正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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朝鮮の王朝を廃止したのは韓国人自身です。
1910年に李王朝は日韓併合後も皇族として扱われていました。

高宗と側室・厳妃との間に生まれた庶子・英親王 李垠
(イ・ウン、生没年1897年~1970年)は、
1907年、純宗即位と同時に韓国最後の皇太子となり、
幼い時に来日して日本で教育を受けました。

1910年(明治43年)の日韓併合で王世子となり、王公族として
日本の皇族に準じる待遇を受け、「殿下」の敬称を受けました。

1917年に日本の陸軍士官学校を卒業(第29期)。

1920年(大正9年)4月に、
日本の皇族の梨本宮守正王の長女・方子女王と結婚しました。

純宗が没した1926年には李王家を正式に継承しています。

二人は東京・赤坂の邸宅
(現在のグランドプリンスホテル赤坂別館)に暮らしました。

陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、
その後歩兵第59連隊長、陸軍士官学校教官、
近衛歩兵第2旅団長などを経て陸軍中将にまで昇進しました。

敗戦後、日本国憲法施行に伴う王公族制度廃止により、
1947年、李王の地位を失い、日本国籍も離脱しました。

李垠・方子ご夫妻は帰国を試みますが、
李承晩政権時代は彼らの帰国を許さず、

のちの朴正煕大統領の協力により、
1963年、御夫妻ともに韓国へ渡りました。

この李王の子孫は日本の横浜で怪死しています。
2009/03/03 09:00|年表リンク用資料
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