正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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『黒船と白旗』

ペリーの黒船から手渡された白旗は、
弱肉強食の近代世界システムへの屈服を要求していた。

■1.黒船あらわる

嘉永6(1853)年6月3日(旧暦、以下同)午後5時、
蒸気船2隻、帆船2隻からなる米提督ペリーの艦隊が浦賀に姿を現した。
錨を卸す前に、日本の警備船の一群が艦隊を取り巻き、
うち一艘が旗艦サスケハンナの艦側に来て、乗艦を要求した。

しばしの押し問答の後、
乗艦を許された浦賀与力中島三郎助とオランダ通詞堀達之助に、
ペリーは直接会わず、副官のコンテー大尉に応接させた。
中島が、外交のことは一切長崎で取り扱うことになっているから、
そちらに赴かれたしと言うと、コンテー大尉は次のように恫喝した。

提督は決して長崎へは赴かない。
(大統領からの)国書を相当の礼儀をもって、
現在の場所にて受け取るべし。

提督の本意は和親にあるが、
もし万一侮辱にわたるようなことがあったら、一切容赦はしない。

しかも日本の警備船が、
このように軍艦を取り捲いていることは、怪しからぬことだ。
もし早速退散しないのならば、提督は武力で彼らを退散させるであろう。

この恫喝により日本の警備船はたちまち米艦隊から離れた。
ペリーはこれを最初の勝利と考えた。

■2.兵を率いて上陸し、、

中島は翌4日朝、上役の香山榮左衛門と共に来艦して、
ふたたび長崎へ行くよう要請したが、
米側は「もし日本政府が、適当なる人を選任して、
この(ここにて国書を渡すべしという)要求に応じない場合は、
提督はいかなる重大な結果を招こうとも、
兵を率いて上陸し、自らこれを皇帝に手交するだろう」と答えた。

香山は江戸表と相談するので、4日間の猶予が欲しいと言うと、
3日間待とう、と通告された。
時あたかも各艦から出されたボートが浦賀湾を測量していた。
香山が、日本の国法に反するので許可し難い、と言うと、
「浦賀湾の測量は、米国の法にて命ぜられている。
米人が米国の法律を遵守するのは、
貴君が日本の国法を遵守するのと同じだ」と答えた。
ペリーはこれを第2の勝利とした。

■3.降伏を乞いたくば、この白旗を押立てよ

この時にペリーは、日本側に白旗2旒と自身の書簡を送った。
その大意は以下のごとくであった。

数年来、ヨーロッパ各国は日本政府(幕府)に通商の願いを出していたが、
日本は鎖国の国法をたてに、これを認めなかった。
そういったことは「天理に背く」ことであって、
その罪たるや莫大なものがある。

それゆえ通商をひらくことに不承知ならば、
われらは「干戈(かんか、武器)を以て、天理に背くの罪を糺(ただ)」
さんとするので、日本も鎖国の国法をたてに防戦するがよい。

戦争になれば、勝つのは必ず我等である。
日本は敗けるので、そのときに降伏を乞いたければ、
このたび贈っておいた「白旗」を押立てるがよろしい。
そうしたら、アメリカは砲撃をやめ、
軍艦を退かせて、「和睦」することにしよう。
そういう意図で、この「白旗」を贈ったのである。

「日本政府に恩恵として希願するのではなく、権利として要求する」
というペリーの方針は、要求が聞き入れられなければ武力で決着をつける、
という欧米諸国の弱肉強食のルールに則ったものであった。

■4.ペリーの野望

1846年、ペリー来航のわずか7年前に
米国はメキシコからカリフォルニアを奪い、
そこから太平洋を横断してシナと結ぶ新しい貿易航路が開かれた。

当時新たに発明された蒸気船では、日本で石炭の積み込む必要があった。
さらに太平洋における捕鯨業が発達し、
日本の港湾を使いたいという必要が出てきた。

米国の今回の要求とはこのような平和的なものであったが、
ペリー自身はさらに遠大な野望を抱いていた。

我らは海権上の競争者英国の東洋における領土と、その武装した港湾が、
恒久的に、かつ急速に増加しつつあるを見るにつけても、
我らもまた速やかにその対策をとる事が必須であると勧告する。
世界の地図を吟味すれば、英国は既に東印度、
及び特にシナ海において最も重要なる地点を所有している。

