●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
「日本国憲法」作成の経緯
『史録 日本国憲法』 児島襄著 より引用。 著者が貴重な御教示と資料の提供を受けたとされる方々。 入江俊郎、牛場友彦、大石義雄、木戸幸一、佐藤達夫、佐藤朝生、白州次郎、 高木八尺、松本重治、福島慎太郎、楢橋渡、細川護貞、三辺謙、清宮四郎、 河村又介、宮沢俊義、松本正夫、岩倉規夫、山本有三、田中耕太郎、 ヒュー・ボートン、チャ-ルス・ケーディス、セオドア・マクネリー、 フランク・リゾー、ジャスティン・ウィリアムズ ――――――― ■米国製憲法という疑い 閣議が終わったのは、午後9時(昭和21年3月5日) そして、直ちに入江法制局次長を中心にして、 内閣書記官長室で「要綱」作成作業がはじまった。 “総司令部憲法案”の字句を修正するのだが、 原本の英文を動かさずに日本文の表現を整えるのである。 翌日、3月6日午前9時から閣議が開かれ、「要綱」の審議がおこなわれたが、 午前10時すぎ、ハッシー海軍中佐が 英文の“総司令部憲法案”13部を持参して、 公式の英訳である旨の確認の署名を、楢橋書記官長に求めた。 「これからワシントンに行く。極東委員会11ヵ国に一部ずつ、 米政府に1部、日本政府に1部、合計13部の署名をもらいたい」 ハッシー中佐はそう述べて、楢橋書記官長の署名が終ると、 一部を残して、そそくさと辞去した。 「要綱」の審議は、午後4時すぎに終り、 政府は午後5時、次のような勅語とともに発表した。 「・・・国民の総意を基調とし人格の基本的権利を尊重するの主義に則り、 憲法に根本的改正を加え、 以て国家再建の礎を定めんことを庶幾(こいねが)う。 政府当局其れ克(よ)く朕の意を体し、 必ず此の目的を達成せんことを期せよ」 マッカーサー元帥も、用意していた声明を発表した。 「予は日本の天皇ならびに政府によって作られた、 新しく且つ開明された憲法が、 日本国民に余の全面的承認の下に提示されたことに、 深い満足をもつものである。」 幣原首相も、談話を発表した。 「畏くも天皇陛下におかせられましては、非常なる御決断を以て、 現行憲法に根本的改正を加え、 民主的平和国家建設の基礎を定めんことを明示せられたのであります。 茲に政府は、連合国総司令部との緊密なる連絡の下に、 憲法改正草案の要綱を発表する次第であります」 そして、八日、松本国務相も記者会見で―― 「(議会の修正権について)従来、 私の考えていたのは一部改正としての修正権で、 この度のように憲法の全部改正については、 充分議をつくして考えていなかった。」 国内では、共産党をのぞく各政党はいずれも歓迎の意を表明し、 国外、とくに米国の新聞は、戦争放棄条項に奇異の目をみはった 『ニューヨーク・タイムズ』紙が 「世界平和は日本の一方的行為で確保されるものではなかろう」と、 「ユートピア的」な条項に首をひねれば、『ニューヨーク・サン』紙は、 「この子供らしい信念」に平和愛好諸国がこたえる事を期待すると述べた。 だが、内外の反応で一致していたのは、 「要綱」が日本製ではなく米国製ではないか、 端的にいえばマッカーサー総司令部または米国政府が、 日本に押しつけたものではないか――という疑惑であった。 前掲のマッカーサー元帥、幣原首相、松本国務相の発言をたどってみても、 マッカーサー元帥は、天皇が自発的に憲法改正を考えたようにいい、 幣原首相は「非常なる御決断」と暗に天皇の苦慮をほのめかし、 松本国務相に至っては、担当大臣でありながら、 今回のような改正は考えていなかった、 と日本側の草案ではないことを 告白しているかの如き言明をしているからである。 さらに、強い印象を与えたのは、 「要綱」の文章が明らかに翻訳調であることと、 その内容が、たとえば第12条の「生命自由及幸福希求に対する権利」が 米国の独立宣言そのままであったり、 さらにリンカーン大統領の有名な“ゲティスバーグ演説”や、 F・ルーズベルト大統領の演説の一部に酷似した文句が発見できるなど、 いかにも“アメリカ臭”が濃いことである。 この点にかんしては、むしろ、米国での反響が目ざましかった。 メルボルンの新聞『エイジ』の米国特派員は、 ある米国一流紙の論説委員が英文草案を読んだとたん、 「それでこの日本語訳はできているのか?」と叫んだ、と報道した。 その意味では、口語体で翻訳臭を かくそうとした松本国務相の計画はむしろ逆効果であった、といえるが、 当時の関係者の回想で一致しているのは、 天皇を“象徴”にし、軍隊を廃止するという 「日本国憲法」第1条、第9条においても、その感慨はいちじるしい。 この改正部分はマッカーサー総司令部でも、むしろ、意表外であった。 独立国家であれば、元首と軍隊の存在はしごく常識的な 必須要件であると考えられるからである。 だが、米国の戦後政策は戦争防止、いいかえれば、 敵国が再び脅威とならぬようその“キバ”をぬくことを基本にしている。 草案作成を担当したマッカーサー総司令部は、 日本の事情や将来の変化に対する綿密な配慮を要求されず、 「指令」の一種のつもりで憲法草案を策定した気配が、うかがえるのである。 「日本国憲法」は、平和条約締結後もひきつづき、 日本が米国の“準占領”下にあるような被保護状態を維持する役割をつとめ、 松本国務相が心配した政治の無責任気運を 醸成したことも指摘されるであろう。 ■政治的武装解除 ケーディス大佐がヒルドリング少将の部屋に最初に出頭したのは、 1ヵ月ほど前だったが、当時は中佐だった。進級は3日前で、 副官が大佐の階級章姿を見るのはその日がはじめてであった。 「どこかにご赴任でありますか?」 「日本だ」 「日本・・・? それはご苦労でありますが、 戦争は終ったので、気楽なご旅行になりますでしょう」 「いや、仕事は大変だ。私の担当は、 日本のポリティカル・ディスアーマメント(政治的武装解除)だからな」 「政治的武装解除・・・?」 聞きなれぬ単語に眼をむく副官に、 大佐は肩をすくめてみせ、廊下に出た。 政治的武装解除という言葉は、ヒルドリング少将のうけ売りだが、 じつは、ケーディス大佐にも、意味はよくわからなかった。 ただ、対日占領政策の基本方針については、 すでにいくつかの概案が用意されており、ケーディス大佐も承知していた。 いま、ヒルドリング少将の部屋を出た大佐がかかえるカバンの中にも、 その一部である国務、陸、海軍三省調整委員会 (SWNCC、スウィンクと発音する)の指令 『SWNCC二二八』の草案がはいっている。 どの文書にも共通しているのは、占領が軍事占領ではなく、 むしろ、“新しい国作り”を目標とする政治占領であることを明示していた。 そして、このような政治占領を実施する方法として、 「初期の対日基本政策」は、次のように間接管理方式を定めた。 