●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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当時の新聞記事でみる支那事変(盧溝橋事件~第二次上海事変~南京戦)
『各社特派員決死の筆陣「支那事変戦史」』昭和12年12月18日発刊 より引用 1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件~ ■演習中の我軍に29軍不法射撃 【北平[北京のこと]朝日特電7月8日発】 8日午前零時頃我が駐屯部隊が北平郊外盧溝橋付近において 夜間演習中盧溝橋駐屯の第29軍第37師(師長馮治安)に属する219団の一部が 不法にも数十発の射撃を加えたため、 我軍は直ちに豊台駐屯部隊に急報して出動を求め、 支那軍に対し包囲態勢をとり対峙、 我軍は支那側の不法行為に対し厳重謝罪を要求したところ、 午前4時20分頃支那側は再び不法射撃を行いたるため 我軍も遂に火蓋を切り双方機関銃、迫撃砲をもって交戦、 銃砲声は暁の空を破って遥か北平城内まで伝わったが、 遂に支那軍を撃退し龍王廟を占拠した。 盧溝橋の支那部隊に対しては目下武装解除中である。 ■支那側の要請で一時停戦 【天津朝日特電8日発】 8日午前9時半、支那側の停戦懇願により両軍一先ず停戦状態に入ったが 我軍は午前11時までに付近一帯の支那軍が完全に撤退せざる限り 全滅作戦を以て撃退すべしとの強硬態度を持し この決意の下に目下現地交渉が進められつつある。 【北平8日発同盟】 支那側の申出に依る停戦期限たる8日午前11時に至るも 支那側より何等の回答に接しないが 我軍は事件不拡大の建前から正午頃迄右期限を猶予するに決し 支那側の誠意披瀝方を督促しつつある。 【北平大毎、東日特電8日発】 8日午前11時を期限とするわが方の撤退要求に対し支那軍はこれに応ぜず 宛平城内における彼我の交渉は遂に決裂した。 よってわが軍は最初の決意に基づき断乎龍王廟 及び宛平城内の支那軍を掃討するに決し午後3時まで彼の確答を待ったが 遂に支那軍に対し再び応戦するに至った。 ただ宛平城内には住民二千余名あり、 これに損害を与えざるようわが方では砲撃に当り手心を加え 右岸にある盧溝橋の一部隊をして これに合流せんとする永定河前方の散在部隊に向って主砲を浴びせているが、 敵は全面的に増援部隊を山岳地帯及び前線の各部隊に配置し乱射を続けており 後退の模様なく夜の帳の近づくと共に最後の重大事は迫りつつある。 ■支那軍不遜行為を繰返す 【宛平にて8日大毎、東日関特派員発】 日支両軍は龍王廟の前線において対峙中であるが、 わが軍の特使森田中佐並に赤土憲兵隊長、桜井少佐、寺平大尉、 秦徳純の特使王冷斉、周永業などは宛平城内において 事件不拡大方針に基き善後処置を交渉中である。 右交渉においてわが方では午前11時を期し支那軍の龍王廟、 盧溝橋撤退を要求しており、 支那軍がもしこれに応ぜねば断乎これを膺懲する決意を固めている。 しかし支那軍は11時を過ぐるも撤退の模様なく、 かつすでに白旗をかかげた宛平城壁から わが軍に対ししばしば発砲するが如き不遜行為を繰返しつつあり、 従って勢いの赴くところ如何なる重大事変を惹起するやもはかり難く、 不安は依然として去らず成行は重視されている。 なお事件発生とともに冀察政務委員並に第29軍から宋哲元に対し 至急帰任し事件の措置に当られんことを懇請しているが 宋哲元は今にいたるも一本の返電さえ寄せず、 その不誠意振りを完全に暴露するにいたった。 ■陸軍決意を表明 【朝日7月9日朝刊】 盧溝橋事件に関し陸軍省では午前1時20分左の如く当局談を発表した。 今次事件の原因は全く支那側の不法行為に基くものであって 軍は事件勃発の当初より不拡大の方針を堅持し 事件の円満なる解決を希望してきたのである。 支那側が依然その非違を改めず挑戦的行動に出て 事件の解決を遷延しつつあることは最も遺憾とするところであるが 今において改むるところあらば我も亦これに応ずるに吝かではない。 然しながら支那側にして反省することなく不幸事件の拡大を招来するが如き 事態を惹起するに立ち至らば我もまた やむを得ず相当の決心を取らねばならぬ。 而してその責は一に支那側に存するものであることは明らかである。 【北平朝日特電10日発】午後11時北平武官室発表 暴戻なる支那兵は前日の日支双方の約束により盧溝橋付近永定河左岸に 一兵も残さぬはずであったが、これを泥土と化し10日午後7時20分 永定河西岸より盧溝橋駅付近のわが部隊に迫撃砲の集中射撃をなし、 龍王廟付近の支那兵二小隊東辛庄(盧溝橋東北方)付近にも 兵力不明の支那部隊が同地一帯を占拠した。 よって我部隊は一部隊をもって迫撃砲の射撃を受けながら 午後9時15分龍王廟の敵陣地に夜襲しこれを占領し同時に東辛庄も占領した。 右戦闘において日支双方とも相当の死傷者を出した模様である。 【天津10日発同盟】 蒋介石が中央軍に河南省境出動命令を発出したことは梅津、 何応欽協定を蹂躙するものに外ならず、且つ第29軍に対する断乎交戦せよとの 激励電の如き南京の中央政府の態度は口に不拡大を唱え その誠意皆無なるを証明するものとして我軍当局はいたく憤慨している。 【盧溝橋10日発・朝日特派員 奥村正雄】 盧溝橋第一線の状況視察のため記者は8日(7月)午後1時45分 天津発軍用列車で河邊部隊長、高見救護班長等と共に現地に急行した。 午後4時35分豊台に到着、 直に軍用トラックで兵士達と共に第一線盧溝橋駅に出発した。 豊台市街に通りかかるとかねて我が軍によって守られる支那住民が しばしば手を打ち振って我々を見送る。 平漢線踏切を越える頃豆を煎るような銃声が物凄く耳朶を打つ。 幾度か銃弾に脅かされつつ漸く第一線盧溝橋駅に到着した。 我軍の猛撃により盧溝橋県城に後退した29軍は なおも城壁を利用して盛んに迫撃砲、機関銃を我が陣地に浴びせ、 盧溝橋駅付近一帯は砲煙弾雨の巷と化している。 記者は先ず戦況如何と盧溝橋駅構内に夕食中の北平牟田口隊長を訪問した。 北平部隊幹部の面々が砲、銃声を他所に一升瓶に詰められたお茶を飲みながら 大きな握り飯をむさぼるように頬ばっている。 その間刻々戦況が報ぜられて来る。 夕闇迫る頃あいより、我が方より猛烈なる砲撃が加えられ 支那軍に多大の損害を与えた模様であるが、 支那軍もかつて見ざる頑強な抵抗を行い 我軍の意気を却って高らしめるものがある。 午後8時平漢線に沿うて散開した我が歩兵部隊から敵の迫撃砲により 重傷を負うた豊台部隊佐藤准尉が、 小林軍医中尉以下看護兵数名に護られて盧溝橋駅に送られて来た。 大腿部、足部、上膊部五ヶ所に盲貫銃創を負うているのだ。 流れ出る血潮は純白な包帯を朱に染め小林軍医の手により応急手当が終ると 「残念でした」と一言痛さを耐えて じっと眼をつぶって居るのは痛ましくも悲壮だ。 折りしも戦線巡視から帰って来た河邊部隊長は、佐藤准尉の手を取って 「傷は浅いぞ確りせい」と激励の言葉を与え、並み居る将兵を粛然とさせる。 かくて激戦は数次に亘り交えられやがて夕刻迄に判明せる 鹿内准尉、太田軍曹以下十名の我軍戦死者が発表された。 其後盧溝橋駅付近の激戦で さきの佐藤准尉以下数名の犠牲者を出した模様である。 7日夜半よりの不眠不休の猛撃によって さしも頑強な29軍も漸く沈黙するに至ったが、 本隊に入った確報によれば西苑にある29軍の大部隊が 盧溝橋県城にある友軍を掩護せんとし、八寶山に向って進軍し一方各地に 分散抵抗中の29軍部隊もそれぞれ県城に集結され、 夜に入って更に反撃の挙に出でんとする模様で、 これに対し我が軍は機先を制し、 城内の敵軍攻撃の決心を固め急遽部隊本部を盧溝橋駅に移動を開始した。 記者はこれより先、重傷の佐藤准尉及び看護中の小林軍医以下兵士5名と トラックにて豊台に帰還すべく盧溝橋駅を出発、 平漢線踏切を越え北平道路に車を馳らせたが、 真暗闇の事とて遂に豊台への道を見失い、 車は悪道路の窪みに落込み立往生のやむなきに至った。 一同は唯重傷の佐藤准尉を一刻も早く豊台に後送しようと 汗みどろに塗れながら車の引上げに苦心したが、 重傷の佐藤准尉は痛む身体をこらえて起上り、 北平道路迄引返せば自分が豊台への道をよく知っているからと、 悲痛な声で語るのであるが引返す術もない。 記者は看護兵一名と付近の小部落から戦に怯えている農民をなだめすかして、 三十余名を狩り立てやっとトラックの引揚げを行い、 午後11時漸く豊台に到着し豊台部隊内の野戦病院に 昏々と眠る佐藤准尉を収容手術を行った。 その後結果は良好で吾々の労苦が酬いられた。 9日午前4時河邊部隊長は幕僚等と共に 豊台から盧溝橋駅第一線に作戦本部を移動したため、 記者も再度第一線に向うべく 午前4時将兵輸送トラックに同乗豊台を出発した。 その頃戦線一帯は篠衝く豪雨となり、戦闘は益々猛烈を極め、 支那軍には夥しい戦死者を出した模様であるが、 この日の29軍は満洲事変当時の支那軍とは格段の相違あり、 その頑強なる戦闘振りは敵ながら天晴れと、 わが軍首脳をしていわしめた程で、 膝を没する泥濘中で濡れ鼠となった将兵の悪戦苦闘は想像に余りある。 