であった。

私はまるで、女の子の一学級を前にして講義しているような気がした。
この講義の結果、
私は帝国大学の動物学教授職を二年間受持つべく招聘された。

江ノ島は有名な遊覧地なので、
店には土地の材料でつくった土産物や子供の玩具が沢山ある。
海胆(ウニ)の二つで作った簡単な独楽がある。
小香甲の殻を共鳴器とし、芦笛をつけたラッパ(笛というか)もある。

この独楽は長い間廻り、ラッパは長い高い声を立てた。
これらは丈夫で手綺麗に作ってある。
而も買うとなると私の持っていた最少額の貨幣は
日本の一セントだったがおつりを貰うのが面倒なので三つ買った。

小さな箱の貝細工、上からつるした輪にとまった貝の鳥、
その他の上品な貝細工のいろいろを見た私は、
我国で見受ける鼻持ならぬ貝細工、ピラミッド、記念碑、
心臓形の品、パテをごてごてくっつけた、まるで趣味の無い、
水腫にかかったような箱を思い出さずにはいられなかった。

人々はみな親切でニコニコしているが、
これが10年前だったら私は襲撃されていたかも知れぬのである。
上衣を脱いでいたので、例の通り人の注意を引いた。

茶を飲むために止まると必ず集って来て、
私の肩の上にある不思議な紐帯(ズボン吊り)
にさわって見たり、検査したりする。

日本の女は、彼等の布地が木綿か麻か絹で、
織り方も単純なので非常に我々の着ている毛織物に興味を持つ。
彼等は上衣の袖を撫で、批判的に検査し、
それが如何にして出来ているかに就いて奇妙な叫び声で感心の念を発表し、
最後に判らないので失望して引き上げる。

先日の朝、私は窓の下にいる犬に石をぶつけた。
犬は自分の横を過ぎて行く石を見ただけで、恐怖の念は示さなかった。
そこでもう一つ石を投げると、今度は脚の間を抜けたが、
それでも犬はただ不思議そうに石を見るだけで平気な顔をしていた。

その後往来で別の犬に出くわしたので、わざわざしゃがんで石を拾い、
犬めがけて投げたが、逃げもせず私に向かって牙をむき出しもせず、
単に横を飛んで行く石を見つめるだけであった。

私は子供の時から、犬というものは、人間が石を拾う動作をしただけでも
後ずさりをするか逃げ出しかするということを見て来た。
今ここに書いたような経験によると、
日本人は猫や犬が顔を出しさえすれば石をぶつけたりしないのである。

よろこぶ可きことには、我国の人々も、
私が子供だった時に比較すると、この点非常に進歩した。
だが、我が都市の貧しい区域では無頼漢どもが、
いまだに、50年前の男の子がしたことと全く同じようなことをする。

日本人が丁寧であることを物語る最も力強い事実は、
最高階級から最低階級にいたる迄、
すべての人々がいずれも行儀がいいということである。

世話をされる人々は、親切にされてもそれに狎れぬらしく、
皆その位置をよく承知していて、尊敬を以ってそれを守っている。

孔子は「総ての人々の中で最も取扱いの困難なのは女の子と召使いとである。
もし汝が彼等に親しくすれば、彼等は謙譲の念を失い、
もし汝が彼等に対して控えめにすれば彼等は不満である」といった。

私の経験は何らかの価値を持つべく余りに短いが、
それでも今迄私の目に触れたのが、
礼譲と行儀のよさばかりである事実を考えざるを得ない。

私はここ数週間、たった一人で小さな漁村に住み、
漁夫の貧しい方の階級や小商人達と交わっているのだが、
彼等すべての動作はお互いの間でも、私に向っても、一般的に丁寧である。

人柄のいい老人の友人同志が面会する所は誠に観物である。
お辞儀に何分かを費やし、さて話を始めた後でも、
お世辞を言ったり何かすると又お辞儀を始める。
私はこのような人達のまわりをうろついたり、
振り返って見たりしたが、その下品な好奇心には全く自ら恥じざるを得ない。

■世界無二の日本の意匠

博覧会場の展示品のひとつ
博覧会場の展示品のひとつ

昨日私は人力車夫を月極で雇ったが、非常に便利である。
彼は午前7時半にやって来て、一日中勤める。

私が最初に彼の車に乗って行ったのは、
上野の公園で開かれたばかりの産業博覧会で、
私の住んで居る加賀屋敷からここまで一マイルばかりある。

入場料は日曜日は15セントで平日は7セントである。
入口は堂々たる古い門の下にあり、
フィラデルフィアの百年記念博覧会の時みたいに廻り木戸があった。

内には倭生の松、桜、梅、あらゆる花、
それから日本の植木屋の面食らう程の「嬌態と魅惑」との
最も驚嘆すべき陳列があった。松の木は奇怪極る形につくられる。

何百人という人々を見ていた私は、
百年記念博覧会(フィラデルフィアの)を思い浮かべた。
そこには青二才が多数いて、生姜パンと南京豆とをムシャムシャやり、
大きな声で喋ったり、笑ったり、人にぶつかったり、色々な悪さをしていた。

ここでは、只一つの除外例もなく、
人はみな自然的に且つ愛らしく丁寧であり、
万一誤ってぶつかることがあると、
低くお辞儀をして礼儀正しく「ゴメンナサイ」といって謝意を表す。

虫の蝕った材木、即ち明らかに水中にあって時代のために
黒くなった板を利用する芸術的な方法に就いては、すでに述べる所があった。
この材料で造った大きな花箱に、こんがらかった松が植えてあった。

腐った株の一片に真珠の蜻蛉や小さな青銅の蟻や、
銀線でつくった蜘蛛の巣をつけた花生けもある。

思いがけぬ意匠と材料とを使用した点は、世界無二である。
長さ2フィートばかりの額に入っていた黒ずんだ杉板の表面には、
木理をこすって目立たせた上に、竹の一部分と飛ぶ雀があった。

竹は黄色い漆で、小さな鳥は一種の金属で出来ていた。
別の古い杉板の一隅には竹の吊り花生けがあり、
金属製に相違ない葡萄の蔓が一本出ていた。

蔓は銀線、葉と果実とは、多分漆なのだろうが、
銅、銀等に似せた浮ぼりであった。
意匠の優雅、仕上げ、純潔は言語に絶している。
 
日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、
彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術において、
かかる簡単な主題を具現化する力とを示しているので、
これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、
そして最大な芸術家であるかのように思われる。

彼等は誰も夢にだに見ぬような意匠を思いつき、
そしてそれを信用し難い程の力と自然味とで製作する。
彼等は最も簡単な事柄を選んで、最も驚く可き風変わりな模様を創造する。
彼等の絵画的、又は装飾的芸術に於いて、驚嘆すべき特徴は、
彼等が装飾の主題として松、竹、
その他の最もありふれた物象を使用するその方法である。

何世紀にわたって、芸術家はこれ等から霊感を得て来た。
そしてこれ等の散文的な主題から、絵画のみならず、
金属、木材、象牙で無際限の変化物象を真実に描写したものから、
最も架空的な、そして伝統的なものに至るまでのすべてが、喧伝されている。