「天皇および日本政府の権力は、降伏条項を実施し、 日本の占領および管理の施行のため樹立せられたる政策を実行するため、 必要なる一切の権力を有する最高司令官に隷属するものとす。 日本国政府は最高司令官の指示のもとに、 国内行政事項に関し通常の政治機能を行使することを許容せらるべし」 もっとも、日本政府を通じての占領政治という間接管理とはいっても、 あくまで日本の「現存の政治形態を利用せんとするものにして、 これを支持せんとするものに非ず」 ということで、最高司令官は「政府機構または人事」の変更を要求し、 また「直接行動」の権利を保持している。 間接管理とはいうものの、 日本側がマッカーサー元帥の気にいるようにすれば良いが、 そうでなければ容赦なく命令する。 実質的には“間接管理という名の直接管理” あるいは“直接管理の変形”と呼ぶのがふさわしい。 クリスト准将は、日本占領にそなえて ナチス・ドイツにたいする軍政を研究してきたが、ドイツの場合は、 「ドイツには、秩序を保持し、この国の行政を行い、 かつ戦勝諸国の命令に応じて行動する責に任じ得るいかなる中央政府も、 また、いかなる中央官庁も存在しない」 (1945年6月5日、ベルリン宣言) と定められ、 米英仏ソ4カ国がドイツ統治の全責任と全権力を持つことになっている。 なまじ政府がないほうが、スムーズな占領目的達成が期待されるはずである。 日本占領については、ドイツが4大国の分割管理下におかれたのにたいして、 連合国の共同管理方式が採用されたことである。 共同管理方式は、第二次大戦末期に徴候を 明らかにしだした東西両陣営の冷戦を動機にしていた。 すなわち、米国は、ドイツにおける分割管理が ソ連の介入をうながした点に注目して、 日本占領については、ソ連の日本進駐を拒否し、 あくまで米国が主導権を握る方針を決めた。 このため、連合国代表による諮問機関、「極東諮問委員会」を設置して、 同委員会の活動を通じて共同管理形態を維持しようとした。 委員会は、ソ連がたんなる諮問機関であることについて参加を拒否したほか、 新たにインドを加え、米国をふくめた12国で発足する(10月30日)が、 諮問機関であるとはいえ、 米国の日本占領について“小姑”的存在であることはまちがいない。 ケーディス大佐が担当した主任務は、 財閥の解体準備と公職追放人選定であったが、 大佐は、9月21日『朝日』の論調を読むと、 クリスト准将に、憲法改正を日本政府に指示すべきだ、と進言した。 SWNCC指令文書の最大の特徴は、 それが日本の憲法改正項目を例示している点にあった。 米国の対日占領目的である「日本が再び米国の脅威とならぬ」よう、 憲法にいかなる規定が必要かを明らかにしたもので、 その中には、閣僚文民制、基本的人権、議会の権限拡大、 地方自治体首長の民選制、天皇制の改革など、 現行憲法の主な項目はすべて網羅されている。 その意味では、日本政府にこのSWNCC文書をつきつけて、 さあ、こんな憲法にしろ、といえばすむわけだが、 SWNCC文書には厳重な二つの制限がつけられていた。 「本文書は公表されてはならない」ということと、 憲法の改正または起草は「日本国国民の自由意志を表明するごとき方法」 でおこなわなければならない、という条件である。 強制してはならず、 またあからさまに米国側の手のうちをさらけだしてもいかぬ、 というのである。 日本の降伏と進駐が決まると、 マッカーサー元帥は日本占領政策の実施にかんする明確な権限を要求し、 米統合参謀本部は9月13日(昭和20年)、 次のような指令『SWNCC181/2』を伝えた。 「一、(日本)国家を統治するための天皇および日本政府の権能は、 連合国最高司令官としての貴官に従属する。 貴官は、貴官の使命達成に必要と思う権限を行使できる。 二、・・・貴官は、貴官が必要とみなす武力の行使をふくむ方法によって、 貴官が発する命令を実施する権限を与えられる。」 つまり、マッカーサー元帥は日本における “オールマイティ”の地位を要求し、与えられていた。 ■マ元帥、近衛公爵への改憲提案依頼と裏切り 東久邇宮首相のあと、 マッカーサー元帥が迎えた日本側要人は、近衛文麿公爵であった。 近衛公爵は、10月4日午後5時、通訳にあたる外務省の奥村勝蔵とともに、 第一生命相互ビルの総司令部をたずねた。 公爵のマッカーサー訪問は、2回目である。 最初は9月13日(昭和20年)、まだ総司令部は横浜税関に居を占めていた。 近衛公爵は、日本の過去の軍閥横行の背後に赤化分子の活躍があった、 (近衛上奏文参照) と満洲事変いらいの歴史を略述しながら、説明した。 元帥は公爵の話の間に質問をはさみながら聞いていた。 公爵が主張したのは、軍閥や極端な国家主義者を排除しようとするあまりに、 国家の安定勢力まで一掃してしまっては、 日本は共産化してしまう、という点であった。 元帥は、公爵の話が終ると、 「お話は有益であった。参考になった」といった。 そこで、近衛公爵は、こんどは元帥の意見を聞こうと思い、質問した。 「政府の組織および議会の構成につき、 なにかご意見なり、ご指示があれば承りたい」 すると、マッカーサー元帥は、急に姿勢を正すと、強い語調でいった。 「第一に、憲法は改正を要する。 改正して自由主義的要素を充分に取りいれねばならぬ。 第二に、議会は反動的である。これを解散しても、現行選挙法の下では、 顔ぶれは変っても、同じタイプの人間が出てくるだろう。 それを避けるためには、選挙権を拡張して、 婦人参政権と労働者の権利を認めることが必要である」 憲法改正という予想外の発言に、近衛公爵はおどろいたように眼をあげたが、 びっくりしたのは、むしろ、サザーランド参謀長であった。 近衛公爵が、ごんごは元帥の激励と助言とにより国家のためご奉公したい、 と述べると、右手のコーン・パイプをぐっとさしだして、うなずいた。 「まことに結構である。公爵はいわゆる封建的勢力の出身ではあるが、 コスモポリタンで世界の事情にも通じておられるし、まだお若い。 敢然として指導の陣頭に立たれよ。 もし公爵がその周囲に自由主義分子を糾合して、 憲法改正に関する提案を天下に公表されるならば、 議会もこれについてくることと思う」 近衛公爵は、元帥の言葉をなんども脳中で反すうした。 (・・・憲法改正・・・お若い・・・陣頭に立て・・・ でないと、われわれ自身でおこなわねばならぬ・・・) 「こりゃあ、たいへんなことをいいつけられたなァ」 問題になるのは、近衛公爵と戦争犯罪人指名との関係である。 戦争犯罪人の選定については、 すでに戦争法規違反の戦犯者は法務部長A・カーペンター大佐が、 戦争政策の指導にあたった政治的戦争犯罪人は 対敵諜報部長E・ソープ准将が担当して作業を開始しているが、 近衛公爵が政治的戦争犯罪人の指定をのがれることは、 あり得ないはずである。 