正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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『江戸参府随行記』 スウェーデン人、ツュンベリー著
ツュンベリーは植物学者、そして医学博士で、
東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、
1775年(安政4年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航。
この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年である。

―――――――

■江戸時代中期の日本概観

日本帝国は、多くの点で独特の国であり、風習および制度においては、
ヨーロッパや世界のほとんどの国とまったく異なっている。
そのため常に驚異の目でみられ、時に賞讃され、また時には非難されてきた。

地球上の三大部分に居住する民族のなかで、
日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。

しかし、多くの点でヨーロッパ人に遅れをとっていると言わざるを得ない。
だが他方では、非常に公正にみて
ヨーロッパ人のうえをいっているということができよう。

他の国と同様この国においても、役に立つ制度と害をおよぼす制度、
または理にかなった法令と不適正な法令の
両者が共存していると言える。

しかしなお、その国民性の随所にみられる堅実さ、
法の執行や職務の遂行にみられる不変性、
有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、
そして百を越すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。
     
このように、あまねくかつ深く祖国を、お上を、
そして互いを愛しているこんなにも多数の国民がいるということ、
自国民は誰一人外国へ出ることができず、
外国人は誰一人許可なしには入国できず、
あたかも密閉されたような国であること、

法律は何千年も改正されたことがなく、
また法の執行は力に訴えることなく、
かつその人物の身上に関係なく行われるということ、
政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、
君主も臣民も等しく独特の民族衣装をまとっていること、

他国の様式がとりいれられることはなく、
国内に新しいものが創り出されることもないこと、

何世紀ものあいだ外国から戦争がしかけられたことはなく、
かつ国内の不穏は永久に防がれていること、
種々の宗教宗派が平和的に共存していること、

飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、

これらすべては信じがたいほどであり、
多くの人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、
これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。

私は日本国民について、あるがままに記述するようつとめ、
おおげさにその長所をほめたり、
ことさらにその欠点をあげつらったりはしなかった。
その日その日に、私の見聞したことを書き留めた。

■日本到着

(1775年)8月13日早朝、高く切り立った山がある女島が見えた。
午後には日本の陸地が見え、9時に長崎港の入口に投錨した。

幕府は、周辺の山々にいくつかの遠見番を設け、
そこに望遠鏡を備え、遠くに船を発見するや、
直ちに長崎奉行にその到着を知らせるようにしていた。
これら遠見番から、今、たくさんの狼煙があげられた。

この日、船員らは所有している祈祷書や聖書を集め、
一つの箱に入れ、その箱を釘付けにした。
次いで箱は日本人に渡され、帰航まで保管される。

帰航時には各人、自分の本を返してもらう。
このようにするのは、キリスト教新教やカトリック教の本を
国内へ持ち込まないようにするためである。

甲板にカーテンなしの天蓋つき寝台席が設けられた。
船にやってくる日本の上級役人が坐るためである。
乗組員およそ110人と奴隷総勢34人からなる全員の名簿ができあがった。
名簿には各人の年齢も書き込まれており、日本人に提出される。

しかし出身地は書かれない。
本来何人かはスウェーデン、デンマーク、ドイツ、ポルトガル
そしてスペインの出身であるが、
全員がオランダ人と見なされているからである。

入港するとすぐに、全乗組員はこの名簿に従って日本人の点呼を受ける。

その時、陸から小舟が一艘こちらへ近付いてくるのが見えた。
すると船長は、銀モールの縁どりがある絹の青い上着をはおった。
それは非常にゆったりとして幅広く、
腹部あたりに大きなクッションが付いていた。

商館長と船長だけが検閲を免れていたので、この上着は長いあいだ、
密輸品をこっそり持ち込むために常用されていた。
船長は上着を一杯にふくらませて、
船から商館へ日に三往復するのが常であった。

そしてあまりに重い物を持って頻繁に上陸するので、
船員二人が両腕を支えねばならないほどであった。

このやり方で船長は、自分の品物と一緒に士官らの品物も、
現金報酬とひきかえに持ち込んだり持ち出したりして、
年間相当の収益をあげており、
その額は数千レイクスダールにも達していたといえよう。

長い入り組んだ港内を航行している間、
我々は周囲の丘陵や山々が織りなす世界一美しい眺望に接した。
そこは頂上にいたるまで耕作されているのが見られた。
このような光景は他の国ではほとんど見られない。

新しい通達を受取った今、我々は決して愉快な気分にはなれなかった。 
幕府から、今後すべての密貿易を禁止するという、
次のような大変に厳しい命令が伝えられたからである。

一、船長ならびに商館長は今後、他の全乗組員と同様に区別なく、
従来は行われていなかった検閲を受けるものとする。

二、船長は今後、他の乗組員と同じ衣服を着るものとする。
従来着用されてきた不正をはたらくための上着は禁止する。

三、船長は常時、船に留まるかあるいは上陸するかし、
もし上陸を希望するときは全滞在期間中、
二回以上船に行くことは許されないものとする。

もっと以前には、船長は先述の幅広い上着をはおるだけでなく、
幅太の大きなズボンをはき、そのなかに様々の禁制品を入れて持ち込んだ。

しかしこのズボンは怪しまれて、禁じられた。
そして今や憤懣やるかたないおもいで、
最後のよるべである上着を脱がざるを得ないのである。

何も知らない大勢の日本人が、今年の中肉の船長を見て、
ただ驚いている様子は少なからず滑稽であった。
日本人はこの時まで、いつも見てきたように
船長はでっぷりとした肥満体であると思い込んでいたからである。

■長崎から小倉の江戸時代日本観察

1776年3月4日

使節一行は出島を発って江戸参府の旅に向った。
この旅に参加するオランダ人は三名だけであった。

それは、商館長として大使のフェイト氏、
医師つまり商館付医師としての私、そして書記官のケーレル氏である。
それ以外のおよそ200人にも達する相当な数の随員
(この人数は疑わしい。通常は60名ほどという)は、
すべてが日本人であり、役人、通詞、従僕、召使いであった。