午前5時協定に基き支那軍は一斉に撤退を開始するものと、 一同は厳重に監視中、俄然支那側は城壁上に躍り出て、 わが軍に対して猛烈に射撃を浴せかけた。 この不法行為に対し全軍一斉に憤然色をなし、 遂に全線に総攻撃令が発せられ、 我が陣地からは一斉に砲撃の火蓋が切って落され、 暁天を衝いて轟く砲撃殷々として天地を揺がさんばかり、 約八百メートル前方の宛平県城内は釣瓶打ちの砲弾に見舞われて、 半ば崩れ城壁の至るところ白煙濛々と立ち籠め命中率は100%である。 【朝日7月12日朝刊】 政府は11日の緊急閣議に於て 北支事変に対する帝国政府の根本方針に関し廟議一決すると共に 近衛首相より上奏御裁可を仰いだ後左の如く中外に声明した。 ■声明全文 相踵ぐ支那側の侮日行為に対し支那駐屯軍は隠忍静観中の処、 従来我と提携して北支の治安に任じありし第29軍の7月7日夜半、 盧溝橋附近に於ける不法射撃に端を発し、該軍と衝突の已むなきに至れり、 為に平津方面の情勢逼迫し我在留民は正に危殆に瀕するに至りしも、 我方は和平解決の望を棄てず、事件不拡大の方針に基き局地解決に努力し、 一旦第29軍側に於て和平的解決を承諾したるに拘らず、 突如7月10日夜に至り彼は不法にも更に我を攻撃し、 再び我軍に相当の死傷を生ずるに至らしめ而も頻りに第一線の兵力を増加し、 更に西苑の部隊を南進せしめ中央軍に出動を命ずる等、 武力的準備を進むると共に平和的交渉に応ずるの誠意なく、 遂に北平における交渉を全面的に拒否するに至れり。 以上の事実に鑑み、 今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし。 思うに北支治安の維持が帝国及び満州国にとり 緊急の事たるは茲に贅言を要せざる処にして、支那側が不法行為は勿論、 排日侮日行為に対する謝罪を為し、 再び今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障等をなすことは、 東亜の平和維持上極めて緊要なり。 よって政府は本日の閣議に於て重大決議を為し、 北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり、 然れども東亜平和の維持は帝国の常に顧念する所なるを以て、 政府は今後共局面不拡大の為、平和的折衝の望を捨てず支那側の 速なる反省によりて事態の円満なる解決を希望す。 又列国権益の保全に就ては固より十分之を考慮せんとするものなり。 ■銃火に孤立の北平 【北平11日発・読売特派員 村上知行】 北支那の杜の都、古都北平は今や硝煙のなかに孤立した。 盧溝橋に暴戻29軍の銃声起るや布告された戒厳令は 軍警の手によってますますその警戒をきびしくし、 邦人といえば有無をいわさず訊問する、殴打する、 というまったく人道を無視した敵対行為に出で、 この戒厳令は今のところ日本人に対して 布かれておるというような奇妙な印象を与えている。 ことにひどいのは、北平在留の邦人が雇っているボーイに対する軍警の迫害、 商取引や出入の自動車業者にまで不当な圧迫の手が 戒厳令の名のもとに加えられておることだ。 電話も日本語で通話していると 交換手が意識的に切るなどの通話妨害はザラだ。 それに西城新街口の邦人アパート忠順旅館への29軍の闖入暴行掠奪事件は、 いつなんどきこの暴戻な魔の手が東城の邦人居留地域にのびるかもしれない という危惧の念をあたえ、邦人はまったく生きた気持ちもない。 北寧線の一般列車は不通で前門の東站(東停車場)には 動かぬ客車がさながら巨大な蛇体の抜殻のような感じで 灰色の城壁に沿う鉄路にねそべっている。 各城門はもちろん戒厳軍警の手によってがっちりと閉鎖され、 邦人は洋車で市内を歩く自由さえない。 戒厳の主力部隊は西直門に面した西城旃檀寺にある張子均の軍隊である。 邦人アパートを襲ったのもこの軍隊である。 冀察政権樹立以来鳴りをしずめていた北平市内各大学の抗日学生団、 藍衣社員、共産党員たちは一斉に活発な活動を開始し、 昂然として対日宣伝のアジビラをバラ撒いている。 北平市の名物槐樹の深い茂みのかげにうごめく影をみてさえ 邦人はと胸を衝かれ、 遠く湧いて硝子戸をピリリとふるわせる砲声を耳にすると、 孤立の北平はさながらに虎穴にあって狼群の咆哮を聴く思いである。 市内は昂然たる抗日学生の示威遊行、いつもならこの夏のひと夜さを漫歩して 鶏糸炒麺の味とアヴェックでゆく女学生たちの胸にさした晩香玉の むせるような甘い匂いに異国の感傷をわかせる詩の古都北平も いまは硝煙につつまれて軍警の叱咤する 『誰呀? 上那皃去呀?』(誰だ! どこへゆく?) のとげとげした怒声が聞えて来るばかり・・、 戦雲に漂う廃都の如き感じである。 邦人の密集している街区といえば東単牌楼の八賓胡同あたり一帯であるが、 ここではこの日朝から巡警に殴打された、 誰某は張子均の兵士に訊問された、という噂ばかりである。 公使館区交民巷から東安門一帯は北平の浅草ともいうべき前門の 盛り場につづく山の手風の一廓であるがどの大使館、公使館の守備兵も 銃剣を光らせて前方の宵闇に白く浮ぶアカシアの街路樹の防虫剤に 白い樹幹を黙々とみつめるばかりである。 宵闇の北平! 孤立した北平! 暴戻な29軍の銃剣に包囲された北平! しかし一方、松井特務機関長や橋本天津軍参謀長の顔色は平静である。 『お久しぶりです、御苦労さま』というと 参謀長は微笑を浮べて『ヤア』とかるく答える頼もしさ ―北平城内のさる公館における風景である。 ここへあわただしくかけこんで来たのは冀察委員会の林耕宇だ。 蒼白な顔で『齊燮元が御出発前一目お目にかかりたいそうです』 と縋りつくが、参謀長はなんとも答えず毅然たる顔つきである。 すがりついた林は呆然として、 平素にかわらぬ参謀長の顔色をみつめるばかりである。 そこへ事変当初から夜間の衝突を避けさせるため 盧溝橋のただ一人の日本人として乗込んでいた中島中佐が顔を出した 『今夜も行くぞ、もう衝突はなかろう、俺は酒ばかり飲んどるよ』、 参謀長の姿はいつの間にか掻き消え、29軍桜井顧問が秦徳純のところへ 行くのだと偉大なる頭を振りながら駆け出した。 こうしたゴッタ返しの中で記者が某氏に 『宋哲元はどうしていますか』と聞くと 『楽陵で昼寝をしとるんじゃろう』とわらった ――あ、また砲声だ、夜の大気をふるわせて近づく爆音は 敵か?味方か?謡言しきりにとぶ魔都北平の在留邦人は、 避難準備を終ったトランクのかげから部屋の亜字窓の桟を通して 一せいに耳をアンテナにして味方の来援を待ちわびるのだ。 【上海東日、大毎特電7月12日発】 11日夜発表された国民政府の声明は国民政府としての 北支事変に関する最初の公式意思表示として注目されるが、 その内容において明らかなる如く事件の責任を悉く日本側の発砲に転嫁し、 今日なお事態が緩和されないのは日本の違約に基くものであるとし、 さらに最後に極東は危険に瀕するを免れないとして言外に日本側の行動に 対する反撃政策をほのめかしていることは事件に対する 南京側の強硬政策を明らかにしたものとして極めて重大視されている。 この政策は今後の国民政府の動向を指示するものとして 北支における協定成立の如きも全く無視され、 両軍対峙のまま支那側が今後如何に積極的に出るかについて 万全の策を講じつつある模様で、 南京における政府首脳部の重要会議の結果をもたらして、 軍政部長何応欽は12日中に廬山に急行し、 国民政府の最後案として蒋介石の決定を仰ぎ、 直ちに具体行動にとりかかる模様である。 右最後案として伝えられるところでは、 一、南京、冀察両当局を通じてあくまで日本の要求を拒否し、 責任を日本に転嫁すること。 二、これが外交交渉の後楯として日本側派兵に対応して 中央軍の精鋭を続々北上せしめて武力解決をも辞せざること。 三、国際的関心を喚起するため、事件の責任が日本にあること、 日本軍の北支における行動は全く条約違反であることを 欧米諸外国に向い宣伝につとめること。 であって、早くも王外交部長は在外各大公使に事件の経過とともに 各国政府の注意を喚起するよう電命した。 かくの如く今や国民政府は極度に緊張し最近帰任の予定であった 許世英駐日大使にも在京命令を発して政府の諮問に応ぜしめている。 ■北平の邦人遂に引揚ぐ 【天津朝日特電12日発】 戒厳令下の北平は今不安のどん底にある。 北清事変の苦い経験を思い起す古い在留民達はもとより 最近の声ばかりの北支明朗の波に乗って押し出した多数の在留邦人達は 一体どうなることやらと、何も手につかぬ有様だ。 信義を無視する支那軍は幾度か約束を破って我が方に挑戦して来る。 而もその兵力は刻々増大して 何時如何なる重大事が勃発するかも知れぬ情勢にあるのだ。 この不安な北平の刻々迫りつつある不気味な空気を前に 在留邦人は12日以来続々引揚げを開始した。 手近な天津の日本租界を目指す人達、天津から更に船で、 汽車で満洲へ内地へと引揚げる人達の物凄いラッシュだ。 12日午後六時北平発津浦線は、夜の厳戒に先立って北平を脱出しようとする 婦人子供を中心とした邦人の群で満載だ。