1ヵ月もたたぬ11月1日、マッカーサー元帥は、 近衛公爵に憲法改正業務を依頼したおぼえはない旨を、声明する。 いらい、立場を失った近衛公爵は失意の日を重ね、 やがて戦犯指名を受け、出頭を前に自決することになる。 その死の裏には、明確に憲法改正の仕事を指示されたにもかかわらず、 知らぬといわれたマッカーサー元帥の「裏切り」にたいする悲憤があった、 と公爵の側近者は、一致して推察するからである。 11月1日午後5時、マッカーサー総司令部は、 近衛公爵の憲法改正における役割を否定する次のような声明を発表した。 「近衛公爵が日本憲法改正にはたしている役割について、 重大な誤解が存在している模様である。 近衛公爵は、連合軍当局によってこの目的のために専任されたのではない。 近衛公爵は、東久邇宮首相代理の資格において、 日本政府は憲法改正を要求されるであろう旨を通告された。 その翌日、東久邇宮内閣は総辞職し、 本件に関する同公爵と連合軍当局との関係は、これをもって終焉した。 近衛公爵のその後の関係はまったく皇室との関係にとどまり、 連合軍総司令部は同公爵をまったく支持していない・・・」 「覚書を知った時の、近衛の凄いまでの表情は私の目の前にはっきりと、 まだ見える」――と牛場友彦は記述しているが、 衝撃を受けたのは、牛場友彦も同様である。 マッカーサー元帥の声明には、明らかにウソがある。 元帥は、憲法改正を示唆したのは東久邇宮内閣副首相の 近衛公爵に対してであって、個人近衛にではない。 ゆえに、近衛公爵が閣僚でなくなった瞬間に 総司令部と公爵との関係は消滅した、という。 たしかに10月4日、 近衛公爵がマッカーサー元帥を訪問したときは副首相であり、 その翌日、内閣は倒れ、公爵は私人となった。 しかし、その私人近衛に対して、 10月8日、アチソン顧問は憲法改正に関して考慮すべき項目を教示し、 25日には、ジョン・エマソンがさらに詳細な勧告を伝えている。 アチソン、エマソンはマッカーサー元帥の政治顧問である。 「連合軍当局との関係が終焉」していたどころか、 むしろ、「当局」は積極的に近衛公爵を指導していたのである。 ■共産党の新憲法案骨子 牛場友彦が明治生命ビルに呼ばれた12日(昭和20年11月)の朝刊各紙には、 次のような共産党の「新憲法案骨子」が発表されていた。 一、主権は人民にある。 二、民主議会は主権を管理する・・・。 三、政府は民主議会に責任を負う・・・。 四、民主議会の議員は人民に責任を負う・・・。 五、人民は政治的、経済的、社会的に自由であり、 かつ議会および政府を監視し、批判する自由を確保する。 六、人民の生活権、労働権、教育される権利を具体的設備をもって保証する。 七、階級的ならびに民族的差別の根本的撤廃。 現憲法に照合するとき、格別に瞠目すべき内容ともいえぬが、 当時としては、まさに“革命的”発案である。 しかも、この「新憲法案骨子」は、天皇制打倒、 人民共和政治樹立などを唱う「人民戦線綱領」 と不可分の形で主張されている。 当時、共産党は過去の汚れを持たぬ政党として、人気があった。 マッカーサー総司令部も、庇護といわぬまでも、 共産党の存在を旧体制解体ムードの促進剤として是認する態度を示した。 この総司令部の姿勢と思いあわせるとき、 近衛公爵には少なからぬ脅威が感じられた。公爵は細川護貞に、いった。 「マッカーサー司令部にはユダヤ人多き為か、 皇室に少しも好意を持たざるのみか、 口実を設けて破壊せんとしつつある様なり。又、赤化も計り居る如し」 反共を国是とする米国が、日本の赤化を望んでいるとは思えない。 しかし、マッカーサー総司令部内に、共産主義者、 それに近い急進的理想主義者、 あるいは日本の国情に無知な政策決定者がいて、共産党も民意の あらわれとみる結果“赤い憲法”の誕生をうながしているのではないか。 第89議会では、戦争責任問題のほかに、 天皇制、憲法改正も重要な論点としてとりあげられた。 もっとも、質疑の潮流は、どちらかといえば保守的なものをうかがわせた。 たとえば、斉藤隆夫議員は、 「如何に憲法を改正するとも、 之に依って我が国の国体を侵すことはできない。 統治権の主体に指をふるることは許されない」といえば、 自由党鳩山一郎議員も、次のように、強調した。 「わが日本において、天皇が統治し給うということは、 国民の血肉となっている信念である。 しかも、天皇は民の心をもって政治をされる民主的存在である。 民主政治には、日本的という限界がなければならぬと思う」 同じく自由党の北?ヤ吉議員も、 日本的民主主義とは「君民同治」あるいは「君民共治」主義であろう、 といい、 幣原首相は、皇室中心の体制は動かし得べくもない、 とうなずいたあと、憲法改正についても、次のような方針を指摘した。 「(運用で時勢の進運に応じ得ると思うが)、 もし、憲法の若干の条規を改正することによって、将来の疑義を閉ざし、 濫用のおそれをたち、国運の伸張に貢献し得らるるものがあると認める 場合には、この際、かかる方向に歩を進めることが望ましいと考えている」 すでに松本委員会は、憲法の全条項の検討を終え、 各委員は改正私案の作成にとりかかっている。 作業は極秘にされている。 くわしい内容は発表できないにしても、幣原首相の言明は、 憲法改正の方向がひどく消極的であることを、示唆していた。 ホイットニー准将とケーディス大佐は、 民生局法規課長マイロ・ラウェル少佐から、 「レポート・日本の憲法についての準備的研究と提案」 と題するマッカーサー元帥あて報告書をうけとった。 この報告書は、ラウェル少佐が大日本帝国憲法を検討し、 日本民主化のための憲法改正には、 とくにどのような点に留意すべきかを、列挙したものであった。 内容は天皇の権限の縮小、市民の人権を保障した権利章典の明記、 議会政治の確立と憲法外の機関の禁止、 地方分権制の確立を主項目としているが、 のちに日本国憲法の柱となった国民主権、軍備放棄は、 いずれも主張されていない。 ケーディス大佐およびフランク・リゾー大尉によれば、ラウェル報告書は、 主として松本委員会から届けられる議事要録と、 委員会に所属する“自由主義的憲法学者” (註、野村淳治博士らしいといわれる)の意見と、 すでに民生局要員には「なじみになっていた」(リゾー大尉) SWNCC228指令とを照らしあわせて、作案したものである。 したがって、憲法が国家の最高法規であることの明確な宣明、 国政の憲法による厳重な規制、基本的人権とくに司法上の人権の具体的保護、 地方自治制度を強調する一方、天皇制と軍隊は、その存続を前提にしている。 