●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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汪兆銘~革命未だ成功せず
売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。 中国の国民の幸せのために。 ■1.失敗すれば、家族全体が末代までも批判される 今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。 しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしれない。 お前はそれでもいいか。 汪兆銘は17歳の娘、汪文琳にこう問いかけた。 時に1937(昭和12)年。 汪兆銘は国父孫文の大アジア主義を継承して、 日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道である、と確信し、 中国共産党や蒋介石とは異なる独自の道を目指した。 結果はこの言葉の後半そのままとなった。 妻は獄死、子どもたちは海外にちりぢりとなった。 汪兆銘本人は「漢奸」(中国の売国奴)と今でも非難されている。 そしてなによりも、彼が幸せを願った中国の国民には、 さらなる戦乱と、 共産党独裁政権のもとでの圧制という過酷な運命が待っていた。 汪兆銘を抜きにしては、近代中国の悲劇も、日中関係の不幸も語れない。 ■2.革命の決心 1925年2月24日、孫文の病状が絶望的になった時、 後継者の筆頭として汪兆銘は代筆していた遺言を孫文に聞かせた。 孫文は満足そうにうなづき、「大賛成である」と言った。 そして3月12日、死の前日に署名をした。汪兆銘は自分の代筆した遺書を、 孫文が一字一句も直そうとしなかったことを生涯の誇りとした。 その遺書は、「余は国民革命に力を致すことおよそ40年、 その目的は中国の自由平等を求むるに在り」から始まり、 「現在革命未だ成功せず」という有名な一句を含んでいる。 孫文は、1894(明治27)年、広州で最初の革命の兵を挙げて以来、 宮崎滔天など日本の朝野の志士の支援を受けて、革命運動を続けていた。 日露戦争後、東京には清国の留学生が1万人以上も滞在し、 日本の驚異的な発展に続こうとしていたが、汪兆銘もその一人だった。 1905(明治38)年、孫文の二度目の来日を機に、 中国同盟会が東京で設立され、汪兆銘はわずか22歳で書記長に抜擢された。 そして機関誌「民報」で健筆をふるった。 24歳の時に発表した「革命之決心」には次の一節がある。 革命の決心は、だれもが持っている惻陰の情、 言うならば困っている人を見捨てておけない心情から始まるものだ。 たとえば子供が井戸に落ちていると聞けば、 だれもが思わずその子を救いたくなるだろう。 ■3.兵乱は絶えることなく 1912(大正元)年、辛亥革命が成功し、清朝は滅びたが、 実権は北洋軍閥の総帥袁世凱が握った。その後の中国の政情について、 汪兆銘は「国民党史概論」において次のように論じている。 彼(袁世凱)の死するや、部下の将領は四分五裂して蜂起した。 その混乱状態は、今日に至るまで全く収束されていない。 ・・・それ以来北方の反革命家は大軍閥となり、 南方の変節せる革命党員は小軍閥となった・・・かくて14年、 兵乱は絶えることなく、中華民国は太陽なき暗黒となった。 1921(大正10)年、中国共産党が結成された。 この時、レーニンの秘書マーリンが、 上海での共産党代表大会に参加し、 孫文とも会って、新経済政策を吹き込んだ。 また中国共産党員がコミンテルンの指示で、 次々と国民党に入党し、主導権をとろうとしていた。 孫文の遺書にある「革命未だ成功せず」とは、 まさしくこのような内憂外患の状況であった。 ■4.ソ連の魂胆 孫文の死後、国民党右派の中心人物となったのが、蒋介石であった。 蒋は、日本陸軍で4年ばかり学んだ後、 1924(大正13)年に新しく設立された黄埔軍官学校の校長となった。 長年の失意の経験から、 革命には近代的軍事力が不可欠であるという孫文の構想であった。 蒋介石はその前年にソ連を訪問し、 その侵略的な意図をかぎつけて、孫文に次のような報告をしている。 ソ連はまるで誠意を持っていない。 ソ連共産党の中国に対する唯一の目的は中国共産党をその分身とすること。 