ただ幸いなことには、日本および太平洋のその他の諸島は、
この恥知らずの政府(英国政府)が、なお未だ手を触れずにいる。
そしてその諸島のあるものは、合衆国にとって、
今後最も重要となるべき大貿易の通路に位置している。
そうであれば船舶の避難所として十分な数の港湾を獲得すべく働きかけるに、
一刻も猶予すべきではない。

ペリーは、米国東海岸ノーフォークを出発し、大西洋を横断、
はるばるアフリカ南端の喜望峰をめぐり、セイロン、シンガポール、
香港などを経由して、ようやく日本にたどり着いた。
その間の重要拠点はことごとく英国の支配下にあった。

英国に対抗して、米国がシナに進出するためには、
西海岸から直接太平洋を横断するルートを開拓しなければならない。
そのために、ペリーは合衆国の拠点として、
ハワイからシナへの航路上にある小笠原諸島、琉球、台湾を指定した。

それらを足場として、さらにタイ、カンボジア、インドシナ、
ボルネオ、スマトラに商業的居留地を拡大することをほのめかしている。

日本との条約締結は、英国に対抗して、
太平洋からシナ、東南アジアに至る
米国の海上覇権確立という壮大な野望の第一歩に過ぎなかったのである。

■5.琉球、小笠原諸島占領

実際にペリーは、浦賀に姿を現す前に、那覇港に侵入して、
琉球政府に対し対江戸幕府と同様の強硬な要求を行い、
強引に王宮に押し入ることまでしている。

ペリーはそこから浦賀に向かい、
幕府に来春の回答を約束させると、また琉球に引き上げた。

日本政府が協議を拒否し、
もしくは我が商船、捕鯨船のため港湾を割り当てることを承知しない場合は、
米国市民に与えた侮辱と損害との報償として、
予は日本帝国の属領である琉球を、米国国旗の監視の下におく。

そして我が政府が果たして予の行動を是認するか、
否かの決定を得るまでは、まずこのまま琉球を押えて置くつもりである。

ペリーが翌年1月25日、
第2回の来航を前に海軍長官あてに送った手紙の一節である。

ペリーはさらに小笠原諸島にまで足を伸ばし、
アメリカ領に編入することを宣言している。
これに対しては、英国からすぐに英領であると抗議があり、
ロシア艦隊も遠征してきたり、日本側もあわてて諸島の経営に着手した。

小笠原諸島と琉球は、ハワイから上海への航路の途中にあり、
それらを占領しようとしたことに、ペリーの野望がよく窺われる。

■6.日米戦争になったら

日本側も、当時の世界情勢や欧米諸国の
技術力、軍事力について最新の情報を得ていた。

たとえば、香山榮左衛門らが乗艦した時には、蒸気船の機関を見学して、
これは大きさは違うが蒸気機関車の機関と同じではないか、と質問したり、
パナマ運河はもう完成したのか、などと聞いて、アメリカ人を驚かせた。

米国の強硬な要求を突きつけられた老中・阿部正弘は
水戸の前藩主・齊昭(なりあき)公に対応策を相談した。

このたび来航してきたアメリカは、わが国の鎖国という禁制を知りながら、
浦賀に乗り込んできて、戦争になったら「和睦」を乞うべき合図のための
「白旗」をさしだすなどして、無理やり通商の願書をおしつけている。

それのみか、わが国の内海へ入り込み、空砲を打鳴らすばかりか、
(国際法違反の)他国の領海の測量などさえしている。
その驕傲無礼なること、言語道断であり、
わが国にとっては開闢以来の「国恥」ともいうべき事件である。

齊昭公はこのように怒りをあらわにしながらも、

打ち払いをすれば、戦争になり、たとえ勝って黒船を浦賀から追い払っても、
伊豆の島々、八丈島等を勝手に占領するであろうし、
さらに日本周辺の島々を勝手に奪うのは、鏡に映すように明らかである。

との予測を行っている。
ペリーの野望は日本側に正確に認識されていたのである。
こうした考えから、幕府は「一時の権策(応急処置)」として、
国書を受け取ることにした。