産業博覧会会場
産業博覧会会場

この地球の表面に棲息する文明人で、
日本人ほど自然のあらゆる形況を愛する国民はいない。
嵐、凪、霧、雨、雪、花、季節による色彩の移り変わり、
穏やかな河、とどろく滝、飛ぶ鳥、跳ねる魚、そそり立つ峰、深い渓谷。
自然のすべての形相は、単に嘆美されるのみでなく、
数知れぬ写生図や掛け物に描かれるのである。

東京市住所姓名録の緒言的各章の中には、自然のいろいろに変わる形況を、
最もよく見ることのできる場所への案内があるが、
この事実は、自然をこのように熱心に愛することを如実に示したものである。

播磨の国の海にそった街道を人力車で行きつつあった時、
我々はどこかの神社へ向かう巡礼の一群に追いついた。
非常に暑い日だったが、太平洋から吹く風が空気をなごやかにし、
海岸に大きな波を打ちつけていた。

前を行く3、40人の群衆は、街道全体をふさぎ、喋ったり歌ったりしていた。
我々は別に急ぎもしないので、後ろからブラブラついて行った。
と、突然海から、大きな鷲が力強く翼を打ちふって、
路の真上の樫の木の低い枝にとまった。
羽を乱したままで、鷲はやかましい群衆が近づいて来るのを、
すこしも恐れぬらしく、その枝で休息するべく落着いた。

西洋人だったらどんなに鉄砲をほしがったであろう!
巡礼達が大急ぎで巻いた紙と筆とを取り出し、
あちらこちらから手早く鷲を写生した有様は、見ても気持がよかった。
かかる巡礼の群には各種の商売人や職人がいるのだから、
これ等の写生図は後になって、漆器や扇を飾ったり、
ネツケを刻んだり、青銅の鷲をつくったりするのに利用されるのであろう。

しばらくすると群衆は動き始め、我々もそれに従ったが、
鷲は我々が見えなくなる迄、枝にとまっていた。

維新からまだ僅かな年数しか経っていないので、博覧会を見て歩いた私は、
日本人がつい先頃まで輸入していた品物を製造しつつある進歩に驚いた。

一つの建物には測量用品、大きなラッパ、外国の衣服、美しい礼服、
長靴や短靴、鞄、椅子その他すべての家具、石鹸、帽子、鳥打帽子、
マッチ、及び多数ではないが、ある種の機械が陳列してあった。
 
海軍兵学校の出品は啓示だった。
大きなケーブル、ロープ、滑車、船の索具全部、
それから特に長さ十四フィートで、どこからどこまで完全な軍艦の模型と、
浮きドックの模型とが出ていた。

写真も沢山あって、皆美術的だった。日本水路測量部は、
我国の沿岸及び測量部にならった、沿岸の美しく印刷した地図を出していた。

学校用品は実験所で使用する道具をすべて含んでいるように見えた。
即ち時計、電信機、望遠鏡、顕微鏡、哲学的機械装置、電気機械、
空気ポンプ等、いずれもこの驚くべき国民がつくったものである。

■熱心な学生たち

発掘品の一部
発掘品の一部

9月11日

大学の正規な仕事は、今朝8時、
副綜理ドクタア浜尾司会の教授会を以て、開始された。

午後には先任文部大輔が、大学の外人教授たちを、
上野公園の教育博物館へ招いて接待した。

我々の持つ教育制度を踏襲した日本人が、
その仕事で使用される道具類を見せる博物館を建てるとは、
何という聡明な思いつきであろう。

ここに、毎年の予算の殆ど3分の1を、教育に支出する国民がある。
それに対照して、ロシアは教育には一パーセントと半分しか出していない。

いろいろな広間を廻って歩いた後、大きな部屋へ導かれると、
そこにはピラミッド形のアイスクリーム、菓子、サンドウィッチ、
果実その他の食品のご馳走があり、芽が出てから枯れるまでを通じて
如何に植物を取扱うかを知っている世界唯一の
国民の手で飾られた花が沢山置いてあった。

これは実に、我国一流の宴会請負人がやったとしても、
賞賛に価するもので、この整頓した教育博物館で、
手のこんだ昼食その他の支度を見た時、我々は面喰って立ちすくみ、
「これが日本か?」と自ら問うのであった。

9月12日

私は最初の講義をした。
私の学級は45人ずつの2組に分かれているので、
一つの講義を二度ずつしなくてはならず、これは多少疲労を感じさせる。

私はもう学生達に惚れ込んでしまった。
これ程熱心に勉強しようとする、いい子供を教えるのは、実に愉快だ。
彼等の注意、礼儀、並に慇懃な態度は、まったく霊感的である。

特に注目に価するのは、彼等が、
私が黒板に描く色々な動物を、素早く認識することである。
これ等の青年は、サムライの子息達で、大いに富裕な者も、
貧乏な者もあるが、皆、お互いに謙譲で丁寧であり、
また非常に静かで注意深い。

一人のこらず、真黒な頭髪、黒い眼、
そして皆青味を帯びた色の着物を着ているが、
ハカマが如何にも半分に割れたスカートに似ているので、
まるで女の子の学級を受持ったような気がする。

■貝塚発掘の様子

横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、
線路の切割に貝殻の堆積があるのを、通行中の汽車の窓から見て、
私は即座にこれを本当の貝墟であると知った。
私はメイン州の海岸で、貝塚を沢山研究したから、
ここにある物の性質もすぐ認めた。

当日(10月16日)朝早く、私は松村氏及び特別学生二人と共に出発した。
我々は東京から六マイルの大森まで汽車に乗り、
それから築堤までの半マイルは、線路を歩いて行った。

途中私は学生達に向って、我々が古代の手製陶器、細工をした骨、
それから恐らく、粗末な石器を僅か発見するであろうことを語り、
次にステーンストラップがバルティック沿岸で貝塚を発見したことや、
ニューイングランド及びフロリダの貝塚に就いて、簡単に話して聞かせた。

最後に現場に到着するや否や、我々は古代陶器の素晴らしい破片を拾い始め、
学生達は私が以前ここへ来たに違いないと言い張った。
私はうれしさの余りまったく夢中になってしまったが、
学生達も私の熱中に仲間入りした。

我々は手で掘って、ころがり出した砕岩を検査し、
そして珍奇な形の陶器を沢山と、細工した骨片を三個と、
不思議な焼いた粘土の小牌一枚とを採集した。
この国の原住民の性状は、前から大なる興味の中心になっていたし、
またこの問題はかつて研究されていないので、
これは大切な発見だとされている。

■日本人の正直さ 

私はしばしばヤシキの門(そこには常に門番がいる)から出て、
大通りをぶらぶらしたり、横丁へ入ったりして、
いろいろな面白い光景を楽しむ。

昼間は前面をあけっぱなした、小さな低い店、
場合によっては売品を持ち出して、地面に並べたりする。
半日も店をあけて出かけて行ったかも知れぬ店主の帰りを、
15分、20分と待ったこともよくある。

また、小さな、店みたいな棚から品物を取上げ、それを隣の店へ持って行き、
そこの主人に、私がこれを欲したことを、
どこかへ行っている男に話してくれと頼んだこともある。
小さな品をポケットに一枚入れて
逃げてしまうことなんぞは、実に容易である。

