正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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『教科書が教えない歴史』 より引用
http://www.jiyuushikan.org/rekishi/rekishi187.html

アメリカの戦争犯罪を問う。

茂木弘道(史実を世界に発信する会事務局長)

◆はじめに

「もしわれわれが負けていたら、
私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。
幸い、私は勝者の方に属していた。」

東京大空襲の指揮官カーチス・ルメイ少将は後にこう語っていたという。
(「読売新聞」平成18年3月10日号社説)

元国防長官のロバート・マクナマラは
中佐としてルメイの作戦計画作成を行っていたのであるが、
平成17年に日本で公開されたドキュメンタリー映画
「フォッグ・オブ・ウォー」で、
「ルメイも私も、戦争犯罪を行ったのだ。もし負けていれば、だ」
と述べている。

東京大空襲は、民間人を中心ターゲットにした大虐殺であり、
これが戦争犯罪でなかったら、どこに戦争犯罪なるものが存在するのか、
ということになってしまうくらいに明々白々の戦争犯罪である。

ただ単に勝者であるがゆえに、戦争犯罪の宣告をまぬかれているという
余りにも明らかな事実を両者は漏らしているということである。

もっとも一方でルメイは、
回想録の中で明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、

「私は日本の民間人を殺したのではない。
日本の軍需工場を破壊していたのだ。
日本の都市の民家は全て軍需工場だった。
ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、
向かいの家がワッシャを作っていた。
木と紙でできた民家の一軒一軒が、
全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。
これをやっつけて何が悪いのか……。」

という強弁を行っている。

木と紙でできた民家の一軒一軒が武器工場だったというのだ。
盗人にも3分の理があるという言葉があるが、
これには1分の理もない事実歪曲の暴論というべきだろう。

しかし、これがアメリカの戦争犯罪弁護の「建前」であり、
冒頭の発言こそは「本音」の言葉と理解すべきであろう。

◆東京大空襲と重慶爆撃を同列にする愚

東京大空襲は「無差別爆撃」として非難されるのが普通であるが、
しかしこの言葉は実態を覆い隠す極めて不適切な表現である。

昭和12年8月13日、中国国民政府正規軍による一方的な全面攻撃が
上海在留邦人を守備していた日本海軍陸戦隊に対して開始された。
上海全面戦争の勃発である。

●日本海軍は敵の根拠地を攻撃すべく首都南京の「軍事政治経済の諸機関」
に対する空爆を計画し、各国総領事にこれを予告し、
非戦闘員に対する避難勧告を行った。

それに対して「無差別攻撃」であるという批判が起こり、
中国政府はこれを徹底的に宣伝材料に利用した。
これを無差別攻撃の始まりとする論者もいるが、
市民を無差別に攻撃するものではないので、
当然のことながら国際法違反とはされていない。

さらに、重慶爆撃を無差別爆撃=戦略爆撃の始まりであるとして、
日本が戦略爆撃の先鞭者であると主張する論がある。

『戦略爆撃の思想―ゲルニカー重慶ー広島への軌跡』(前田哲男著)
がその代表だ。

東京大空襲は日本が始めた無差別爆撃という罪業の報いである、
つまり無辜の日本人市民が殺戮されたのは
日本の責任であるかのような主張である。

また同書のサブタイトルから推測されるように、
原爆の被爆をすら日本が戦争を始めたことに起因するという
根拠のない「原罪意識」が特徴である。

重慶爆撃は敵の戦略及び政略中枢を狙う攻撃であったので、
市の主要部を含むものになるのは必然であった。
しかも、中国側は市街地に防空砲などの軍事施設をおいていたのである。

昭和14年5月25日の戦闘記録には、

「この戦闘において挑戦してきた敵の4機のうち1機を撃墜したるも、
市街の周辺特に江岸外人住宅付近より猛烈なる高角砲及び大型機銃の猛射を
受け、わが1機もついに敵弾を受け、勇敢にも敵陣に突入して自爆した」