商館長の食卓に並べるオランダ人用の料理をつくるため、
商館から日本の料理人二人が同行した。
料理人は全行程にわたっていつも一足先に発った。
それゆえ我々が昼食をとりに宿に到着するころには、
料理はすっかり調っているのである。

商館長はもちろん、その医師と書記官も大きく立派な
漆塗りの乗物(のりもん)にのり、旅をした。
この乗物という人の力で運ばれる乗り物は、
薄い板と竹竿から出来ており、長方形で前面と両側面に窓がついている。

茶は進行中も沸かされ、欲しくなればいつでも飲めるようになっている。
しかしヨーロッパ人が、
胃の緊張を解くこの飲み物をのむことはほとんどない。
それよりは一杯の赤ワインかオランダのビールを好んで、
乗り物にそれらの各瓶を用意し、細長いサンドイッチを
二重に入れた長方形の漆器の小箱と一緒に前方の足元に置いた。

身分の異なるさまざまな人々が、
それぞれに異なる手段で進行しているこの大行列全体は
初めて見る者には、立派にして秩序ある光景に映った。
そして我々は至る所で、
その地の藩主と同じような名誉と尊敬をもって遇された。
その上、万が一にも我々の身に危害が加わることのないよう厳重に警護され、
さらに母親の胸に抱かれた幼児のごとく、
心配することは何もないほど行き届いた面倒をみてもらった。

これは我々ヨーロッパ人にとって、この上ない大きな喜びであった。
我々がやることは、食べ、飲み、
自らの慰めに読み書き、眠り、衣服を着け、そして運ばれるだけであった。

初日は、長崎から二里で日見を通過し、さらに一里離れた矢上へ、
そこからなお四里の諫早へ到着し、そこで最初の宿を取った。

我々は矢上で昼食をとった。そこでは宿の主人から、
かつて私が世界のいくつかの場所で遇されてきたより以上に、
親切で慇懃なあつかいを受けた。

用意された部屋に案内されると、食卓はすでに調えられており、
そこで食前酒、昼食、コーヒーをとった。

3月7日

この地方の首府である佐賀には藩主の住む城がある。
城は濠と城壁に囲まれ、そして城門のそばには番人がいる。
ほとんどの町がそうであるように、この町もきちんと整っており、
真っすぐに広い道路が通っている。
また何本かの運河に水を導き、町中を流している。
 
3月8日

道中、大小いくつかの村々やかなり高い山々を越えて、
十里先の飯塚まで進んだ。

筑前地方の旅を続けたこの日は、藩主の遣わした役人一人が我々に随行した。
彼は我々の無事の到着を祝し、藩内の道中はずっと付き添った。

オランダ商館ではヨーロッパ人は日本人に軽蔑され、
一般的にも日本人はすべての外国人を卑しいと見ているのだが、
参府の旅の往復だけは特別である。

我々はどこでも最高の礼をもって手厚く遇されるのみならず、
日本人は毎年行われる参府の旅で、
藩主に示すのと同じようなお辞儀をして我々に敬意を表する。
 
我々がある地方の境界まで来ると、
そこの藩主が遣わした役人が常に我々を出迎え、藩主の名において、
人手、馬、船その他のあらゆる必要な援助を申し出るだけでなく、
次の境界まで付き添う。

そこで役人は別れを告げ、次の者と交替する。
身分の低い者は藩主に対すると同じように、
卑屈なほどの敬意を我々に見せる。

そして彼らのような卑しい者は、
我々を正視できないほど非常に偉いと思っていることを示すため、
額を地につけてお辞儀をし、また背を向けている者もいる。

この国の道路は一年中良好な状態であり、
広く、かつ排水用の溝を備えている。
そしてオランダ人の参府の旅と同様、
毎年、藩主たちが参府の旅を行わざるを得ないこの時期は、
とくに良好な状態に保たれている。

道に砂がまかれるだけでなく、旅人の到着前には箒で掃いて、
すべての汚物や馬糞を念入りに取り払い、
そして埃に悩まされる暑い時期には、水を撒き散らす。

さらにきちんとした秩序や旅人の便宜のために、
上り旅をする者は左側を、下りの旅をする者は右側を行く。

つまり旅人がすれ違うさいに、一方がもう一方を不安がらせたり、
邪魔したり、または害を与えたりすることがないよう、
配慮するまでに及んでいるのである。

このような状況は、
本来は開化されているヨーロッパでより必要なものであろう。
ヨーロッパでは道を旅する人は行儀をわきまえず、
気配りを欠くことがしばしばである。
日本では、道をだいなしにする車輪の乗り物がないので、
道路は大変に良好な状態で、より長期間保たれる。

さらに道路をもっと快適にするために、
道の両側に潅木がよく植えられている。
このような生け垣に使われるのが茶の潅木であることは、
以前から気付いていた。

里程を示す杭が至る所に立てられ、
どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、
道がどのように続いているかを記している。
この種の杭は道路の分岐点にも立っており、
旅する者がそう道に迷うようなことはない。

このような状況に、私は驚嘆の眼を瞠った。
野蛮とは言わぬまでも、
少なくとも洗練されてはいないと我々が考えている国民が、
ことごとく理にかなった考えや、
すぐれた規則に従っている様子を見せてくれるのである。

一方、開化されているヨーロッパでは、
旅人の移動や便宜をはかるほとんどの設備が、
まだ多くの場所においてまったく不十分なのである。

ここでは、自慢も無駄も華美もなく、すべてが有益な目標をめざしている。
それはどの里程標にも、
それを立てさせたその地方の領主の名前がないことからもわかる。
そんなものは旅人にとって何の役にも立たない。
距離はすべて、この国の一点から起算されている。
その起点はすなわち首府江戸にある日本橋という橋である。