このような正直さは、我国の小村では見られるが、
大都会では決して行われぬ。
然るに、何度もくりかえしたかかる経験は、
東京という巨大な都会でのことなのである。

日本人の正直さを示す多くの方面の中の一つに関連して、
我々は、我々の都市では、戸外の寒暖計はねじ釘で壁にとめられ、
柄杓は噴水に鎖で結びつけられ、公共の場所から石鹸やタオルを
持って行くことが極めて一般的に行われるので、
このようないやしい、けちな盗みから保護するべく、容器を壁に取り付けた、
液体石鹸というようなものが発明されたことを忘れてはならぬ。

■大学での講義

1877年10月6日、土曜日。

今夜私は大学の大広間で、進化論に関する三講の第一講をやった。
教授数名、彼らの夫人、並に500人乃至600人の学生が来て、
殆ど全部がノートをとっていた。

これは実に興味があると共に、張合いのある光景だった。
演壇は大きくて、前に手摺があり、座席は主要な床にならべられ、
階段のように広間の側壁へ高くなっている。

佳良な黒板が一枚準備されてあった他に、
演壇の右手には小さな円卓が置かれ、その上にはお盆が二つ、
その一つには外国人たる私の為に水を充した水差しが、
他の一つには日本に於る演説者の習慣的飲料たる、
湯気の出る茶を入れた土瓶がのっていたが、
生理的にいうと、後者の方が、冷水よりは咽喉によいであろう。

聴衆は極めて興味を持ったらしく思われ、
そして、米国でよくあったような、宗教的の偏見に衝突することなしに、
ダーウィンの理論を説明するのは、誠に愉快だった。
講演を終わった瞬間に、素晴らしい、神経質な拍手が起り、
私は頬の熱するのを覚えた。

日本人の教授の一人が私に、
これが日本に於るダーウィン説或は進化論の、最初の講義だといった。
私は興味を以て、他の講義の日を待っている。
要点を説明する事物を持っているからである。
もっとも日本人は、電光のように速く、私の黒板画を解釈するが。

■子供の親切な扱いは世界一

当時の人力車
当時の人力車

昨日の午後、実験室を出た私は、
迷子になろうと決心して、家とは反対の方へ歩き出した。
果して、私は即座に迷子になり、二時間半というものは、
誰も知った人のいない長い町々や狭い露路をぬけて、
いろいろな不思議な光景や新奇な物を見ながら、さまよい歩いた。

晩の5時頃になると、人々はみな自分の店や家の前を掃き清めるらしく、
掃く前に水をまく者も多かったが、これは若し実行すれば、
我国のある町や都会を大いに進歩させることになる、
いい思いつき、且つ風習である。

帰途、お寺へ通じる町の一つに、子供の市が立っていた。
並木路の両側には、各種の仮小屋が立ち並び、
そこで売っている品は必ず子供の玩具であった。

仮小屋の番をしているのは老人の男女で、
売品の値段は一セントの十分の一から一セントまでであった。
子供たちはこの上もなく幸福そうに、仮小屋から仮小屋へ飛び廻り、
美しい品々見ては、彼等の持つ僅かなお小遣いを何に使おうかと決めていた。

一人の老人が箱に似たストーブを持っていたが、
その上の表面は石で、その下には炭火がある。
横手には米の粉、鶏卵、砂糖、
つまりバタア(麺粉、鶏卵、食塩等に牛乳を加えてかきまわしたもの)
の混合物を入れた大きな壷が置いてあった。

老人はこれをコップに入れて子供達に売り、小さなブリキの匙を貸す。
子供達はそれを少しずつストーブの上にひろげて料理し、
出来上がると掻き取って自分が食べたり、
小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたりする。

台所に入り込んで、しょうがパンかお菓子をつくった後の容器から、
ナイフで生麺の幾滴かをすくい出し、それを熱いストーヴの上に押しつけて、
小さなお菓子をつくることの愉快さを思い出す人は、
これ等の日本人の子供のよろこびようを
心から理解することが出来るであろう。

老人の仮小屋は移動式なので、彼は巨大な傘をたたみ、
その他の品々をきっちり仕舞い込んで、別の場所へ行くことが出来る。
これは我国の都市の子供が大勢いる所へ持って来てもよい。
これに思いついて、貧乏な老人の男女がやってもよい。

別の小屋では子供達が穴から何らかの絵をのぞき込み、
一人の老人がそれ等の絵の説明をしていた。
ここでまた私は、日本が子供の天国であることを、くりかえさざるを得ない。

世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、
そして子供のために深い注意が払われる国はない。

ニコニコしている所から判断すると、
子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。
彼らは朝早く学校へ行くか、家庭にいて両親を、
その家の家内的の仕事で手伝うか、
父親と一緒に職業をしたり、店番をしたりする。
彼等は満足して幸福そうに働き、私は今迄に、
すねている子や、身体的の刑罰は見たことがない。

彼らの家は簡単で、引張るとちぎれるような物も、
けつまずくと転ぶような家具もなく、
またしょっ中ここへ来てはいけないとか、これに触るなとか、
着物に気をつけるんだよとか、やかましく言われることもない。

小さな子供を一人家へ置いて行くようなことは決して無い。
彼等は母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、
とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、
そして行われつつあるもののすべてを見物する。

日本人は確かに児童問題を解決している。
日本の子供程、行儀がよくて親切な子供はいない。
また、日本人の母親程、辛抱強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。

私は松浦から、日本の学生達は一緒になると、乱暴な口を利き合ったり、
隠語を使ったりするのだという事実を引き出し、
更に私は、彼等が米国の学生と同様、
外国人の教授達に綽名(あだな)をつけていることを発見した。

一番年をとった教授は「老人」、四角い頭を持っている人は「立方体」、
頭が禿げて、赤味がかった、羊の肋肉に似た
頬髭のある英国人の教授は「烏賊」である。

松浦は、両親達が大学へ通う子供達の態度が無作法になることに気がつき、
彼等自身も仲間同志で、何故こう行為が変化するのか、
よく議論したといった。

私は更に松浦に向かって、少年は本来野蛮人なのだが、
家庭にいれば母親や姉に叱られる、然るに学校へ入ると、
かかる制御から逃れると同時に、復誦へ急いだり、
ゴチャゴチャかたまったりするので、
いい行儀の角々がすりへらされるのだと話した。

日本の学生及び学生生活に就いては、大きな本を書くことが出来る。
ヘージング(新入生をいじめること)は断じて行わぬ。

先生に対する深い尊敬は、我国の大学の教授が、例えば黒板に油を塗るとか、
白墨を盗むとか、あるいはそれに類したけちな悪さによって蒙る、
詰まらぬ面倒から教授を保護する。

我国で屡々記録されるこの非文明で兇猛な行動の例証には、
プリンストン大学の礼拝堂から聖書と賛美歌の本を盗み出し、
ハーヴァードのアップルトン礼拝堂の十字架に、
一人の教授の人形を磔にしたりしたような、
我国の大学生の不敬極まる行動や、仲間の学生をヘージングで不具にしたり、
苦しめたり、死に至らしめたりさえしたことがある。