かくて危機は刻々と迫ってきた。 ■不遜・支那軍更に進出 【天津朝日特電12日発】 支那側は12日、申合せを蹂躙し有力なる部隊を永定河右岸より平漢線に置き、 盧溝橋の北2キロ付近に至る線に一斉進出、我が方に射撃を開始した。 我が方はなお応戦せず沈黙を守って居る。 然し今や重大事態に立至り全駐屯軍は重大なる決意を固めた。 かくて両軍の全面衝突の危機は刻々と近づき 北支は異常なる空気を孕み緊張の極に達した。 これらの責は全く支那側の協定蹂躙にあり、我が方を憤慨せしめている。 ■梅津・何応欽協定 梅津・何応欽協定とは1935年6月10日、 時の北支駐屯軍司令官梅津美治郎中将と国民政府軍政部長何応欽との間に 締結されたもので、協定事項は左の通りである。 (一)河北省政府干学忠、憲兵第三団長蒋孝先以下事件責任者の罷免 (二)憲兵第三団並に北平軍事委員会政治訓練所の北支撤退 (三)河北省党部の撤退 (四)干学忠麾下第五十一軍は六月二十五日までに河北省へ撤退す (五)中央軍二ヶ師団は河北省外へ移駐す (六)日支国交を害する秘密機関は厳重に取締り存在せしめず (七)国民政府は近く全国に対し排外排日を禁ずる命令を出す この項目中の中央勢力の河北撤退部隊が再び河北入りを禁じているもので、 これ等に対し保障条項があり、前記の項目と保障条項によって 中央軍(南京軍)の河北省に入ることは出来ないことになっているのである。 ■馬村の両軍衝突事件 【天津朝日特電14日発】 13日午前馬村における日支両軍の衝突事件に関し、 その後支那駐屯軍司令部に達した詳報によれば、 事件は全然支那側の計画的行動に基くものにして、 支那側は我が一小部隊の通州豊台道路を西進中を知るや、 永定門付近より二個中隊を南下せしむるとともに、 馬村南方に駐屯せる支那部隊を北上せしめ、 我が部隊を挟撃せんとする挙に出でたるものなり。 かくて我が一小部隊が馬村付近に差しかかるや道路両側より 機関銃の猛射撃を浴びせ、我が部隊直ちにこれに応戦、 豊台より出動せる友軍と共同しこれを撃退、豊台に引揚げたるものなり。 我が軍は目下交渉継続中のため隠忍自重しあるに拘らず かくの如く挑戦不信の行為を繰返すにおいては 事態の推移測り知るべからざるものあり。 事件拡大の責は一に支那側にあり、事態の成行きを重視して居る。 【南京朝日特電7月15日発】 南京政府は北支事変以来全く不遜極まる態度をもって望み 和平解決を実行するが如き誠意を有していない。 即ち政府当局者は公然と非は日本側にありと宣伝し、 地方党部及び各機関に命令して計画的民衆運動を煽動し 抗日商売の馮玉祥等は29軍および旧西北軍系軍隊に対し 『抗敵英雄たれ』と歯の浮くような通電を発して得意になっていると云われ、 抗日戦線の巨頭孫科は広東行きを中止し、 上海にあって人民戦線一派と連絡をとり、 政府部内の自重派を圧迫して 民衆運動の指導に当って居ると伝えられて居るが、 駐支英国大使ヒューゲッセン氏が北戴河より急に 南京入りをするに至ったのは、 本国政府の訓令によるよりも南京政府の懇望によったもので、 飽く迄外国勢力に依存して局面を有利に導かんとする支那流の政策で、 外交部当局者はしきりに南京在留の外交官及び外国記者を招致し、 勝手な宣伝に躍起となっている。 某外国人記者などは余り露骨な宣伝振りに呆れて 我が大使館に事実を確めに来る始末であり、 一方南京政府としては、 この機会に地方軍を整理せんとする腹黒い魂胆は いよいよ露骨で新聞を利用して29軍将兵慰労義金を募集し 英雄扱いをし安価な憂国心をそそって、 いやが上にも29軍及び韓復軍、山西軍をして日本軍と衝突せしめ、 労せずして北支の中央化を図らんとする魂胆である事は明瞭であり、 29軍その他の北支地方軍の南京弁事処をして 常にニュースを放送させているが、 この手段を選ばぬ老獪な国内政策に対して外人筋でも不愉快に思って居る。 こうした重大時局に際し徒に小策を弄し民衆を欺瞞に陥れる抗日政策は 益々時局を急迫に導くものであり、 いよいよ和平解決を困難ならしめるものであって、 支那を大混乱の渦中に投げ込む責任は 南京政府が負うべきであるといわれて居る。 ■活気横溢・豊台の守り 【豊台1937年7月17日発・朝日特派員 團野信夫】 ・・・・ 鉄条網のはりめぐらされた兵営は、 はちきれるばかりの活気に満たされている。 事変勃発当時恐怖して寄りつかなかった支那人達が このごろになるとドンドン近づいてくる。 10日に人夫を募集したところが百名のうちやっと30人ばかり狩り集めたが、 夕方労銀を支払ってやると2、3日経つうちにドンドン増して、 此頃では使ってくれと頼みにくるのがあるそうだ。 彼等の戦争観によれば、戦争即ち徴発掠奪であったものが 金を与えられたのでびっくりしたものらしい。 どんな急忙の際にも徴発の代償は 必ず十分に支払うべしというのが豊台部隊の合言葉だ。 戦火の中に見るこの静けさ安らかさは 日本軍への民衆の信頼を物語るものだろう。・・・・・ 一文字山は30メートルばかりの小丘だ。 サラサラした砂に青い雑草がところどころ茂っている。 麓の支那家屋で支那の女が大釜に飯をたいている。 銃声に一時は逃げ出そうとしたそうだが、 日本軍は一向掠奪にやってこないので 踏みとどまり何くれと世話をやいてくれるそうだ。 丘の上に立つと左方向に砲弾の穴のあいた盧溝橋城の城壁があり、 右前方には永定河畔の森が翠の曲線を描いている。 右背後は北平の街が紫色に霞んで白塔が望まれる。 美しい景色に陶然としつつしばし戦場であることを忘れている、 と突然北寧線の彼方から2発の銃声だ、 「ソラ撃った」哨兵の言葉に思わず首を縮める。 いま馮治安軍には北平の学生が演劇隊まで組織して 排日宣伝に入りこみ抗日の歌を教えたり、 政治教育をほどこしたり大車輪の活動をつづけてるという。 幹部将校と部下兵士の思想的離間が事態の円満解決を困難にしている。 2発の銃声もその意味を暗示するのか 「今夜はまた撃ちますよ」と哨兵はつぶやいた。 ■宛平県城攻撃 【豊台朝日特電20日発】 19日支那側に対して発した重大通牒に基き我が方は20日正午以後の 支那側の第一線部隊の動静を厳重監視中、 午後2時32分に至り盧溝橋付近29軍前線より又復不法な射撃を受けたので、 遂に堪忍袋の緒を切らし前日の通牒に基き断乎、 河邊部隊は砲撃を開始し砲弾は敵の後方陣地に命中しつつあり。 【豊台20日発同盟】 19日夜来支那軍の背信的射撃に対し隠忍自重して居たわが最前線部隊は 最早これ以上の忍耐を許さず遂に宛平県城 及び盧溝橋方面の第29軍に対し断固膺懲砲撃を開始した。 雷電の如き砲声は殷々として河北の野を震わせ、 わが砲兵隊より放つ巨弾は宛平県城内城壁上などに炸裂、 支那側よりもこれに応戦午後2時40分今や激戦続行中。 ■事件不拡大遂に絶望 陸軍当局談(20日午後6時30分発表) 北支事件発生以来我駐屯軍は政府の方針を体し 隠忍自重事件の和平的処理に最善の努力をつづけて来たが、 第29軍側において再び我軍に不法射撃を加え或は北平、 天津間において我軍用電線を切断し更に本20日午後1時、 八宝山及び長辛店附近の支那兵は、我に向い盛んに砲撃を行いしをもって 豊台の我軍は座視する能わず遂にこれと戦を交うるの已むなきに至り 軍の堅持せる事件不拡大の希望が 全く蹂躙せらるるに至ったことは遺憾である。 【豊台26日(7月)発同盟】河邊部隊発表 25日午後11時頃、通信隊保護のため天津より派遣されたる○○部隊が 郎坊駅附近にて通信線を補修中突如第38師113旅226団の部隊より 射撃を受けたるも部隊長は第38師を友軍と見て俄に交戦することなく 郎坊駅より慎重敵状を偵察したるも、敵は不法射撃を止めざるのみか 駅を包囲するに至ったので遂に26日午前零時過ぎ応戦を開始した。 郎坊には元来第113旅第216団の第一及び第二営があるが、 我部隊を包囲したる敵部隊の兵力は迫撃砲を用いたる約17個連で 更に宛平より騎兵を有する約3個団、 武清県より約一営の部隊が郎坊に向け前進中である。 我軍は支那側のこの不信行為に極度に憤慨26日払暁鉄道輸送により ○部隊を郎坊に急派する一方、 26日朝6時5分爆撃機数台を現地に飛行せしめ爆弾投下を行った。 支那軍は我爆撃に仰天退却を開始した模様だが、 我部隊は依然郎坊駅によって敵状を監視中である。 尚25日夜来の戦闘により我部隊は十数名の死傷者を出した。 ■頭上で砲弾炸裂!鉄兜は飛ぶ 【郎坊26日発・朝日特派員・岡部孫四郎】 25日午後11時30分、郎坊駐屯の張自忠麾下第38師の兵約1000名が 我が郎坊監視隊五ノ井部隊に不法発砲すとの情報が川岸部隊にあり、 続いて26日午前1時5分支那兵迫撃砲の砲撃を開始す。 次いで同1時10分重傷者3名、1時半6名に増加、遂に2時7分無電不通となる。 これだけの情報を耳にして郎坊救援に急行の鯉登(こいと)部隊に随伴、 先発したのは本社記者2名、写真班2名だけだ。 きのうに変わって沿線も殺気を帯びている。朝から勿論列車の運転は休止。 