■江戸時代の旅人、小倉の宿と下関

郵便車は国中どこにも見られないし、
またほかに旅人を乗せる車輪の乗り物もない。
したがって、貧しい者は徒歩で旅をし、
そして車代を払える者は馬に乗って行くか、
または駕籠か乗物(のりもん)で運ばれる。
徒歩で行く者は草鞋を履いている。

それは上革のない靴底のようなものであり、
脱げ落ちないよう藁を編んだ紐で固く結ぶ。
脚には脚絆をつけており、ふくらはぎの後部でボタンを掛けるか、
または上部を紐で固く結ぶ。

彼らはまた裾の長い着物の代わりに、上着[羽織]か、
ふくらはぎまである亜麻仁のズボン[袴]を着用することがよくある。
そして徒歩で行く武士は、この袴を腿の真ん中まで結び上げる。

馬に乗って行く者は、始終、おかしな格好である。
一頭の馬に何人も、たいていの場合家族全員が乗っているのをよく見かける。
その場合は、主人が鞍の真ん中に乗り、足を馬の首の前まで伸ばす。

鞍に取り付けられた片方の籠には妻が、
そしてもう片方の籠に一人または何人かの子供が乗っている。
そのような時は特定の人[馬子]が
いつも馬の手綱を取って、前を歩いている。

富裕な人は乗り物で運ばれるが、
各人の階級によりその大きさと華麗さが異なり、
したがって費用もまちまちである。

最低のものは小型で、足を折って坐らざるを得ない。
そして四方は開いており、小さな天井がついていて、二人の男が運ぶ。
通常は「カゴ」と呼ばれる駕籠は、
屋根がありそして四方は閉じられるようになっているが、
ほとんど四辺形であり立派とは言えない。

一番大きくかつ豪華なものは「ノリモン」と呼ばれ、
長方形で、身分の高い役人が乗り、何人もで担ぐ。

3月9日

小倉は、国のなかでも大きな町に数えられ、広く貿易を営んでいる。

我々は小倉に到着する手前で、
若君の名のもとに城からの使者二人の出迎えを受け、
その後、町を通って宿屋へ着くまで付き添ってもらった。
我々はここで丁寧に遇され、翌日の午後まで留まった。

ここでも他のどこの宿でも、我々はその家の奥の部屋を割り当てられた。
そこは最も住み心地がよく、かつ一番立派な場所であり、
常にたくさんの樹木、潅木、草本そして鉢植えの花のある
大小の庭を望むことができるし、そこへの出口もある。

またその端には客人用の小さな風呂場があって、好きな時に使える。

この国の建築様式は独特で変わっている。
各家は相当に広く、木材、竹の木摺そして粘土からなる木骨造りなので、
外部は石の家にかなり似ている。

そして屋根には、相当に重くて厚い瓦が葺いてある。
家は一つの部屋からなっていて、必要に応じまた好みに合わせて、
いくつかの小さい部屋に仕切ることができる。
それには、木枠に厚く不透明な紙を貼り付けた
軽い仕切り[襖]が使われており、
それを、その目的で彫られた床と梁に相当する天井の溝にはめると、
らくらくとしかもぴったりと据えられる。

旅のあいだこのような部屋は、我々や随員のためによくつくられた。
そして食堂や他の目的にもっと大きな部屋が必要なときは、
この仕切りはまたたく間に取り払われる。
隣接する部屋の様子は見えないが、話していることはしばしば聞えてくる。

日本人の家には家具がまったくなく、従ってもちろん寝台はないので、
我々はマットレスや布団を、畳の上に直に敷いた。
日本人随員も同じようにして休んだが、
しかし枕はなく代わりに細長い漆塗りの木片を耳のあたりの頭の下に置く。
彼らには椅子や机もないので、臀部の下に足を置いて柔らかい畳の上に坐る。

また食事時には、蓋つきの漆椀に盛られた各人の料理は、
専用の四角の小型木製の低い食卓[膳]に載せて指しだされる。
このような姿勢で眠るので、日本人は髪が乱れることがなく、
一瞬にして起き、そして一瞬にして衣服を身につける。
すぐに着て帯を結べるのは、着物を掛け布団にしているからである。

この町に滞在している間、我々は町の様子をもっとよく見たいと思ったが、
町中を歩きまわる許可を得ることはできなかった。

3月11日

夕方、我々は帆掛舟で湾をわたり、
三里離れた下関に着き、そこで一夜の宿をとった。

国中のあらゆる地域から、ここに集まってくる大勢の人々の群れからみて、
当地での商取引や貿易の規模は非常に大きいと思われる。

従ってまたここには、他地域から運ばれてきた数多くの品物が見られる。

この町は、日本諸島の最大の島であり、
首府が二つある日本[本州]の一端に位置している。

また江戸までの街道も敷かれていたが、
厄介な上に山道であるので、我々は利用しなかった。

玉という長さ二ファムンもある紐のような物が丸く巻かれて、
この国のほとんど何処でも売られていた。
それは小麦粉または蕎麦粉から作られており、目方で売られる。
蕎麦を原料としたものを、日本人は蕎麦切と呼んでいた。
この紐は長短の長さに切って、汁につけて食べると味が良く、
ねばねばしていて、完全に溶けることはない。
そして満腹になる。

汁のなかにこれと葱と魚のすり味[蒲鉾]を入れて煮た料理を
煮麺[ニュウメン]と言う。
そしてとうがらしと醤油を混ぜた汁につけて食べるものを素麺と呼ぶ。

3月12日

長さ90フィートの大きな和船に乗船した。
この船は我々を兵庫まで運ぶために、オランダ東インド会社が毎年、
480レイクスダールを支払って借りているのであり、
約130小海里の航海を、順風であれば時には八日間でなし遂げる。