日本の男の子は、我国の普通の男の子達の間へ連れて来れば、
誰でもみな「女々しい」と呼ばれるであろう。
我国では男の子の乱暴な行為は、
「男の子は男の子」という言葉で大目に見られる。
日本では、この言葉は、「男の子は紳士」であってもよい。

日本の生活で最も深い印象を米国人に与えるものは、学校児童の行動である。
彼等が先生を尊敬する念の深いことは、
この島帝国中どこへ行っても変わりはない。

メイン、及び恐らく他の州の田舎の学校で、
男の子たちが如何に乱暴であるかは、先生が彼等を支配する為に、文字通り、
彼の道を闘って開拓しなければならぬという記録を、
思い出すだけで充分である。

ある学校区域は、職業拳闘家たる資格を持つ先生が
見つからぬ以上、先生なしである。
日本に於ける先生の高い位置を以てし、また教育に対する尊敬を以てする時、
サンフランシスコ事件、日本人学童が公立中小学校から追放された程、
残酷な打撃をこの国民に与えたことはない。

ここにつけ加えるが、日本人はこの甚深な侮辱を決して忘れはしないが、
このようなことを許した政治団体の堕落を理解して、そのままにしている。

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●『英国公使夫人の見た明治日本』メアリー・クロフォード・フレイザー著
1889年(明治22年)4月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人
◆用語解説【華族】とは、日本近代の貴族階級(1869年~1947年)のことで、
公家華族、皇親華族(元皇族)、大名華族と、
国への多大な功労により華族に加えられた新華族(勲功華族)の4つがある。
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■1890年3月・雛祭り

私がある華族の名家の少女を訪問していた時のことです。
それは彼女の母親が主催する招待日で、
きれいな茶会テーブルの上の茶碗のかたわらに、
雛祭りにだけ用いられる濃い白酒の小さな瓶がいくつか並んでおりました。

私がその部屋に入って2、3分にもならないころ、彼女が言いました。
「人形をご覧になられますでしょうか?
別の部屋においで下さる労をおかけしますことをどうかお許しください」。
そしてこの日のヒロインである5歳の小さな女の子は、
私の前に立って案内するのでした。

彼女は瑠璃色の縮緬を着ていましたが、その裾は淡い青に、
肩は濃い紫をおび、かわいらしい模様の刺繍が金糸でほどこされ、
高貴な緋と金の帯がしめられていました。

頭上につややかに結いあげられた髪は、宝石をちりばめたピンで止められ、
そしてまるいふたつの頬には紅がやや目立って掃かれていました。
完璧に落ち着きはらって彼女は私の手を取り、奥の間へ導いてくれました。

そこですばらしい光景に目を奪われたのです。
深紅の綾で覆われた階段状の棚に幾百もの人形が並べられ、
もっとも熱心な人形愛好家のみが夢想しうるような家具や調度も揃っていました。

いずれの組も、天皇と皇后は廷臣全員にかこまれて玉座に坐っているのです。
将軍も大臣も楽師、舞い手たちも皆、はるか昔の衣裳です。
腰掛けや床机、絵の描かれた屏風、金蒔絵の什器、そして楽器や武具、
すべてが、西洋のもっともすばらしい骨董品をも凌ぐ、
あくなき出費と凝りに凝った仕上げでつくられているのです。

このようなみごとな骨董品にまじって
今出来のフランスやイギリスの人形が置いてあるのは、妙な気がします。

でもこの小さなレディーはコスモポリタンな趣味の持ち主で、
ネジをまかれると歩いたり歌ったりする生き物をとくにめでるのでした。
これらのお雛様たちすべてを讃嘆し、それらをみごとに並べたことについて、
彼女にお祝いの言葉を言った後、私は彼女に、
この厖大な数の人形のなかでどれがお気に入りかしら、とたずねてみました。

まことの日本人の血を受けつぐ彼女は、ただちに、この前のクリスマスに
私からもらった湯舟に浮かぶ陶器の赤ん坊を指さしました。
それから一瞬ためらった後、
フランス公使夫人から届けられた豪華なパリ娘の人形を指したのでした。

日本の女の子!彼女はあまりに多くの魅力的な矛盾をもつ生き物です。
暖かい心と敏捷な頭脳、それでいて恐ろしくせまい経験。

第二の天性となった従順さと控え目。
それでいて彼女のもともとの天性が再び優位に立ち、
勇気が慣習より強すぎる時の、彼女の勇敢な反抗。

私が読んだ日本についての書物はつねに、
庶民の、かわいい茶店の少女ムスメーや、芸術家にして踊り子、
かの機知に富む日本の聡明な高級娼婦ゲイシャについて、
じつに多くのことを語っていました。

でも思うに、ミュージック・ホールの歌手が
ヨーロッパの慈善修道女を代表しえないように、
こういったムスメーやゲイシャは
普通の日本女性を代表してはいないでしょう。

このような女性たちが西洋の同等の階層よりもはるかに不快でないのは、
疑いもなく、日本の女性の生来の洗練によるのです。

思うにこの国では、幼い時期に送る単純で伸びやかな暮しが、
いわば人生を始めるための幸福な基礎を彼女たちにあたえるようです。
叱られることも、罰せられることも、
子供部屋で屈辱を受けることもありませんし、
生半可な教育しか受けていない我がままな子守女と
退屈な子供部屋にくる日もくる日も閉じ込めておかれる、
というようなこともありません。

この国では子供たちはいつも大事にされるのです。
好きな時に行ったり来たりしますし、父や母や親戚や使用人たちに、
“甘やかされ”ます。もし愛情を“甘やかし”と言うのでしたら。

まことの女性らしさという点で、それを私は分別と優しさとの、
そして勇気と謙譲との高度な結合という意味で使うのですが、
日本の女性は世界のどの女性とも並びますし、
たいていのばあい、さらにすぐれているのです。

■1889年8月1日・熱海 

夕方近く、私たちが旅の疲れから回復したはずのころを見計らって、
樋口夫妻(宿の主人)が、私たちの熱海到来を威儀を正して
歓迎する意をあらわそうとやってきました。

娘のオデツ(オテツ)もついてきました。
彼女が私に話すには、横浜のアメリカン・スクールで教育を受けたとのこと。
たしかに彼女は英語が少し話せましたので、
両親のために通訳するのに大いに役立ちました。

オデツは、私がアメリカ料理が好きであると聞いて、
たいへん嬉しそうでした。
そして、その後3週間の逗留のあいだ、私たちに適切な食事をあたえようと、
その才覚のかぎりを尽してくれました。

もっともメニューの方は、時々、思わず首をかしげる言葉が並んでいました。
たとえば、つぎのような品々では、ほとんど不安にかられてしまいます。

Currots Soup:キュロット(ズホン)・スープ
Fish fineherbs:魚の香草風味
Beef Tea Pudding:滋養強壮肉汁プディング
Boiled Sponge:スポンジ煮込み
Eclairs ala Oujam:ウヤムヤ・エクレア
Fish Squeak:魚チューチュー
Dam Pudding:貯水池プディング