天皇については、御前会議、内大臣、枢密院など、 いわば政府外の側近政治を排除する必要があるとし、 「天皇に直接上奏しうるのは、国民に直接責任を負う地位にある 若干の官吏に限るべきである」と述べている。 つまり、どちらかといえば、ラウェル少佐の改正は、 政治的に重大効果をおよぼす部門はさけ、 主として法律処理が可能な面に焦点をおいている、といえる。 この点は、弁護士出身であるラウェル少佐らしい作文であるが、 ホイットニー准将も弁護士出身である。 「だいたい、こんなところを 土台にして検討をすすめるべきだろうな、チヤールス」 ケーディス大佐も、ホイットニー准将の意見に賛成した。 とくにラウェル少佐の報告書に感銘をうけたわけではなく、 「本来、憲法問題は日本側に主導権を与えるべきであり、 日本側の手にあまると見定めたときは、 われわれがのりだすが、いまはまだその段階ではない」 と判定されたからである。 ■憲法改正を急ぐマッカーサー 三国外相会議は、これまでソ連が参加しなかった極東諮問委員会を、 ソ連をふくめて極東委員会と改組するとともに、 東京に米、英、ソ、中国、オーストラリア、ニュージーランド、 インド代表で組織する対日管理理事会の設置をきめた。 「理事会」は極東委員会の出先機関ともいうべき存在で、 極東委員会はマッカーサー元帥の対日政策を検討する機能をもつが 「理事会」は元帥の諮問機関的役割をはたす。 マッカーサー司令部は、 すでに、旧天皇制の“打破”をうながす処置をとっていたのである。 天皇自らの神格を否定する、いわゆる「人間宣言」の発表である。 ■記念碑としての憲法改正 ホイットニー准将とケーディス大佐の会話は、 准将の部屋に席を移してなおつづいたが、 准将は、憲法改正案を作成する理由を、ひとことで説明した。 「極東委員会に口をいれさせてはまずいからな」 おお、イエス――と、ケーディス大佐は、 声にならぬあいづちをうちながら、即座になっとくした。 前日、12月30日(昭和20年)J・バーンズ米国務長官は、 26日にモスクワの米英ソ外相会議で設立がきめられた極東委員会について、 次のように放送していた。 「極東委員会が政策にかんして一致できず、 あるいは対日理事会が政策の実施方法について一致できないことによって、 マッカーサー元帥の機能が阻害されないことを保障する」 極東委員会は、すでに成立している極東諮問委員会に ソ連を加えた11カ国の対日管理機関であるが、 米政府の連合国最高司令官にたいする緊急事項の中間指令権、 米英ソ中四主要国の三国をふくむ過半数議決方式など、 たしかに対日政策に関する米国とマッカーサー元帥の優位は確保されている。 しかし、極東諮問委員会と極東委員会とをくらべてみると、 諮問の二字が消えている如く、 極東委員会は「対日理事会」というマッカーサー元帥の諮問機関を別に持つ、 明白な日本管理機構である。 その任務は、勧告ではなく、 「降伏条項の完遂上、準拠すべき政策、原則、基準を作成すること」にあり、 「連合国最高司令官のとった行動」をチェックし、 とくに「日本の憲法機構または占領制度の根本的改革」については、 連合国司令官は委員会の「事前の協議および意見一致」を必要とする、 と定められている。 マッカーサー元帥は、すでに極東諮問委員会についてさえも、 強い反対意見をワシントンに進言していた。 それ以上の立場の極東委員会の誕生は、 だから、マッカーサー元帥にとってはこよなく不快な存在となるが、 とりわけ不快感をそそるのは、 委員会が憲法改正にたいして発言権を与えられた点である。 マッカーサー元帥は、憲法改正の促進をのぞんでいた。 たとえば、フランク・リゾー大尉によれば―― 「昭和20年12月下旬に、ホイットニー将軍から聞いた話だが、 マッカーサー元帥は自分がおこなった日本改造が その場限りに終らないことを望み、 そのためには一日も早く憲法改正が必要だと考えていた。 もともと、元帥は占領が長引くのは日米双方にとってマイナスだと信じ、 占領は二、三年で終えて帰国したいと思っていたらしい。 しかし、その帰国するときには、すべてが不安のない状態、 とくにおこなわれた改革が永続的なものになっていなければならない。 たんに軍政命令によるだけでは、軍政の終了が改革の終了になる。 しかし、国家の法律という形になっていれば、より長続きする。 その意味では、改革を体現した憲法改正が必要であり、 憲法改正が早ければ早いほど、改革も早く日本の法律化するわけである。 たとえ(憲法改正が)総司令部側の示唆、それも強い示唆による場合でも、 日本側の立法化の手続きがあれば、より永続性をそなえ、 日本国民もうけいれやすくなる・・・・というのが、元帥の考えだった」 いずれにせよ、マッカーサー元帥は、いわば日本占領の使命達成の “証拠”または“記念碑”としての憲法改正を希望していたわけである。 そして、極東委員会の誕生は、元帥の“記念碑”を“委員会の記念碑” にしかねないだけに、 元帥と「銅貨の表裏のように一体」の腹心ホイットニー准将としては、 一段と速かな、具体的には 極東委員会の正式発足前に憲法改正を成就する必要を痛感したのである。 ■公職追放令 指令は、「軍国主義的指導者の官公職からの追放」を命じていたが、 公職追放令を理不尽とみなす声は、少なくなかった。 政界を強引に編成変えして新人登場の機会を与える効果はあるにせよ、 ただ特定の職業、身分、団体に属していたからというだけで、 軍国主義者のレッテルをはるのは乱暴にすぎるからである。 すでに戦争犯罪人の指名と逮捕をおこなわれているが、 公職追放令は「行政的戦犯」指令、いや「行政的処刑」にひとしい。 有無をいわせず職を追われ、職場を制限されめからである。 しかも、審査はうけられるが、実際に軍国主義者であったかどうかの 判定はむずかしく、審査はたぶんに気分次第の気配があった。 ■米国製新憲法案を受諾させる準備 昭和21年2月1日。 松本国務相は、朝食前の習慣になっている新聞各紙の閲読をはじめたが、 『毎日新聞』をとりあげたとたん、眼をむいた。 一面トップに「憲法改正調査会の試案」と白抜きの見出しがかかげられ、 「立憲君主主義を確立、国民に勤労の権利義務」の副見出しとともに、 一面のほとんど全部をつぶして 第1条から第76条までの「試案」が報道されている。 ところで、『毎日新聞』のスクープは、当然に総司令部側の関心を刺激した。 記事の仮訳が作成されて民生局にとどけられたのは午後4時ごろであったが、 午後5時すぎ、ハッシー海軍中佐は楢橋書記官長に電話して、 『毎日新聞』のスクープ案が政府の憲法改正案かと質問し、 ちがう、という返事を聞くと、書記官長に告げた。 「では、すぐ政府案をみせてもらいたい。 もちろん、正式の提示はあとでいい。 それから、そちらの仕事はできるだけ急いだほうがよいと、ご忠告する」 届けられたのは、いわゆる甲案の概要を述べた「憲法改正の要旨」と 「政府起草の憲法改正に関する一般的説明」であるが、 通読して、ホイットニー准将とケーディス大佐はうなずきあった。 