正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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東京裁判 弁護側資料 満州関連

『東京裁判 日本の弁明[却下未提出弁護側資料]』小堀桂一郎氏編より引用

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【昭和22年3月18~19日、ワーレン弁護人「満洲部門」冒頭陳述】

全文朗読を許されたが、
陳述で予告された後日の書証提出の多くが却下となった。

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満洲部門に関する証拠を提出するに当たりまして、
1931年9月18日のいわゆる奉天事件を中心とする問題は
既に終了せるものと見なされて居り、
且つポツダム宣言もかかる古き事件を追及しようとは
考えていなかったという事を最初に謹んで申し上げます。

■第一節 奉天(柳条湖)事件前の諸問題

露仏独のいわゆる三国干渉は
遼東半島に対する日本の正当なる主権獲得を阻害し、
日本軍が撤退するや否や、
右三国及び英国は中国をして其の領土の移譲を強制せしめ
又露国は中国と秘密条約を締結し、
全満を占領し、朝鮮にも侵入せんと企てました。

日本は其の隣国と同様の運命に陥るを欲せず、
1904~5年露国と戦いこの失地を恢復するに至ったことは
証拠の示す通りであります。

爾来日露は1907年乃至1916年に締結せられた協約により
満蒙に於て勢力範囲に付て諒解に到達しましたが、
過去の経験は日本をして権益の確保に細心ならしめたのであります。

従ってその目的のため1905年乃至1915年に於て
日本と中国との間に幾多の条約及び協定が調印せられました。

併しながら1921~22年のワシントン会議前後に於て、
日本はドイツより獲得せる山東半島の権益を
中国に還付し中国に対する借款及び顧問に関する優先権を放棄し、
且つ日本の極東に於ける優越的地位を
認めた石井・ランシング協定及び日英同盟を破棄致しました。

これらの事実は日本がその隣国殊に中国に対し
日本居留民が該地に於て迫害せられて居るにも拘らず友好関係を
維持せんと努力した誠意を示すものに外ならないのであります。

1911年の中国革命、1917年の露国革命は極東を
徹底的な混乱に陥れたことを立証致します。
至る所に排外運動殊に排日ボイコット及びテロが行われました。
弁護側は奉天事件前に於て蒙った日本人生命
及び財産の損害に付き証拠を提出致します。

中国内乱の悪化が日本権益に及ぼした影響、
殊に一方に於て満州の張作霖が北支に侵入し北京に於て元帥と称すれば、
他方に於て国民党は北伐の師を起し、
南京政権を樹立したことによる影響を説明します。

この頃までに満州は製品及び資本と引換えに
日本に対し食料及び原料を供給する不可欠の源泉となっており、
従って日本は中国との友誼持続を欲すると共に
満州の治安が維持せられることを切望していたことを立証致します。

然るにソ聯政府及び第三インターナショナルは
中国と既存条約上の関係を持つ諸国家に反対する政策を採り、
この態度は中国の国家意識の昂揚と共に、
日本に対し重大関心事となりました。

証拠は更に、長年月に渉り在満日本居留民の生命財産に
損害を与えた数々の事件を示すでありましょう。
中国政府がこれを根絶し得ざるほど
大規模な匪賊群が根強くはびこって居りました。

これらの匪賊は盗人の社会を形成し何等の公共目的を抱かず、
何れの国家によるも其の行為は許されないものであることを立証致します。
彼等は私的な投機として、
自分達の利益の為にのみ戦闘を行うものであります。
彼等による暴行が海賊行為と区別せられる点は、
公海の如き主権が存在しない区域に於て行われずして、
一国の領土内に於て為されることであります。

かような匪賊が満洲に於て日本の特殊権益を有する地帯
及び其の付近に出没して居りました。
追跡されれば必ず其の巣窟に引込むのでありますが、
其処では中国側の徹底的追撃
及び処断を期待することが出来ないのであります。

従って、彼等は容易に逃亡し、刑罰を受けずに了るのであります。

彼等が特に危険であるというのは追手をたやすく回避し、
武器を隠して潜伏せる敵となるからであります。
多数の市民及び兵士が匪賊化した後、時々家郷に帰り旧業に復し、
兵隊又は匪賊たる外観及び性格を棄て去り、
平和的商売をしているかの如く
見せかけていたことが示されるでありましょう。

これ等不逞の徒の不法行為に対し
防衛措置を講ずる必要が起って来たことを立証致します。

かくて1931年7月及び8月中新聞紙に報道せられた万宝山事件
及び中村大尉殺害事件の結果、
満州に於ける日支関係は正に破裂の一歩手前にまで緊迫して参りました。

9月7日及び14日に蒋介石将軍は中国民衆に反日気勢を
煽らんとして激烈なる演説をして居ります。
何事かが起るだろうとの流言が飛んだのも無理はありません。

されば東京より、自重せよとの訓令が遵守されているかどうかを
確かめるため、建川少将が満州に派遣されたことを立証致します。

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【米アボット記者の満洲視察記】

ウイリアム・J・アボット
クリスチャン・サイエンス・モニター編集主幹(1931年12月5日)

