正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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●『日本事物誌1』バジル・ホール・チェンバレン著
英国人バジル・ホール・チェンバレンは1850年生まれ、1873年(明治6年)5月に
来日し、1905年(明治38年)まで30年以上にわたり日本で教師をした。
その後、1910年(明治43年)から1911年にかけて一度だけ来日したのが
最後となり、1935年(昭和10十年)ジュネーヴで死去した。
―――――――
サー・エドウィン・アーノルドが東京に来たとき、
官吏、ジャーナリスト、教授たちなど、
事実上、最高級の現代日本人を代表する顕著な人々の晩餐会に招かれた。

サー・エドウィンは、このもてなしに感謝して演説をした。
その演説の中で、彼は日本を高く賞賛し(賞賛するのは当然だが)、
地上では天国、或は極楽にもっとも近づいている国だと賞めた。

その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、
その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、
その礼儀正しさは、謙譲であるが卑屈に堕することなく、
精巧であるが飾ることもない。

これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、
あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである
(これらは彼の言葉通りではなく、彼の一般的な趣旨を述べたものである)。

さて、日本人はこのような讃辞の雨に対して、
満足したと諸君は思うであろうか。少しも満足していないのである。
晩餐会に出席した主要新聞の翌朝の論説は、
サー・エドウィンの言葉が真実であることを認めながらも、
その演説は賞讃を伝えるものではなくて、
無慈悲な非難の言葉であることを指摘した。

編集者はその中で叫んでいる。
「なるほど、美術、景色、やさしい性質か!なぜサー・エドウィンは、
巨大な産業企業、商業的能力、国富、政治的賢明さ、
強力な軍備を賞めなかったのか。もちろん、彼は心の底から
そのように言い切ることができなかったからである。
彼はわれわれの本当の値打ちを評価したのである。
要するに彼の言わんとすることは、
われわれは単にかわいらしい柔弱者にすぎないということである」と。

サー・エドウィン・アーノルドの時から、一度ならずも戦争をして勝ち、
世界を驚かし、日本人自身をも驚かし、彼らは決して柔弱者ではなくて、
きわめて元気のよい、実行力のある国民であることを証明した。

また、彼の時代から、日本の日当りのよい町や、
緑の谷間でさえも、工場の煙突の煙で暗くなってきた。

日本の商船隊の旗は、世界いたるところの海上でも見られるようになった。
それにもかかわらず、上に述べられた気持が今もなお根強く残り、
現状においては、それがまったく自然なようにわれわれには見えるのである。

というのは、結局、日本の新しい構造の基礎がいつまでも堅固であり、
日本の急速に増大する大望を満足させ、
しかも、大蔵大臣が収支償うようにできるためには、
日本はもっともっと自身を現代化することを続けなければならない。

その上、古い日本がわれわれにとって驚異の世界であったと同じく、
わがヨーロッパの世界は、思想、企業、巨大な科学的業績の点において、
日本人にとって驚異の世界であった。

しかし、次のような相違点がある。
われわれにとって、古い日本は、
妖精の住む小さくてかわいらしい不思議の国であった。

欧米は、鉄道、電信、巨大な商業、巨大な陸海軍、
化学と数学に基づく無限の応用技術をもち、
日本人にとっては、抵抗し難き悪魔と魔法使の住む不思議の国であった。

なるほど、日本人はわれわれの文学をあまり鑑賞することをしなかった。
われわれがあまりにも詩や音楽や、
宗教や哲学的思索を重要なものと考えているとし、
われわれを変な人間だと思っている。

われわれの物質的偉大さは、当然のことながら、彼らを完全に幻惑させた。
わがキリスト教と人道主義をふりかざす人びとが、
実は単なる偽善者に過ぎないことを――どの東洋諸国民も知っているので
――彼らもまた充分によく知っている。・・・・・

最近の例をとれば、アメリカがハワイを併合するために、
公式に挙げた理由の中には、
「米国民がこの国にキリスト教文明の種を植え付けることに
献身的に参加するため」という言葉が大きく打ち出されていた。
狼は、いかに道徳的な狼でも、
羊の衣を着るときに、もっと純白な毛が欲しいなどと望めるものだろうか。

若い日本は、われわれの文化の明白に有用な要素はすべて吸収してしまい、
それを隣人たちに伝えたいと強く望んでいる。
西洋と東洋の仲買人の役を勤めることが、日本の自らに課した使命である。
日本の教訓と実例が、ヨーロッパが自ら手を下すよりも、
さらに急速にヨーロッパ主義の感化を
中国に浸み込ませることができるであろう。

ヨーロッパが極東に対して抱く幻想は実に幼稚である。

今なお中国人のみならず、日本人さえをも、
アラビア人やペルシャ人と同じカテゴリーに入れているのである。
それも、これらの人たちが
すべて「東洋人」「アジア人」であるからという根拠に立つ。

これがわれわれの造った言葉の魔力である。
これがさらに一歩進んで、単なる言葉を土台にし、
単なる考えを材料にして、空想的な建築物が建てられる。

その一例として、最近もっとも流行した「黄禍」がある。
われわれが西洋と呼ぶ土地に、新しい強国、
新しく生まれ変わった古い国が誕生しても――

例えば、記憶の新しいところではドイツやイタリア、古くは合衆国やロシア
――このような場合に、だれも特別の脅威を見出さない。
これはありふれた歴史の流れと見なされているからである。