もう一艘の同じような船が、荷物の一部と我々の随員を運ぶために、
我々の船に従った。

投錨すると必ず、日本人はしきりに陸に上がって入浴したがった。
この国民は絶えず清潔を心がけており、
家でも旅先でも自分の体を洗わずに過ごす日はない。

そのため、あらゆる町や村のすべての宿屋や個人の家には、
常に小さな風呂小屋が備えられ、旅人その他の便宜をはかっている。

他の村々と同様、ここでも非常に子供が多くて、
我々が数回陸に上がったさいには背後で叫び声をあげた。
注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。

子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、
家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。
まったく嘆かわしいことに、
もっと教養があって洗練されているはずの民族に、
そうした行為がよく見られる。
学校では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。

■江戸時代の大阪から京都、東海地方へ

4月9日

大阪と都[京都]間の行程は十三里もあったので、
我々は未明のうちに出発しなければならなかった。
したがって我々は夜明け前、早々に起された。
コーヒーを一杯のみ、朝食にサンドイッチを準備して旅を続けた。
旅の間、先に立つ日本人はほとんど間断なく歌をうたい、
たくさんの松明で朝まだきの暗さを照らした。

ようやく二里進み、守口という大きな村に到着して、
我々と運搬人はしばし休憩した。
その後三里進んでもっと大きな村、枚方で再び休み、
そして軽い飲食物をとった。

その後一里先の休憩所の淀まで行き、
さらに一里進んで伏見で遅い昼食をとった。
淀は小さいがきれいな町で、この上なく水か豊かである。

伏見は一村落に過ぎないといえようが、
長さは三里にも及んで幕府の首府、都[京都]にまで達しており、
そのため都の郊外とみなすことができよう。

その国のきれいさと快適さにおいて、
かつてこんなにも気持ちよい旅ができたのはオランダ以外にはなかった。

また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、
言葉では言い尽くせないほどである。

国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない。
そして我々は長い旅を通していくつかの村を通過したが、
村は尽きることなく、一つの村が終わると、
そこでもう一つの村が始まるのであり、また村々は街道に沿っていた。

今日、私は初めて道路でいくつかの車を見ることができた。
それは都とその周辺で使われている唯一の車輪の乗り物で、
それ以外の地方では使われていない。
この車は低い小さな三輪車であった。
二つの車輪は通常の位置に、そしてあとの一つは前方についていた。
その車輪は全片、木を切って作ったものである。

車輪の摩滅を防ぐために、
縁の周囲を綱またはそれに類したもので巻いてあった。

町近くまたは町中では、車はもっと大きく不恰好で、
時に二輪の車もあり、その前方を牛が曳いていた。

またいくつかの車は、ヨーロッパのものと同様、
轂(こしき)とスポークを備えていたが、留め金はなくもろかった。
この車は道路の片側しか通行を許されていない。
そのため、その側にはたくさんの車が往来しているのが見られた。

またそこでぶつかり合わないように、
午前中に町を出て行き、午後に町へ帰ってくるという順序になっていた。

どの村のどの宿屋でも、
米粉を煮て作った緑色や白色の小さな菓子が売られていた。
旅人やとくに乗り物の運搬人はそれを買って、お茶を飲みながら食べた。
お茶はどこでも旅人のために準備されている。

私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に
一本の雑草すら見つけることができなかった。
それはどの地方でも同様であった。
このありさまでは、旅人は日本には雑草は生えないのだと
容易に想像してしまうであろう。

しかし実際は、最も炯眼な植物学者ですら、
よく耕作された畑に未知の草類を見出せないほどに、
農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。

都は国の最古の首府であるのみならず、最大の商業都市でもある。
これは国のほぼ中央に位置していることによるもので、
そのことは他にもいくつかの利点をもたらしている。

町は一ドイツマイルほどの長さと半マイルほどの幅の平野に広がっている。
ここには、最も主要な商人とならんで、
大多数のそして最高の職人、製造人、名匠らが居を構えている。

したがってここでは人が望むほとんどすべての物が販売されている。
とくに漆器製品、金糸、銀糸を織りこんだビロードや絹織物、金製品、
銀製品、銅製品ならびに赤銅製品、衣服や見事な武器である。

日本の名高い銅は、鉱山で焼かれて溶融されたあと、
当地で精製されて良質な銅になる。
硬貨はすべてここで鋳造され、刻印を押される。

旅する者にとって、履物ほど何足も使い減らすものはない。
その履物は稲藁を編んだものであり、丈夫ではない。
価格もまたごく僅かで、銅貨(銭)数枚で買える。

従って、一般に旅人が通り過ぎるような町や村は、
たとえどんなに小さな村でもすべてこれを売っている。
最もよく利用されている履物、
もっと正確に言えば、藁のスリッパは、紐がない。

しかし旅人が利用するものには、撚った二本の藁紐が付いているので
足にしっかりと結ぶことができ、容易にぬげるようなことはない(草鞋)。

そして足の甲がこの紐で擦れないよう、
その上にリンネルの布が巻かれているものもある。
街道では、旅人が擦りきれてずたずたになったとき履き代えるために、
一足または何足かの草鞋を携帯しているのをよく見かける。

馬用に小さい草鞋、すなわち藁のスリッパが、
蹄鉄の代わりにどこでも使われていた。
この草鞋は、馬が石で足を傷めたり、
また滑り易い道で足を踏みはずすことのないよう、
藁紐で足首にしっかりと結んである。

大井川は大きくかつ最も危険な川の一つである。
この川は、他の川と同じく雨期には水嵩が増すが、
それだけでなく海への流れが度を越して速い。
そしてその時たびたび川底は、
急流が山から運んでくる大きな石でいっぱいになる。