という記述があり、市街地の状況がわかる。

こうしたことへの対応策から、広範囲の市街地を含む攻撃となり、
無差別爆撃の色彩を帯びざるを得なかったのである。
これを中国政府は偽写真まで作成して、
不法攻撃とする宣伝戦を展開したのであった。

しかしながら、
これはあくまでも軍政目標を狙った攻撃であり、市民を狙った攻撃ではない。
市民に被害が及んだとしてもそれは巻き添えとしてのものである。
イラク攻撃に見るように、現在の進んだ技術による
ピンポイント攻撃でも巻き添えはなかなか防げない。
したがって、これを戦争犯罪とはいわない。

一方的に日本を断罪した東京裁判ですら、
重慶爆撃は起訴対象には入っていないのである。

ちなみに、訴追されているのは、南京・広東・漢口への攻撃に関してのみ。
そして8件ほどの事件が証拠として提出されただけで、
重慶は対象外であった。

◆米軍に殺された中国の住民

昭和19年7月、ルメイ少将は第20爆撃集団指令となり、
重慶を根拠地としたB29爆撃機による中国内の日本軍基地
及び攻撃可能圏内にある北九州の軍需工場爆撃を指揮した。

当時、空の要塞と呼ばれたB29であるが、
1万メートルという高高度からの爆撃は命中精度が極めて低く、
期待されたほどの効果は挙げていなかった。

そこでルメイが考えたのが、限られた軍事目標ではなく、
都市の主要区域全体を対象にして焼夷弾を絨毯爆撃でばらまき、
文字通り無差別に徹底的に焼き払うという作戦であった。

同年12月18日、それは実行に移された。
B24を主体とするシェンノールトの第14航空軍と合同で、
漢口に対して3時間に亘る十数回の波状攻撃で、
500トンの焼夷弾を租界を中心とする市街地に投下したのである。

その結果、漢口は灰燼に帰した。
殺害された住民の数についての資料は未だ手に入っていないが、
その数は、万を数える大量虐殺であったことは間違いない。

この無差別攻撃こそは、
住民を「結果的に巻き込んだ」いわゆる無差別攻撃から、
住民を根こそぎに殺害する「民間人をターゲットとした爆撃」
への転換点であった。

もはや「無差別攻撃」という言葉はふさわしくない攻撃となったのである。
すなわち国際法を完全に踏みにじった違法攻撃となったのである。

前田氏らの日本無差別爆撃=戦略爆撃開始論者は、
この決定的に重要な転換点についての認識が欠けている。

そのために、本物の戦争犯罪である爆撃思想の正体を明らかにできず、
その免罪に加担してしまう。
もっとも、そもそもの動機が日本人に贖罪意識を植え付けることであれば、
これも意図したものかもしれない。

租界の住民も中国人が圧倒的に多数であった。
すなわち、B29による初の大量虐殺の被害者は、
中国人であったということである。

重慶を基地とするB29の大量殺戮作戦の「実験」対象とされたのは
中国人であったということは忘れてはならない。

そして、この「実験」の大成功に味を占めた米軍は、
これを日本においてより大規模に実行することを考えたのである。

サイパン島を占領してから第21爆撃兵団のB29は
その基地から日本の各地を爆撃していた。
しかし、超高空から軍需工場等を狙った爆撃は命中精度が低い。

たとえば、昭和19年11月24日、111機の編隊で伊豆半島上空から侵入し、
中島飛行機武蔵工場を爆撃した時の建物破壊率は、
米軍の記録によると何と1%となっている。

この時、撃墜された米軍機は2機だけだったことから考えて、
防御力はすぐれているようだが、言ってみれば
はなはだ無能な攻撃力しか持たなかったのがB29だったのである。
平均して5%くらいの命中率だったようである。

業を煮やした米軍司令部はハンセル21兵団長に、
軍事施設・工場などにこだわらず、都市破壊も行うように示唆するが、
ハンセルは国際法違反になると考えて、
従おうとしなかったという。彼は分かっていたのである。