ところが、「アジア」という言葉が口から唱えられた途端に、
むくむくと巨大な妖怪が現れ出るのである。
事実、われわれはまたもや、
すでに述べたあの矛盾という不思議な檻の中に閉じ込められてしまう。

というのは、同じ人間が、或るときは日本の進歩を激賞したかと思うと、
今度は日本がやり過ぎをしないかと心配するのである。

■古くから浸みわたっている民主的精神

1600年から2世紀半の間、徳川将軍の強力な統治下において平和が続いたが、
昔の軍事形態はそのまま維持されていた。
それが明治天皇の治世の初頭(1868年)に突然、粉みじんに砕けた。

このときフランスから軍事顧問団が招聘され、
ヨーロッパ大陸の徴兵制度が導入されて、むかしの日本の騎士が身につけた、
絵のように美しいが足手まといになる装飾に代わって、
近代式の軍服が登場した。

1877年(明治10年)薩摩の反乱(西南戦争)を鎮圧したとき、
日本軍人は砲火の洗礼をあびた。
日本軍人は日清戦争(1894~5)において偉功を立て、
外国の専門家たちを驚嘆させた。

特に兵站部の組織は徹底的に行き届いたもので、
峻烈な気候と貧しい国土にあって、敢然とその任務に当った。

統率もまずく栄養も不良で、
生れつき戦争嫌いの中国人は、逃走することが多かった。

日本人の胆力を示す機会はほとんどなかった。
しかしながら1894年9月15日の平壌の戦闘、続いて満洲に進軍し、
同年11月に旅順を占領したのは注目すべき手柄であった。

さらに1900年(明治33年)、
北京救出のため連合軍とともに進軍した日本派遣軍は、
もっとも華々しい活躍を見せた(北清事変)。
彼らはもっとも速く進軍し、もっともよく戦った。
彼らはもっともよく軍律に従い、
被征服者に対してはもっとも人道的に行動した。

日露戦争(1904~5)は同様のことを物語っている。
日本は今や、その大きさにおいては
世界最強の軍隊の一つを所有していると言っても過言ではない。

この事実には――事実と仮定して――さらに驚くべきものがある。

それは、日本陸軍が
作者不明(という言葉を使わせてもらえば)だからである。
世界的に有名な専門家がこのすばらしい機構を作りあげたのではない――
フレデリック大王も、ナポレオンもいない。
それは、狭い範囲以外には
ほとんど知られていない人びとが作りあげたものである。

少数のお雇いフランス軍人、
後には少数のドイツ人や一、二名のイタリア人が加わり、
われわれの知る限りでは、天才的資質も広い経験もない日本人たちである。

しかし、善良な妖精(守護神)が彼らの行動を見守ってくれた。
もちろん、作りあげる材料となる日本人が
優秀であったことは認めなければならぬ――
立派な体格と、絶賛に価する士気、兵士は小柄で、
ちっとも美男子ではないが、頑丈で理知的で、喜んで身を捧げる。

一方、士官たちはミルトンの教えに従い、
「快楽を軽蔑し、刻苦精励の日を送る」のである。

社交界に出てダンスをすることもなければ、
つまらぬゲームに時間と精力を浪費することもない。
士官と部下の交際は率直で親密である。

それは、著者が別項目で論じている明らかな矛盾、
すなわち、この温情主義で治められている帝国に
古くから浸みわたっている民主的精神の一産物なのである。

初めて中国と戦争をしたとき、二人の親王が実際に戦場の指揮をとった。
皇室が軍事に首をつっこむことは、はじめてこのことだが
決定したころは全く革命的なことに思われた。

ようやく1887年(明治20年)、
プロシアの高官フォン・モール氏がやってきて、
ドイツの線に沿って宮廷の組織変えを助力したとき、
陛下の副官を任命するというような、
きわめて当然と思われる処置も頑強な反対に会った。

というのは、むかしの日本の宮廷生活では、
職員も儀式も習慣も、すべてが中国のものに基づいたものであった。

よく知られることだが、
中国では軍人は常に一種の最下層階級とみなされていた。
無法者であり、ろくでなしであり、
野蛮で下劣と思われる生活を送るが故に、どの階級にも入れられなかった。

実際、このような連中を天孫の君主のおそば近くに置くことは、
神聖を汚すものだと考えたのであった。
なるほど、上に将軍をいただく大名や武士は戦う人びとであった。

これは日本の社会構造の矛盾の一要素であって、
中国には存在しないものであった。

しかし、大名や武士が、自分では偉いと思い、実際には国中を支配したが、
社会的には、天皇の宮廷のもっとも身分の低い居候とさえも
肩を並べることができなかった。
たとえ官職を宮廷に得たとしても、それは文官の資格においてであった。
時代の移り変わりの何という速さであろう。

われわれの賞讃を起さずにはいられない点は、すべての官立学校に強制され、
たいていの私立学校が採用した軍事教練に対して、
生徒たちが熱烈な反応を示したことである。

小さな少年までが勇敢に旗をもち、
焼きつくような日ざしの中を何マイルも行進し、
すべて堂々たる態度をしており、国を侵そうとする敵は、
身体のしっかりした大人ばかりでなく、
全国の子ども全部も勘定に入れねばならぬことを示しているかのようである。