幕府は、橋を架けることができないすべての大きな川では、
旅人が小舟かまたは運搬人によって
安全に渡ることができるよう配慮している。
橋の利用も船の使用も不可能なこの危険な場所では、
この配慮が倍加されている。

そのためここには、川底を十分にかつ正確に知っているのみならず、
旅人を安全に渡せるよう経験を積んだ大勢の男たちが、
料金をとってその仕事にあたっている。
料金は水嵩によって、いうなれば危険度そのものによって異なる。

今日、水嵩は特に多くはなく、運搬人の膝上に達する程度に過ぎなかったが、
それでも我々を乗り物にのせたままで運ぶという段取りは、
ぞっとするほど恐ろしいものであった。

何人かの男が、我々の乗り物の両側を支え持ち、
そして他の者らは川の急激な流れで男たちが押し流されないよう、
脇について介助しているのである。
馬も同じようなやり方で、両側に何人かの男がついて運び、
また我々の他の荷物もすべて同じように運ばれた。

■江戸時代中期の江戸

品川と高輪は、将軍の住んでいる江戸の町の二つの近郊地である。
前者は、その起点(日本橋)からまるまる二里はあり、海岸に沿っている。

我々は品川で一時間たっぷり休み、
軽く飲食物をとって元気を回復し、美しい眺望を楽しんだ。

江戸はこの国最大の、
そしておそらく地球上最大の町であり、またきれいな港があった。
港は非常に浅くなっており、泥土に覆われている。

最大の船舶は、しばしば町から五里離れた所に投錨する。
そんなに大きくない船舶は二里の距離に、
そして小船舶ならびに小舟は何百艘にものぼり、
それぞれの大きさや重量によって互いに町の方へ何列にも並んでいる。

このようにして町は、
他の地域から当地へ輸送される商品の通路を完全に遮断することなしに、
海からの敵の襲撃に十分備えているのである。

我々は、町や港やその周辺を非常に物珍しく眺めたが、
同じように日本人は我々を物珍しく眺めたのであった。
彼らは噂を聞いてここにどっと集まり、我々の乗り物のまわりを囲んだ。

これら日本人のなかには、何人かの身分の高い婦人がいたが、
彼女らはその乗り物をここへ運ばせたのである。
そして我々が何回か簾を降ろすと、婦人たちはかなり苛立つように思われた。

この我々のまわりを囲んでいる地上に置かれた乗り物は、
それだけで小さな村を作っているようであったが、
この移動式の小さな家は、その後しばらくすると消えていった。

ただ一本の通りからなる近郊地、品川や高輪を通り過ぎて、番人がいること、
住民の数が増えたこと、そして運搬人の沈黙や一層しっかりした足取りから、
私は首府に到着したことを感じた。

まもなく長さ40ファムン(約71メートル)ほどの橋、日本橋に着いた。
国中の地方につながる街道は、ここを起点に測られている。

町の入口にあるいくつかの番所を通過して、
一時間あまり広い大通りを進み、我々外国人の定宿に到着した。
そこは裏門から入り、狭い道を通って家の反対側の端に案内された。
この宿泊所に初めて入った印象は、
それが大きいとも快適であるとも思えるようなものではなかった。

しかし一階上がって通された我々の部屋は、
かなりこざっぱりとしたものであった。
だが、はるか遠隔の大陸からやってきた使節の一人として
私が期待していたほどには、立派ではなかった。

広い一部屋が、客間、謁見の間そして食堂にあてられた。
商館長には特に一部屋が、そして仕切ることができる
もう一部屋が医師と書記官に当てられ、また小さな部屋が風呂と
他のすべての個人的な便宜をまかなうものとして当てられた。

当地滞在中、我々はここで満足せざるを得なかった。
狭い道路に面した外の眺めにはたいてい男の子がおり、
我々の姿をちょっとでも捕らえると、とたんにきまって叫びをあげた。
そして我々を見ようと、
向かい側の家の塀の上によじ登っていることも時々あった。

街道では、いくつかの財政豊かな大きな藩や小さな藩の藩主らが、
相応の随員を伴って幕府への毎年の旅をするさまを、
実際に見ることができた。
我々が出会ったうち、若干はすでにこの時期帰路に就いていたが、
大部分は我々を通り越して行くものであった。

前もってどこかの宿屋に到着し終えていない限り、
我々は行列が通過している間、
非常に身分の高い彼らを前にして立ち止まらざるを得なかった。
そして随員が大勢いる行列と、とくにちっぽけな村しかなくて、
そもそもそれほど快適ではない宿屋で
くつろぐしかないような地点で出会うと、
うんざりするような事態に巻き込まれてしまう。

それは一度だけであったが、すでに部屋に入っていた宿屋を出て、
町はずれの寺院に移らざるを得なかった。

この藩主の随員は、しばしば何百人の、
最高千人から二千人の男からなり、彼らはきちんと秩序を保って行進する。
その大量の荷物は、携帯するか馬の背に乗せて運ぶ。

ある者は乗り物のずっと前を、
またある者はすぐ前を、藩主の紋章と印を持って運ぶ。

また通常は一、二頭のきれいな引き馬が前を行き、そして数人の者は、
足に鎖を繋ぎ腕に乗せた狩猟用の鷹を一羽以上連れている。

行列が進んで行く所には、深い沈黙が広がり、
街道の人々は敬意を表して、地べたに頭をつけてひれ伏す。
乗り物の運搬人は、主家を示すそろいの衣服を着ており、
他のすべての物には主人の紋章がついている。

彼らが我々を通り越して行くときは、通常は乗り物の簾が降ろされているが、
一人か二人は、礼儀正しくそれを開けており、
また通過するさい我々に挨拶までした。
そして何人かの藩主は、自分の随員を遣わして我々の旅の無事を祈った。・