もちろんこれらは、ひどいヨーロッパ語が使われていることを
わかってもらおうと、少し書き足しただけです。

■中国観や皇后陛下の慈善事業

1889年6月

東京で出されている新聞のひとつに、「日々新聞」というのがありますが、
最近、日本と中国の相互関係について、
きわめて公正な評論を発表しております。

私がそれに興味を持ちますのは、
私たちがこちらへくる前に、ずいぶん長く中国にいたからです。

船でただの5日の隔りでしかありませんが、中国はこれまでのところ、
現代の日本についてはっきりした考えを持っているとは、
けっして申せません。

中国は、自分より年若いこの国民にたいして、
一定の威張った気持を捨て去ることができないのです。
たしかに日本は、かつて中国の熱心な生徒ではありました。
しかし何度も主張されていますように、
けっして中国に貢ぎ物を運ぶ国ではなかったのです。

「日々」の記者は、中国問題を扱う際に慎重さが
なによりも必要であると力説します。

というのは、中国はなかば嫉妬から、またなかば日本への軽蔑から、
いつでも喧嘩の種を拾いあげる態勢にあり、これは双方にとり、
きわめて不都合なことになりかねない、と言うのです。

他方、日本は中国と闘って
いまだ負かされたことがないという誇らしい自意識と、
隣国が日本をゆえなく軽蔑しているに違いないという
不快な確信とを合体させているとものべています。

喧嘩はさし迫っているように思われますが、記者は賢明にも、
同胞にたいして、それが双方になんの益ももたらさないこと、

そして西洋列強に、調和を回復させるという名目で、
領地を奪い影響力をのばす機会をあたえるだけだ
ということを想起させています。

中国人は、現代の日本人とは、
ほとんどなにも共通のものを持たないように思われます。
そして、そして、
私たちが「天上国」の外交官たちに公式の晩餐会で会いますと、
彼らは休戦旗を掲げて敵中に暮らす人々といった風情で、しかも、
そのような事態をけっして喜んではいない、という印象をあたえます。

私はこの前の手紙で皇后陛下が慈善事業に
たいへん興味を持っておられることを話しました。
ご自身の創設になる施設、東京慈恵会病院のために
自ら特別の援助をされた方法について、
少し胸を打つ、ささやかな説明が公表されました。

この病院の活動は、その施設よりも大きくなりすぎ、
新しい建物が絶対に必要となっていました。
そこで皇后は、寄付をお考えになるにあたり、ご自身の個人的支出、
それは慈善活動のために、つねにかなり苦しいものでしたが、
をできるかぎり切りつめることから始められました。

その結果、8446ドル(円)と8厘という相当な額を、病院に贈られたのです。
10厘が1銭、100銭で1ドル(円)で、
それはだいたい2シリングにひとしいのです。ですから、
どんなにすばらしいご自覚のもとに倹約を実行されたかがおわかりでしょう。

皇后付きの女官のひとりからうかがったのですが、陛下は昨年、
「手袋片方も、ハンカチーフ一枚も」ほとんどお求めにならず、
ほしい助けも受けられない病気の人々のことを考えられるだけで、
深く胸を痛めておられたとのことです。

皇后はあちこちの病院を何度も訪ねられ、
そのつど、どの病棟のどのベッドのかたわらにもたたずまれ、
患者にやさしいお言葉をかけられるのです。

このご行程は、だいたい朝9時に始まり、1時まで続けられ、
軽い昼食をとられた後、再び病棟にもどられて5時ごろまで続けられ、
そのころにはさすがの皇后もお疲れになったことを自ら認められ、
お供の女官たちも
「私たちの足がどこにあるのかわかりませぬ」と申すことになります。

皇后陛下は、病院にたいしてと同様に、
女子教育についても多くのことをしてこられました。
そして、英国とアメリカの夫人たちが
かなりの教科を担当している華族女学校は、皇后によって創立されたのです。

日本の少女たちは高等教育がたちまち好きになり、
学位免状を得ようと熱心に勉学しています。
この進歩がもたらした興味深い帰結のひとつは、
「道徳矯正会」とかいう日本女性の集まりで、
その大部分はキリスト教徒です。

彼女たちは集会を開き、著名な男性を招いてその講演を聞き、そして目下、
結婚に関する法律の改正をもとめて政府に請願しようと準備しています。

その言い分とは、夫の不貞も妻の場合におけると同様
きびしく罰せられるべきであるというもので、
この国の現行法では、妻の不貞に対する刑のみきわめて重いのです。
なお、日本では、減少しているとはいえ、
まだ習慣として存在し合法的でもある畜妾ということについて、
彼女たちがどのように対処しようとしているのかは発表されておりません。

この習慣にたいして、キリスト教徒でない妻はほとんど怒らないのです。
というのは、妾の身分がいかなるかたちであれ、
妻の権利や威厳を妨げることは許されていないからです。

しかしキリスト教徒の女性には、もちろんこの問題への別の見方があります。
ただ私は、これらの課題について、
私の日本の姉妹たちにひとこと申し上げたいのです。
それは、男性のモラルもあるていど引き締められ、
女性関係も法によって規制されるべきだともとめたのは
日本の女性だけではないということです。

そして、その要求にたいして、可能な解答は、
東洋の女性から出されるのであれ、
西洋の女性からであれ、ただひとつなのです。
それはつぎのことです。

貞潔な生活を強制しうる法律があるとすれば、
神の手になるもの以外にありません。
でも、あなたの夫の心の最良の警察官は、あなた自身なのです。
もしあなたが、彼にあなたを、あなただけを愛するようにさせるやさしさや
機知を持ちあわせていないのでしたら、
いくら判事さんたちに助けをもとめても、むだというものです。

■明治日本の子供たちのしつけを見て

1891年(明治24年)1月・東京

前年のクリスマスに招待した公使館内の子供たちと同様、
今度集まった日本の小さな子供たちもこの飾りに目を見張り、
ずいぶん喜びました。

館の大広間の奥に、大きな階段が三回折れ曲がって
四角い空間をつくっているところがあり、
いつもはそこに鉢植えや安楽椅子が置いてあるのですが、
それらをのけて、ツリーを据えたのです。・・・・・
 
このような準備は、お客様全員が到着し、
私たちの東京の仲間が勢ぞろいするまでは、
カーテンで玄関のホールからいっさい見えないようにしてありました。

そして、合図とともに、陰に隠れていた合唱隊が古い
クリスマス・キャロルを歌い始めてから、カーテンが開かれ、
光のピラミッドが煌々と輝きわたったのです。

この世のものではないかのような眺めに、
広間の隅から隅まで歓声が響きわたりました。
それを耳にして、私も、またこの厄介で疲れる準備を
快く助けてくれた多くの友人も、すっかり報われた気がしました。

その後は私たちのささやかなプレゼントを配る仕事でした。
何しろ親たちのほかに子供だけで少なくとも二百人はおりましたから、
気を遣いました。
それから後の光景はツリーにも負けないくらい美しく思われました。

私たちの家はこのような集まりをするには少々せまく、
一階の使える部屋はすべて大人のお客様用の食堂にあてられました。

そこで、子供用の食事は、一階大広間の端から端までを見おろす
三階の回廊に並べることになりました。
回廊は緑葉の輪飾りと数々のランタンで装いをこらし、
そこに各国の子供が並んで坐り,ボンボン(球糖菓)や
クラッカーを食べながら仲良しになったのです。・・・・