■日本の大衆は世界で最も清潔

清潔は、日本文明のなかで数少ない独創的なものの一つである。

一般的に考察して、世界に冠たるこの日本人の清潔は、敬神と関係はない。
日本人はきれい好きだから清潔なのである。

彼らの熱い入浴は――というのは、
彼らのほとんどすべてが華氏で約110度の非常に熱い湯に入る――
冬は身体を温かくもしてくれる。
生ぬるい湯は反作用として寒気を惹き起こすが、
お湯がきわめて熱いときには、
そういうことはなく、かえって風邪をひく心配もないのである。

東京の町には銭湯(公衆浴場)が1100以上あり、
毎日50万人が入湯するものと算定される。
普通料金は大人が6銭、子どもが3銭、乳児は2銭である。

さらに、立派な人の家には、それぞれ浴室がある。
他の都市には(村にも)同様の設備がある。
いつもとは限らないが、一般的に言って、男女を別々にわける仕切りがある。

浴場設備や自宅の浴室がないときは、
人びとはたらいを家の外に出す(行水)。

ただし、現代法規を実施する責任を持つ警官が
近所を巡回して来ないときに限る。
西洋人はわざとらしく上品ぶるが、
日本人はそれにもまして清潔を尊ぶのである。

ヨーロッパ人の中には日本人のやり方のあらを探そうとして、
「日本人は風呂へ入ってから上ると、また汚い着物を着る」
と言うものがいる。

なるほど旧派の日本人には、
毎日下着を替えるヨーロッパの完全なやり方などはない。

しかし、下層階級の人でも、身体はいつも洗って、ごしごしこするから、
彼らの着物は、外部は埃で汚れていようとも、
内部がたいそう汚いということは、とても想像できないのである。
日本の大衆は世界で最も清潔である。

日本人が風呂に入る習慣の魅力は、
この国に居住する外国人のほとんどすべてが
それを採用しているという事実によって証明される。
温浴のほうが冷水浴よりも健康的であるのは、気候のためでもあるらしい。

冷水浴を続けると、リューマチにかかる者もあり、熱を出す人もあり、
絶えず風邪を引いたり、咳がとまらなくなる人もある。
そこで、外国人はほとんどすべてが廻り道をして、
結局は日本式に到達するのである。

日本式の温浴に外国が寄与したものがあるとするならば、
その主たるものは、個人専用浴室を使うことになったことであろう。

日本の家庭では同じ風呂に全員が入る。
男性は女性より身分が高いから、
まず第一に男子が長幼貴賎の席順で入浴するのが普通である。
それから後に婦人方が入浴し、それから幼い子どもである。

最後に召使いが夜おそい時刻に風呂を楽しむ。
ただし、外の銭湯にやらしてもらえなかった場合のことである。

入浴しようとする者は誰でも、まず第一に、浴槽の外側で、
汲みだした湯を身体にかけて身体をきれいにする、
ということを知っておかねばならない。

今日では石鹸もだいぶ使用されている。日本人の固有の洗剤は糠袋であった。
これは一握りの糠を小さな布に入れて縫ったもので、
これを使えば気持よく柔かい感触で身体を洗うことができる。

かくして、各人は、すでにきれいにした身体を浴槽に入れ、
充分に熱湯に浸る醍醐味を満喫するのである。

入浴に対する国民的情熱の結果は、この火山国に豊富に存在する温泉を、
あらゆる階層の人びとが広く利用することになっている。
時にはこの贅沢を、考えられないほど極度にまで享受する。

上州の伊香保から遠くない小さな温泉場の河原湯――
このような温泉場は日本に多いが、
場所はこの世の最果にあるのかと思うほど、
四方は切り立つ山々に閉じ込められている――

ここでは、湯治客は一月間も続けて湯の中に浸かる。
ひざの上には石をのせて、眠っているときに身体が浮かないようにしている。

著者が数年前にそこを訪れたとき、この宿の主人は、
80歳の元気な老人で、冬中お湯の中に入っているのが常だった。
なるほどこの場合には、湯は体温より一度か二度低かった。
だからこそ、このような不思議な生活が可能となるのだ。

また或る場合には、温泉で名高い或る村の住民は、
忙しい夏の間は身体が汚れていてすみませんと、この著者に弁解した。
「一日に二度しか風呂に入るひまがないものですから」。
「それじゃ、冬には何度入浴するのですか」。
「そうですね、一日に四度か五度です。
子供たちは寒いと思うといつも風呂に入るんです」。

海水浴は昔あまりやらなかった。
しかし1885年(明治18年)ごろ、
上流階級がヨーロッパの習慣を真似してやり始めた。
中流および下層階級がそれにならったのは数年後のことで、
今では海岸には海水浴場が散在し、衛生上の監督を受ける。

夏になると、団体として引率されてくる学校生徒の姿をいつも見かける。
大磯、牛臥(沼津)、鎌倉、逗子は東京の紳士階級の好む海水浴場である。

■教師としてきた西洋の低い道徳レベル

日本の進歩が経済的、行政的、科学的、人道的なものにすぎなかった間は、
ヨーロッパは日本に対して、賢くて熱心な大学生の宿題を見るように、
暖かい眼で眺めていた。

ところが、この少年が完全な軍人として姿を現したとき、
ヨーロッパの態度は変わり始めた。

過去35年間に4度の戦争があった。
最初は1894~5年に中国に対して行われた。
朝鮮に関する両帝国の長い間の論争を解決するためになされたものであった。
この戦争によって、日本は、シナ帝国(清)に
政治力があると考えられていたが、実は水の泡にすぎず、
ぷつりと穴をあけると消えてしまうものであることを証明した
(ヨーロッパは、とうの昔にこのことに気がつくべきであった)。

