正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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『孤独な帝国 日本の1920年代』 ポール クローデル著、奈良道子 翻訳

【ポール・クローデル】
1921年(大正10年)から1927年(昭和2年)まで駐日フランス大使を勤めた人物。

―――――――

■アングロサクソン国連合下の日本

1923年6月21日

ワシントン会議において〈太平洋に関する四カ国条約〉が締結されたことで、
イギリスは必要のなくなった日英同盟を
優雅に終結させることができたのですが、
このとき私の任地のここ日本の新聞は、
この決定の重大さを和らげようとつとめ、まるで合言葉のように、
当事国双方に共通の意思表示であると述べてこれを紹介したのです。

イギリス皇太子がその何ヶ月かのちに訪日し、
国民のあらゆる階層からこれ以上は望めないほどの歓迎を受けました。
人々は表面上は微笑みながら、
しかし内心のひじょうな不安、なんとも苦々しい気持ちを抑えていたのです。

アングロサクソンの国々が、
あらゆる機会を利用して極東での連携を強めるのを目の当たりにし、
日本は、直接的な脅威を感じているとは言わないまでも、
危険なまでに孤立していると感じていました。

さらにふたつの事情から、
太平洋を支配しているふたつのグループの利害の対立が明らかになりました。
そして両者のあいだには
敵意といってもよいほどの不信が増大しつつあるのです。

第一の事情とは、
取り返しのつかない様相を呈している現在の中国の分裂状態です。
それが最も顕著に表われたのが臨城の略奪事件です。この事件は、
日本がパリとワシントンで主張してきた説を正当化するものでした。

その説とは、隣の共和国で実行された改革は見かけだけのものであって、
この国は、どの地域をとってみても、住民を効果的に服従させうる権威を
もつ国家として他国に認めてもらうことができないというものです。

私たちが中国と呼んでいるのは、幾人かのごろつきの親分たちの野望が
ぶつかりあっている戦場にすぎないということは、認めなければなりません。

しかし英米は早くも、このような中国の状態から
日本を深く憂慮させるような結論を引き出そうとしています。

アングロサクソンの両国は、
日本に山東省と揚子江沿岸から撤退するよう強いたあとで、
金融・通信・国家警察に国際的管理を
打ち立てる体制を推奨しているように見えます。

このような体制には日本は反対しています。
日本の愛国主義の大新聞『万朝報』が、
最近この件に関して記事を書きました。

この記事は国民感情に応えるものだと言い切ることができます。
この記事を書いた人物はあらゆる国際管理に反対しています。
なぜなら、英米連合の勢力下にあっては、
中国に関心をもつあらゆる列強と同様、
日本はまったくなにもできず、無力だと、この人物は考えているのです。

彼はこの問題の核心をつくような例をあげています。
上海の国際租界と南満洲鉄道の集団管理委員会です。
管理委員会で、スティーヴンス氏は実際に勝手放題をやりました。
この指摘がそれなりの正当性をもっていることは否定できません。
列強が集団管理を打ち立てようとすれば、
日本が中国の愛国主義者たちの抵抗運動を支持するのは確実です。

しかしながら、中国の愛国主義者たちは、
日本のこの種の支持は受けつけないだろうと思われます。
この外国人嫌いの党が、中国在住の外国人の中で、
最も憎み、暴力沙汰を起こしている相手は日本人なのです。

この党は、イギリスが九龍および威海衛において、
我が物とした土地については沈黙しています。
一貫して日本に、そして日本が遼東半島にとどまっていることに対して、
この党は激しい怒りを燃やしているのです。

中国各地で、とくに揚子江流域では最も大規模に、
日本製品や日本人に対するボイコット、略奪、暴力行為が広がりました。
長春ではほとんど暴動となり、
デモに参加した人々のうち12名が命を落としました。

事態は深刻ですから、
神戸と横浜の商人は政府になんらかの対策を講ずるよう求めています。
政府は困惑しています。なぜなら、北京の政府は無能ですから、
対策を講ずるとすれば、局地的な軍事介入しかありえないからです。

しかし軍事介入という対策は、たとえ英米がとったとしても、
日本政府の側で大きな異論が起こるでしょう。

日本の愛国者にとってのもう一つの不満の種は、
シンガポールにイギリス海軍の大規模な軍港がつくられるという計画です。

イギリス議会において継続中の議論から、
この措置は日本に対抗してとられるものだということははっきりしており、
極東で戦争が起こった場合、相当困難が予想され、
勝敗の行方が不透明なフィリピン防衛において、
アメリカを支援することを目的としているのです。