我々が通過してきたそれぞれの地方では、その境界近くになると、
迎えの者が丁重に我々を出迎えて挨拶の言葉を述べた。

しかし藩主の住居がある町を通り過ぎているにもかかわらず、
この藩主を訪問するという許可を我々は持っていなかったし、
また藩主が我々を訪ねることもなかった。

すなわち、オランダ人がその地方の藩主と親交を結ぶことは、
一、二の点で悪影響を及ぼすかも知れないということで禁じられていた。

しかし、予期しない極く珍しいことが起った。
ある晩遅く、ある藩主が二人のお供だけで、
まったくおしのびで我々の宿屋に訪ねてきた。

そして十分に時間をとって、
夜遅くまでいろいろな事柄について我々と話し合った。
この人は礼儀正しくかつ非常に友好的であったが、
同様にまた大変に好奇心に富んでいるようであった。

我々が携帯し使用している家具のすべてを、
非常に注意深く極めて入念に眺めた。
そして話題はたんに日本に関することだけでなく、
ヨーロッパのいろいろな事柄にも及んだ。

この時期、雨天の日は数回あったが、
しかしそう頻繁ということはなく、寒さは何とか我慢できた。

だが素足やむきだしの頭をした日本人たちは、
まったく無情な雨よりはむしろ寒さに強かった。
雨が激しいときは、外へ出たがらなかった。

さもなければ、旅では傘、笠そして雨合羽を身に付けた。
雨よけには油を塗った紙が使われるが、
そのような紙は、普通中国から当地へ持ち込まれる。

帽子は円く鐘形状で、細い草を撚って作ってあり、
極く薄く軽いもので、顎の下に紐で結ぶ。
油紙の雨合羽はどんな雨もはじき、このうえなく軽く、
ヨーロッパ人の衣服のように、雨で重くなるようなことはない。

このような合羽を買うことができない貧しい人々は、
一片の藁むしろ(蓑)を背中にかけている。
それには表面が平らなものや、
また毛のように藁の端がつき出てぶら下がっているものがある。

■日本人の外見と国民性

日本人の外見

日本人は体格がよく柔軟で、強靭な四肢を有している。
しかし彼らの体力は、北ヨーロッパ人のそれには及ばない。
男性は中背で、一般にはあまり太っていないが、
何回かはよく太った人を見た。

肌の色は体じゅう黄色で、時には茶色になったり、白くなったりもする。
身分の低い人々は、
夏期に上半身裸で仕事をするので日焼けして一層茶色になる。

上流の婦人は、外出するさいは大抵何かで覆うので真白である。

この国民の眼は、中国人と同様に広く知られている。
それは他民族のように円形ではなく、楕円形で細く、
ずっと深く窪んでおり、ほとんど目を細めているように見える。

他の点では、瞳は褐色というよりはむしろ黒色で、
瞼は大きな目尻ぎわに深い線をかたち造っていて目つきが鋭くなり、
他民族とはっきり区別できる独特な風貌を持っている。
眉毛はいくぶん高いところにある。

ほとんどの人は頭が大きく、首は短く、
髪の毛は黒くふさふさして油で光っている。
鼻は低いとは言えないがしかし太くて短い。

■日本人の国民性

一般的に言えば、国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、
従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、
節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、素直にして公正、
正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、
高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である。

日本では学問はまだ発達をみていないが、そのかわりに国民は、
どんな仕事においてもその賢明さと着実さを証明している。
日本人を野蛮と称する民族のなかに入れることはできない。
いや、むしろ最も礼儀をわきまえた民族といえよう。

彼らの現在の統治の仕方、外国人との貿易方法、工芸品、
あふれるほどにあるあらゆる必需品等々は、
この国民の賢さ、着実さ、そして恐れを知らない勇気を如実に物語っている。

貝殻、ガラス真珠、きらきらする金属片等で身を飾るような、
他のアジアやアフリカ民族にはごく普通にみられる虚栄を、
この国で目にすることは決してない。

また目先がきらきらするだけで何の役にも立たないヨーロッパ人の
派手な金や銀の飾り物、宝石類やその種の物はここでは珍重されず、
彼らはきちんとした衣服、おいしい食物、
そしてすぐれた武器を国内で製造することに努めている。

自由は日本人の生命である。
それは、我儘や放縦へと流れることなく、法律に準拠した自由である。
法律はきわめて厳しく、一般の日本人は専制政治下における
奴隷そのものであると信じられてきたようである。

しかし、作男は自分の主人に一年間雇われているだけで奴隷ではない。
またもっと厳しい状況にある武士は、
自分の上司の命令に服従しなければならないが、
一定期間、たいていは何年間かを勤めるのであり、従って奴隷ではない。
 
日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、
憎悪を抱いている。

身分の高低を問わず、法律によって自由と権利は守られており、
しかもその法律の異常なまでの厳しさとその正しい履行は、
各人を自分にふさわしい領域に留めている。

この広範なる全インドで、
この国ほど外国人に関して自国の自由を守っている国はないし、
他国からの侵略、詐欺、圧迫、暴力のない国もない。
この点に関し、日本人が講じた措置は、地球上にその例を見ない。
というのは、全国民が国外へ出ることを禁じられて以来、
今では誰一人この国の沿岸から出帆することはできないし、
もし禁を犯せば死刑に処せられる。

また少数のオランダ人と中国人を除いて、
外国人は誰も入国の許可を得ることができないのである。
そしてオランダ人と中国人は、滞日期間中、捕虜のように監視される。

身分の高い人や富裕な人は、大勢の従僕を雇っている。
さらにほとんどの家には召使いがいて、家の主人が外出する時はコート、
履物、雨傘、行灯やその他必要になるかも知れない品物を持って従う。