宣戦を布告して一年もたたぬうちに、中国は大きな賠償金を支払うとともに、
遼東半島を日本に割譲せねばならなくなった。

しかし日本は、
それだけでは未だヨーロッパの完全な尊敬を得るに至らなかった。
ロシアは当時恐るべき軍事力を持つ強国と考えられていたが、
遼東半島を自分のものにしたいと考えた。
そこでロシアは、従順な同盟国フランスと、ベルリンの宮廷
(これは代々の友情の絆によってセント・ペテルスブルグの宮廷
と結びついていた)を招集した。

この三国が共同して、中国本土の領地は少しでも割譲することを禁じた。
日本はこのような三国連合の干渉に直面する用意もなく、
台湾島だけで満足しなければならなかった。

日本の憤激は大きかった。勝利を得た喜びも捨て去られた。
特に幻滅の悲哀を感じさせられたのは、
ドイツがこの不浄な同盟に参加したことであった。
ドイツは日本の官界が常に賞讃し模範としていた国であり、
その敵対的妨害は、日本にとって青天の霹靂であった。

中国領土の不可侵のためにドイツが干渉した真意は、
二年後に明らかとなった(1897年)。
ドイツは隣の膠州湾を奪ったのである。

明治天皇治世における第二回目の軍事遠征は、1900年(明治23年)に起った。
北京にいた少数の外国人が、圧倒的多数の敵に対して防衛している光景を
世界中の人びとが仰天して眺めていたとき、
連合軍の中の日本分遣隊が、真先に救助に乗り込んだのであった。

このように、ヨーロッパの軍人に直接接触したことによる付随的な
結果の一つは、日本人をしてヨーロッパを尊敬する気持を減少せしめた。
すなわち、科学において、或は応用技術において、
教師として尊敬してきた西洋が、
自分たちよりも道徳的に少しも良くないということ――
実際に劣っているということを発見したのである。
 
そのお世辞たらたらの言葉や、不自然な回りくどい表現は、
俗悪な貪欲を隠す単なる仮面にすぎないことを発見した。
同時にまた、軍人としても、
西洋人は日本人より少しも勇敢でないのではないか、
ひょっとしたら劣っているのではないか、と思われるようになった。

したがって、1904年(明治37年)に、
ロシアの満洲および朝鮮侵略が日本の独立にとって永久的な脅威になり、
抗議を繰り返しても無益とわかったとき、
日本はこの巨大な敵に向って、静かに、しかも迅速に襲いかかったのである。

その結果は、うぬぼれているヨーロッパ人にはとても信ぜられぬほどであり、
ロシア海軍はたった2ヵ月でほとんど全滅され、
翌年の1905年(明治38年)には、戦争は勝利となって終結した。

ポーツマス条約により、
日本は南満洲鉄道とその隣接地域の支配権のみならず、
樺太の南半分を手に入れた。
しかし、この貧弱な講和条件は国民をひどく失望させた。
そして、幾つかの大都市では暴動が起きた。

1914年(大正3年)8月に、日本はドイツに宣戦し、
かくして連合国側について大戦に参加した。
中国におけるドイツの要塞青島は、
あらゆる救援の望みを断たれ、まもなく征服された。

やがて日本海軍は、オーストラリアの軍隊を護送したり、
インド洋や地中海の各所を哨戒する貴重な任務を果たした。
日本の代表は講和会議に発言権を持ち、
新しく作られたヨーロッパ諸国の国境を定める委員会に出席した。

1921年(大正10年)、皇太子裕仁はヨーロッパを公式に訪問した。
このような地位の人が帝国から離れたのは、これが初めてである。

日本人の間に長く住み、日本語に親しむことによって、
この論文の後半において簡単に述べた最近の戦争や、
その他の変化の間における国民のあらゆる階級の態度を見ることができたが、
これらの外国人すべてに深い印象を与えた事実が一つある。

それは、日本人の国民性格の根本的な逞しさと健康的なことである。
極東の諸国民は――少なくともこの国民は――
ヨーロッパ人と比較して知的に劣っているという考えは、
間違っていることが立証された。

同様にまた、異教徒の諸国民は――少なくともこの国民は――
キリスト教徒と比較して道徳的に劣っているという考えは、
誤りであることが証明された。

過去半世紀間、この国のいろいろな出来事を充分に知ってきたものは誰でも、
ヨーロッパの総てのキリスト教国の中に、日本ほど前非を認めるのが早く、
あらゆる文明の技術において教えやすく、
外交においては日本ほど率直で穏健であり、
戦争に際してはこれほど騎士道的で人道的な国があろうとは、
とうてい主張できないのである。

もし少しでも「黄禍」があるとするならば、
ヨーロッパ自身の良き性質にもまさるさらに高度の良き性質を、
その新しい競争相手が所有しているからにほかならない。

このように驚くべき成果が生じたのは、
日本人が苦境に立たされていることを自覚し、
断乎として事態を改善しようと決意し、
全国民が二代にわたって熱心に働いてきたからにほかならない。