この記事は日本ではかなりの反発を招き、
新聞紙上では激烈な言葉をもって解説を加えられました。

※臨城の略奪事件
1923年5月未明、津浦鉄道浦口発天津行急行列車が臨城駅付近で
突然土匪約千人の襲撃に遭い、
イギリス人乗客一名が射殺され16名が人質として拉致された事件。

■極東での英米ブロック構築による日本の不安

1923(大正12)年10月25日

クローデルからレジェ(仏外務事務総長)宛ての私信

古い日英同盟がイギリス側から廃棄されたこと、
極東である種の英米ブロックが構築されていること、
これについてはシンガポール軍港化計画が
提案されたことで様相がはっきりしたのですが、
こうしたことが日本を大いに困惑させ、大きな不安に陥らせています。

日本は、極東における政策全体を見直し変更しなければなりませんでした。
私たちはその様子をこの2年のあいだ見守ってきました。
中国で直接行動政策がとれなくなりましたから、一見したところ日本は、
その橋頭堡や当初配置した軍隊を引きあげているように見えます。
山東、漢口、満洲北部、シベリアからです。

その一方で、周囲が敵ばかりでは困りますから、
日本はロシアとの関係改善につとめています。
躊躇しつつ慎重に。現内閣には後藤がいますから、
〈一時的和解〉には到達するであろうと思われます。
それは必要なことですから。

しかし、ロシアと和解するだけでは充分ではありません。
日本は、恐ろしく孤立し、あるいは仲間はずれになっていると感じており、
偉大な盟友イギリスと手を切っては、
世界情勢の中心軸からはずれてしまい、立場を失うと感じています。

現在の世界情勢は広大な東半球全体に影響を及ぼしており、
そのなかにあって日本は追放され、
いわばロビンソン・クルーソーと化しているのです。

日本をとり巻く英米の世界が疑惑を深め、
中国ではできるかぎり小さな分け前しか日本に与えまいと決めているだけに、
日本の孤立はいっそう危険なものとなっています。

どうすればこの孤立から抜け出られるか。日本には二つの選択肢があります。

ひとつはロシアやドイツとの協調です。
後藤子爵が温めているといわれる考え方で、
軍人やインテリ層の有力なグループに共有されているものです。

しかし、ロシアとドイツの崩壊は、
ますます顕著な傾向になってきていますから、
この種の三国協調は現実にはうまみのないものとなっているのです。

第二の考え方は、
きわめてゆっくりとためらいがちに明確になり具体化しつつあるもので、
上原(勇作)元帥がジョッフル元帥に
示した提案のなかで初めて言及したものですが、日本はことによると
フランスと協調する手があるのではないかということです。

現在までのところ、外務省内ではもっぱら親英・親米傾向が優勢なために、
この親仏派の人たちは頭角を現せない状態です。

しかしながら、いくつかの親独新聞の記事にもかかわらず、
日本政府は奇妙なことに1907(明治40)年の
日仏協約を廃棄するイニシアティヴを
これまでのところまったくとろうとはしませんでした。

この協約はワシントン会議の決定とは矛盾する、
相互保証なしの本物の軍事協定となっているのです。

したがって、遠くない将来に日仏協調の兆しが
しだいにはっきりしてくるとしても、驚くにはあたりません。

この種の日仏協調が、
日本にどのような利益をもたらすかについてはすでに述べました。
もはや日本は英米ブロックを前にして孤立することなく、
国際連盟においてみずからの意思や判断を
知らしめる〈代弁者〉をもつのです。
〈代弁者〉の意見には人々は耳を傾けます。
その〈代弁者〉とはフランスであり、
フランスの背後には全ヨーロッパがあるのです。
フランスにとっての利益も小さなものではありません。

1、フランスは太平洋のある東半球で孤独ではなくなります。
もはや英米の後塵を拝する必要がなくなります。
私たちは彼らの代わりとなる友人を持ち、
みずからの利益を守る独自の手段をもっていることを示すことができます。

2、中国において、わが国の政策が大幅にやりやすくなる可能性があります。
日本は中国との関係改善に全エネルギーを注ぎこんでいます。

3、私たちにとって、
日本と接近するにあたっての最大の関心事は経済面にあるからです。
国内向けに、あるいは中国向けに大量の鉄鋼や化学製品を
必要としている日本が、経済面での絶えざるライバルであるアメリカに
それを求めるかわりに、国益にかなうよう、
フランスから一括購入しようとするのは
当然考えられることではないでしょうか。