そして昭和20年1月、
ハンセルは更迭され、ルメイが兵団長となったのである。

◆原爆に匹敵する史上最大の大量住民殺害

それから2ヵ月後、
3月10日の東京大空襲は次のような原則のもとに実行された。

1、 高度からの爆撃をやめ、低空(1800メートル以下)からの爆撃とする。

2、 爆弾は焼夷弾のみとし、最大積載とする。

3、 搭載燃料を最小限とし、防御用の銃座は外す。

4、 攻撃は夜間とする。

さらに、日本の「木と紙でできた家屋」を
効率良く破壊延焼する専用焼夷弾を開発した。

かくて344機のB29により、
焼夷弾1667トンが住民集中地区の下町一帯に投下された。
死者10万を超える大量虐殺は、1日の虐殺としては、
その1ヶ月前のドレスデン爆撃の
死者3万5000をはるかに上回る史上最大のものである。

その5ヵ月後、
やはりルメイの21航空兵団のB29による広島への原爆投下が行われ、
これに匹敵する住民の大量虐殺が行われた。

(後に東京裁判で、
日本軍が南京で20万人を虐殺したという断罪が行われたが、
全くのデッチアゲであることはいまや完全に証明されている。

安全区国際委員会の活動記録ともいうべき
Documents of the Nanking Safety Zone
(『南京安全区の記録』国民党系国際問題委員会監修で上海の英国系出版社
Kelly & Walsh 社から1939年に発行)に、
南京陥落時の人口20万が12月中ずっと20万、
翌年1月14日に25万と記録されているのを見るだけで、虚偽は明らかとなる。

アメリカは自ら犯した民間人殺戮という戦争犯罪を
隠蔽できないとでも思ったのだろうか?)

ここまで見れば、「東京大虐殺」が戦争犯罪であるのかどうか、
などと問うのは愚問であることが分かろう。

「ハーグ陸戦法規」に規定された戦争犯罪は、
戦争の法規または慣例の違反をいう。
ここには、兵器を捨てた自衛手段を持たない投降者を
殺傷することが禁止事項に書かれているが、
非戦闘員或いは民間人の殺害を禁ずるとは書かれていない。

前者のことからしてあまりにも当然のことなので
敢えて書かれてはいないと解釈すべきであろう。

いずれにしても、民間人を意図的に殺害することは
重大な戦争犯罪であることはこの流れからも疑いの余地がない。

したがって、東京大空襲のように、
住民集中地区を狙って焼夷弾攻撃によって焼き尽くすことは、
意図的な住民殺害であり、しかも史上まれな大量殺害なのであるから、
第1級戦争犯罪というべきである。

なお、ニュールンベルグ裁判では、
ご丁寧にも新しい犯罪項目を打ち立てている(東京裁判もほぼ踏襲した)。
そこに、「人道に対する罪」と言う項目がある。

「…戦争前或いは戦争中にすべての一般人民に対して行われた殺害、
殲滅、奴隷化、移送及びその他の非人道的行為、…」

「一般人民に対する殺害、殲滅」という非人道的行為が
「東京大空襲」すなわち「東京大虐殺」に他ならない。

つまり、ホロコーストを行ったのは、裁いた側のアメリカ自身なのである。

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『「重慶爆撃はハーグ条約違反か」 by hideおじさん』 より引用
http://chinachips.fc2web.com/repo4/045631.html

「戦争史上初の無差別爆撃」と槍玉に挙げられる重慶爆撃ですが、
一般住民が住んでいる同じところに、
万を越える兵士を混在させた国民党にもルール違反があった、
ということを認識していないと、
正しい判断はできないのではないかと思います。