ホイットニー准将は、これで日本側としては、 あらためて「ポツダム宣言に忠実に従ったより純粋の憲法改正案」 をつくるか、それとも「われわれの憲法」を受諾するか、 どちらかの道を選ばざるを得なくなった、と指摘した。 「そこで、われわれのほうだが、 私はジェネラル(マッカーサー元帥)の権限を明らかにした覚書と、 『毎日新聞』案とをジェネラルに届けるが、われわれは既定方針どうり、 マツモトのように改正項目を示すのではなく、 新しい憲法案をつくって示すべきだと思う。 そうすれば、日本政府は、われわれがどんな種類の憲法に 関心を持っているか、明白に諒解できるだろう」 准将は、その作業のためにはどのくらいの日数が必要か、 とケーディス大佐にたずねた。 「作業はすでに各部門ごとに開始しています。 一応は、マツモトと同様に明治憲法を訂正する形ですすめていますが、 問題は、憲法改正についての絶対に譲れぬ基本点です。 これがはっきりすれば、作業はぐんと容易になります」 「それは・・・ジェネラルに相談して早急に処理するが、 それで何日ぐらいかかる?」 「たぶん、2月末までには完全にできると思いますが」 「ノー、それではおそすぎる」 ホイットニー准将は、首を大きく左右にふった。 准将は、前日に伝えられたワシントンからの『AP』電を指摘した。 米国務省筋の談話として、 「日本管理理事会が2月14日ごろワシントンで開かれ、 その後数日以内に極東委員会が発足することになろう」という。 だから、「2月末ではおそすぎる、2月中旬までが好ましい」 と、ホイットニー准将はいった。 ケーディス大佐は肩をすくめて、敬礼した。 元帥の希望、すなわち即時実行の命令にほかならない。 大佐は准将の部屋を出ると、自室にハッシー海軍中佐、 M・ラウェル陸軍中佐を呼んだ。 2人とも、大佐と同じく弁護士であり、 3人で憲法草案作成の全般を統轄する「運営委員会」を構成する。 大佐は、2月中旬までというホイットニー准将、 いやマッカーサー元帥の希望を伝え、 そのためには「第一次草案は1週間以内につくらないとまにあうまい」 と、述べた。 翌日、2月2日朝。 外務省からホイットニー准将に電話連絡があった。 前日、吉田外相は、2月5日火曜日に外相官邸で 憲法改正についての非公式会談を申し入れてきたが、 2日間延期して7日木曜日にしてほしい、というのである。 ホイットニー准将は、 いや、いっそ1週間延期して2月12日の火曜日にしましょう。と答えた。 前夜、ケーディス大佐との会話のあと、マッカーサー元帥に会うと、 元帥は例によって准将の判断を「ファイン」と承認し、 准将の提案どおりに、フル回転で憲法草案を作成するよう指示した。 このような事情なので、ホイットニー准将としては、 吉田外相の会談延期申し入れは、 日本側の改正案再検討のためと推測するとともに、 自分のほうの作業の進展を考え、1週間の延期を反対提案したのである。 だが、もちろん、日本側はなにも知らず、 松本委員会はこの日、午前10時から第7回総会を開いて審議した。 総会は委員会全員が出席し、 甲、乙両案および松本国務相の「憲法改正私案」が配布された。 松本国務相は、「私案」を主体、乙案を参考にして審議したいと述べ、 午前中は松本国務相の「私案」説明、 午後に各条項についての審議が行われた。 そして論議の焦点はいぜんとして天皇と軍隊とにしぼられた。 ■基本は武装放棄宣言の憲法 ホイットニー准将は、ケーディス大佐の部屋にはいると、 手にした黄色い紙片を渡した。特別の用紙ではない。 草稿と清書文を区別するため、草稿は色つきの紙を利用するのが、 米国のオフィス慣習であり、黄色紙は最も一般的な草稿用紙である。 その“イエロー・ペーパー”に、鉛筆で数行の文字が書かれている。 ケーディ大佐は黙読した。 「天皇は国家の元首(ザ・へッド・オブ・ザ・ステイト)の地位にある。 皇位の継承は世襲である。 天皇の義務および権能は、憲法に基いて行使され、 憲法の定めるところにより、人民の基本的意思に対し責任を負う。 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。 日本は、紛争解決のための手段としての戦争、 および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。 日本はその防衛と保護を、 いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。 いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、 いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。 日本の封建制度は、廃止される。 皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上には及ばない。 華族の授与は、爾後どのような国民的 または公民的な政治権力を含むものではない。 予算の型は、英国製にならうこと」 いわゆる「マッカーサー・ノート」と呼ばれ、 日本憲法改正にかんする「三原則」といわれるものである。 もっとも、ケーディス大佐は、最後の予算の項目は独立しているとみなし、 「4原則だった」と記憶するが、いずれにせよ、 ホイットニー准将は、大佐の眼の動きで通読が終ったのを知ると、いった。 「ご注文の品だよ、チヤールス。 これがジェネラルの憲法改正にたいする基本点だ。 これだけはどうしても入れる、あとは任せるということだよ」 「・・・・」 (本当ですか)という質問をのみこみながら、 ケーディス大佐は、しばし、絶句した。 なによりも驚いたのは、戦争と軍隊の放棄を定めた第2項である。 ケーディス大佐は、ホイットニー准将を通じて、おぼろげながら、 マッカーサー元帥が、日本の「キバ」をぬいておくためには 日本に軍隊を持たせたくないと考えているらしいことを、推察していた。 しかし、いずれ日本の占領は終り、 日本は講和条約によって独立主権国の地位を回復する。 そのさい、軍隊を持たぬ独立国というものが考えられるだろうか。 ケーディス大佐も、日本の憲法改正に関連して 日本軍隊の将来について考えてみたが、 天皇と軍隊との結びつきを断絶することはすぐ思いあたったものの、 もし憲法に規定するとすれば、せいぜい兵力の制限までで、 まさか軍備全廃には思い及ばなかった。 だが、考えてみれば、これはすばらしいアイデアである。 いや、これこそ「平和国家」というものではないのか。 「私は、ここまで徹底した発想に感銘をおぼえた。 