ここまでに述べたことは、つぎにするお願いのための前提です。
成功させるためにぜひともお力添えをお願いしたいのです。

〈日本政府は、仏領インドシナ総督メルラン氏の日本訪問を
望むにちがいないと私は思います〉
総督訪問は大成功をおさめ、大評判となるでしょう。

そして、英米に対抗するうえでは最大の効果を生むものと私は思います。
訪日の口実としては、震災見舞いか
あるいはあらたに建築する大使館の起工式を用いるのがよいでしょう。

私たちの政策を遂行するために、
仏領インドシナのような切り札を使わない手はありません。
メルラン氏来日は、
極東におけるあらたな基盤と権威を私たちに与えてくれるでしょう。
フランスの友情が極東では貴重だということが、この訪問でわかるでしょう。
なぜなら、日本は友好国を必要としているのですから。

■各国の同情を信頼する危険

1923年11月7日

指導層の心中の思惑がいかなるものであれ、日本の国民は、
東京と横浜を襲った災害に対して全世界で起こった崇高な慈善活動に、
感動しないではいられませんでした。

このうえない華々しさをもって、美徳を誇示しつつ慈善活動を行ったのは、
なんといってもアメリカです。

東京の川や運河にはアメリカの駆逐艦や哨戒艇が入りこみ、
首都の通りにはUSAと書かれた救急車やトラックが走りまわりました。

帝国ホテルは、ワイシャツ姿の陽気な救助隊員でにぎわっていました。
まるで1918年、19年の大戦後のバリにいるかのようでした。
15日間、小柄な日本人は、いたるところに侵入してきた
この騒々しい巨人たちのなかにあって、心安らかではなかったでしょう。

その後、アメリカ人たちは、自分たちの豪華な救急車が空っぽのまま、
コンビーフやアスパラガスの缶詰は店に山積みになったまま、
持ってきた衣服は希望者に売られ、結局なにもかもが自分たちとは無関係に、
この国の庶民は日々を過ごしていることに気づきました。
アメリカ人たちは、海軍大将アンダーソンが言ったとされる
「私たちはふたつよいことをしました。すぐに駆けつけました。
そしてすぐに立ち去りました」という
ユーモラスな別れの言葉を残して早々に引きあげました。

日本人がいちばん感謝しているのは、ふたつ目のほうです。
日本の無言の呼びかけに応えたフランスおよびフランス植民地の寛大さは、
ここでは強い印象を残しました。
この点に関しては、ふだんはあまりフランスに対して
友好的でない『日々新聞』につぎの記載が見られます。

「アメリカの援助が最も早く、かつ最も大規模なものだった。
この事実は、アメリカ人の特長である迅速さという
優れた資質が発揮された結果であるのみならず、
国が豊かで距離が近かったためでもある。

しかし、私たちは物質的な援助の規模のみに感謝しているのではない。
かつては裕福だったが、四年間に及ぶ
莫大な費用のかかる戦争の試練を経たフランス人にとって、
現在は一フランでも貴重なはずである。

彼らが被った損害にくらべれば地震の被害はとるに足らない。
世界のなかの最強の軍隊に対抗して、すさまじい状況下で戦い、
フランスは血を流し疲れはて、
しかし汚れなき名誉と光り輝く栄光とともに戦闘を終えたのである。

このような国民からはいかなる同情の証しも期待することはできなかった。
フランス人が悲惨な苦悩のさなかにあって、損なわれた資源の一部を割き、
彼らから見れば地の果ての日本へ災害救助にやってくるとは、
夢想だにしていなかった。

しかし私たちは、『不幸な人間だけが不幸な他人を理解することができる』
という格言を忘れていた。
日本や日本人を見たこともないフランス人のなかの何千人かの人々が、
友好の気持ちから義援金の呼びかけに応じたのだ。

その義援金はアメリカ人の何分の一にすぎないにしても、
だからといってそれに対する私たちの感謝の念に変わりはない。
悲嘆のさなかにある国民が、
他の国民の救助を考えるのは並たいていのことではない。

神に対する畏敬の念、
人類愛がこのような寛大な同情を起こさせたのであろう。
このようなことのできるのは、
無限の可能性をもつ偉大な心をもった国民だけなのである」

フランスが示したたくさんの同情の証しのなかで、
日本人が最も感動したのは、戦争で夫を亡くした人をはじめとする
フランスの女性からの、孤児を引き取りたいという
申し出があったことではないかと思います。