沿道には警備兵の姿がチラホラと見える 「こりゃ大きくなるぞ」ぐっと胸に直感、 「今日こそ報道のために身を捧げるのだ」 と決意して沿道の彼方此方に目を見張る。 午前8時列車はまっしぐらに北平平原を突っ走っている。空に爆音が聞える。 列車の窓口から顔を出すと真上に飛行機が戦場の方に快翔して行く、 と間もなく耳をつんざく迫撃砲の炸裂する音が引っ切りなしに起る。 敵か味方か同行の川岸部隊北川参謀が、「我軍の砲撃です」と教えてくれる。 あと5分で郎坊だという地点で 敵の大砲、迫撃砲、機関銃の弾丸が我等の列車を狙っている。 これ以上の進行は不利だ、我々が列車を降りた辺りは身長の2倍もある 一面の高粱畑で神出鬼没の支那軍を追って攻撃前進が始まった。 高粱畑を縫うて我軍の努力は並大抵ではない。 記者は戦線を離れて郎坊駅に入った。 その途端、続いて起る機関銃の猛射、郎坊駅の硝子窓をつんざく弾丸、 「これは危険だ」当分構内にいることに決める。 午前8時ちょっと前だったろう、支那兵が猛射する機関銃が物凄い音を立てて 構内を突き抜けて傍の家の壁にプスリと当って又刎ね返る。 凄い、全く凄い、と思った時だ、耳が聞えなくなった。 目も真暗だ、ヒヤリと顔に水がかかったと直感した。 「やられたか! なあに支那兵にやられて堪るか」 と思わず腰の拳銃に手が触れた。 顔をなでて見た、何処も痛まぬ、大丈夫だったのだとホッとして掌を見ると ベットリと血潮がついている「やられてるかな」と不安になった。 記者の前に今まで立っていた人――「これは珍しい煙草だ」といって 軍人煙草をくれた兵士が倒れているではないか、 続いて又一人貫通銃創負うて倒れている。 鉄兜が飛んで血を吐いてころがっている。 一面鮮血に染まって凄惨、 戸と云わず壁と云わず血飛沫を浴びて物凄い光景だ。 記者は流れ出る涙を拳で拭って黙祷を捧げた。 黙祷を捧げた後、駅の西方に当って 続け様に迫撃砲が炸裂して物凄い黒煙が上がっている。 名誉ある五ノ井部隊の戦死傷者に「仇は必ずとってやるぞ」。 鯉登部隊の大追撃だ。爆音が聞える、我が飛行機だ、 ○○機、続いて○機ぐっと機首を下げた。 爆弾投下! 黒煙! ほんの数秒である。支那軍陣地も兵舎も木っ端微塵だ。 支那兵は蜘蛛の子を散らしたように高粱畑の中に逃走し始めた。 駅を中心に西と東の陣地は間もなく皇軍によって占領された。 人一人居ないと思われた郎坊の街から一人二人駅近くの支那人は 皇軍奮戦の姿を盗み見しながら食い残しの食物を拾って行く。 街々に残る血痕、プスプス燃え上っている不発弾、街の角々の大穴、 破壊された家々が今見たばかりの悪夢を不気味に物語っている。 正午、張自忠軍一千の兵士が陣取って居た 郎坊付近の支那兵陣地に足を踏込んで見る。 駅を一歩外に出ると30個に近い手榴弾が不気味な姿を投出していて。 敵は我が駐屯所の裏屋根に這い上って 盛んに手榴弾を投げた跡がありありと看取出来る。 街の大きな商店は掠奪に遭ったと見え、 どれもこれも見る影もないまでに荒らされて居る。 兵舎の営門は無残に破壊されている。 【北平東日、大毎特電26日発】 北平邦人保護の重責を帯び、26日午後軍用トラック○○台で 豊台より北平兵営に向った廣部部隊は 事前に冀察首脳部と諒解の結果午後4時、 廣安門より入場の予定であったところ、 城門の支那軍は約に背いて開門せず交渉のため廣安門に赴いていた 29軍顧問桜井少佐は支那側の不信を怒り 直ちに戒厳司令部に赴き厳談した結果、 再び午後6時に開門する旨回答を得たが支那軍は依然開門せず、 3度折衝の結果午後8時に至り漸く城門を半開したので 約3分の2程入城したところ、 はからずも門を閉鎖しすでに廣安門の内側には高々と土嚢を築き、 突如支那兵は小銃、機関銃、手榴弾、迫撃砲をもって 城壁上より攻撃の暴挙に出で、わが軍も遂に応戦火蓋を切った。 城内の支那軍は続々廣安門に増援しつつあり、 支那軍の射ち出す迫撃砲の音は殷々と城内に轟き 同8時半に至り29軍は遂に城壁上より山砲の乱射をはじめ、 わが部隊には死傷相当ある見込み。 【註】北平の城門は二重になっている。29軍は外門廣部部隊の一部を入れ 内門を閉ざして四方の城壁の上から乱射したもので、 内門外門の間には約三町四方の空地がある。 ■宋哲元に期限付最後通牒 【天津都特電26日発】支那駐屯軍26日午後3時半発表 7月8日盧溝橋事件以来、支那駐屯軍は不拡大、 現地解決の方針の下に第29軍と協定を結び、 支那軍隊の数回に亘る不法不信行為に、 努めて隠忍自重し以て支那側の協定実行を厳重監視せり。 然るに支那側は協定の実行に言を託して遷延せるのみならず、 遂に25日郎坊の支那軍隊は我通信隊掩護の僅少なる部隊を侮り、 不法射撃を実施し我軍に損害を与えたり。 斯くの如きは支那軍が単に侮日抗日の挑戦的行為たるに留まらず、 我軍との協定実行に全然誠意を欠くものと断ぜざるを得ず、 茲に於て軍は其の使命に基づき公正なる態度をとり 断然支那側の協定実行の誠意を糺し、之が敏速確実の実行を望み、 左の如き最後通牒を特務機関長松井大佐をして 第29軍長宋哲元に本日午後3時半手交せしめたり。 ■第29軍への通告 昨25日、郎坊に於て通信交通の掩護の為派遣せる 一部我軍に対する貴軍の不法射撃に起因し、 遂に両軍の衝突を見るに至りしは遺憾に堪えず、 斯くの如き事態を惹起するに至れるは貴軍が我軍との間に協定せる事項の 実行に対する誠意を欠き、依然挑戦的態度の緩和を為さざるに起因す。 貴軍に於て依然事態不拡大の意思を有するに於ては、 先ず速かに盧溝橋及び八寶山付近に配置する 第37師を明27日正午までに長辛店に後退せしめ、 又北平城内にある第37師は北平城内より撤退し 西苑にある第37師の部隊と共に先ず平漢線以北の地区を経て 本月28日正午までに永定河以西の地区に移し、 爾後引続きこれ等軍隊の保定方面への輸送を開始せらるべし。 右実行を見ざるに於ては貴軍に誠意なきものと認め 遺憾ながら我軍は独自の行動を執るの止むなきに至るべし。 其の場合起るべき事態の責任は当然貴軍に於て負わるべきものなり。 昭和12年7月26日 日本軍司令官 陸軍中将 香月清司 第29軍長 宋哲元殿 ■苦闘の5時間半、危地を脱し皇軍入城 【北平朝日27日発】 北平兵営に入らんとして廣安門において 支那軍に挟まれ廣安門を挟んで激烈なる城砦戦を続けつつあった 我が○○部隊は支那側の計画的不信行為により城内と城外に切離され、 殊に城内に入った廣部部隊長指揮の一部隊は支那軍増援の来援により 一時腹背に敵を受け壮烈なる悪戦苦闘を続けること前後5時間半、 漸く27日午前1時半に至り、 同部隊救出のため奔走中であった我が方の軍使特務機関寺平輔佐官、 支那側軍使29軍の開恩靖参謀および29軍軍事顧問中島中佐、 笠井少佐等の決死的努力の甲斐あって城内に入った○○名の 我が軍は大使館区域に入るとの協定成立し、 右部隊は午前2時20分交民巷の我が兵営に入った。 同部隊と豊台から同行せる本社特派員繁田清四郎、 田畑雅の両氏も激戦の渦中についに巻込まれ、 連絡つかぬ儘身辺の危険を憂慮されていたが、 部隊の入城と共に無事危機を脱し、目下我が兵営内に保護されている。 しかしながら、城内より戦線地帯に入り込み、渦中に巻込まれた 同盟通信社員3名は支那軍の凶弾のため何れも重軽傷をうけ、目下治療中。 なお入城部隊の城門通過につき26日夕刻来、 廣安門にあって奔走中交戦となり夜に入って消息不明となり 安否を気遣われていた29軍軍事顧問桜井少佐は 27日午前2時半に至り漸く連絡することを得た。 ■最後態度決定 【天津28日(7月)発同盟】 支那駐屯軍は最後通牒を発すると同時に左の声明を発表した。 7月7日以来盧溝橋付近に於て支那側の不法射撃に端を発したる 日支両軍の紛争事件に関し、日本軍が飽迄事件不拡大の方針を堅持し 和平解決に万全の努力を致したるは周知の処なり。 然るに支那側は不信不法の行為を反覆し一旦我が要求を承認、調印したる 後と雖も其後誠意の認むべきものなく而も通信交通を妨害し、 計画的挑戦行為に出で、 殊に一昨25日夜は軍用線修理のため郎坊に赴きたる部隊に対し、 昨26日夕は北平廣安門付近に於て我が居留民保護に向える部隊に対し、 偽瞞の手段を講じ不法の攻撃を敢てするが如き抗日侮日到らざるなし。 加うるに梅津・何応欽協定を蹂躙して中央軍を北上せしめ、 着々戦備を進むる等暴戻言語に絶するものあり。 斯て今や治安は全く乱れ、我が居留民の生命財産は危殆に瀕するに至れり。 素より北支治安の維持は日満両国の重大関心事たり 事茲に至りては和平解決の万策尽きて、 膺懲の兵を進むる外なし、真に遺憾とする処なり。 然りと雖も日本軍の敵とする処は抗日挑戦の行為を 敢てする支那軍にして河北一億の民衆に非ず。 軍は速かに治安を恢復し東亜民衆の福祉を増進せん事を期するものなり。 北平城内に於ては支那側が求めて混乱を惹起し、 戦禍を誘発せざる限り武力を行使するが如き事はなく又、 列国の権益を尊重しその居留民の生命財産の 安全を期するは論を俟たざる処にして、況や領土的に北支を占領せんと するが如き意図は断じて之を有せざるものなり。右声明す。 ■総攻撃開始、平津各地に激戦 【北平朝日特電28日発】 我が最後通牒において27日正午を期限とせる盧溝橋、 八寶山第37師撤退は遂に支那側において何等の誠意を示さざりしため、 我方は通告通り同日午後より敢然自主的行動を開始して 支那軍に絶大の損害を与え、 更に28日黎明に至り爆撃、砲撃の偉力を以て痛烈なる攻撃を加えた。 最後通牒の第二段に示された北平城内及び西苑部隊の撤退 並に移駐開始は28日正午を期限としてあるが、 是亦遂に支那側の誠意ある実行を見るを得ず、 却って市中に兵力を増大し抗日準備を厳にする等 交戦の気構え明かとなったため、ここに我軍は29軍全軍に対し 愈々総攻撃を行うべき最後の事態に到達、膺懲の火蓋を切った。 ★溜飲下る爆撃の快音 【北平28日発・朝日特派員 進藤次郎】 北平籠城第一夜は勇ましき我が飛行機の爆音と共に明けた。 すっかり覚悟を決め身一つでこの交民巷に引揚げて来ている邦人一同は、 狭くるしい不便な寄合世帯にも拘らず、 極めて静かに十分の安眠をとることが出来た。 28日朝は雨模様で割合に涼しく避難民といったような気持ちもせず、 うつらうつらとしていると、 どこからともなく快い飛行機の爆音が響いて来た、 だんだん近付いて来ると思う間もなく飛行機○台が 北平西南方の空をぐるぐる大きく旋回し 北平の真上に飛んで来た高度三、四百米、恵通公司機である。 あちらこちらでビラを撒布しているのが煙を吐いているように見える 「北平の市街を戦火の巷とするに忍びないから、今の中に早く撤退しろ」 との城内にある29軍に対し警告ビラと交民巷以外に 居住する在留外人及び支那人に対する避難勧告ビラを無数に撒き散らして、 幾度も幾度も旋回を続ける。 突如西南方の遥彼方でド、ド、ドーンと 腹のそこまでこたえるような轟音が起り始めた。 我が飛行機の爆撃に違いない。 27日警告の期限が過ぎても撤退を肯じない盧溝橋、 八寶山あたりの敵を爆撃しているのだろう。 そしてこれは同時に未撤退の他の支那兵に 「お前達も何れ同じ運命だぞ」といい聞かせているようなものだ。 大掛りな城壁で取巻かれてこそおれ、空に対してはまる裸の北平である。 我が飛行機は見えぬが聞くだに胸のすくような爆撃を続けて居るのであろう。 避難邦人達はこの物音に今まで20日余り、 いや何年間か胸につかえていたものが 一時にぐっと下がったような気持ちになった。 窓という窓から一斉に首を出して頼母しげに見守って 「やれー! やれー!」と叫んで居るものもある。 27日夕、日本人と独伊両国人が引揚げ、 28日には英米仏三国人も全部交民巷に閉じこもって 交民巷の三方の入口は固く閉鎖されてしまい、電報の発信は途絶し、 長距離電話も駄目、軍用電報すら全く支那の妨害にあって杜絶してしまった。 今日残るは少数の無線連絡あるのみである。 28日午後からいよいよ我軍の空陸共同作戦の総攻撃が始まり 城外各所に遠雷のような轟音がヒッキリなしに あがっているのが聞えてくるが、 どこがどうなっているのか一向に知る由もない。 特務機関や武官室さえ前線との連絡がなく完全に戦況は判らない。 避難民一同が戦況ニュースに飢えているところへ、 支那新聞社や外国通信はデマを盛んにふりまき、 まさかと思いながら爆音の響く空の彼方を眺めていると、 日の丸をつけた飛行機が荒鷲のような勢いで飛来し 交民巷の無電のアンテナをすれすれに飛び来りさま 突然搭乗者の一人が体をひどく乗り出したかと思うと、 何か小さなものを邦人避難者の広場に投じて 機首をぐっと上げて○○方へ消えて行った。 果してそれは通信筒落下、 内容は至極簡単で『北平の皆さんご安心下さい』と・・・ たった15字ばかりの空からの贈物は 二千数百人の避難民の気持ちをすっかり安心させてくれた。 【天津朝日特電29(7月)日発】 川岸部隊に従軍して去る26日の郎坊における戦闘に 鯉登(こいと)部隊の第一救援列車に便乗し逸早く最前線の生々しき実況と 皇軍の奮戦ぶりを伝えて銃後国民に報道の任務を果した 本社特派員岡部孫四郎氏(29)は引続き河邊部隊に従軍し 28日第29軍第38師の本拠南苑総攻撃に当り、 華々しき皇軍活躍の状況を報告すべく最前線に出たが 不幸敵弾に当り通信職務遂行のため壮烈な戦死を遂げた。 右に関し29日午後11時支那駐屯軍参謀部より 天津の本社支局に次の如き電報があった。 『川岸部隊長発電 御社の記者岡部孫四郎氏は28日正午頃南苑の攻撃戦闘中危険を冒して 第一線に駆足し、頭部に盲貫銃創を受けて遂に戦死を遂げらるる。 誠に痛恨に堪えず謹みて哀悼の意を表す』 ■新聞報国史を飾る 【天津朝日特電30日発】 本社北支事変特派員岡部孫四郎氏は川岸部隊に従軍し、 同部隊従軍の各新聞記者の中にあって特に同部隊の信頼を受け、 同僚新聞記者と軍との間の連絡係りとして円滑な関係をはかり、 同部隊並に同僚から尊敬を受けていた。 同氏は従軍以来終始勤勉全く不眠不休で俊敏な活躍を続け 川岸部隊の記事に写真に独特の機軸を示し、 殊に同部隊の活躍を迅速正確に母国に報じていた。 川岸部隊が天津から更に前進して暴戻支那軍を膺懲すべく 27日午前2時半、まず鯉登部隊が急遽郎坊方面に出動を命ぜられるや、 本社特派の同僚池内記者及び繁田、西橋両写真部員と共に出動、 同夜一旦天津に帰府し最前線の従軍記を送るや 直に再び川岸部隊の南苑出動の軍用列車に同乗を許されて南苑に赴き。 第一線の将士と辛苦危険を共にしつつ勇敢にも 第一線奮戦状況報告の任についていた。 かくて28日正午頃ついに敵弾の犠牲となり 壮烈な最期を遂げ報道戦線の尊き責務に殉じたのである。 その死は軍人の精神と何等異ならず、新聞報国の強き信念と 軍人と同じ御国のために誠を捧げて一身を賭したものである。 新聞記者として同氏の如く第一戦にあって 壮烈な戦死を遂げたのは恐らく最初のことであろう。 ■将士と枕を並べ痛まし・全身弾痕 【天津31日発・朝日特電】 28日南苑攻撃戦に壮烈な戦死を遂げた本社特派員岡部孫四郎氏の 当時の状況に就ては、南苑北平方面と天津との交通、 通信一切杜絶して詳報不明であったが31日午前10時同氏と 終始行動を共にした朝鮮新聞社外報部長小坂定雄氏が漸く南苑方面から帰り、 初めて岡部氏戦死の状況が次の如く齎らされた。 南苑攻撃は今次の事変中にあって稀に見る激戦で、 28日午前5時半飛行隊の爆撃に次いで川岸部隊は愈々総攻撃に移った。 岡部記者は第一線との間に再三往復して原稿を綴り、 特に写真撮影については第一線部隊の更に前線に出動して 皇軍の活躍をカメラに収めるべく活躍を続けたが、 南苑の第38師の防戦は頑強で、両軍の戦火の猛烈さは想像の外であった。 敵は二丈余の城壁と五尺余の塹壕によりて猛射を逞しうした。 岡部記者は更に正午川岸部隊嘱託写真班松尾幸助氏(42)とともに 敵弾雨飛の前線へ躍進した。敵の攻撃はいよいよ激しい。 我が砲兵隊は城壁の爆破を試み、 将士達は更に剣を抜いて城壁に突刺し刀の柄を梯子として城壁を登った。 岡部記者も銃丸叫ぶ第一線にカメラと鉛筆を両手に数枚の写真を写し終って 身を翻し、後方へ帰ろうとした刹那突然身体を投出すように打倒れた。 うつぶせに戦場に横たわった岡部記者はそのまま身動きもしなかった。 松尾氏も続いて打ち倒れた。 城壁上の支那軍から集中射撃を受けたその瞬間の出来事であった。 岡部記者は頭部盲貫銃創が致命傷で即死、 外に頭部腹部等にも数弾を浴びて居り、松尾嘱託も瀕死の重傷であった。 川岸部隊長の計らいで死体は直に収容されたが、 腰にした拳銃にしっかり手をかけている岡部記者の戦死には将士らも泣いた。 ■死の直前・血痕滴たる絶筆 【天津特電1日発】 南苑攻撃戦の最前線に従軍戦死した岡部本社特派員の遺稿は 黄村における戦記に次いで 実に28日正午南苑前線で認められた最後の一報を入手した。 同特派員が死の直前の手記、文字通り血痕滴る貴い絶筆である。 【南苑にて28日発】 川岸部隊は27日午後7時半行宮城壁に拠る29軍を撃退、 逃ぐるを追って一路南苑へと追詰め生残った兵士は 南苑29軍司令部に入ったが、 南苑の29軍は27日午後より出動準備なし、我に挑戦的態度を示した。 川岸部隊は南苑に在る一万の29軍を攻撃、徹底的に膺懲することとなり、 28日午前5時半より砲撃を加えて漸次29軍を兵舎付近に押込め、 午前10時を期して総攻撃に移ったが、敵は兵営前に陣地を構築頑強に抵抗、 目下猛烈な迫撃で砲声殷々敵陣地は我が命中弾のため黒煙をあげつつあり、 北平近郊の空を覆っているが、 今夕までに兵舎は壊滅するものと見られている。 正午までの我が死傷者は11名である。一つ一つ黙祷を捧げて行宮に急ぐ。 行宮高地は六十米に足らぬ高地が 幾つも連って自然の要塞をつくり上げている。 登ろうと近寄ったとき続けざまにひゅっと小銃弾が二度三度と重った。 今日は別に何の気もしない。 ここに登ると黄村へ約一キロの平原が一眼に見える。 敵はこの高地に陣取り盛んに機関銃を射って我に浴びせかけた。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 1937年(昭和12年)8月13日、~第二次上海事変~ 上海十五日(八月)発・読売特派員 田中幸利 上海における支那軍空爆、しかも米国製飛行機の編隊爆撃は、 日本軍、ならびに日本人が 生まれてはじめて受けた空襲の洗礼ていってもよいであろう。 