●『日本事物誌2』

■ほんものの平等精神

絵画や家の装飾、線と形に依存するすべての事物において、
日本人の趣味は渋み――の一語に要約できよう。

大きいことを偉大なことと履き違えているこけおどし、
見せびらかしと乱費によって美しさを押し通してしまうような俗悪さなどは、
日本人の考え方のなかに見出すことはできない。

東京や京都の住居では、座敷の床の間に一枚の絵画と一個の花瓶があって
ときどき取替えられるだけである。
確かに絵も花瓶も素晴らしいが、西洋人と違って、
「どうです、高価な品物がたくさんあるでしょう。
私がどんなに素敵な金持ちであるか、考えてもごらんなさい」
と言わんばかりに、この家の主人が財物を
部屋いっぱいに散らばして置くようなことはないのである。

高価なお皿を壁に立てかけて置くようなこともない――
お皿は食物を入れておくものである。
どんなにお金持ちでも、たった一回の宴会のために、1000ポンド、
いや20ポンドでも切花のために無駄使いをするようなことはない――
切花は単純な物で、しかもすぐ枯れて駄目になってしまう。

家宝として宝石でも買えるような大金を
花などに使ってしまうのはもったいないことである。

しかも、この中庸の精神によって、いかに幸福がもたらされることか!
金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。
実に、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。
ほんものの平等精神が(われわれはみな同じ人間だと心底から信ずる心が)
社会の隅々まで浸透しているのである。

ヨーロッパが日本からその教訓を新しく学ぶのはいつの日であろうか――
かつて古代ギリシア人がよく知っていた調和・節度・渋みの教訓を――。

アメリカがそれを学ぶのはいつであろうか――
その国土にこそ共和政体のもつ質朴さが存在すると、
私たちの父祖達は信じていたが、今や現代となって、
私たちはその国を虚飾と奢侈の国と見なすようになった。

それは、かのローマ帝国において、道徳的な衣の糸が弛緩し始めてきたときの
ローマ人の、あの放縦にのみ比すべきものである。

しかし、日本が私たちを改宗させるのではなくて、
私たちが日本を邪道に陥れることになりそうである。

すでに上流階級の衣服、家屋、絵画、生活全体が、
西洋との接触によって汚れてきた。
渋みのある美しさと調和をもつ古い伝統を知りたいと思うならば、
今では一般大衆の中に求めねばならない。――

花をうまく活けたいと思うならば、わが家の下男に訊ねるがよい。
庭の設計が気にくわない――どうも堅苦しすぎる。
それかといって、自分で指図して直させてみると、
ごたごたと格好のつかぬものになってしまう。
そんなときには、相談役として料理番か洗濯屋を呼ぶがよい。

■明治日本の貴族

日本の貴族は、見方によって、非常に古いともいえるし、
あるいは非常に新しいともいえよう。

現在の形式の貴族制度は1884(明治17年)7月7日に始まる。
そのとき勅令によって多くの著名な人びとに
公・候・伯・子・男という漢語の称号が授与された。

これはわが国のデューク(あるいはプリンス)、マーキス、
カウント、ヴァイカウント、バロンに相当する。

しかし、以前にも貴族階級があった。
正しく言えば、二つあったというべきであろう。

すなわち公卿は、昔の帝の年下の息子の子孫であり、
大名は、武力と将軍の恩顧により貴族と富裕階級に昇進した封建諸侯であった。

封建制度が崩壊すると、大名たちはその領主称号(安房守など)を失い、
華族(花やかな家柄)の名称の下に、公卿と合併させられた。

華族は今も通用している貴族一般に対する名前であって、
爵位の段階がどれであろうと構わない。

これら世襲の貴族たちは、1884年の新貴族階級の中核となった。
彼らは歴史的な家柄や、
そのほか栄誉を受ける資格に応じて五階級に分けられた。

これらの人数に新しく多数の人びとが徐々に加えられた。
彼らはその才能や政府に尽くした勲功で著名な人びとである。
貴族の各人は皇室費から年金を受ける。
彼らはまた特別な制約の下に置かれている。

例えば、彼らは公式の許可がなければ結婚することができない。
一方、新しい憲法によって、
彼らのうちの一定数は帝国議会の貴族院議員となる特権を与えられている。

貴族階級を真似したがるという俗物根性(スノビッシュネス)が
全く欠けているということは、日本人の性質の賞讃すべき特色である。

われわれ英国人や米国人のように、「貴族が大好き」で、その後を追い廻し、
その真似をし、カメラでそのスナップ写真を撮ったり、
さらに娘たちをそそのかして図々しく貴族に話かけさせる、
というようなことを日本人はやらないのである。
 
彼らは少しもそんなことをしたいとは思わない。
彼らの考えから見れば、「それでもやっぱり人は人」なのである。
話題の人が爵位をもっているかどうかすらも知らない場合が多い。
活字にするとき以外は、めったに爵位を用いることもなく、
例えば、大熊伯のことを口に出して言うときは、「大隈さん」である。

これはフランス人の場合も同様である。
事実――今にして思えば――俗物根性がないということを、
日本人の美徳の一つとして特に数え立てるべきではない。

世界中たいていの国民は、日本人に似て、そういう根性をもっていない。
俗物根性の臭みは特にアングロサクソン的であるので、
この意味を表現する言葉をもつ国語は、
英語以外にはあるまいと思われるほどである。