昭和22年4月8日、法廷への提出予定であった著名な米国新聞記者による
公平かつ偏見のない満洲問題に関する見解。結果は未提出。

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満洲に於ける軍事行動と外交活動の舞台から合衆国へ帰ると、
殆ど米国人は極東情勢に関する正確な知識を
所持していないという印象を持たざるを得ない。

即ち、日本は国際聯盟構成国としての協調に違反し、
9ヵ国条約下の責任を全く忘れ去り、
パリ条約を故意に廃棄しようとしている、
そして、友好国の領土を狙い、軍国主義的土地掠奪者の役割を演じている、
といった漠然とした印象を抱いているようである。

私はこれらの嫌疑のどれ一つとして成立しないと確信している。

しかし、満州の支配をめぐって現在進行している論争の理非曲直については、
若干の考察なしには理解できないであろう。

■責任ある政府の不在

有効かつ責任ある支那政府は、今日存在していないという率直な断言に、
支那に好意を持つ友人達がショック受けるだろうことは判っている。
それでも私は、この断言が文字通りに正しいと信じている。

南京政府の権威は、支那の領土と国民のほんの一部にしか及んでいない。
それは未だかつて一度も満州に及んだことはなく、
その領域は、盗賊としての手腕で獲得した権利を
父親から相続したところの「若き元帥」張学良によって支配されていた。

南方に於ては、南京政府の権威は、
広東政府として知られているものによって、
実質的に存立を危うくされている。

中華民国の真の創立者である孫逸仙の未亡人は、
現在の政府は彼女の夫が発表した基本理念に合致していないと非難した。
彼女の否認は、彼女の弟の宋子文が
その政府の財政部長をしているという事実によって、
更に印象深いものになっている。

広東側は、蒋介石が南京政府を率いている限り合同を拒否した。
それなのに日本は、この指導者とのみ取引すると主張している。

■権力への挑戦

このいわゆる政府は、各国の治外法権をそれらが望むと否とに拘らず
(1932年)1月1日以降取消すと宣言して、
世界の国々の顔面に手袋を投げつけた。

換言すると、日本が満州に10億ドル以上の
投資を行った条約を破棄することを試み、
同じ方法で列強との条約を拒否しようと試みているのである。

南京政府が弱体且つとらえ所がない事から、
南京側が満州に於ける権限の主張を殆どしなくても、
また彼等が国際聯盟に提訴することが明らかになっても、
日本は問題解決のために「若き元帥」と交渉をするのである。

満州に於ける日本の権利は、主として1915年に交渉された条約から始まるが、
その起源は更に支那とロシアの協定にまで遡る。
ここ数年に亙り、支那はその特定の条項を組織的に侵犯することにより、
この条約を無効化しようと努力してきた。

彼等は満鉄の並行線を建設した。
また、公式協定によって価格が
固定されているにも拘らず撫順炭の税を値上げした。
更に、日本の権益への反対及び排除のための運動に自国の商人達を動員した。
彼等は満州に入植した朝鮮人農民を迫害し、南満洲鉄道の警備員を殺し、
そして何度もその財産の一部を破壊しようと企てた。

彼等の権利へのこれら全ての侵害に対して日本は外交的に抗議したが、
支那側はこれらの外交事案のいかなる決着も頑強に避けていた。
300以上に及ぶこれらの事例が日本側から提示されている。

1931年9月18日の夜に、制服着用の支那兵と判別された男達の一群が、
鉄道の軌道を爆破しようとしている処を発見された時、
地上の日本軍当局は即座に教訓を与えようとした。
輸送路を保護し破壊者を駆逐しようとする努力から
現在の軍事情勢が発生したのである。

日本人は軍事行動をとる代りに、彼等の財産の保護のため、
国際聯盟に訴えるべきであったと批判されている。
そのことについては、自己の財産の破壊が今直ちに脅かされている時に、
いかなる人が一万マイル離れた、
しかも現に開廷されていない法廷にその保護を訴えるであろうかを、
公正に問わなければならない。

更にその時点では、
日本は満州に12000名よりも少ない部隊しか持っていなかった。
支那は25万の陸軍を保有していた。
訓練不足で装備も貧弱だったことは事実である。
だが、圧倒的な数であり恐るべき相手であった。

明らかに、もし日本が彼等の財産と国民を保護しようと望むならば、
彼等は最初の第一撃で相手を無力化しなければならない。
従って彼等は迅速に攻撃して戦略拠点を奪取し、
奉天の城壁都市内の兵器庫を占領した。
それらの喪失により、当然の事ながら、若き元帥の軍隊は無力化した。

この行動は、日本が主張したように戦争ではなく、
むしろ彼等の財産と国民を保護することのみを
目的とした警察力の行使であった。

満州に於て日本が必要とし、また望んでいるものは、
既に締結された条約義務を尊重し、日本に対する敵対的行動を企てず、
今日では殆ど無価値となっている通貨を安定させ、
更にその地域の人民に対し、その入手可能な国富が約束していると
みられる繁栄の達成を可能にするような安定した政府である。
現在の完璧な軍事政府は、これらのことについて何等為す所がなかった。
2009/03/10 09:00|年表リンク用資料
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