アメリカ側が要求を出して、それを聞き入れなかったら
「天理に背くの罪を糺さん」と恫喝するのに対して、
日本側が「一時の権策」で要求を呑んで、
当面の危機を乗り越えようとする交渉パターンは、
今日の日米貿易交渉にまで共通する基本形である。

■7.吉田松陰の「開国・攘夷」大戦略

幕府のその場のしのぎのやり方に対しては、
日本国内で批判が高まり、幕府の権威は大きく失墜した。
たとえば、吉田松陰は「対策一道」の中で、次のような主張をしている。

まず航海や交易は、「祖宗の遺法」(歴代天皇の残された方針)であり、
国家戦略の上からも当然必要なことである。
鎖国は徳川幕府の一時の政策に過ぎない。
ただ現時点で開国を唱える者は、
ペリーの恫喝に屈して、戦いを恐れるからに過ぎない。

アメリカが「日本のため」と言いながら、
自分の利益のために我が国を支配下におこうとしているのは明らかである。
「祖宗の遺法」に従って開国しつつ、
我が国3000年の独立不羈の歴史を護るにはどうすべきか。

まず大艦を建造し、身分や家柄などに関わらず人材を抜擢して、
樺太から琉球までさかんに航海練習と海洋調査を行わせ、
航海技術を修得する。

その後、朝鮮、清国、オーストラリア、喜望峰などに赴き、
商館を建てて、通商を行いつつ、国際情勢の情報収集を行う。
3年程度でこれらのことは達成できる。

その後で、カリフォルニアに赴き、
ペリー来航の回答として、和親条約を結ぶ。
こうすれば、国威を発揚し、人材を育成し、
我が国3000年独立不羈の国体を維持できる。

実際に、吉田松陰は自ら鎖国の禁を破って、ペリーの船に乗り込み、
アメリカに連れて行って欲しいと懇願したのだが、
それもこの構想を一個人の立場で実現しようという考えだったのであろう。
その気概は当時の欧米諸国民に「日本人侮るべからず」
との強烈な印象を与えた。

■8.攘夷のための開国

吉田松陰は後に刑死する際に、次のような歌を残している。

討たれたる吾れをあはれと見ん人は
君を崇(あが)めて夷(えみし)拂(はら)へよ

この「君」、孝明天皇は次のような御製を残されている。

あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異国(とつくに)の船
すましえぬ水にわが身はしずむともにごしはせじなよろづ国民

一歩間違えば、インドが英国に収奪され、
清国がアヘン戦争で蹂躙されたように、
我が国民は欧米勢力の支配下で塗炭の苦しみを味わうことになる。
自分の身はどうなっても国民の安寧をひたすらに願う、
というのが孝明天皇の御心であった。

孝明天皇の御心に沿って、
外国勢力を打ち払って独立を護ろうとしたのが「攘夷」であり、
そのためには「開国」が必要だ、というのが、松陰の考えであった。

松陰の「攘夷」とは、我が国を神国とし、
他国を野蛮として見下す宗教的妄想などではなく、
当時の弱肉強食の国際社会の中で、
国家の独立と国民の安寧を侵略勢力から護ろう、ということであった。

■9.近代世界システム

西洋諸国による人種差別と植民地化による世界支配を
「近代世界システム」と呼ぶ。

17世紀初めに我が国はスペイン、ポルトガル勢力を駆逐して、
近代世界システムから離脱し、
250年間もの平和で豊かな国民生活を実現してきた。

ペリーの黒船は、
いよいよ近代世界システムが地球全体の支配を完了させようとして、
最後に残された東アジアにやってきたことを意味していた。
そしてペリーのつきつけた「白旗」は、
我が国の独立への挑戦であり、近代世界システムへの屈服要求であった。

やがて松陰の遺志を継いだ志士たちは
「一時の権策」しかできない幕府を倒して明治新政府を組織し、
開国後に通商を通じた富国強兵策をとる。
それは松陰が「対策一道」で述べた大戦略の実行であった。

こうして日本は近代世界システムの荒波にこぎ出したのである。

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国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(149) より転載
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog149.html

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2009/03/31 09:00|年表リンク用資料
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