子供の美しい大部隊の周りにたいへんな数の大人が群がっていましたので、
ほとんど給仕が行き来できないほどでした。
けれども、ヨーロッパの子供はしっかり自分たちで
食べ物にありついていましたし、
日本の上流階級の子供たちの方は人前では物を食べないのです。
彼らは礼儀上、ボンボンをつまむことはあっても、
知らない人の前で食べ物に執着したり食べたりすることは、
作法に反するのです。

ついさきごろまで彼らは、自分たちの宴席のご馳走というものは、
美しい折り詰めにして馬車に運ばれたり、引き揚げた後、
自宅へ届けられたりするものと考えていました。
その習慣のなごりのおかげで、
私は宮中の盃をかなり収集することができました。

主人のヒューが天皇陛下の昼食や晩餐にあずかる時は、
かならず盃のひとつが御料紙に包まれて馬車のなかまで運ばれるのです。
それぞれわずかなデザインの違いはありますが、いずれも、
金の菊花をあしらった透き通るほど薄い白磁でできています。・・・・

日本の子供たちに話をもどしましょう。
たしか去年、使用人の子供たちが
どんなに魅力的にふるまったかを書きましたね。

あのクリスマスツリーは今年も彼等のために飾られたのですが、
私は、去年見た使用人の子供たちの行儀と、
今年招いた貴公子たちのそれとを比べて嬉しくなりました。

そう、貴公子たちの方が物腰がやや重々しく、
見映えははるかに良かったという点を除けば、
ふたつの階層のいずれが勝れているということはありませんでした。

どちらもおなじようにものやわらかな落ち着きを示し、
贈り物を頂く時には一様に静かな感謝をあらわし、
自分を抑えて他人を思いやるについても、なんらの差はありませんでした。

思うに、子供時代の折々の輝かしい幸福を奪うことなしに、
いかなる環境にある子供にも完全な礼儀作法の衣を纏わせる
この国の教育制度は、大いにほめられるべきです。
これに匹敵する例は、オーストリアやイタリアの幼い王子王女のあいだで、
一、二度見かけた以外、ほとんど見たことがありません。

かつてオーストリアやイタリアのカトリックの王家や貴族の家では、
つねに高度な立居振舞いの規範が強いられたことに加えて、
家の伝統や雰囲気といったものが圧倒的で、
子供は生まれた時から、それらの影響のもとに人格を形成したものです。

こちらでは、うまく説明できないのですが、
しつけというものが血のなかに流れていて、
例外なく外にあらわれてくるのです。

日本の子供が、怒鳴られたり、罰を受けたり、
くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆくのは、
見ていてほんとうに気持のよいものです。

彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、
その性格の悪いところを抑え、
あらゆる良いところを伸ばすように思われます。

日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、過ちを隠したりはしません。
青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、
一緒に喜んだり癒してもらったりするのです。

そして子供のちょっとした好き嫌いは、
大人の好き嫌いに劣らず重要視されます。
じっさい、ものごころがつくかつかぬかのうちに、
日本の子供は名誉、親切、孝行、そして何よりも愛国心といった原則を、
真面目かつおごそかに繰り返して教えられます。
我が英国の小学生ならば、
小馬鹿にして笑いころげるところでしょうが。・・・・・・

ここにあげた抽象概念――それらは今日の英国なら、
自分の弱点を照れながら言い繕うのに用いられるだけですが
――にたいする一途な信頼が、今もって日本の教育の根幹をなし、
子供の教育にあたって親や教師に強さと威厳をあたえています。
そんなことは我が英国のみじめな校長たちにはとうていかなわぬ夢です。

私は英国でそのような不幸な先生を数多く見てきましたが、
まだひとりとして生徒から信頼されている人に会ったことがありません。
彼等はせいぜいのところ、年長組の生徒からは余裕たっぷりに、
「おいぼれの何某はひどい嘘つきだが、
こっちが大人になって恐くなくなれば、どうってことないさ」
などと寛大なところを示されます。

また年少組の生徒は、自分たちの主たる虐待者がたいてい善について
説教する者でもあるために、道徳はいっさい混乱し、
ただただそのような教師たちを憎み恐れるばかりです。

これが我が英国の教師が生徒から期待できる態度であり、
かの結構なるプロテスタントの英国で私が長年見てきた
ぞっとするような光景なのです。

ですから、日本にきて私は言いようのない安堵を覚えました。
ここでは、教師がいまだに崇敬され、校長の地位は、
大貴族の長男でも喜んで就くほど尊いものとされているのです。

偉大な人物や事物への尊敬の念にこそ日本民族のまことの強さがあります。
この強さは近代的な軍備や立法によって
いっそう支えられることになるのかどうかはわかりません。

しかし、この強さは、将来もとめられる時にはかならず役立ち、
けっして悪によって征服され尽すことはないと信じます。

■「大津事件」当時の日本 (ロシア皇太子が襲撃された事件)

1891年6月・東京

5月11日、もっとも恐ろしい打撃がこの不運な国を襲いました。
そして数週間が過ぎた今でさえ、
それ以外のことを考えることも話すこともでません。

ご来日があれほど熱望され、その歓待には帝国が万策を尽すこととなり、
その人にはかつていかなる外国の王子も受けたことのない栄誉をと、
天皇陛下がお考えになっておられたあのロシアの皇太子殿下が、
沿道の警備にあたっていた巡査のひとりに襲われ、
瀕死の重傷を負われたのです。

ロシア皇太子は琵琶湖をご覧になるため京都を出発されていました。
この湖の近辺の周遊の際にたいてい基地とされる大津という名の小都市で、
県知事とともに昼食をとられました。

その地方の道路では馬車が通ることができないので、皇太子と随員たちは、
一台をふたりの車夫が引く人力車にお乗りになりました。

道の両側には任務遂行に信頼が置ける選り抜きの警察官たちが
短い間隔をおいて並んでいました。
しかし彼等の働きが現実に必要となることなど、
誰も夢にも思いませんでした。

少しの妨害も受けることなく、
外国人がこの帝国の端から端まで旅行できるということが、
新生日本の自慢なのです。
その上、この外国人は、敬愛される天皇陛下の賓客なのでした。

並んでいた警官のなかに津田三蔵という男がいました。
かつて陸軍曹長だった男で、西南戦争での働きによって勲章も受けています。

皇太子が彼の前を通られた時、彼はそのすばらしい日本刀を抜き、
皇太子の頭へ必殺の打撃を加えようとしたのです。
人力車はかなりの速度で走っていたため、
刀は滑って帽子を切り、そのままもう一箇所に傷を加えたのです。
 
それから津田自身が倒れた時、刀も地面に落ちたのです。
というのは、車夫のひとりがかじ棒を降ろして
巡査に素手で飛びついていったためで、
もうひとりの車夫はその刀をつかんで、
暗殺者が最初の車夫と格闘しているあいだに、
彼にはげしく切りつけたのです。

皇太子ご自身は、流れる血で眼が見えなくなりながらも、
人力車のかじ棒が降りた時に飛び降りられ、
知事や他の日本の役人たちが乗っている人力車の方へ走られました。

ただちに知事は皇太子に手を貸し、
かたわらの開いていた店の中へとお連れしました。

一方、行列は大混乱に陥っていました。
護衛たちが津田に飛びかかり、捕り押さえました。
そして翌朝早く、国じゅうの悲嘆と憤慨の騒乱のなかを、
天皇陛下ご自身が供奉員全員をしたがえ、京都へむかわれました。