礼儀正しいことと服従することにおいて、
日本人に比肩するものはほとんどいない。
お上に対する服従と両親への従順は、幼児からすでにうえつけられる。

そしてどの階層の子供も、それらについての手本を年配者から教授される。
その結果、子供が叱られたり、
文句を言われたり打たれたりすることは滅多にない。

身分の低い者は、
身分の高い者や目上に対して深々とお辞儀をし、盲目的に無条件に従う。
身分の等しい者に対しては、
出会った時も別れる時もいつも慇懃な挨拶を交わす。

一般には背中を曲げて頭を下げ、
両手を膝か脚にそって膝下に当てるが、手が足先まで届くこともある。

それは表明すべき敬意の大小による。
尊敬の念が深ければ深いほど、より深く頭を下げなければならない。

目上の人に話しかけたり、または何かを渡さなければならない時は、
いつもこのようなお辞儀をする。
身分の低い者が道で身分の高い者に出会うと、
前者は後者が通り過ぎるまで上述の姿勢のままでいるのである。

身分の等しい者が出会えば、両人は立ち止まって挨拶を交わし、
軽く頭を下げたままで通り過ぎる。
家を訪問した時は膝を曲げて坐り、
多かれ少なかれ頭を下げてお辞儀をする。
そして帰るさいには、立ち上がる前に再び同じようなお辞儀をする。

■日本人の好奇心、親切、正義心

この国民の好奇心の強さは、他の多くの民族と同様に旺盛である。
彼らはヨーロッパ人が持ってきた物や所有している物ならなんでも、
じっくりと熟視する。

そしてあらゆる事柄について知りたがり、オランダ人に尋ねる。
それはしばしば苦痛を覚えるほどである。
当地へやってきた商人のなかでは、
とくに商館付き医師が唯一の博識者だと日本人は考えている。

そこで出島の商館でもそうだったが、とくに幕府への途次や首府滞在時は、
医師はいつも賢人であり、日本人はあらゆる事柄、
とりわけ数学・地理学・物理学・薬学・動物学
・植物学・医学について教えてもらうことができると信じている。

謁見では、我々は将軍の宮殿で老中や他の幕府高官に
頭のてっぺんから足先まで熟視された。
それは我々の帽子、剣、衣服、ボタン、飾り紐、
時計、杖、指輪等々にまで及んだ。

さらに我々の書式や文字を見せるために、
彼らの面前で字をしたためざるを得なかった。

この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。
そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族の群を抜いている。

彼らの銅や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。
その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、
これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。

農夫が自分の土地にかける熱心さと、
そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい。

節約は日本では最も尊重されることである。
それは将軍の宮殿だろうと粗末な小屋のなかだろうと、
変わらず愛すべき美徳なのである。

節約というものは、貧しい者には自分の所有するわずかな物で満足を与え、
富める者にはその富を度外れに派手に浪費させない。

節約のおかげで、
他の国々に見られる飢餓や物価暴騰と称する現象は見られず、
またこんなにも人口の多い国でありながら、
どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない。

一般大衆は富に対して貪欲でも強欲でもなく、
また常に大食いや大酒飲みに対して嫌悪を抱く。

清潔さは、彼らの身体や衣服、家、飲食物、容器等から一目瞭然である。
彼らが風呂に入って身体を洗うのは、
週一回などというものではなく、毎日熱い湯に入るのである。
その湯はそれぞれの家に用意されており、
また旅人のためにどの宿屋にも安い料金で用意されている。

日本人の親切なことと善良なる気質については、
私はいろいろな例について驚きをもって見ることがしばしばあった。
それは日本で商取引をしているヨーロッパ人の
汚いやり方やその欺瞞に対して、思いつく限りの侮り、
憎悪そして警戒心を抱くのが当然だと思われる現在でさえも変わらない。

国民は大変に寛容でしかも善良である。
やさしさや親切をもってすれば、国民を指導し動かすことができるが、
脅迫や頑固さをもって彼らを動かすことはまったくできない。

正義は広く国中で遵守されている。
君主が隣国に不正を働いたことはないし、古今の歴史において、
君主が他国に対して野望や欲求を抱いた例は見いだせない。

この国の歴史は、
外国からの暴力や国内の反乱から自国を守った勇士の偉業に満ちている。
しかし他国やその所有物を侵害したことについては、一度も書かれていない。

日本人は他国を征服するという行動をおこしたことはないし、
一方で自国が奪い取られるのを許したこともない。
彼らは常に祖先の慣習に従い、また現在も従っており、
他民族の慣習を受け入れることはない。

裁判所ではいつも正義が守られ、訴えは迅速にかつ策略なしに裁決される。
有罪については、どこにも釈明の余地はないし、
人物によって左右されることもない。また慈悲を願い出る者はいない。
正義は外国人に対しても侵すべからざるものとされている。

いったん契約が結ばれれば、ヨーロッパ人自身がその原因を作らない限り、
取り消されたり、一字といえども変更されたりすることはない。

正直と忠実は、国中に見られる。
そしてこの国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。
強奪はまったくない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。

それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、
まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない。

だが、こうした一方で、少なくともオランダ商館に働く底辺の民衆は、
桟橋からまたは桟橋への商品の荷揚げまたは荷積みのさいに、
特に砂糖や銅をオランダ人からすくねることを罪とは思っていないのである。

この国民がいつの時代にも猜疑心が強かったとはまったく信じ難い。
おそらくそれは、
過去に人々の動揺や内乱によってもたらされたものであろう。
しかしそれより大きいのがヨーロッパ人の欺瞞で、
それが日本人にこの害をうえつけ、つのらせてきた。