一国が、国家として武装を放棄した実例は過去にない。 もし、日本が武装放棄の憲法を宣言すれば、 世界の世論に劇的な影響をおよぼすだろう。 それは、国際連合の設立以上に、世界の平和に貢献するかもしれない。 私には、そのアイデアが誰のものかわからなかったが、 誰が考えたにせよ、それを考え出した者は天才だ、と思った」 ケーディス大佐は、そう回想する。 そして、この回想は当時の感慨と変りはなく、 ホイットニー准将も、同様の趣旨の感想を述べたという。 ホイットニー准将は、満足げにうなずき、 憲法改正草案を書く民生局メンバーのうち、ケーディス大差とともに 運営委員会を構成する統治課長アルフレッド・ハッシー海軍中佐、 法規課長マイロ・ラウェル陸軍中佐にも 「マッカーサー・ノート」を見せることにして、2人を呼んだ。 2人の中佐も、第2項の戦争と軍備の放棄、 いいかえれば「国家としての武装解除」規定には、 びっくりした様子であった。 SWNCC指令違反ではないか、という疑問も提起された。 SWNCC282指令には、次のような指示があるからである。 「日本の統治機構の中における軍の権威と影響力は、 日本軍隊の廃止と共に、恐らく消滅するであろうが、国務大臣ないし閣僚は、 すべての場合に文民でなければならないということを要件とし、 軍部を永久に文官政府に従属させるための正式の措置をとることが、 望ましいであろう」 「・・・日本における(軍と民の)『二重政治』の復活を阻止し、 かつまた国家主義的軍国主義的団体が、 太平洋における将来の安全を脅かすために、 天皇を用いることを阻止するための諸規定が設けられなければならない。」 そのために、天皇の「軍事に関する権能はすべて剥奪される」と、 SWNCC228指令は指摘している。 が、軍隊を廃止せよ、とは、いっていない。 ホイットニー准将は、ケーディス大佐と顔を見あわせた。 たしかに、問題ではある。 SWNCC指令は、軍隊の存続を予想している。 国家に軍隊はつきものだ、という一般常識にしたがっているからであろう。 しかし、軍隊を持たぬ国があってもいいはずである。 もし軍隊がなければ、 SWNCCが強調する軍隊にかんする警戒規定も必要がなくなる。 そして、SWNCCをふくめて対日政策の基本が、 日本を再び米国および世界の脅威的存在にしないことにあることを思えば、 軍隊廃止はSWNCC指令を超えて米国の目的にかなう措置といえる。 「諸君、これは最高司令官の命令であり、それ以上のなにものでもない」 と、ホイットニー准将が一巡した“イエロー・ペーパー”を 指ではじきながらいうと、ケーディス大佐が、つけ加えた。 「草案作成の作業分担を再確認したのち、明日から仕事を開始するが、 第二項については、本官の担当とし、かつ後回しにしたい」 ■最高機密の憲法改正草案作成 ケーディス大佐はホイットニー准将の部屋を訪ね、 次のような憲法改正草案分担表を提出した。(分担表省略) すなわち、25人の民生局員のうち、 朝鮮課4人を除く21人が動員され、4人(秘書、通訳)が加えられている。 ホイットニー准将は、リストをいちべつすると、 直ちに25人を会議室に招集した。 准将は、11の陸軍将校、4人の海軍士官、 4四人の軍属、6人の女性が席につくと、立ちあがった。 准将は、淑女ならびに紳士の皆さま、と合いの手をいれながら、 「マッカーサー・ノート」を読みあげた。 意外な内容に、一同の間にざわめきが起った。 しかし、准将はいさい構わず、なおも朗々としゃべりつづけた。 「私は、2月12日までに、民生局の草案が完成し 最高司令官の承認をうけることを、希望する。 2月12日に、私は日本の外務大臣その他の係官と、 日本側の憲法草案について オフ・ザ・レコードの会合を開くことになっている」 ホイットニー准将は、おそらくその日本側草案は保守性の強いものだろうが、 自分は、それでは天皇を守ることはできない、 はっきりと進歩的なものでなければだめだ、 ということを納得させるつもりだ、といった。 「私は、説得を通じてこういう結論に達したいと希望しているが、 説得の道が不可能なときには、力を使用すると伝えるだけではなく、 力を使用する権限を最高司令官から与えられている」 「われわれのねらいは、日本の外務大臣とそのグループが、彼らの憲法の針路 を変え、われわれが望むリベラルな憲法を制定させることにある。そのあと、 日本側ができあがった文書を最高司令官に提出してその承認を求めれば、 最高司令官はその憲法を日本人が作ったものとして認め、 日本人が作ったものとして全世界に公表するであろう」 話題は、もっぱら「マッカーサー・ノート」第2項、 戦争と軍備の放棄に酋長した。 主な疑問点は次のようなものである。 戦争の放棄と廃止とは、別問題のはずである。 戦争はやりたくなければやらなくてもいい。 しかし、国家が武装を放棄するのは、 外敵の侵略にも抵抗しない、いいかえれば独立の放棄に通ずるのではないか。 世界各国の憲法を見渡してみて、 このような“平和条項”をそなえている憲法は、ない。 なぜないかといえば、それは国際社会の実状に矛盾する。 つまり、国家の安全と軍備とは、 現在の国際社会秩序では、まだ切り離すことはできないからである。 結局は、この“平和条項”は、やがて日本が独立国家の地位を回復した場合、 かえって邪魔になるのではなのか。 2月7日、ホイットニー准将は、上機嫌で出勤した。 憲法案作成作業は、予想以上に迅速かつ順調に進んでいる。 秘密保持も、万全である。 日本側はしきりに情報収集に努めているが、 前日からは、民生局のドアにかぎをかけ、 メンバーはトイレ通いと出退勤以外は、部屋を出ない体制をとった。 日本側には、作業の内容はむろんのこと、 作業をしていること自体も察知されていないはずである。 作業は、総司令部内、とくにジョージ・アチソン顧問たち、 国務省の連中にも秘密にした。 国務省派の誰かが、天皇が主権者であるかどうかは 連合国にとってはどちらでもよいことだ、と松本国務相に告げた、 という情報を耳にしたからである。 国務省派しめ出しと秘密確保の状況については、 前日、マッカーサー元帥に手紙で報告しておいたが、 国務省を嫌い秘密を好む元帥は、満足しているはずである。 さらに、昨日は、 日本政府から憲法改正案をきょう(12日)届ける、と連絡してきた。 内容は、2月1日の『毎日新聞』が伝えた草案と大差なく、 陸海軍の規定が含まれている、という。 そして、この陸海軍の規定については、 政府の内部で意見が対立している、という。 一部の閣僚は、連合国から疑惑視されるのを避けるために、 陸海軍規定は削除すべきだと主張し、 松本国務相ら別の閣僚グループは、独立国に軍隊は不可欠であり、 もし日本が独立国でないならば憲法も不要だ、との意見だ、という。 「すべては、うまくいっている。