このたびの大参事、そして世界じゅうの人たちが同情を示してくれたことが、
この警戒心の強い国民を近寄りがたいものとしている心の壁を、
とり除くのに役立つであろうことは確かです。

しかしながら、『国民新聞』の編集者で
この国の最良の文士の一人である徳富蘇峰氏の書いたつぎの記事が、
国の指導者たちの胸中を最もよく説明しているのではないかと私は思います。

「神の意志は推しはかることができない。
日本の不幸は必ずしも他の国々の幸福とはならない。
にわかに日本を襲った深甚なる災害は、
日本に対する世界の同情を引き起こす結果となった。

日本の不幸を知って、世界の人々は心を傷めた。
アメリカがその友情の証しを真っ先に示した。
イギリスでは、新聞記者のなかに、苦境に立つ日本への同情から
シンガポール軍港化計画の放棄を主張する者まで出ている。

中国では、このたびの災害後に反日の動きが徐々に減少している。
これらは顕著な事例にすぎない。
しかし、これだけで充分日本に対する
世界各国の人々がどんな態度を示したかがわかる。
とにかく、日本の不幸は全世界からの同情を得るのに役立つのである。

にもかかわらず、
私たちは不安と残念さの入り交じった気持ちでこの事実を認めるのである。
世界が日本を哀れんだということは、日本の名誉になることなのか。
今や世界は日本が不能になったと考えているためではないのか。
将来日本が旧に復したとき、今日の現在の同情は維持されるのか。

現在示されている同情の念は、
世界が日本の不幸な状況を慮った結果生じたものなのである。
この状態が改善された暁には、今と同様の同情は期待できないであろう。
私たちは、わが国が世界の共感を得られないほど
傲慢になるのを見たいとは思わない。

しかし同時に私たちは、日本国民が、
みずからの力よりも各国の同情を信頼するという態度をとることを、
警戒しなければならない。それ以上に危険なものはないであろう。

友情は友情、そして国益は国益である。
私たちは日本国民が世界情勢について広い視野をもち、
この二つを混同しないよう望んでいる。

友情は時にはライバルのあいだにも存在しうる。
そして利益の問題は、友情とは次元の異なることなのである」

■フランス大使から見た米国の排日移民法

1924年4月23日

日本にとってアメリカは太平洋を挟んだ隣国であり、渡航しやすく、
土地も肥沃ですから、日本人は大挙してカリフォルニアに移住しました。

やがて彼らはアメリカ経済にとって重要な地位を占めるにいたり、
それがかの地の政治家たちの憂慮するところとなりました。

日本人は畑仕事に専念しました。
野菜を集約栽培するには根気が必要で、島国の帝国のなかでは、
農作業はすべてたんねんに行われていますから、
農業の分野では日本人は他の追随を許さないのです。

この成功がアメリカの農家に嫉妬を呼び起こしました。
アメリカ農民にもいいところはありますが、
だいたいが節約家であるとか働き者であるとは言いがたいのです。

まもなく、州のなかで中国人に対してとられていた措置が、
日本人にも適用されるようになりました。
それだけでは不充分とみえ、この問題は国会に諮られました。

こうした状況の下で、ルーズヴェルト大統領がこの問題に関心をもち、
1907(明治40)年にルート国務長官と
高平氏のあいだで覚書が交わされたのです。
今日まで秘密裏に保たれてきた紳士協定ですが、
日本が自国に強いられた義務を立派に果たし、
この協定の調印後カリフォルニアへの肉体労働者の移民が
ほとんどなくなったことには、疑問の余地がありません。

それでもカリフォルニアの煽動家たちは攻撃をゆるめず、
ハースト系の新聞が煽りたて合衆国全土で
猛威を振っている反日感情を利用して、
アジアの移民に対する一連の措置をとらせることに成功しました。
その措置の影響がさまざまなところにまで及んでいます。
日本人の子供たちが公立の学校から締め出されました。

1920年11月2日の住民投票の結果、
日本人はアメリカで土地の所有者となることができなくなりました。
ついには最高裁判所までが、憲法に照らして、
アジア人はアメリカ人になることはできず、
優遇措置の適用は白人と黒人に限られるとの判断を下したのです。

以上が現在の情勢です。

日本に対してアメリカ人が感ずる友好的な感情は、
軽蔑の混ざった寛容さなのであり、これとはまったく逆に、
すべてのアングロサクソンの心のなかに、
機会さえあれば爆発しかねない激しい感情があるとすれば、
それは皮膚の色に対する偏見なのです。