それは今では、
少なくともオランダ人と中国人との貿易においては際限ないほどになっている。

迷信は他の国民に比して、この国民の間により広くより深く行き渡っている。
それは彼らがほとんど学問を知らないことと、
異教の神学や無知な僧侶らが
この国民に教え込んだ誤った原理によるものである。

このような迷信は祭り、神事、神聖なる約束事、
ある種の治療法、吉凶による日取りの決め方等々に見られる。

■日本語

日本語は、多くの点でヨーロッパの言語と大きく異なっているので、
その習得は大変に難しい。
中国語と同様に上から下へ縦に書く。

このような困難にもかかわらず、私は昨年の秋から冬の間とそれ以降も、
最良の友人である通詞から教わって日本語を理解し、
多少は話し、そして書くことにも非常な努力をした。

しかしこうしたことは、彼らの無事と私自身の安全のために
極秘のうちに行われねばならなかった。

この目的をうまく果たすために、
私はその時々に学んだ言葉や先述の語彙集をもとに、
ヨーロッパではほとんど知られていない言葉についての単語集を作成した。

■衣服

衣服こそ、日本における国民特有のものであるというにふさわしい。
なぜなら、それはあらゆる他民族のものと異なるのみならず、
また君主から貧民に至るまですべて同一で、男女とも同じく、
そしてまったく信じられないことに2500年間も変わっていないのである。

それは国中どこでも、長い幅広の着物であり、
身分や年齢に関係なく、一枚から何枚かを重ねて身に付ける。

身分の高い人々や富裕な人々は上等な絹地の着物を、
そして貧しい人々は木綿地のものを着る。

女性は普通、その裾がつま先までくるし、
身分の高い女性はしばしば裾をひきずり、そして男性は踵までくる。

また旅人、武士、そして労働者は裾をまくり上げたり、
膝までになるよう引き上げたりする。
男性は無地の着物が多いが、
女性はばら色の布地に花を金糸で織り込んでいるのがほとんどである。

夏は単衣か薄い裏地がついているだけである。
冬は防寒のために、木綿綿や真綿をぎっしりと厚く詰める。
男性が何枚もの着物を重ね着することは滅多にないが、
女性は30から50枚またはそれ以上を重ね着することがたびたびあり、
みなごく薄いので合わせてせいぜい4ないし5スコールプンド
(1700ないし2125グラム)にも満たない。

一番下の着物は下着の役割をしており、
したがって白または青っぽい地で、たいていは薄くすきとおるようである。

これらの着物はすべて、腰のまわりに帯をぐるりと巻いて固定する。
帯は男性では手の幅ほどで、
女性ではおよそ半アールン(約30センチ)幅であり、
腰の回りに少なくとも2回巻いたあとに
大きな蝶結びと結び輪が十分に作れるほどの長さがある。

男性はこの帯に刀、扇子、煙管、煙草入れ、
印籠を差しこんだり、入れたりする。
着物はいつも首のまわりを囲み、衿はなく、前開きである。
そして首はむきだしのままで、
衿巻や幅の広い布等で覆ったりすることはない。

袖はいつも不恰好で極端に広い。その幅は半アールン以上あり、
袖口は開いていてその半分は縫い合わされているので、
その底の方は袋のようなものであり、
寒い時はそこに両手を差し込むことができるし、
またポケットの代わりに紙類や他の物を入れることもできる。
若い娘は、とくに着物の袖が長いので地面にまで達することがたびたびある。

この衣服はゆったりしていて、着衣が素早くできる。
また脱ぐ時は帯を解き、袖をはずすだけで十分で、
そうすれは着物はひとりでに脱げ落ちていく。

しかしなお、それには性別、年齢、
身分そして生活のありさまにより多少の違いがある。
だから労働者、漁夫や船員のような身分の高くない人々が
衣服を脱いで働いているのをよく目にする。

その時は着物の上半身を脱いで帯だけでささえて下に垂らしているか、
またはまったく裸で腰のまわりに一本の帯状のものをまとい、
それで前面を包んで自然の部分を覆った後、
股間から後方にまわし背後で固定している(褌)。

身分のある男性が外出する時は、
この長い着物のほかに短い半長の着物(羽織)と、
ある種のズボン(袴)を身につける。
羽織は上に羽織るのであり、紗のような薄い布地で作られている。

衿と袖は着物と同じであるが、
しかし長さは腰のあたりまでで、そこに帯を巻きつけるのではなく、
前面の上方を一本の紐で結び合わせる。

通常、色は黒だが、緑色のこともある。
帰宅した時や自分の職務室で上位の役人がいない時は、
羽織を脱いできちんとたたんでおく。

袴は独特の布地でできており、薄地に見えても繊維はかなり密で、
絹でも木綿でもなくある種の麻から作られている。
どちらかといえば、袴は女性のスカートに似ており、
下方は足と足の間が縫いつけられている。

肌につける股引は、旅人や武士以外は滅多に用いない。
彼らは敏捷に歩いたり走ったりするために、
着物を短く端折って裾をまくり上げている。

日本である種の礼服と称される儀礼用の衣服(裃)は、
身分の低い者が上司を訪問したり、
また人々が幕府へ参上したりするような儀式ばった機会にだけ使用される。
先述の羽織とそれほど異なってはいない。

しかしうしろで肩を両側に引張っているので、
これを着ると日本人は肩幅が大変広く見える。

着物はつま先へとどく長さなので脚は暖かく、
靴下は履く必要もなければ国中どこにも履いている人はいない。
旅をしている身分の高くない大衆や武士は、
それほど長い着物はきていないが、
木綿地の半長の脚絆を脚に巻いているのを見た。

また長崎では厳冬下に寒さから足を守るため、
何人かが木綿地の底で麻の短い靴下(足袋)を履いているのを見た。
これは足首でしっかりし留められており、
親指は別に縫いわけられていて草履をはくこともできるようになっている。

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