理想的とさえ、いえる。 そうじゃないか、チヤールス」と、 ホイットニー准将は、眼を輝やかせてケーディス大佐に、いった。 准将の観察では、憲法改正についての日本政府内の分裂は、好ましい。 どんな改正案にせよ、日本政府の思想と態度が強固に一致していては、 総司令部案を承知させるのに手間がかかるからである。 が、分裂しているならば、たとえ理想にすぎるとみえる改正案でも、 松本案に反対するために支持する閣僚が期待できるであろう。 ホイットニー准将は、前日、マッカーサー元帥あての報告の中で、 「われわれの憲法改正原案」は、 週末までには元帥の手もとに提出できる見込みであり、 「この原案は満足すべきもの」になるだろう、と言明していたが、 おそらく、リンカーン誕生日に提示、 ワシントン誕生日に確定、という予定計画の達成も確実視される。 「マツモト案が届いたら、 ジェネラルに提出するコメント(論評)を準備してくれ。 もっとも、内容も当方の結論もわかっているようなものだが・・・」 ホイットニー准将は、明るい笑顔でケーディス大佐に指示した。 ■爆音の下の「戦争放棄」 昭和21年2月13日、水曜日 松本国務相は、午前9時半、麻布市兵衛町2丁目89番地の外相官邸に到着した。 前日、ホイットニー准将から午前10時に憲法改正問題について会談したい、 と申し入れがあり、外相官邸を会合場所に指定したからである。 総司令部側は、民生局長ホイットニー准将、局次長ケーディス大佐ら数人で、 非公式会談とのことなので、 日本側は、松本国務相のほかには吉田外相、 終戦連絡事務局次長白州次郎と長谷川通訳が参加することにした。 松本国務相は、英訳文を提出しておいた憲法改正「要綱」と 二つの説明書の原文を持参した。 吉田外相は官邸に住んでいたので、 松本国務相が着いたときは、すっかり身支度して待っていた。 白州、長谷川両氏もいた。吉田外相は、 「きょうはよい天気だから、 庭で話したほうが気分もなごやかになるだろうと思って、 ポーチに座を用意した」と、松本国務相を案内した。 ホイットニー准将は、きっちり午前10時に、 軍用色に塗った45年型フォードに乗って、外相官邸にやってきた。 ケーディス大佐とハッシー、ラウェル両中佐が一緒であった。 ホイットニー准将は、吉田外相の松本国務相紹介が終ると、 松本国務相によれば「えらい威張った顔をして」、 ケーディス大佐たちの記録によれば 「一語一語念をおすように」話しはじめた。 「最高司令官は、先日あなた方が提出された憲法改正案は、 これを自由と民主主義の文書として受け容れることは まったく不可能だ、といわれた・・・」 ホイットニー准将はゆっくり話したので、松本国務相にも発言は理解できた。 吉田外相が愕然とした様子で顔をこわばらせると、 松本国務相の細い眼が固定し、頬が紅潮した。 白州、長谷川の二人も、眼をみはった。 「しかしながら、紳士諸君、日本国民が過去の不正と専断的支配から 守ってくれる自由で開放的な憲法を必要とすることを 理解している最高司令官は、ここに持参した文書を、 日本の情勢が要求している諸原則を具現しているものとして承認し、 私にあなた方に手交するよう命じられた。」 ホイットニー准将はそういうと、ハッシー中佐にアゴで合図した。 中佐はカバンから、一束の書類を取り出した。 白州次郎がハッシー中佐のさしだす受領書にサインしている間に、 ホイットニー准将は、「6」を吉田外相、 「7」を松本国務相、「8」を長谷川通訳に渡しながら、いった。 「では、紳士諸君、この文書の内容については、あとでさらに説明するが、 あなた方が読んで理解できる時間を持つために、 私と私の部下はしばし退座することにする」 総司令部の記録によれば、 松本国務相たちはよほどの意外感におそわれたとみえて 一言も発する者はなく、 とくに「吉田氏の顔は、驚愕と憂慮の色を示し、 この時の全雰囲気は劇的緊張に満ちていた」とのことだが、 ホイットニー准将がケーディス大佐らをうながして、庭に出ると、 とたんに米爆撃機B25が一機、 低空で頭上を走りすぎ、爆音が外相官邸をゆるがした。 松本国務相が司令部に提出したのは、 憲法の改正点を列挙した「要綱」である。 ホイットニー准将は「諸原則を具現している文書」という表現をしたが、 手渡されたのは、松本「要綱」なみのものではなく、 「前文」までついている 11章92条の完全な体裁をそなえた憲法そのものである。 しかも、その内容は、まっさきに天皇は国家のシンボル(象徴)だなどと、 まるで文学的表現を使用しているもので、 「当方の考案と余りに懸隔大」なるものである。 白州次長は立って、ホイットニー准将たちに近づいた。 准将もケーディス大佐らも、なんとなく小刻みに散歩しながら、 横眼でこちらの様子をうかがっている。 白州次長は、接待役をつとめるべく、 ホイットニー准将に話しかけたが、准将は厳粛な表情で白州次長にいった。 「お構いなく。われわれは原子の熱を楽しんでいるところです」 原子の熱(アトミック・ヒート)つまりは太陽の暖熱だが、 原子爆弾にひっかけた「不吉なしゃれ」ともうけとれる。 白州次長は鼻白んだが、それでもあれこれと雑談をこころみた。 総司令部の記録によれば、会談を通じて吉田外相の「顔は暗く」、 通訳者の「表情はまったく生気がなく」、 「松本博士は・・・一度もじかにホイットニー将軍を見ることはなかった」。 そして、白州次長は「鉛筆でたくさんノートを取っていた」が、 ホイットニー准将は、草案に説明書は附属していないのか、 という松本国務相の質問に首をふったあとで、 次のような趣旨説明をおこなった。 「紳士諸君。あなた方が御存知かどうか知りませんが、 最高司令官は、天皇を戦争犯罪者として取調べるべきだという 他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、 このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持している。 だが、紳士諸君、最高司令官といえども、万能ではない。 ただ、最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、 実際問題としては、天皇は、安泰になると考えておられる。 さらに最高司令官は、これを受け容れることによって、 日本が連合国の管理から自由になる日が ずっと早くなるだろうと考えておられる・・・」 松本国務相は、のちに、ホイットニー准将は天皇問題にふれたさい、 この憲法改正を採用しない限り、 「天皇の身体(このときの言葉をよくおぼえておりますが)、 パーソン・オブ・ジ・エンペラーの保障をなすこと能わず、 と准将は述べた」と回想している。 