ましてや、日本軍からの攻撃が明白であるにも関わらず、
重慶の一般住民に対する有効な手段を講じていなかった責任は、
軽いとはいえないでしょう。

日本のこの攻撃を、「ハーグ条約違反」だとの批判があることは
間違いありません。確かに陸戦法規では、

「防守せざる都市=無防備都市、村落、住宅又は建物は、
如何なる手段に依るも之を攻撃、又は砲撃することを得ず」
となっておりますから、

一見すると日本軍の攻撃は「違反である」という認識になりそうです。

ただ、この陸戦法規の解釈に沿うと
「軍事力の存在しない都市であれば、
たとえそこに武器弾薬などの軍事物資があっても攻撃できない」
ことになります。

ところが、これは現実的ではない、不合理であるとして、
空戦法規にある「軍事目標主義」に沿って行われることを要件に、
空爆は合法とされた経緯があります。

ーーー誤解を招くといけませんので、もう少しお話ししますと、

そもそも攻撃目標となるものには
「防守都市」と「軍事目標」というものがあります。

「防守」とは、都市の占領を企図して接近する敵に対し、
軍隊が抵抗することを意味しており、
このような都市に対しては攻撃が認められる(陸戦規約25条)
とされております。

但し、同27条には、宗教施設・学術施設・医療施設などは、
軍事上の目的に使用されない限り、また、可能な限り被害を免れるように
努力しなければならないとする規定もあります。

一方「無防守都市=軍事力の存在しない都市」に対しての攻撃対象は
「軍事目標のみに限定」され、民間のものに関しては攻撃が禁止される。
この原則を軍事目標主義(Doctorine of Military Objective)といいます。

この解釈は陸戦だけでなく、海上や空中からの攻撃にも同様の制約が
あるとされるので(海軍砲撃条約第2条・空戦法規案第24条)、
空爆もこの解釈に沿って行わなければなりません。

さらに、軍事目標への攻撃によって民用物に付帯的な被害が出ても、
故意になされたものではなく、また、目標の破壊による軍事的な利益に
比較して軽微な場合には違法ではないとされています。

簡単に言うと「軍事目標主義」というのは、
軍事目標=糧秣、弾薬倉庫なども含む)があれば、
防御の有無に関わらず攻撃の対象としてよい。
但し、無駄に市民を殺傷するような攻撃はやめましょう、という考えです。

ーーーこれらを踏まえて考えると、

重慶には多くの国民党軍兵士が存在しており、尚且つ軍事施設があり、
さらに重慶政府という中心があったわけですから、
「無防守都市=無防備都市=軍事力の存在しない都市」とはいえません。

攻撃しても違反ではない都市と解釈して問題ないでしょう。

さらに、第1議定書58条
「軍事目標近傍からの文民の移動・人口密集地の軍事目標設置の禁止」
に反している国民党軍の行動を考えても、爆撃したことをもって
日本だけ戦時国際法違反であるという非難は妥当だとは思えません。

勿論、重慶爆撃は「絨毯爆撃」という方法で、
一般住民に甚大な被害が出たのだから、
とても「軍事的利益に比較して軽微な場合とはいえない」ーーー
いくら理屈を並べたところで戦時国際法違反であり、
非人道的なことに間違いないという批判は当然あるでしょう。
結果、1万2千人以上の犠牲者が出たことは事実ですから、
日本に非がないとはいえません。

しかし、そもそも蒋介石軍は、相当数の対空砲台を、
わざわざ飛行場や軍事施設から市街地域に移動させ、
また、軍需工場も地下に造成したため、
日本軍はやむなく市街地域の絨毯爆撃を決定した、
といういきさつがあります。

司令官として、一般住民が巻き添えになることが明白なのにも関わらず、
敢えて市街地に軍事施設を置いたことは、一般住民が犠牲になっても
構わないという認識であろうことは疑いようもないことで、
国民党軍の国際法違反も、充分認識しなければならないことだと思います。

自国民軽視ともいえるこの行動こそ
「非人道的」と非難されても仕方がないのではないでしょうか。

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原爆判決(下田事件 下田判決)
http://www.geocities.jp/bluemilesjp/genbaku.html