実際、日本に対して、これまでのところ物質的・精神的に
最も大きな影響を及ぼしてきた国が、
先例のない災害によって日本が弱体化した折も折、
故意に、公式にしかもぶしつけに日本に与えた侮辱は、誇り高く、
根にもちがちな日本人の心に
傷跡を残すような種類のものだと考えるべきです。

とくに知識層、すなわち世論を、
そして国の政治を引っ張っていくことのできる人々にとっては。

しかしながら、これまでのところ
アメリカに対する報復が真剣に考えられた様子はありません。

ある新聞がカリフォルニアの港湾施設や
アメリカ製品をボイコットしようと書きましたが、反響はありませんでした。

新聞には、アメリカは正義を、条約を軽視しているとか、
あるいは1923年の震災のさいに示された友情の誓いを
否定するものだといった、感傷に流れた不満や非難が見られただけです。

しかし、あらたな時代が始まろうとしています。
ことによると、日本に対するアメリカの敵意の影響は、
まだ完全には出尽くしていないのかもしれません。

そうした影響は、つぎにあげる3つの結果を
もたらすのではないかと予測できるほどに甚大なものとなるでしょう。

まず第1に、
機会さえあれば、潜在的な恨みの念が政治、外交
および産業の領域で現れることになるでしょう。

第2に、日本国民のなかのさまざまな階層間に、
連帯の感情が強まるでしょう。
というのも、アメリカの追放政策に対して最も熱心に抗議しているのは、
学生や労働者や社会主義者の組織なのだということに注意すべきです。

第3に、アジアの民族とくに中国人との連帯の感情が強まるでしょう。
日本人は今後は否応なくそうしたアジア人の陣営に組みこまれるでしょう。
これまで日本人は、自分たちの立場は隣のアジア大陸とは違うものであり、
自分たちは黄色い肌のヨーロッパ人であると思わせるよう奮闘してきました。
彼らは、かなりの程度までそれに成功していたのです。

アメリカ上院における投票は、アングロサクソンの国々がとってきた
従来のやり方の延長線上にあるものであり、
それは、ペリー提督の〈黒船〉が崩壊させた徳川時代の鎖国の壁にかわって、
さらに広大で乗り越えられない壁が現れたことを、
日本に向かって知らしめたのであります。

アメリカから追放されはしたがその結果自由になったともいえる日本は、
しだいに中国に目を向けるようになるでしょう。
そしてアングロサクソンは、中国、満洲、シベリアにおいて、
この日本の恨みと対抗意識がいかなる影響を
及ぼすものであったかをいっそう強く感ずるようになることでしょう。

■満州とフランスの国益

1924年5月6日

クローデルからレジェ(外務事務総長)宛ての私信

私は数日前、いくつかの方面から、満洲関係の一連のニュースを受取り、
ひじょうに驚き、なおかつ不安になりました。

第一に、
バトリーヌが合衆国に満鉄の株を
大量に売ろうとしているのではないかというニュースです。

第二に、
フランス人が満鉄の路線に関しイギリスの管理を受け入れたということです。
最後に第三のニュースとして、北京にあるわが国の公使館は満州で、
抗日ならびに反張作霖をめざすソビエトと
接近政策をとっているらしいということです。
とりわけこの最後のニュースは不愉快です。
というのも、以下のことは明らかだからです。

第一に、
私たちが赤軍やロシアから期待できることはなにもありません。
他の地域でもそうですが、赤軍やロシアは、
かの地満州においてもフランスをだましており、
ほかのだまされやすい人たちをだますために、
フランスを利用しているにすぎないのです。

第二に、
満州における真の実力者は張作霖であり、この人物は表面上はどうあれ、
日本に相当依存していますから、
日本の意向を無視することは絶対にないのです。
我々は中国北部において物質的な力はまったくありませんから、
日本と協調しなければ、主として財政面で
わが国の利益が守られないであろうことは、明々白々なのです。
ロシア人と中国人は暴力や略奪に明け暮れています。
であるなら、どうしてフランスは日本と協調しないのでしょうか。

日本人は、満鉄の管理を強引にわがものにしようとは考えていません。
しかし、明らかなのは、日本は、
いかなる国の口出しも認めることはできないということです。

イギリスであれ、アメリカ、赤色ロシアであれ、中国であれ(張作霖以外は)。
満州は日本にとってきわめて重要な案件です。
日本はこの地方に、商業、工業、安全保障、
国の将来といった点で深い関わりがあります。