総司令部側の記録には、 ホイットニー准将がその種の用語を使用したとは記述されておらず、 つづいて、准将は次のように発言したことになっている。 「最高司令官は、私に、この憲法をあなた方の政府と党に示し、 その採用について考慮を求め、またお望みなら、 あなた方がこの案を最高司令官の完全な支持を受けた案として、 国民に示されてもよい旨を伝えるよう、指示された。・・・・」。 ホイットニー准将は、命令という単語は一度も使用していない。 しかし、准将が告げているのは、 その憲法草案を採用しろ、という命令ではないか。いや、“脅迫”であろう。 ■天皇最後のご聖断 総司令部は速やかな公表を希望しているが、 なにはともあれ、天皇に報告しなければならない。 幣原首相は、“総司令部憲法案”前文と明治憲法の改正手続き、 つまり、民意に基づく憲法だという宣言と 欽定憲法との関係について質問した。 閣僚たちの意見は、結局、 天皇のご意思で発表するのであれば問題はあるまい、 そこで、まず首相が憲法案を内奏して、 こういう内容の憲法をつくるよう努力せよ、との勅語をいただけばよい、 ということになった。 「このときの内奏は、 畢竟するに敗北しましたということの御報告のようになりました。 こちらで多少抵抗したためによくなったところもありますが、 そういうことはあまり申しませんでした」 松本国務相は、 「当時のことは今でも目の中にあるのであります」といいながら、 その8年後(昭和29年7月7日、自民党憲法調査会総会に於て)、 そう回想しているが、 まことに、松本国務相の心境は、敗北の一語につきていた。 松本国務相は、既述の如く、 憲法改正業務をいわば「国体守護の勤め」とみなして、努力してきた。 「国体を守るために敗北を承知したのに、 その国体を捨てるような憲法をつくって良いのか」――とは、 松本国務相がしばしば口走った発言である。 ところが、いまや、松本国務相からみれば、 「途方もない」憲法を受諾することになった。 主権という言葉がある。対外主権、対内主権などというが、 対外主権すなわち独立であり、万事を自主的に決定する力をもつことを指す。 ところが、いま受けいれようとする“総司令部憲法案”の前文は、 日本国民の「安全及生存」は、 「世界の平和愛好国民の公正と信義」に依頼する旨を、宣言している。 自国の運命を自主的に決定するのが主権国、独立国である。 他国の意思にゆだねるのは、非主権国、属国ではないか。 さらに、第9条は「国の主権の発動としての戦争」、 「国の交戦権」を否認している。 ここにも、国家の主権の放棄が唱われ、 国家の本質的機能である秩序の維持と外敵の防衛権が、否定されている。 いわば、独立国たることを憲法であきらめているにひとしい。 米国の星条旗が各州の統合の象徴であるように、 天皇もまた、旗と同じ存在とみなされるわけである。 おりから、天皇には権限も機能も認められず、 ただ「国事」という特定の“事務”をおこなうだけである。 世界各国の元首を眺めても、元首といい、まして君主という場合、 名目的にせよ、法律の裁可権と官吏の任命権をもたぬ存在は、見当らない。 その最小限の要件さえ欠くのだから、 天皇は君主ではなく、ゆえに天皇制、すなわち国体は変改した、といえよう。 松本国務相はできるだけ淡々と経過を説明しようとしたが、 次第に胸がつまり、声がふるえてくるのを止めようがなかった。 すでに2ヵ月前、1月22日、マッカーサー元帥は戦争犯罪人を裁く 「極東国際軍事裁判所」条例を布告していた。 軍、政界の幹部は続々と巣鴨刑務所に収容されている。 ホイットニー准将は、はじめて“マッカーサー草案”を提示したとき、 受諾しないときは 天皇の身体(パーソン・オブ・ジ・エンペラー)の保証ができない、 といった。 この“総司令部憲法”の受諾によって、その不安は除去されるかもしれない。 だが、同時に、日本は国家として“不具”となり、 天皇も君主としての“法的地位”を失う。 そして、それを受諾する決定は、 ほかならぬ天皇ご自身が下さねばならぬのである。 天皇は、太平洋戦争終幕のとき、 ご自身はどうなってもよいと述べられて終戦の聖断を下された。 マッカーサー元帥が進駐すると、 同じくわが身に全責任を負うために、元帥訪問を決意された。 いま、終戦いらい、3度目の聖断を仰ぐわけだが、 その聖断は天皇ご自身の“地位”変更のためのものであり、 天皇が天皇として下す最後の聖断となるはずのものである。 天皇の立場、天皇のお気持ちとして、 ノー、というお答えはないと承知できるだけに、 説明を終って敬礼した松本国務相の頭は、 深くたれたまま、あがらなかった。 「仕方がなければ、それよりほかないだろう」 天皇の言葉が聞えた。 松本国務相には、 天皇のお言葉は 「そんなに強く、それでけっこうだと言われたような意味には思えなかった」 が、いずれにせよ、聖断は下った。 幣原首相と松本国務相は、そのまま首相官邸にもどり、 待っていた閣僚たちに報告し、さらに閣議をつづけた。 総司令部では、同日中にも発表したい意向を伝えてきたが、 幣原首相は、字句の整理、勅語の用意などの都合で翌日にのばしたい、 と返答した。 草案は「憲法改正草案要綱」の形で発表されることになったが、 松本国務相は、正式案は口語体にしたほうが良い、と述べた。 そのほうが、「寧ろ翻訳であることをかくす」ことができる、 と考えたからである。 松本国務相は、口語体の法律の前例がないだけに、 閣僚たちから異論がでるものと予想したが、 「意外にもみな賛成」で採用された。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 素人のアメリカ人女性(当時22歳)が携わった日本国憲法 http://www.youtube.com/watch?v=7Chd84T8Yd4 憲法改正について http://bit.ly/21fMR3A http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-742.html 日本国憲法 http://bit.ly/1UKAxpU http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-561.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 「日本国憲法」作成の経緯 http://bit.ly/1UuHo48 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-415.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 |
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