彼らのいわゆるインターナショナリズムとか、世界革命とかも、 その実はウィルヘルムⅡ世の帝国主義となんら変わることなく、 ただ名前を変えて世間を惑わそうとするものだ。 蒋介石は孫文の死後、共産党勢力の排除に乗り出す。 上海でクーデターを起こし、南京国民政府を設立して、 武漢の国民党中央と対立するまでに至った。 一方、汪兆銘も偶然、 ソ連から派遣された国民政府最高顧問ボロディンへの コミンテルンからの訓令の内容を知り、ソ連の真意を知った。そこには、 汪兆銘、蒋介石らを駆除すること、 クーデター後、 コミンテルンの命令に従い党の改組を行うこと、 などの内容があった。 中国共産党は、まさしくソ連共産党の手先であり、 それと組んでいることは、中国の自主性を奪われることであると気づいた。 こうして汪兆銘と蒋介石の見方が一致し、 両者は協力して32(昭和7)年、南京で国民政府を組織した。 ■5.汪兆銘・蒋介石の日中和平路線 この前年、満洲事変が勃発していたが、 汪兆銘は「一面抵抗、一面交渉」という基本姿勢を示した。 その前提は、孫文の遺訓でもある「日中戦うべからず」であった。 汪兆銘は青年時代に日本で、アジアの自立と解放を学んだ。 現在の日本は、国際的な孤立や経済的苦境から大陸進出を企んでいるが、 内心は中国との協力、提携を求めているに違いない。 軍事的には抵抗しつつ、外交的には妥協と歩み寄りを求める。 1933年(昭和8)年、塘沽停戦協定が締結された。 1935(昭和10)年には、広田弘毅外相が議会での姿勢演説で、 日中双方の「不脅威・不侵略」を強調し、 日本はアジアの諸国と共に東洋平和および、秩序維持の重責を分担する、 と主張した。 この誠意に満ちた演説は、中国側に好感をもって迎えられ、 一週間後、蒋介石は次のような声明を発表した。 中国の過去における反日感情と日本の対支優越態度は、 共にこれを是正すれば、隣邦親睦の途を進むことができよう。 わが同胞も正々堂々の態度を以て理知と道義に従い、 一時の衝動と反日行動を押さえ、信義を示したならば、 日本もまたかならずや信義をもって相応じてくることと信ずる。 このような形で、汪兆銘と蒋介石の指導のもと、 日中和平路線が着々と進められたが、これを喜ばない勢力もあった。 1935(昭和10)年11月、国民党六中全国大会で、 汪兆銘はカメラマンに扮した刺客から3発の銃弾を受けた。 危うく一命はとりとめたが、療養のため、ヨーロッパへ渡った。 ■6.「最後の5分間」から蘇生した中共軍 日中和平を喜ばない勢力の一つに、中国共産党があった。 蒋介石は、1930(昭和5)年からの数次にわたる共産軍掃討作戦を進め、 1936年頃には共産軍は数万人規模にまで落ち込み、 蒋介石の表現によれば、掃討戦は「最後の5分間」の段階に来ていた。 共産軍が最後の拠り所としたのが、 「一致抗日」をスローガンとして中国人の民族意識に訴える宣伝戦であった。 各地で在留邦人を狙ったテロ事件が続発し、 日中和平を阻もうという動きが激化した。 汪兆銘は後に次のように述べている。 中国共産党は、コミンテルンの命令を受け、 階級闘争のスローガンに代わるものとして抗日を打ち出していたのです。 コミンテルンが中国の民族意識を利用して、 中日戦争を扇動しているの私は読みとりました。 謀略にひっかかってはなりません。 共産軍を「最後の5分間」から蘇生させたのが、 1936(昭和11)年11月の西安事件であった。 蒋介石が西安で共産軍掃討戦を行っている張学良を 督励するために訪れた時、突如逮捕監禁された。 8年前、父親・張作霖を日本軍に爆殺され、満洲から追われた学良は、 抗日意識の盛り上がりに乗じて、共産党と通じたのである。 共産党がモスクワの指示を仰いだところ、 スターリンは蒋介石を釈放し、「連蒋抗日」を命じた。 蒋介石を殺せば、国民党軍により中共軍が壊滅せられ、 汪兆銘がトップとなることを恐れたものであろう。 蒋介石を殺すべしと考えていた毛沢東は 真っ赤になって怒ったと伝えられている。 西安事件で蒋介石と共産党との間で どのような密約が交わされたのかは分かっていないが、 蒋介石は国共合作・抗日へと方針を急転換し、掃討戦を中止した。 さらにこの7ヵ月後の廬溝橋での日中両軍の衝突が起こり、 ここに1933年5月の塘沽停戦協定から 4年2ヵ月にわたる日中和平の時期は終わりを遂げた。 