フランスの国益にとっては、つぎの三つの理由から、
日本が同地で強い立場をとっているほうがいいのです。

(1)、ロシア・中国と英米ブロックの間にあって、日本は今後、
この地域のことで手いっぱいの状態になりますから、
我々の管理する南部の地域をそっとしておいてくれるでしょう。

(2)、このすばらしい満州が日本の間接的指導のもとで繁栄することは、
私たちの利益となります。
私たちが望めば、その開発に大いに参画することができるのです。

(3)、フランスの支援でポーランドが建国されましたから、
今後も我々がどう出ようと、ロシアはフランスの敵であり
ドイツの友人でありつづけるでしょう。
この点で幻想を抱くことはできません。
それゆえ、ロシアが今後ともシベリア方面の問題に
忙殺されていてくれるほうが、都合がいいのです。

我々は日本と協調し、日本にとって大変重要な
この満洲という地域において日本に大きな手助けをし、
フランスもそこに満鉄という重要な機構を有するのです。

手助けをする見返りとして、
我々は日本から約束をとりつけることができるでしょう。
今はその大半がアメリカ一国に集中している発注のうち、
かなりの部分をフランスに振り分けるという約束です。
日本のように何事も国家主導の国では、それは可能なことです。

私が確信しているのは、ここ日本では、たんに民間の活動だけでは
経済の分野でなにひとつ有用なことはできないだろうということです。
政治を利用すべきです。

不幸にして私は、
満洲および満鉄におけるフランスの利権に関する問題については、
ごくわずかの情報しか得ていません。
しかしながら、満洲問題は中国と同じぐらい
日本が関心を寄せている問題ですから、
わが国がそこに効果的に介入することは難しいでしょう。

残念ながら、北京のフランス大使館は外交を独占することに汲々としており、
情報を教えてくれません。すこし前に私は、
満鉄に関して結ばれるかもしれない中ロ協定に対抗するべく、
日本に働きかけました。

三井男爵はそくざに私にそれを約束してくれました。
私はこの件で、パリの外務省と北京大使館に電報を打ちました。
また、近く西園寺公爵と話す機会に、
満洲のことをもちだしてもよいだろうかとパリに尋ねました。
私にはぜひとも情報が必要です。

私がここであなたに開陳した意見の中に、
外交政策として採用できるものがふくまれているかと思われます。
必要なら、その正当性を認めていただくために
パリに参上することもできます。
しかしとりあえず、あなたの友情ある行動を期待しております。

私が最近、日仏会館についてお送りした報告を
お読み下さいますようお願いいたします。
私はこの会館を、
極東の言語を〈実践的に習得する〉学校にしたいと考えております。

今のところ私たちにはそれが欠けておりますが、
それなしでは困るのですから。
我々が、この国の言語を解する職員を養成することに配慮しなければ、
極東では絶対になにもできないでしょう。

さらに私は、わが国の同盟国、属国、
あるいはポーランドをはじめとする各国の学生受け入れたいと思っています。
それによって、いかなる影響が、
そしていかなる展開が得られるかおわかりでしょう。

日本にとってもなんと大きな利益になることでしょう。
日仏会館というのはかくも興味深く
多岐にわたる側面を備えるものなのですから、
知的活動という点ではとりわけ活発な交流の場となりうるでしょう。

■排日移民法の日本とアメリカ合衆国

1924年6月4日

予想できなかったことではありませんが、
アメリカの大統領カルヴァン・クーリッジは、なにかともったいをつけ、
他国民に対する尊敬、友好、共感を口先では表明しながら、
議会が可決した、日本にとって侮辱的な投票結果を無条件に承認しました。

その結果、今後日本人は、
この広大な共和国からとくに名指しで排除されることになりました。
今朝私は、アメリカ大使ウッド氏に会いました。
彼はこの挑発的な法案の成立に加担していると
思われたくないと言って辞表を提出しました。

彼は、今回の議会決定は世論の大半とアメリカ国民の賛同を得ておらず、
実際は議会の陰謀なのであって、ロッジ氏が親日派の国務長官を
陥れるために掘った落とし穴なのだと語っています。

じつのところ、ぜんぜんそうではありません。
地球上いたるところで、
アングロサクソンの人々が抱いている根強い感情があるとすれば、
それは皮膚の色に対する偏見なのです。

大西洋岸では、それが太平洋岸ほど顕著ではないとしても、
たんに、大西洋岸にはアジア人があまりいないため、
偏見が生まれる機会が少なかったというだけのことなのです。