東京地方裁判所 昭和38年12月7日判決

出典:下級裁判所民事裁判例集 第一四巻第一二号
(二六一 損害賠償請求併合訴訟事件) 41-84頁

(七)それでは、防守都市と無防守都市との区別は何か。

一般に、防守都市とは地上兵力による占領の企図に対し
抵抗しつつある都市をいうのであつて、
単に防衛施設や軍隊が存在しても、
戦場から遠く離れ、敵の占領の危険が迫つていない都市は、
これを無差別に砲撃しなければならない軍事的必要はないから、
防守都市ということはできず、
この場合は軍事目標に対する砲爆撃が許されるにすぎない。

これに反して、敵の占領の企図に対して抵抗する都市に対しては、
軍事目標と非軍事目標とを区別する攻撃では、軍事上の効果が少く、
所期の目的を達することができないから、
軍事上の必要上、無差別砲撃がみとめられているのである。

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Chinaと親密で、反日の米国人ジャーナリスト
「カール・クロウ(1884~1945)」は、大東亜戦争中、
いわゆる「ビルマロード」を通って重慶に何度も取材に出かけた。
その反日米国人のカール・クロウは、その重慶取材について
『China takes her place(1944年)』という本のなかで、

「The city has suffered many air raids but with
remarkably small loss of life」
↓↓↓
「重慶は多くの空爆を受けたが、
人命が失われることは驚くほど少なかった」

と記述している。

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1941年6月5日、重慶防空洞惨案。

重慶市の防空壕は、主に日中戦争期に作られた。
蒋介石が率いる国民党政府が首都の南京を脱出し、
最終的に首都機能を重慶に移したため、
日本軍は1938年から43年にかけて、重慶市爆撃を実施した。

日本軍は政府・軍施設を攻撃目標にしていたが、
当時は「ピンポイント爆撃」などがおよそ不可能で、
市民や民間施設に大きな被害を出した。

国民党兵士が防空壕に鍵をかけて避難した人を10時間以上閉じ込めたため、
約1万人が窒息死するなどの「間接的な大量死事件(1941年6月5日)」
も、しばしば発生した。

中国国民党兵士が防空壕に鍵をかけた為、
一般市民1151人の子供を含む9992人が亡くなった。

http://hinode.8718.jp/chongqing_anti_cavity.html

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昭和16年(1941年)6月1日~10日、重慶爆撃 重慶隧道大惨案。

6月5日、重慶隧道大惨案。

夜、日本軍機による3波の夜襲。
防空洞内大量窒息死事件、数千人(2,500)が死亡。

国民党政府『大隧道窒息事件審査報告書』。
「当日、この随道に避難してきた人は、普段と比べ極めて多かった。
なかでも婦人と子供の数が普段より多く、
また避難者の荷物が多かったのも特徴である」

較場口隠道の最大定員は6555人であるが、
少なく見積もっても倍以上の避難民を収容と推定。
押し合いへし合いの状況下、
出入り口の泥濘が靴や草鞋に付いて持ち込まれたため滑り易く、
足元を踏ん張るのが、おぼつかなくなる。
さらに、換気用通風機が故障。
毒ガス投下の噂に、出入り口付近の人々は奥へ奥へと詰める。

犠牲者数は今なお不明。
当局の調査委員会は死者992人と発表するが、
この数字は当時でも信用されず。

カール・マイダンスの写真
(十八悌口脇の石段に折り重なって倒れた男女、子供の姿)
によって空襲下の悲惨事を世界に伝えた「ライフ」は、
「重慶市民四千人、空襲下の防空洞で窒息死」の見出しで報じる。

https://mokuou.blogspot.jp/2011/07/1619416110.html?m=0

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『東京大空襲』のページの一部でも重慶爆撃について記述しています。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-153.html
2/7_アメリカの鏡・日本 日本の降伏を許さず原爆投下へ
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-152.html
2009/03/02 09:00|年表リンク用資料
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