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●『誇り高く優雅な国、日本』 エンリケ・ゴメス・カリージョ著
報道文学者。1873年グァテマラ市に生まれ、1905年8月末に来日(横浜)
―――――――
■礼に始まり礼に終わる

日本人が持つ社会的特性のうちで、
もっとも一般的な徳が礼儀正しさであることは、
偉大な日本研究家でなくとも、
またわざわざ観察する必要もないくらいすぐにわかることである。

われわれは日本のどこの港であろうと下船するやすぐに、
人々の深々としたお辞儀や頭を軽く下げる動作や
微笑みを目にすることになるからだ。

だれもが微笑み、だれもが平伏している。
われわれに何かを教えてくれるときや質問に答えるとき、
あるいは何かの説明書をくれるとき、とにかく何のためでも、
いつでも、どこでも、日本人はいちいち微笑んでお辞儀をする。

さらにこれが対話となれば、
一句ごとに雅語を入れねばならないし、一言ごとに頭を下げることとなる。

日本語には、侮辱語や粗野な言葉がないかわりに、
人を誉めそやす言葉は山ほどある。

そして彼らは誇りをまるで信仰のように培っている人々でありながら、
もっとも謙虚に平伏することを知っている。
「日本は微笑みとお辞儀の国であり」とロティは言う、
「おびただしい数の行儀作法を有し、
それをヨーロッパ人が復活祭のときにすら
経験することのない熱心さで行っている」と。

これがまさしく、どんなうかつな旅行者でも
通りに一歩足を踏みこんだ途端に目にするものである。

ましてや民族の魂の中まで入りこみたいと思っている旅行者なら、
それがさまざまな形で日本人の生活の隅々にまで
行きわたっていることをはっきりと知ることができる。

礼に始まり礼に終わる。
われわれはホテルに着くとすぐに、ボーイ“さん”、
御者“さん”という言葉を学ぶ。

さらに、どんなに神経が苛立つような困難な状況下であろうと、
微笑みと親切さと穏やかさを保つという教えに
しょっちゅう出くわすことになる。

息子を新橋駅から戦地や外地へ送りだして
帰途につく母親たちでさえ微笑んでいる。

実生活の中のあらゆるものが微笑み、お辞儀をしている。
もしわれわれが不運にして、ある人を怒らせてしまっても、
われわれを憎んでいるはずのその人自身が微笑み、お辞儀をするのである。

日本人がもっている礼儀の感覚がどこまで及ぶものであるかを知るには、
詩情豊かな昔の物語をひもとけばよい。
すると、道をゆく武士の前で自然そのものが頭を垂れ、
敬意を表していることがわかる。

平家物語はこういう。
「波は公達の身体を呑みこむ栄誉に、恭しく場所をあけた」。
侍が路上に佇めば、木々は木陰を提供するという素晴らしい名誉に浴する。
川は、船の櫂が水中深く入るという喜びを与えられて誇りを感じる。
戦場の矢でさえ同様で、恭しく慎み深く敵を殺す。
怒りや憎悪のときも、緊急時でさえ
優雅な作法がおろそかにされることはない。

戦いで死に臨んだ武士が、
「貴軍がわが方を打ち破られたことに深い敬意を表する」と敵に言う。

勝軍の武将が「降参せよ、されば命を助けよう」と言えば、
敗者はこう答える。
「せっかくのお言葉にあえて逆らうのをお許しいただきたい。
戦に負けた武士は死なねばなりませぬ。
ゆえに、わが軍が一人残らず倒れるまで戦わせていただきたい」。

何かを依頼するときの形式も尋常ではない。
昔の手紙には次のような文章が頻繁に見られる。

「私と夕食を共にして下さるという過分な恩恵を
私に与えられるご厚意をいただけますよう、
慎み敬いお願い申し上げる名誉に浴するものでございます」。

小説のヒロインなども手紙を書くと、
かならず“めでたくかしこ”という言葉で締めくくる。
意味は「喜びに打ち震えながらお別れを告げます」である。

しかし、手紙文の丁重さがいかなるものか、もっともよくわかるのは、
ロスニー教授が、その日本文学に関する論文の中で
逐語訳した次のような文章であろう。訳すとこうなる。

「私の貴方様に対する堅固にして深甚なる敬意のささやかな印を
貴方様に捧げることができますよう、
またその後、貴方様の高貴なる御み足が踏む崇高なる土埃の中で
私が低頭させて戴くことができますよう、
充分なる高みにまで私をお引き上げ下さるというご厚意を、
貴方様の計り知れないご芳情を以て御心からお引き出し戴くため、
貴方様の大いなる御慈悲をもって地面まで下りてきて下さり、
この愚かなる貴方様の僕を喜ばせるという輝かしき光栄を賜らんよう、
特別の思し召しを賜りますことをお願い申し上げます」