アメリカ議会のとったじつにばかげた行動は、
民衆を煽動して人種差別をするものであるとしか説明できません。
〈紳士協定〉が成立して以来、日本はそれを文字通り守ってきましたし、
それを守りつづけていくことだけを考えてきたのですから、
カリフォルニアにはあらたなアジア人の移民は入っていないのです。

議会の場で公式にしかも意図的に侮辱をせずに、
この紳士協定の取決めを維持することはできなかったのでしょうか。

アメリカが日本に対して行使している途方もない影響力を目にして、
すなわちこの強大な共和国の製品やあるいはその思想が、
あたかも洪水のごとく太平洋のかなたの隣国を覆いつくすほど
影響力が大であるのを目にしていますから、
私には、このあからさまな嫌がらせは、
育ちの悪い学生が自分より弱い友達を容赦なく
いじめるのに似ているとしか説明することができません。

日本人の性格の根底にある自尊心、過度の感受性、
根に持つ傾向を知っている者にとっては、
一般国民や新聞がこの件についてさほど意見を表明することなく、
手ひどい仕打ちを受け入れていることは驚くにあたりません。

とりわけ怨念が深いのは軍隊です。
戦争という言葉が多くの人々の口の端にのぼっています。
誰しもが心中、それを考えているのは言うまでもありません。
一人の男性はアメリカ大使館の前で、
古いしきたりにしたがって切腹しました。

しかし、同盟国もなく他国を頼りにできない日本は、
ひじょうに無力だと感じているのです。
それに誰が絹を買ってくれるのでしょうか。

〈臥薪嘗胆〉! 目下のところ、この諺にしたがって、
じっと怒りをためこんでいるしかありません。それから好機を待つことです。

昨日の新聞に、日本がワシントンで行った抗議について掲載されています。
予想どおり、つたない表現です。
まったくこの国民は、
みずからの感情を表現して相手に知らしめることに長けていないのです。

正義と平等という抽象的な原則について述べていますが、
まずい抗議の仕方です。

この抗議は、きわめて自尊心の強い国民の胸中にある感情を
知っている者にとっては、ひじょうに冷静すぎるのではないかと
思える一文でしめくくられています。

「したがって日本政府は、1923年の移民法13条の差別に関する条文に対し、
抗議し、これを公式に表明するのがみずからの義務であると考えます。
そしてこの条項を削除するために、
アメリカ政府ができるかぎりのそして適切な措置をとることを求めます」

というものです。

アジア各国の人々を等しく震えあがらせたであろうこの問題に対して、
なんというまずい論陣の張り方でしょう。
たしかに、外務省が
格調高い演説をしてみせたことなどめったにありませんが。

譲歩の時代は終わったのです。ワシントン会議ののち日本は、
協調の道を歩むうえでできるかぎりのことをしました。
ウラジオストク、山東、漢口、満洲北部を放棄し、
艦隊の一部を解体し、陸軍の人員を削減しました。

にもかかわらず、その代償が、
イギリスのシンガポール軍港化計画やワシントンの侮辱だったのです。
今や既定のものとなった、償えるものではない侮辱です。

なぜなら、傷は癒えても侮辱されたという事実は消えないからです。
これ以上の譲歩はできません。

とはいえ、
直接アメリカに仕返しをしようなどとは考えるべきではありません。
朝鮮半島、そして大連の背後に、満洲という新天地が開けています。

しかし、この唯一の出口を除けば、
日本の発展から余儀なくされる急速な需要を満たそうにも、
いたるところ、もはや越えがたい壁が立ちはだかっているばかりなのです。

今のところ、当然ながら一般国民のいらだちが見られます。
日本人には、みずからが槍玉となった中国におけるボイコット運動が、
中国人にとっていかに強力な武器であったかがわかりました。

『東京日日』のふたつの記事からわかるように、
日本人はこんどは自分たちがアメリカ人に対して、
それをやってみたいと考えているようです。
ボイコットは危険な武器です。
なぜなら、アメリカの側でも強力な報復手段をもっていますから!