また一方、ご不運な若い皇太子を助けることも襲撃者を罰することも、
ご自分では何もおできにならない方がひとりおられました。
すぐれてお優しい皇后陛下は、そのお育ちゆえのご自制も、
そのお立場上あらゆる機会に示してこられたこの上ない穏やかさも、
すべてお忘れになられ、その悲惨な一夜が明けるまで、
悲しみの涙のあふれるまま心底から泣き続けられ、
往ったり来たりされました。

私にこのことを教えてくださった方のお話では、
皇后陛下はその晩だけでなく、
さらに幾日もただ泣いてばかりおられたそうです。

たしかに日本は世界じゅうの目に恥辱をさらし、友人を期待したところに、
たぶん辛らつな敵しか見出せないような運命に落ち込んだわけですが、
皇后陛下が泣いておられたのは、
このような自国の状態に絶望されたからではありませんでした。

当初、これらのことは陛下のお心にはなく、
ただ若者とその母君のことだけを考えておられたのです。

「かわいそうなお母様、かわいそうなお母様!
お子様に会うことができないなんて!
お子様がご無事だとはお信じになれないでしょう!かわいそうなお母様!
どのようにして私はあなたをお慰めしたらよいのでしょう?」

これがすべてでした。
そして他人の前でけっして表情をおかえにならず、
またどのようにささいな弱さもお見せにならないはずの皇后陛下が、
涙がお顔を伝うままに、檻に入れられた動物のように美しい部屋から
部屋へと歩きまわられたのでした。

ロシア皇后宛につぎつぎと通信が送られ、
その心痛をお察ししての皇后陛下の深いご同情をお伝えするとともに、
ロシア皇太子は母君がおそばにおられる時と同じように手厚く看護し、
お世話申し上げることが約束されました。

旅行されるのにじゅうぶんなほどショックから回復されるや、
ただちに皇后陛下は負傷された皇太子を見舞われ、
殿下は陛下のご心痛とご親切に強く心を打たれたのです。

皇太子はつねに王子として、また紳士としてふさわしい態度を通されました。
そのお声にも動作にも、
恨みに思っておられるご様子は少しも見られませんでした。

そしてあの凶暴な企てのために国民の悲しみと同情がこれほどまでに、
あふれるばかりに示されたので、
皇太子は生涯それをお忘れになることはできないでしょう。

そして天皇陛下も、ご自分の国民がいかに陛下に
ご同情申し上げているかをお知りになったのは、
つぎのようなことが起こってからではなかったかと思われます。

すなわち陛下が深くお嘆きになり臣民の罪を
悲しんでおられるとの公表があると、
何百万人という全人民がその仕事や遊興を止め、農地を離れ、
店を閉め、遊山や歌舞音曲から転じて陛下とともに悲しんだのです。

このようなことを、私は目にしたことがありません。
忠誠という教科を今私が学んでいることがおわかりになるでしょう!

劇場は閉められ、店や市場に人影が消えました。
いたるところで人々が集まり、深い悲しみをこめて話しあっていました。
外務大臣の青木子爵の小さなお嬢さんは10歳ですが、
襲撃の知らせに顔をこわばらせ、黙って自室に籠もってしまいました。
部屋の中で彼女は何時間も床にころがり、悲しみと恥辱に悶え苦しみ、
「私は日本人だわ!こんな恥を受けて私は生きていかなければならないの!
できない――私にはできないわ!こんなことには耐えられないわ!」
と嘆き続けたのです。

ロシア皇太子の船に乗られた人々の話では、
その船は贈り物で沈むかと思われるほどだったそうです。
甲板も通路も贈り物でふさがり、
それでもまだ引きも切らずに届けられるのです!

こころざしがあらゆる層にわたり、しかも自発的であることで、
それらの贈り物の価値はかけがえのないものでした。
当地におられる皇太子も本国のご両親も
そのことをすぐにお認めになりました。

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●『日本奥地紀行』イザベラ・バード著 (英国婦人)

■日光金谷家とホテル(現在の日光金谷ホテルの前身)
1878年(明治11年)6月15日~

当時の金谷家
当時の金谷家

私が今滞在している家について、どう書いてよいものか私には分からない。
これは、美しい日本の田園風景である。

家の内も外も、人の目を楽しませてくれぬものは一つもない。
宿屋の騒音で苦い目にあった後で、
この静寂の中に、音楽的な水の音、鳥の鳴き声を聞くことは、
ほんとうに心をすがすがしくさせる。

家は簡素ながらも一風変わった二階建てで、
石垣を巡らした段庭上に建っており、人は石段を上って来るのである。
庭園はよく設計されており、牡丹、あやめ、
つつじが今花盛りで、庭はとてもあざやかな色をしていた。

金谷さんの妹は、たいそうやさしくて、上品な感じの女性である。
彼女は玄関で私を迎え、私の靴をとってくれた。
二つの縁側はよく磨かれている。
玄関も、私の部屋に通ずる階段も同じである。
畳はあまりにきめが細かく白いので、靴下をはいていても、
その上を歩くのが心配なくらいである。
磨かれた階段を上ると、光沢のあるきれいな広い縁側に出る。
ここから美しい眺めが見られる。

金谷さんは神社での不協和音(雅楽)演奏の指揮者である。
しかし彼のやる仕事はほとんどないので、
自分の家と庭園を絶えず美しくするのが主な仕事となっている。

彼の母は尊敬すべき老婦人で、彼の妹は、
私が今までに会った日本の婦人のうちで二番目に最もやさしくて
上品な人であるが、兄と一緒に住んでいる。

彼女が家の中を歩きまわる姿は、妖精のように軽快優雅であり、
彼女の声は音楽のような調べがある。
下男と、彼女の男の子と女の子を入れて一家全員となる。
金谷さんは村の重要人物で、たいへん知性的な人である。

近ごろ彼は、収入を補うために、
これらの美しい部屋を紹介状持参の外国人に貸している。
彼は外国人の好みに応じたいとは思うが、趣味が良いから、
自分の美しい家をヨーロッパ風に変えようとはしない。

個人の家に住んで、日本の中流階級の家庭生活の
少なくとも外面を見ることは、きわめて興味深いことである。

■日光 入町 6月23日

当地における私の静かで単調な生活も、終わりになろうとしている。
人々はたいそう静かで優しい。ほとんど動きがなさすぎるほどである。

私は村の生活の外面を少しばかり知ることができるようになった。
私はこの土地が全く好きになった。

入町村は、今の私にとっては日本の村の生活を要約しているのだが、
約300戸から成り、3つの道路に沿って家が建てられている。
道路には、四段や三段の階段がところどころに設けてある。
その各々の真中の下に、速い流れが石の水路を通って走っている。
これが子どもたち、特に男の子たちに限りない楽しみを与えている。

彼らは多くの巧妙な模型や機械玩具を案出して、水車でそれらを走らせる。
しかし午前七時に太鼓が鳴って子どもたちを学校に呼び出す。
学校の建物は、故国(英国)の教育委員会を辱めないほどのものである。