■礼儀作法の厳格さ

明治42年頃の上野駅の画
明治42年頃の上野駅の画

日本では農夫でさえ、
モリエールの貴婦人たちと同じように慇懃な美文調で話す。
詩人芭蕉の伝記の中に、興味深くまた含蓄のある逸話がのっている。

数人の樵が山中でこの俳諧の創始者に出会ったとき、こう言う。
「あなた様のご助言を乞う非礼を、
あなた様の御令名に免じてお許し下さい」。

これを、記録者が庶民の言葉を書きしるす際に
誇張したものだなどと思ってはいけない。
礼儀は、帝からクーリー(苦力)にいたるまで、
だれもが細心の注意を払って行う国の宗教である。

マセリエールが言及している室鳩巣の書を読めば、
かの時代には礼法が民衆の間にまで浸透しており、
いたって貧しい者でも相手を侮辱したり不作法な態度を
とることはなかったことがわかる。

労働者は、彼らの用語範囲内でできるかぎりの
謙譲語を使用して丁寧に話をした。

侍について鳩巣はこう言っている。
「彼らの言葉はきわめて洗練されており上品なので、
民衆にはほとんどわからない」。

島流しになったある武士は、
本土から遠く離れたその島で細工物を作る仕事をしていたが、
いかに庶民の言葉を身につけようと努力しても、
仲間の労働者たちに正確に理解してもらえず、気違い扱いされたという。

上流階級の文法によれば、表現すべき尊敬の種類によって動詞の語尾が変る。
“召使いは籠を持っていた” というのと“ご主人は刀を持っていた” 
というのは同じではない。

各音節が尊敬や軽蔑、敬意や尊大さ、お辞儀やしかめっ面をあらわす。
学者たちは何年でも飽きもせずに
丁寧語や尊敬語の定義について議論をしている。
洗練された習慣には、十分に洗練された言語が必要なのだ。
あらゆるものが礼儀作法の厳格な法に則っている。

昔の読み物にはかの有名な茶の儀式が描かれ、
そこで歌人や侍たちが麗々しい作法や繊細なウイットを披露するのだが、
これはまさしく礼儀作法の試合に他ならない。

聖なる植物である茶の粉を素晴らしい器へ移すための茶杓の取り方ひとつで、
会席者の教養の程度がわかってしまう。
ごく些細なことが侵すべからざる教理にもとづいているのだ。

役者の中には、
こういう場面を演じるときの優美さのおかげで名声を得たものもある。
人気役者・市川団十郎のあるファンはこう述べている。
「彼は貴公子よりもっと完璧な優美さを持つにいたった」と。

この言葉は、どこでも耳にされる“誰それは礼儀をわきまえている” 
という言葉の一変形にすぎず、作法が一つの知識であることを示している。

礼儀正しい人間になることを学ぶのは、
騎兵や化学者になろうとして学ぶのと同じことなのだ。

18世紀、将軍家宣が死んだとき、城内で、故人のわずか三歳の息子が
他の成人の息子たちと同じく喪に服すべきかどうかで
議論が延々とつづけられた。

国中がこのことに関心を寄せた。
幕府に問われて、儒学者・林信篤は喪に服すべしと答えたが、
儀典に通じていたかの偉大なる新井白石は反対意見であった。
これは笑いをさそう話であるが、人を泣かせる逸話もある。

瀕死の侍が、主人が近くにいる間は作法通りにお辞儀の型をとらせてくれと
同僚に頼むことなど珍しくないのだ。

さらに死にかかっている哀れな兵卒が、
その最期の息を吐き出す瞬間にさえ
上官たちに微笑みを送る力を残しているというのは、
どう言ったらよいのだろうか。

もちろん礼儀正しくあるための作法には
技巧的な部分が多いのは確かである。

しかし同時に、それはなんと英雄的であり、なんという冷血さであり、
またなんという克己の精神であろうか。

47聖人は、洗練された冷静さというものの典型的な見本であるといえよう。
憎むべき上野介を目の前に引き据えたとき、
彼らは血気にはやる心を抑え、上野介に深々とお辞儀をして言った。

「吉良様、我らは内匠頭の家臣でござる。
あなた様はかつての内匠頭との争いをよもやお忘れではございますまい。
その為、我らが主君は命を失い、お家は断絶致しました。
我らは身分卑しけれど忠実なる家臣でござれば、
あなた様が我らの前で名誉あるご自害をとげられますよう、
お願い申し上げに参上仕ったのでござる。
我らの一人がすぐさま御首を頂戴し、
我らが手で寺へ持参仕り、主君の墓前に供える所存でござる」。

しかし上野介が自害しなかったので、
復讐の士たちは口々に「御免」と叫びつつ、
微笑みながら彼の首を打ち落した。

“微笑みながら” という言葉はちゃんと本の中にある。
日本人は重大なときいつも笑みを浮かべているのだ。
ラフかディオ・ハーンが書いたある人物は微笑みながらこう言う。

「昨日、母が死んだのです。
私の家族のつまらぬ出来事でお心を乱したくなかったものですから、
申し上げませんでした」。

これは創作ではない。スペイン大使館のある書記官の従僕は、
何週間か前に長女を埋葬したのだが、その日、
彼は何も言わず平常通りにいつもの微笑をたたえて仕事をしたという。