■日本におけるソビエト、赤い訪問者

私は、東京であらたな同僚となったソ連大使、
ヴィクトール・コップ氏と知り合いになりました。

人の目をまともに見ようとしない脂ぎった肥満漢です。
ロシア人というよりはドイツ人的で、
ドイツ人というよりはユダヤ人的な人物です。
ライプツィヒの見本市にいくらでもいるようなタイプです。

彼は当地で目立たない生活を送っており、
自分のことが話題にならないようつとめているのですが、
それでもまずいところで目立ってしまうことがなきにしもあらずで、
ドイツ大使を除けば少数の人としかつきあっていません。

ドイツ大使にはおおっぴらに後ろ盾を求めています
(しかし、このことをドイツ大使の
ゾルフ博士は喜ばしく思っているようには見えません)。

数ヵ月前まで帝政ロシアのメランコリックな残骸をとどめていた、
うらぶれた古い大使館は、塗装をやりなおして若返り、皇居から間近の場所に、
ハンマーと半月鎌の国旗を誇らしげに掲げています。

コップ氏は大勢の人々を引き連れてきました。
書記官、担当官、学生などおよそ40人、
妻子まで入れると総勢70人になるでしょう。

商務担当官のヤンソン氏は、
ソビエトの新体制にもとづき原則として日本との貿易全般を担当し、
10人ほどの部下に囲まれて堂々と執務しています。
当然のことながら、
これらの人たちは全員が大使館のなかに住むことはできません。

職員の多くは社会主義のシンパと見られる日本人の家に下宿しています。
大使館員には、当地の政治的デモに参加することは
差し控えよとモスクワから指示が出ているようではありますが、
こうした厄介な客を監視する東京の警察は、緊張しピリピリしています。

東京以外では、神戸、函館、小樽、敦賀に
大勢の職員を擁する領事館が設置されました。

ソビエト政府としては、こうした公式の職員を
自国のプロパガンダのために使うようなことはできず、
いくつかの使節団を送ってはみたのですが、さほど歓迎さりませんでした。

〈労働者〉使節団は警察の手で拘束され、
日本人の訪問者は面会することができませんでした。
〈作家〉のピルニアクも同じように要注意人物の扱いを受け、
警察の監視から逃れるために
ある書記官の家に身を寄せざるをえませんでした。

日本政府は、こうした措置をとったのは
ソビエトから赤い訪問者が来ないようにするためだったと言っています。
それにもかかわらず、政治のプロパガンダが
こっそりと流されていることは、疑う余地がありません。

フランス車の成功

最後に少しは楽しいお話もご紹介しておきます。

1926年4月13日

ひじょうに興味深いカー・レースがちょうど終わったところです。
フランスの産業界にとっては大成功の催しでした。

日本自動車クラブが、東京・京都間(659キロ)
の〈ノン・ストップ〉レースを企画したのです。

日本政府はこれに関心を寄せていました。
出場する車両には軍の将校が一人ずつ同乗し、減点項目をチェックしました。
一等賞獲得したのは8.3馬力のルノーの車で、
全行程を27時間で走破し、千点中の995点を獲得しました。
タイヤが一度パンクしただけで、故障はまったくありませんでした。

あとを走ったアメリカの自動車(シボレー、ナッシュ、モーリス・カウリー)
はすべて事故や故障を起こしました。
日本製の2台の自動車(オオトモとリラ)のうちの一台は、
悪条件にもめげず完走しました。

ヨーロッパの人間から見れば、500キロを27時間というタイムは、
まったく快挙とは言いがたい成績です。
しかしながら、日本の道路事情を考えれば、これはすばらしい快挙なのです。
これら2つの主要都市を車で走破したという
まれにみる大胆な人々がいますが、だいたい3日か4日以上かかっています。

日本の道路は狭く、蛇行しており、整備も悪く、
請負業者が気まぐれにやる工事でしょっちゅう寸断されているのです。
渋滞した村々を通過しなければならず、
人々はいかなる交通ルールにもしたがっていません。

しかも坂道はおそろしくきつい。まったく故障を起こさずに、
1日で京都へ到着できたのはすばらしいことです。
日本の現在の道路条件には、10馬力の車が最も適しています。
優秀な代理店が取り扱っているわがシトロエンは大成功しており、
日本各地の大都市でこの車を見ることができます。

現在フランスからの輸入車は、年間500台を超えています。
プジョーもまた普及しはじめています。
ルノーは、京都のレースで勝利したことが大きな宣伝になるでしょうが、
専売代理店をもてば、さらなる成功をおさめることができるのですが。

もうひとつ確実に言えることは、日本は、経済あるいは国防上、
欠かすことのできないこの乗物の生産を、
いつまでも外国の企業に依存することに
甘んじてはいないであろうということです。

フランスの大企業、たとえばルノーが、
この国の会社と提携して進出する時機が到来したと私は思います。
当地には、先鞭をつけた者が
莫大な利益を手に入れることのできる土壌があります。

ことに現在、日本の関心は総じてフランス的なものに注がれていますから、
受け入れ基盤は充分整っているのです。
2009/03/05 09:00|年表リンク用資料
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