これは、洋式化していると私には思われた。
子どもたちは日本式に坐らないで、
机の前の高い腰掛に腰を下ろしているので、とても居心地が悪そうであった。
学校の器具はたいそうよい。壁には、りっぱな地図がかけてある。

金谷さんはこの村の村長で、
神社音楽であるキーキーという不協和音を演奏する指揮者でもある。
彼はまた、どこか人の分からない裏の場所で薬を調合し、それを売っている。
私がここへ来てからは、庭園をきれいにするのが彼の主な仕事である。

彼は、堂々たる滝を作り、流れる川を作り、小さな池や、
竹で丸木橋をこしらえたり、草の堤をいくつか作り、
大きな木を何本か移植した。
彼は親切にも私と一緒によく出かけてくれる。

ある晩、私は家族の仲間に入るように誘われた。
彼らは私に絵本や案内書を見せて楽しませてくれた。
日本ではたいていの地方に案内書がある。
名所の木版挿絵があり、旅程や宿屋の名前、
その地方についての知識などがのっている。
ある絵本は縮緬でりっぱに作られてあり一世紀以上も古いものであった。

古い蒔絵や磁器、古風な錦織などを、私のために出して見せてくれた。
非常に美しい楽器も見たが、二世紀以上も昔のものだという。
これらの宝物は、家の中に置いてあるのではなく、
すぐ傍らの蔵という防火倉庫にしまっておくのである。

部屋をごたごたと装飾品で飾るということはなく、
一枚の掛物、りっぱな漆器や陶磁器が数日出ていたかと思うと、
こんどは別の品物がとって代る。

だから簡素さはもちろんのこと、変化に富む。
他に気を散らすことなく、
美術品を代わるがわる楽しむことができるのである。

金谷さんとその妹は、しばしば晩に私を訪れる。
そこで私は、ブラントンの地図を床の上にひろげて、
新潟へ向う驚くべき道筋を計画する。

しかし、途中に山脈があって通り越す道がないことが分かると、
急に計画を断念するのが常である。
これらの人々はきわめて安楽に暮らしているように思われるのだが、
金谷さんは、お金がないと言って嘆く。
彼は金持ちになって外人用のホテルを建設したいと思っている。

彼の家で宗教の片鱗を示すものは、ただ神棚(仏壇?)である。
神棚には、神社のお宮に似たものが立っており、
亡くなった身内のものの位牌が入っている。
毎朝その前に常緑樹の小枝と御飯と酒が置かれ、
夕方になると、その前に灯火がともされる。

■初めて見る外国人

外国人がほとんど訪れることもないこの地方では、
町のはずれで初めて人に出会うと、
その男は必ず町の中に駆け戻り、「外人が来た!」と大声で叫ぶ。

すると間もなく、老人も若者も、着物を着た者も裸の者も、
目の見えない人までも集まってくる。

宿屋に着くと、群衆がものすごい勢いで集まってきたので、
宿屋の亭主は、私を庭園の中の美しい部屋へ移してくれた。

ところが、大人たちは家の屋根に登って庭園を見下ろし、
子どもたちは端の柵にのぼってその重みで柵を倒し、
その結果、みながどっと殺到してきた。

私は、宿を出ると、1000人も人々が集まっているのを見た。
これら日本の群集は静かで、
おとなしく、決して押しあいへしあいをやらない。

(次の宿を)朝早く起き、ようやくここを出発することができた。
2000人をくだらぬ人々が集まっていた。
私が馬に乗り鞍の横にかけてある箱から
望遠鏡を取り出そうとしたときであった。

群衆の大逃走が始まって、老人も若者も命がけで走り出し、
子どもたちは慌てて逃げる大人たちに押し倒された。

伊藤(通訳)が言うのには、
私がピストルを取り出して彼らを
びっくりさせようとしたと考えたからだという。

そこで私は、その品物が実際にはどんなものであるかを彼に説明させた。
優しくて悪意のないこれらの人たちに、
少しでも迷惑をかけたら、心からすまないと思う。

ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、
外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、
無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、
ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、
真に過当な料金をとられた例もない。

群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。
馬子は、私が雨に濡れたり、
びっくり驚くことのないように絶えず気をつかい、革帯や結んでいない品物が
旅の終わるまで無事であるように、細心の注意を払う。

旅が終わると、心づけを欲しがってうろうろしていたり、
仕事をほうり出して酒を飲んだり雑談をしたりすることもなく、
彼らは直ちに馬から荷物を下ろし、
駅馬係から伝票をもらって、家へ帰るのである。

ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。
もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。

彼にその骨折り賃として何銭かをあげようとしたが、
彼は、旅の終わりまで無事届けるのが当然の責任だ、
と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。
彼らはお互いに親切であり、礼儀正しい。
それは見ていてもたいへん気持がよい。

私は日本の子どもたちがとても好きだ。
私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、
言うことをきかなかったりするのを見たことがない。

日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。
何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。
英国の母親たちが、子どもを脅したり、手練手管を使って騙したりして、
いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。

私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、
うまく仕込まれているのに感心する。

家庭教育の一つは、いろいろな遊戯の規則を覚えることである。
規則は絶対であり、疑問が出たときには、
口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。
子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。

私はいつも菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。
しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、
受け取るものは一人もいない。
許しを得ると、彼らはにっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、
そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。
子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。

子どもには特別の服装はない。
これは奇妙な習慣であって、私は何度でも繰り返して述べたい。
子どもは三歳になると着物と帯をつける。
これは親たちも同じだが、不自由な服装である。
この服装で子どもらしい遊びをしている姿は奇妙なものである。

しかし私は、私たちが子どもの遊びといっているものを見たことがない。
いろんな衝動にかられてめちゃくちゃに暴れまわり、取っ組みあったり、
殴りあったり、転げまわったり、跳びまわったり、
蹴ったり、叫んだり、笑ったり、喧嘩をしたりするなど!

頭のよい少年が二人いて、
甲虫の背中に糸をつけて引き綱にし、紙の荷車をひっぱらせていた。
8匹の甲虫が斜面の上を米の荷を引きながら運んで行く。
英国であったら、われがちに掴みあう子どもたちの間にあって、
このような荷物を運んでいる虫の運命がどうなるか、
あなたにはよくお分りでしょう。

日本では、たくさんの子どもたちは、
じっと動かず興味深げに虫の働きを見つめている。
「触らないでくれ!」などと嘆願する必要もない。

たいていの家には竹籠があって、
「鋭い音をたてるきりぎりす」を飼っている。
子どもたちは、この大声を立てるきりぎりすに
餌をやるのを楽しみにしている。

街路にあって速く流れる水路は、多くのおもちゃの水車を回している。
これがうまくつくられた機械のおもちゃを動かす。
その中で脱穀機の模型がもっともふつうに見られる。
少年たちはこれらの模型を工夫したり、
じっと見ながら、大部分の時間を過ごす。
それは実に心をひきつけるものがある。

休暇になっているが、「休暇の宿題」が与えられている。
晩になると、学課のおさらいをする声が、一時間も町中に聞こえてくる。
休暇が終わって学校がまた始まると試験がある。
学期の終わりに試験があるのではない。
これは学生たちに休むことなく知識を増進させたいという
まじめな願望を示す取り計らいである。

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