■美徳としての克己

これを、諸君は優しさの欠如であると思われるであろうか。
日本人の親ほど情愛深い親は世界でも珍しい。

彼らが微笑むのは、口許に微笑を浮かべずに悲しいことを
話してはならないという厳しい掟に従っているからだ。

ハーンによれば、「この掟がある理由はさまざまである。
怒りや悲しみはそれがどんなに大きなものであれ、
じかに人に見せるのは無益で時には不作法なものであるという確信が、
最下層の農夫の心の中にさえ根をおろしている。
誰か村人が泣いているようなところに出くわすと、彼はあわてて涙を拭い、
われわれにこう言うのだ、“非礼をお許し下さい”と。
このような道徳的な理由の他にも、かのギリシャ芸術が痛ましい表情を
和らげて表現したのと同じ美的見地からの理由もある」。

確かに、ハラキリの場面を描いた絵の中でも主人公はつねに微笑んでいる
。拷問や末期の苦悶も武士の唇を歪めさせることはできない。
ミットフォードは、滝善三郎自刃の厳かな場面で、
居並ぶ者たちがみな深刻な顔をしているのに
本人だけは微笑んでいると指摘している。

ミットフォードは語る。
「ゆっくりと、至極ゆっくりと、善三郎は微笑しながら歩を進め、
居並ぶ人々に深々と頭を下げて挨拶し、
次いで祭壇の前で礼拝し、赤い毛氈の上に座る。
そこが腹を切り開く場所である。
一人の友人が、剃刀のように研ぎ澄まされた短刀を差し出す。
善三郎は“すべての罪は私にある”と言う」。

そして悲劇的な贖罪の儀式がはじまる。
「彼は従容として刀を手に取ると、
左から右へ急ぐことなく腹を切り、最後に頭を深く前へ下げる」。

この崇高なる礼は、
外国人たちが馬鹿にする軽々しいお辞儀と同じものである。
大和の人間はどのような状況のもとでも態度を変えないのだ。
挨拶をするときも人を殺すときも同じであり、
人を殺すときも自分が死ぬときもまた同じである。
彼らは物心がつくようになると克己の精神を養う。

■正義・正直

日本にいるヨーロッパ人たちが、領事法廷で日本人に実際的な法律学を
教えてやったなどと自惚れているのを見ると、
日本の歴史の内側を知る者にとっては片腹いたい思いがする。

実際、日本列島の人々はどの時代においても、
義務と忠誠心そして正義に対する宗教的な理念をもっていた。

極東の国・日本の民の聖典である北畠親房の『神皇正統記』は、
政治に関する章の中でこう述べている。

「統治の理念は厳正なる正義にもとづく。
これは天照大神が我らに与え給うた教えである。
まず最初に、善を讃え悪を罰するに公正であることを知るべきである。
その際けっして優柔不断であったり手ぬるいことがあってはならない」

この教えは単なる虚しい言葉ではない。

正直はひとつの宗教的な戒律である。
昔の裁判官で誠実さの典型ともされている偉大なる
板倉重宗(京都所司代)は、民衆が神道の神のように敬っている人物である。

この判事は屏風の陰に隠れて裁判を執り行うことを常とし、
訴えを聴いている間、茶を挽いていた。
「何故、そうするのか」とある大名が尋ねると、かの判事はこう答えた。

「被告を見ずに訴因を聴取する理由は、
世の中には好悪の感情というものがあり、顔によって信頼が置けそうな顔と、
そうでない顔があるためである。
彼らを目にすれば、誠実そうな顔をしている人間の言葉は正しく、
一方、虫の好かない人間の言葉は正しくないと思いこむことになろう。
目から入る心証はかほどに強いので、われわれは証人の口が開く前に、
これは悪者、あれは善人などと決めてしまうほどである。

しかし、訴訟が進むにつれて、われわれに悪印象を与えた者の多くが
好感をもつにふさわしく、反対に好ましかった者の多くが
汚らわしい人間であったことがわかってくる。

また、法廷に出頭するということは、
たとえ無実であっても恐ろしいことであろう。
人によっては、己の運命を握っている者の前に出ると萎縮してしまい、
自分を守れず罪もないのに罪人のようになってしまう者もいる」。

大名がさらに、
「なるほど。しかしどうしていつも茶など挽くのか」と訊くと、
「それは次のような理由からである。
人を裁くときにもっとも大事なのは感情に左右されないことである。
真に立派で決然とした人間は決して感情に動かされることがない。

しかし、私はまだまだ未熟である、
そこで自分の心が平静であるかどうか
確かめる方法としてみつけたのが茶を挽くことなのである。
心が平らかで静かなときは、
手も同じ状態にあって茶臼がなめらかにまわり、茶もよく挽ける。
しかし反対に茶の挽き具合が悪ければ、私は裁決を保留する」

なんという素晴らしい言葉、深い意味をもつ言葉ではないか。
このようなことを語る人間を神聖視する国民が、
忠実な人々でないはずがない。
正義を委ねられているこのような人々に政府が干渉することなど、
できはしないのである。

しかしそれでも、ヨーロッパ人たちは領事法廷の廃止をいまだに嘆いている。
昨夜、横浜のあるオランダ人が私に言った。
「日本人がわれわれを裁くようになってから、
その合法性について問題があったことは一度もありません」。

しかし、それならどうして外国人商工会は
いまだに日本の法廷を敵視しているのかと訊ねると、彼はこう答えた。
「それは、黄色人種の裁判に従うのは屈辱であると考えるわれわれ白人の
妙な誇りのせいですよ」と。
まったく相も変らぬ偏見と
どうしようもない自惚れには呆れかえるばかりである。

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