そのうえ暴虐な支那飛行機は盲目滅法な爆撃をやって列強の憤慨を買った。 それに対し大鷲に向う隼の如きわが少数の艦載機は 入り乱れて壮烈な空中戦を展開し、みごとに敵機を射落した。 国際人の監視裡、颯爽として軍門にふさわしき血祭りである。 本社上海支局は敵弾雨飛する支局を上海日々新聞社に避難、 田中支局長はその屋上より14日の空中戦を親しく観戦した。 以下田中支局長の手記である。 14日払暁2時ごろより天地を揺がして轟き渡っていた全線の砲声が 夜明けとともに衰えたと思うと、 7時過ぎ、天の一角から遠雷のような爆音が聞えてきた 『それ! わが軍の出動だ!』 と興奮と不安の一夜を明かした全邦人は慌てて飛出した。 台風がはこぶ雨雲の間を縫って三機編隊の爆撃機だ。 それと認めて女や老人までが『うれしい、うれしい』と歓呼の声をあげた。 子供たちは雀躍して飛行機だ飛行機だと手に手に日の丸の旗をふった。 ああ上海は救われる、われわれ日本人は救われるんだ。 支那兵にいじめつけられていた憤懣がとけて喜びの色がサッと流れた。 編隊はますます機影をひろげてわれらの頭上をかすめた。 その瞬間陸戦隊本部方面に突如として砲声があった。 わが高射砲や高射機関銃が一斉に火蓋を切ったのだ。 あッ敵だ! あの飛行機は敵だ敵だと全邦人の安堵と喜びは忽ち恐怖と戦慄に変わり、 土嚢の影のわが兵は一斉に銃口を空に向け、 民家の上に散在する機関銃隊も一斉に火蓋を切った。 だが雨雲低く垂れた悪天候は却って敵に幸いした。 密雲を破って急降下して来ては爆弾を投下、 忽ち急角度で上昇して雲中に逃げ込んでしまうのだ。 わが高射砲隊が一斉猛射を浴びせる時には すでに敵機は密雲の中に姿を消してしまっている。 密雲の中の姿なき爆音を追いながら照準を定めるのだが、 これでは如何に精鋭なるわが高射砲隊たりとも 如何ともなしがたいではないか! 高射砲の弾丸は空中に空しく炸裂点々たる黒煙を天に印するのみである。 記者はこの光景を仰ぎながら切歯扼腕上海日々新聞社の屋上に かくれることさえ忘れてしまって空を仰いでいた。 高射砲隊の無念思うべしである。 かくて敵機はわが方の執拗なる一斉砲撃を嘲笑するように 東の空に現れるかと思えば北の空にかくれる。 折からの雨雲を天然の煙幕と心得て大胆不敵な活躍をしている。 どうにもならぬ焦燥のるつぼにたのもしい爆音が聞え始めた。 わが○○及び○○の艦載機二機がたまりかねて急遽舞い上ったのだ。 万歳! だがもう敵機は影もなくわが二機は無念の歯ぎしりをなしつつ虹橋飛行場、 北停車場等を爆撃引返して来た。 まさに空襲は突如としてなされ瞬間にして終るものだ。 これが恐らく日本軍として日本人として 敵機の空襲を受けた最初の戦慄すべき経験であったろう。 だが敵機の空襲はこれが終りではなかった。 数分、数時間後にはさらにその数を増し或は五機、 或は十二機の大編隊で相次いで現れた。 何れもマーチンやノースロップの優秀なアメリカ製爆撃機だ。 爆音と高射砲の響きと機関銃の唸りと・・天地はために覆えらんばかり、 ああ天佑にも雲は次第に高くなって来た。 敵機はわが方を爆撃するためには 終始わが高射砲の銃口に姿を曝さなければならぬ。 おお、わが高射砲の威力、 疾風の如き敵機を追って弾丸は夕闇の空に火箭となって敵機に迫るのだ。 地上から天に向って数十条の火の柱がサッと立つ、 打上花火の如き火箭がパッと天に伸び敵機追ってツツツツツと伸びてゆく。 この猛射に血迷ったか敵機は算を乱し、 中一機は左翼に弾丸を受けたらしく危うく傾きながら急角度に上昇、 雲の中に姿を消した。 雨の如き弾丸投下だが、もう勝運はない、 浦東に落ちてアジア石油タンクが大爆音を上げて燃える。 カセイ・ホテル前に落下して七十余名の群衆を沖天に噴き上げ、 焔の玉となった自動車が五十メートル余を噴き飛ばされた。 そこに舞い上がったわが○○航空隊長宮田大尉、 山崎二等航空水兵の○○艦載機が隼の如く旋回、 群る敵機の中、四機編隊に向って猛然挑みかかった。 思いがけぬこの奇襲に面喰った敵は算を乱して西方に逃げようとする。 逃さじと追う宮田機、敵の機尾二百メートルまで接近して渾身の追撃だ。 国際都市上海の上空における壮烈果敢な大追撃戦だ。 追うもの、追われるもの疾風の如き全速力。 これがさらに機首を転じて北停車場西方遥か曇天ながら ほの明るい西の空に差しかかったと見るや宮田機は敵機に漸く追い縋り ここに五機入り乱れての大乱戦となった。 五つの黒点が卍巴と中天に乱飛する。 記者等は双眼鏡で眺めていてさえ血沸き肉踊って膝頭がブルブルと慄る。 やがて一機は煙を上げて落ちた、続いて落ちてゆく一機は敵か味方か? われ等一同は抱き合って思わず『敵か味方か』と叫び合った。 後で聞けば宮田機は二機は見失ったが、 二機を射ち落して見事凱旋したという。 宮田機に追跡された敵機は積んでいた爆弾二個を機体を軽くするため 振り落したそうだが、その爆弾二個が上海の歓楽街の中心、 大世界に落下して約二百名の支那人群衆を噴き上げ 付近二丁四方に亘って鮮血の海と化したのである。 戦慄の空襲に明け壮烈な空中戦に暮れたこの日、記者の興奮なおさめやらず、 夜に入って再び開始された地上部隊の乱射乱撃の砲声に打ち震う窓辺に 灯火管制のため一本の線香を立てかすかな光の下にこの手記を綴る。 ★【上海14日(8月)発同盟】 長谷川第三艦隊司令長官は本日午後次の重大声明を発表した。 支那軍隊の挑戦的攻撃をうけたる我が第三艦隊は 自衛のため必要とする処置を執るの已むなきに至れり、 仍って支那軍隊の占拠する地域及びその軍用施設付近にある一般住民は 直ちに右以外の適当なる地に転居せんことを勧告す。 昭和12年8月14日 長谷川第三艦隊司令長官 【上海15日発同盟】 (海軍武官室午後6時半発表) (一)15日午前10時わが海上航空部隊は銀翼数十機を連ね杭州を空襲、 壮絶なる空中戦を演じ敵の戦闘機約十機を撃破し地上飛行機全部を撃破せり。 (一)正午ごろ海軍○○空襲部隊は猛烈なる悪天候を冒し 暴風雨中の南昌を空襲し重爆弾数十個を投下、 折柄地上に待機中の敵機数十機を撃破、何れも無事帰還せり。 (一)午後わが海軍○○空襲部隊は敵の首都南京の飛行場を空襲し多大の損害 を与えた。敵は無電台を通じてSOSを発し各地に応援を求めていたが、 情報によれば蒋介石は周章狼狽し首脳部と謀議中と伝えらる。 なおわが飛行機は全部帰還 (東日15日号外) ■首都南京を震撼し大空中戦展開 【上海15日発同盟】 15日午後荒天の支那海を翔破し来った海軍航空隊により敢行された 南京飛行場襲撃は壮絶を極めたもので、雲低く垂れた南京上空に爆音勇しく 銀翼を連ねた海軍機が紫金山をかすめて現れた時は、南京全市を震撼せしめ、 市内外に装置された高射砲、高射機関銃は一斉に火蓋を切られ、 轟々たる砲声は我飛行機より投下する爆弾炸裂の轟音と相俟って 首都南京の天地に轟き渡った。 我空襲隊は約1400メートルの高度を保ちつつ 見事に機翼を連ねて前後3回に亘り故宮飛行場、 光華門外軍用飛行場格納庫及び多数の飛行機を完全に爆破し、 数機は家屋の屋根をすれすれに低空飛行を敢行したとのことである。 かくて応援にかけつけた支那軍飛行機約10台と壮烈な空中戦を演じ、 その大半を墜落せしめた後、悠々長距離を翔破、 我海軍空軍の偉力を思う存分発揮して無事根拠地に帰還。 我戦史上空前の貴重な記録を印した。 ■空襲下の旗艦に司令長官と語る 【上海17日発・朝日特派員 西島芳二】 記者(西島特派員)は海軍従軍記者として特に海軍当局の許可を得、 第三艦隊の麾下に従軍することとなり、17日午前5時に到着した。 この日は曇天時々横殴りの風に雨を加え陰鬱な光景を呈している。 案ぜられた呉淞砲台附近は17日午前2時全部消灯厳戒裡に通過したが、 幸い機関銃、小銃五六十発の洗礼を受けただけで済んだ。 時々陸戦隊のぶっ放す殷々たる砲声の合間に我が飛行機が飛来し 無気味な重苦しい空気の漂う中に物見高い支那人達は ガーデン・ブリッジの上から共同租界の英米始め各国大使館、 銀行等の前に群り集まって、我が軍艦の動静を窺っている。 記者は早速旗艦○○に事変勃発以来中南支の帝国居留民保護のために 日夜辛苦を重ねつつあり、今又第二上海事変の帝国海軍の全責任を担い 奮闘しつつある長谷川司令長官を訪問した。 司令長官は日頃と変らぬ温容の中に月余の苦悩を 漂わせつつも記者を快く○○のサロンへ招じ入れた。 ●記者 長官のご心労は察するに余りあります。 さぞ支那軍の執拗な不法行為に我慢に我慢させられたことでしょうね。 ◆長官 今度の事件は全然支那側の挑発に依ったものである。 自分は飽迄帝国の不拡大方針を堅持しようとし陸戦隊と小競合いを やってもなるたけ穏便に済ませようと考えていた。 然し陸戦隊本部や海軍武官室の上に爆弾を投下するに至っては、 断じて我慢が出来ない。 ●記者 16日あたり支那軍の空爆は相当猛烈で○○なんか真先に狙われたそうですね。 ◆長官 14、15両日は丁度支那側に取ってはもっけの台風のため我方の飛行機が 待機している間にやって来た。