1931年9月の満洲事変勃発から、1945年8月の大東亜戦争終戦までを 「日中15年戦争」などと称する言い方があるが、 この期間は合計しても13年11ヵ月にしかならず、 なおかつ4年2ヵ月もの和平期間を無視している。 学問的な用語というより、 コミンテルン史観に基づくプロパガンダ用語と解すべきである。 ■7.我は苦難の道を行く 西安事件の直後、ヨーロッパでの療養から帰国した汪兆銘は、 国民党副主席の地位についていたが、戦いの陰で日中和平工作を進めた。 人々は、簡単に抗日を国内統一の手段にしようなどというか、 抗日戦争で負ければ我々は滅亡するのだ。 いちかばちかの賭けに出て滅亡した場合誰がどう責任をとるのか。 蒋介石は表に対日抗戦を叫びつつ、裏で汪兆銘に和平工作を進めさせ、 また反共を信じながら、表で容共を説いていた。 しかしその間、国民政府軍は上海、南京、漢口と敗走を続け、 重慶にまで追い込まれた。 そして撤退のたびに、南京、武漢、長沙などの都市を 焦土作戦で火の海とした。 この状況下では、日本側の条件を呑んで、和平を選ぶしかないのだが、 それをすれば共産軍に蒋介石打倒の口実を与える。 中日戦争の見通しは明るくない。 中国を救うには日本との和平しかないと自分は考えており、 近く重慶を出て、別の地から和平工作を手がけるつもりだ。 どこに抜け出そうと、戦争している相手国と和平ルートをつくる役割は、 周囲から非難中傷を受けるのみならず、危険も伴うに違いない。 しかし、自分が身を捨てる覚悟でにやり遂げるつもりだ。 1939(昭和14)年、汪兆銘は蒋介石に対して、 「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、 重慶からハノイに脱出して、以後、単独で日本政府との交渉を進めた。 それは、冒頭の言葉にもあったように、 成功すれば中国の国民に平和をもたらすが、 失敗すれば末代まで「売国奴」の汚名を着せられる まさしく「苦難の道」であった。 ■8.革命未だ成功せず 汪兆銘の重慶脱出と呼応して、雲南、四川、西康、貴州の四省が同盟して、 対日和平に立ち上がる根回しが進んでいたが、蒋介石に阻まれてしまった。 汪兆銘は国民政府の分裂を避けたかったが、事ここにいたって、 日本政府の援助のもとに、翌40年、南京に新政府を樹立した。 しかし日本政府も蒋介石政権との和平ルートを模索するなど腰が定まらず、 汪兆銘政府を正式に承認したのは8ヵ月も後だった。 1941(昭和16)年5月、来日した汪兆銘は、 日本国民の熱狂的な歓迎に感激した。 また昭和天皇に拝謁し、日中間の「真の提携」を願っているとのお言葉に、 この一言だけで訪日目的の大半は達せられたと述べた。 「日中戦うべからず」との孫文の遺訓を抱く汪兆銘は、 昭和天皇と日本国民に相通ずる心を見いだしたのであろう。 同年12月8日、日米開戦。汪兆銘は次のように言った。 この戦争は間違いです。 日本はアメリカと組んでソビエトと戦わねばならないのです。 真の敵はアメリカではありません。 しかし、こうして開戦した以上わが国民政府はお国に協力します。 同生共死ということです。 1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れた汪兆銘は、 名古屋で治療を受けたが、11月10日帰らぬ人となった。 南京空港から公館までの道のりを民衆が詰めかけて、棺を迎えた。 翌年、日本が敗れ、南京政府も瓦解した。 孫文を祀った中山陵の傍らに作られた汪兆銘の墓は、 蒋介石の指令で爆破された。 その蒋介石も共産軍に敗れ、やがて台湾に逃げ込む。 汪兆銘が国民革命に一生を捧げて救おうとした中国人民には、 共産党独裁政権のもとで、大躍進や文化大革命で数千万人が餓死するなど、 さらに過酷な運命が待っていた。 そして今に至るまで一度も民主選挙で 自らの政府を選んだことがないという点では、清朝時代の人民と変わらない。 「革命未だ成功せず」 ――――――――――――――――― 国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(140) より転載 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog140.html |
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