正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1900年(明治33年)、ロシアが『義和団の乱』に乗じて満洲を占領。

【義和団の乱→ロシアが満州を占領→日露戦争】

1900年に中国での義和団の乱が満州に波及すると、
ロシアは大軍を満州各地に進駐させ、1901年9月に各国間で
「義和団事件最終議定書」が調印された後も条件を付けて撤兵しなかった。

1901年10月以降に中国とロシアの間で撤兵についての交渉が続けられたが、
日英同盟が1902年1月に調印され2月に発表されると、
ロシアはやっと清国との間に満州撤兵条約を結んだ。

その内容は、6か月ごとの3段階に分けて撤兵を行うというもので、
3段階の期限は1902年10月8日、1903年4月8日、1903年10月8日であった。

ロシアは、第1段階の1902年10月8日の撤兵は行ったが、
第二段階の1903年4月8日の撤兵は行わなかった。

日本はロシアとの直接交渉にのりだした。
1903年8月12日、日本の最初の協定基礎案がロシアに示された。
その内容は、
「朝鮮では日本が、満州ではロシアが優越権あるいは特殊利益をもつ」
とする内容だったが、同年10月3日に提出されたロシアの対案は
「韓国の北緯39度以北を中立地帯とし、満州はロシアが全権を握る」
という内容であった。

また、日本は、日英同盟の締結につづき、
アメリカと歩調を合わせて清国との追加通商条約の締結交渉を進めていた。
清国は、日本に対して
大東溝(だいとうこう)の開港と奉天(ほうてん。現在の瀋陽)の開市を行い、
アメリカに対して安東(あんとう)の開港と奉天の開市を行なうというもので、
また、この2つの条約の調印日は、
ロシアの満州からの撤兵最終期限である1903年10月8日であった。

こうして、日本は、満州に対しても権益を持つこととなった。
一方、アメリカは、中国に対する門戸開放を実現した。

1903年10月8日の追加通商条約の調印により
大東溝と安東開港と奉天の開市が確定すると、
ロシアは10月28日に兵力をもって奉天を占領し清国軍隊を城外に退去させた。

その後も日本とロシアの交渉が続けられたが、交渉は不調に終わり、
ロシアは軍隊を南満州から鴨緑江方面に集中し、
極東およびシベリアにある軍隊に動員令を下した。

1904年2月6日、日本はロシアとの国交を断絶。
ロシアの南下侵略を阻止するため、ロシアに戦争を仕掛けた。

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義和団の乱
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★★★1900年(明治33年)、ロシアが『義和団の乱』に乗じて満洲を占領。
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義和団の乱~唐突な日英同盟締結の背景
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江東六十四屯虐殺(黒竜江=アムール川の悲劇)
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北清事変 日本軍の軍紀厳正 ロシアの南侵
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2009/03/24 09:00|年表リンク用資料
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