奴には癪にさわったよ、 16日なんかも○○の側から30米のところへ一直線に落して行った。 ○○は今迄合計12発の爆弾を受けたがまだ1発も中らない。 支那の飛行士の手腕なんか知れたものだが、 密雲の中を潜るようにして飛んで来るのを見ると、 搭乗者はどうも支那人だけじゃないような気がする。 ●記者 今度は支那も中々油断が出来ないようですね。 ◆長官 前の上海事変で苦い経験を舐めているだけ、中々周到に準備しているようだ。 飛行機なんかもぶっ潰す後から後から他に根拠地を拵えてやって来るらしい。 毎日敵がやって来るので片っ端から落してやっている。 ●記者 上海は北支と違って随分やり難いらしいですね。 ◆長官 それはそうだ、陸戦隊が苦しんでいるのもそこに原因がある。 共同租界と地続きが直ぐ敵の陣となっている。 夜なんかも外国の軍艦は煌々と燈火をつけている。 昨夜もその軍艦の背後に隠れ高速度のランチに魚形水雷を載せて走って来た、 幸いに被害はなかったが中々手に負えない。 最もやり難い戦いだから将兵共に辛苦を舐めている。 我が陸戦隊は勇敢であるし、 帝国政府も愈々本腰を入れてかかるようだから、万間違いはあるまい。 国民諸君もよくこの上海事変の性質を知って応援して欲しい。 かく長官が語り終るや否やバリバリと物凄い機銃○○砲の音が 我等の頭上に轟き、慣れない記者が慌てて立上がると 『何時も今頃やってくるのだ』 と長官はきっとして上空を睨み上げたまま口をつぐんだ。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『各社特派員決死の筆陣「支那事変戦史」』昭和13年12月7日発刊 より引用 1937年(昭和12年)11~12月上旬、~南京戦 ■虹橋飛行場にて11月(昭和12年)9日 【朝日、平松、中村特派員】 恨みの虹橋飛行場 大山大尉、斉藤三等兵曹が無念の最後を遂げた虹橋飛行場は遂に我軍の手に 帰した。奇しくも大山大尉遭難の日、月はかわれど日は同じである。 大尉らの命日だ。 記者等はこの虹橋飛行場が陥落した直後、今度の上海戦争の実に発火点 となったこの大山大尉事件の現場を見、そうして両勇士の霊を慰めた。 太い丸太棒と鉄条網から出来たバリケードが 虹橋飛行場正面の広場一杯を埋めて居る。 正門前に野菜白米その他いろいろな食糧が所嫌わず散乱し トラックが一台横倒しに倒れ黄包車も転がり 書類、衣類が鮮血に染って凄惨な情景を見せている。 記者等は暫く狼藉たる門前を徘徊して 先ず大山大尉戦死の地を探し求めてその霊を弔う。 あの頃は青葉で182号と書いた幌型の陸戦隊自動車が 豆畑に頭を突込んで車体には蜂の巣のような弾痕、運転台は真赤な血の海、 その傍に大山大尉が刃の跡も 残虐を極め仰向けになって無残な最期を遂げていた。 この眼で見た大山大尉憤死の場所、どうして忘れることができよう―― 日章旗の翻る飛行場区面を 400メートル彼方に眺めながら大山大尉最後の場所に立ったのだ。 記者等は思わず帽子をとって暫し黙祷した、それから飛行場正面に入って 脇坂部隊長を訪れると正門上の狭い部隊長の室には○○○が奉置されてあり、 その横の壁に「謹弔大山海軍大尉の英霊」と大書してある。 記者等は大山大尉等の英霊を弔ってから軍用飛行場として 敵が一歩たりとも外来者の出入を許さなかった飛行場に行く、 ここは上海戦争が始まるとわが飛行隊の活躍に先立って 敵が租界爆撃を敢行したその重要な根拠地でもあったのだ。 記者等の姿を見つけたのかヒューンと執拗い狙撃の弾丸が流れる。 格納庫の間には緑色に塗った高さ5メートル長さ20メートル位の 小屋掛みたいな大きな荷物が数個置いてある。 小屋掛を覗いてみるとまだ真新しい飛行機材がギッシリと入って居た、 敵は新輸入の飛行機を組立てる暇もなく逃走したのだろう、 このグリーン色の大箱の横には白ペンキで『上海向け』と太々と英語で書かれ 「ロベルト」製造会社名が書いてあった。 そう云えば次の格納庫付近には 4、5メートル立方の厳重なる箱が10個程並べてあったのだ、 これを見ると「デトロイト・サイクロン・モデル・アヴィエーション ・エンジン・メード・イン・ユー・エス・エー」としてあった、発動機だ、 これもまだ一つも手を着けていなかったのだ。 ■江橋鎮にて11月10日 【報知、脇山特派員】 蘇州河戦線の進捗に伴い南翔の陥落は目前に迫った。 即ち敵の要衝江橋鎮を陥れた和知、浅間、安達の各部隊は 破竹の勢いで大挙追撃戦に移り、浅間部隊が9日夜屍の山を築いて 南横瀝クリークの壮烈な敵前渡河を敢行したのを手始めに、 和知部隊は10日未明に江橋鎮前方の頑敵掃討、 江橋鎮一番乗の恒岡部隊が龍家巷の線に進出したのを先頭に 午前10時までに阪口部隊は仁家橋、 小野部隊は張家宅の線に勇躍進出、あと二千メートルに迫る。 南翔を指呼の間に見て一同の士気とみに揚がっている。 飛行機戦車も参加し空陸呼応しての大追撃戦となった。 江橋鎮を失える敵には最早戦意なく、 10日午前4時先ず我を悩ました敵砲兵が退却を開始するや、 敵の大軍はなだれを打って太倉方面へ潰走した。 今夕までには南翔は陥落の運命にある。 南市・南翔完全に占領 【上海東日大毎特電12日発】 南市の敵は左翼分子の小児病的指導に マドリッドの如く守れと煽動されてなお抵抗するので、 我軍は空軍と共に敢然猛撃を浴せ遂に12日早暁城内を占領掃討中である。 支那軍は常套手段により各所に放火したため、火災は各所に起っている。 住民は上海四周の支那軍の敗退により平和裡に南市の明渡しを希望していた にも拘らずこの混乱を招来したので、 南市死守を豪語した支那軍と警察局長蔡勁軍は全く怨府となっている これにより大上海の敵は消滅したが、この指導に力を注いだ抗日共産分子の 多くは租界に遁入したものの漸次租界内の取締が 厳重となるにつれ脅威を感じている。 一方全戦局は日本軍に続々有利に進展し北方にては京滬線の南翔駅を陥れ 次いで南翔鎮も12日早朝我が手に帰するに至った。 西南方面では杭州上陸は長駆青浦を陥れ 更にその北方に進出澱山湖畔に達した模様である。 かくて羅店北方揚子江岸より滬杭甬鉄道嘉善付近まで 蜿蜒50哩に亙る一帯は皇軍の支配下に入った。 ★南翔にて11月12日 【朝日、園田特派員】 かつては前敵総司令陳誠が駐在し江南戦線を 指揮した敵の中央根拠地南翔は12日完全に我が手に帰した。 記者は和知、浅間両部隊の奮戦地である約8キロ余の新戦場を辿り 占領直後南翔駅から鎮内に一番乗りした。 つい先程まで前方で物凄い銃砲声が盛んに起っていたのにぴたりと止んだ、 丁度南翔の南方4キロ余の地点姚家屯の部落に差し掛かった時だ。 この一帯が敵の最後の陣地で頑丈な掩蓋壕と戦車の進行を防ぐ 幅一間余の戦車壕が3キロ余に亙って掘られてある、 それから進むともう陣地らしい陣地はない、この最後の線を抜かれてから 敵は周章し其處此處に敵が陣地を築き掛けているが 我軍の追撃が急なため壕も半分堀り掛けて潰走している有様で 如何に両部隊の追撃が激しかったかが窺われる。 戦いが終ったというので避難していたこの付近の農民は 「支那兵は恐ろしいが日本兵は無茶をしない」と三々五々打ち連れ 早くも我家に帰って来て進軍する我が将士を道端に土下座をして 迎えていたが、中には住家を支那兵のために焼かれたり壊されたりして 大声をあげ号泣しているものもあったのは哀れであった。 駅から南翔の市街までは石畳のモダンな並木道路が約100メートル、 南翔の市街は北南2キロ、 その中央より稍北寄りに東西両方に街が伸び飛行機型をなしている。 人口は約5万といわれているところ、 十字型に流れているクリークの橋は悉く支那兵によって破壊されている。 北南のクリークに沿って鎮内を進めば爆撃と砲撃で 町並の家屋が潰され支那人の姿は一人もない、 目抜きの商店街に入れば足の踏場もないほどの乱雑さ、 支那兵が敗走する行きがけの駄賃に手当り次第に掠奪して行ったのだろう、 鎮内はまだ敗残兵が潜伏しているというので我兵が掃蕩に努めていたが 天井や竈の中に潜んでいる敵兵が続々と発見されていた。 鎮内には敵の陣地らしいものは全くないが 一歩東方の街道に踏出すとこれが所謂南翔陣地で、 幅20メートル余のクリークに鉄条網をズラリと張りめぐらし 小南翔までの間は塹壕が三重四重と続いている、文字通り難攻の堅塁である。 ■惨憺たる嘉善激戦のあと 嘉善にて11月18日 【朝日、兒玉特派員】 嘉善も、浙江の大平野を潮の如く西へ西へと進撃する 我が快速○○部隊の前には一たまりもなく呑まれてしまった。 諸所爆撃と砲撃に破壊された高い城壁に翩翻と翻る日章旗、 記者は16日朝初めて嘉善に入った。 見よ北門を中心に一線、二線、ずらりと並んだトーチカの放列だ、 これに蜿蜒たるジグザグ型の散兵壕だ。 壕の中は支那兵の死体で埋まるばかり、 腰に吊るした黄色いエナメル塗りの手榴弾を握ったまま倒れている兵、 投げようとした刹那我が銃弾にやられたらしい。 坐ったようにうつむいている20歳前後の若い支那兵の姿だ。 城内は、寂とした廃墟である街の中央に 十文字に交叉する大きなクリークの岸に舟が繋がれて、 例の鼠色の支那兵の外套、水筒、 それに小銃が三挺も水の中に銃身を光らせている。 周章狼狽潰走した敵の慌て方が眼に見えるようだ。 このクリークに沿った敵52師の大兵営は我が空爆に惨憺たる有様、 丁度長方形のボール紙の模型建物を 滅茶々々にナイフで突刺し斬りつけたようだ。 コンクリートの壁には「抗日愛国献金」のポスターや 例によって威勢のよい抗日伝単のべた貼りだ。 ベッタリつけた一塊の飯粒がまだ乾ききれず 少しやわらかな感覚で残っている。 一軒一軒敗残兵を探す片岡部隊の兵隊さん達と一緒に 何日か前には嘉善城内屈指の繁華街であっただろう街頭の大きな三階の 部屋家に入ると屋内は玩具箱をひっくり返したようなごちゃごちゃの惨状、 支那兵特有の掠奪のあとだ。 箪笥の抽斗、竹籠、針箱、破れた蒲団などありと あらゆるもので足の踏み場もない。 古びた紫檀のテーブルがこわれ、編みかけた生糸のチョッキが半分ほどけて 壊れた白粉箱が口紅と一緒に寝台の上に散乱している。 額入りの写真に白い洋装25、6歳の支那婦人がラケットを抱いて笑い、 民国26年9月4日李秋蓮恵存とある。 窓の鎧戸をあけると城壁の彼方一碧果てなき大平原は黄金の稲の波である。 【上海大毎東日特電13日発】 上海軍司令部13日午後4時発表。 12日来南翔東北を経て北進中の飯塚、津田、谷川、福井等の各部隊は 相次いで馬陸鎮及びその南北における敵陣地の抵抗を撃破しつつ急迫し、 13日朝来嘉定城を猛襲午前11時に至り完全にこれを占領、 城頭高く日章旗を翻し更に敗退する敵を北方に圧迫しつつあり。 ■常熟にて11月20日、東日・大毎 【浅海特派員】 敗戦支那軍が最後と頼む堅城の一つ常熟は19日遂に陥落した。 13日揚子江岸に敵前上陸して以来辛苦を重ねた○○部隊の努力は ついに報いられたのだ。 19日未明両3日来の雨で水は膝を没する塹壕から 起ち上った各部隊は一斉に進撃に移った、 蜿蜒(えんえん)十余キロにわたる常熟包囲陣の総攻撃だ。 耳を裂けんばかりの銃砲声の中に佐藤、高橋、永津の各部隊は 常熟東北方から背後、名山虞山めざして突撃、逃げ惑う敵を猛追撃、 息もつがせず常熟城の北角をかすめて 虞山の山麓に駆け上り輝く日章旗を揚げた。 続いて血みどろの○砲の引揚げが敢行され雨の中に燃える常熟城に向って 痛快極まりなき釣瓶撃ちに城内の支那軍は右往左往の大混乱に陥り、 各所に火災さえ起って、さしもの名城も断末魔の喘ぎにのたうち廻るようだ。 見れば城壁の西方には友軍○○部隊の勇士等が 日章旗を翻して雲霞のように押寄せている。 後方からの砲兵の掩護射撃はここから見れば百発百中、 支那最後の抵抗線は虱潰しに破壊され、 ○○部隊の第一線は潮の充ち渡るように前進また前進して行く。 午前7時半早くも城壁東隅には第一の日章旗が立てられ、 つづいて第二第三の日章旗が城内深く突入するのが見える。 わが○○部隊の勇士等は一本の日章旗を見る毎に万歳の絶叫だ。 見れば城の南側は混城湖、虞山の西方には尚湖が朝靄の中に煙る。 常熟城は炎の中に全くわが軍の手中に納められ、 山上からも城内からも万歳の嵐が天地をゆるがすのであった。 ■蘇州城遂に皇軍の手に 【上海東日大毎特電11月20日発】 わが軍は19日午前7時遂に蘇州城を占拠した。 【蘇州20日発同盟】 記者は蘇州進撃の先頭部隊の富士井部隊に従軍し、 19日朝まだき秋雨をついて蘇州一番乗りを試みた。 富士井部隊は18日有力なる敵軍約1000の蟠居する孫家濱を占領後 同夜10時ごろより進撃を開始、 所在の敵を蹴散らして19日未明先頭部隊は蘇州城外東側に入城した。 連日の霖雨に雲低くたれこめ城内報恩寺の高塔は 雨煙のうちに模糊としてしまった。 城内の敵は第15、第53の両師等約4万、 わが軍の進撃に一たまりもなく算を乱して西方無錫方面に遁走し、 かくて19日午前6時半、 岩隈、菅原両部隊は轡を並べて北西より堂々入城した。 城内に逃げ惑う敗残兵は何れも戦意なく捕虜となるもの約2000、 城内は隈なく掃蕩された。 約500人に上る残住民は戸毎に日章旗を掲げて皇軍の入城を歓迎した。 続いて午前10時20分富士井部隊長は北門より入城、 ここで全隊員万歳を三唱して入城式を挙行した。 帝国領事館、報恩寺その他各所に掲揚された日章旗は翩翻として 翻り万歳の声が天地も裂けよとばかりに江南の天地を圧した。 並いる将兵の目には一様に涙が光、記者等も思わず目頭があつくなった。 万歳の声も震え、この感激、 かくて蘇州は遂にわが軍の手中に帰したのである。 なお富士井部隊に続いて下枝、脇坂両部隊も入城した。 ■九重塔上翻る日章旗 【蘇州にて11月20日、報知、田口特派員】 皇軍が蘇州に入城した第一夜は楓橋夜泊の詩で有名な月も落ちて、 春秋の昔から幾千年消えることなき江楓の漁火もこの夜は絶え、 蘇、杭と並び称せられた天下の景も愁眠に閉されてしまったが、 我軍は天下の古都を戦乱の巷に化したくないとの希望から、 僅か街の軍事的施設を空爆したにすぎず、 住民も安堵して皇軍の入城を歓迎した。 この歓迎群の中にすきとおるような肌の蘇州美人の姿も見え、 酒屋は早くも自慢の老酒をサービスするなど、和やかな風景を示した。 我兵が入城して一番喜んだのは底まで澄み透ったクリークの水だ。 泥まみれの顔を洗った兵の中には内地でも田舎へ行かねば こんな綺麗な水はないとばかり真っ裸になって水中に飛込み、 戦塵を拭い落す者もある。 眼を上げれば眉に迫る報恩寺の九重塔が 冬を伴ったりん雨にしとしととぬれて、 頂きにはお! へんぽんと翻る日章旗、 伍子胥が築城したという四十五支里四方、高さ二十八尺、幅十八尺の 大城壁は幾度か兵変の洗礼を受けたが、 ここに日章旗を仰ぎ見るのはこれが初めてだ。 城外日本人街を行進した我が部隊は桜の並木をすかして 塔に翻る日章旗を眺め思わず皇軍万歳を三唱したのであった。 中山門城壁(上)、中華門(中)、光華門(左下) ![]() ■無錫戦線に散る二記者 【上海朝日特電11月25日発】 堅塁を誇った無錫が遂に安達部隊及びその他によって完全に占領された。 25日、第一線に従軍して皇軍の壮烈なる進撃状況を フィルムに収めていた本社映画班前田恒特派員(30)は、 同日午前11時半敵弾を受けて壮烈な戦死を遂げ、 江南戦線における報道陣の花と散った。 前田特派員の戦死と殆ど同時に 読売新聞特派員渡邊峰雄氏(28)も同地で戦死した。 ■脇坂部隊決死の突入 【南京城外にて朝日前線通信本部10日発】 9日午前5時半早くも南京城光華門前面に迫り城壁間近に到達した脇坂部隊は、 爾来36時間城壁上から猛射を浴せる敵軍最後の抵抗に対し 凄壮極まりなき迫撃戦を続けていたが10日午後5時決死的爆破が功を奏し 光華門の一部は破壊されたので時を移さず突入、 同5時20分城壁高く日章旗を翻した。 折柄西に沈む夕陽を浴びて我が一番乗の勇士が力の限り 左右に打ち振る日章旗は敵首都南京陥落を力強く意義づけ、 これを眺める吾等は感激の涙を禁じ得なかった。 敵はこの城壁を首都防衛の最後の線と恃み9日朝我が軍が城壁下に達するや 続々精鋭を繰り出し分秒の隙もなく機銃を以て撃ちまくり 明故宮飛行場その他城内の砲兵陣地からは 重砲や迫撃砲を釣瓶撃ちにして我軍を悩ました。 我軍は敵のかかる死にもの狂いの抵抗を予期し将士は決死の意気鋭く 背嚢をかなぐり捨て唯生の甘藷と弾丸を腰につけて敵と対抗、 猛烈な機関銃戦を演じた。 敵弾雨霰と降り注ぐため最前線と後方とは全く連絡を断たれ、弾薬、糧食の 供給は全然不可能になったが、全将兵は城壁の下から一歩も退かなかった。 かくて朝来薄曇りの空を衝いて飛来する我が空軍の南京城内爆撃と 芹澤部隊の砲撃により城内の一廓が崩れ、敵膽を寒からしめたのである。 光華門は鉄扉を以て固く閉ざされその上土嚢を積んで 厳重に固められているので我砲弾を幾ら受けてもびくともしなかった。 午後5時我が決死隊は敵弾雨飛の中を潜って城門口突入爆薬に点火するや 轟然たる爆音と共に門の一角に穴が開いた。 それッと貴志大尉の一隊、続いて葛野中尉の一隊が城門に突入し 5時20分土嚢伝いによじ登り日章旗を高らかに掲げた。 城頭高く揚る万歳のどよめきこれと相呼応して 脇坂部隊の全将士の万歳の声は四辺に谺して南京城を圧し 直ちに機銃を城壁上に据え城内の敵兵掃討を開始し激戦中である。 南京中華門爆破の瞬間 ![]() ■残骸の敵首都を行く 【南京にて12月14日、朝日、横田特派員】 中山門の内外総ての兵士達はもう嬉しさが過ぎて泣いてしまっている。 戦いに疲れ切って城門の横に眠っている勇士さえ 閉じた眼に一杯涙を溜めて泣いている。 その中山門の花形役者青木隊長が頭一杯に包帯巻いて、 「無錫からここまで一睡もしません、城門を占領した瞬間、 張りつめた力が抜けてヒョロヒョロと立ったまま眠りこけてしまいました」 と述懐したのであった。 城門左側の城壁一帯は我が巨砲に撃たれてまるで 先住居族の住家のように大きな穴が開いている。 この城門前一町ばかりのところには我が戦車を防ぐための物凄い戦車壕が 大道路一直線に横切り、城門は煉瓦と土嚢が城壁と同じ高さに積上げられ、 爆破以外にはこれを開く方法なく如何に敵の防禦が 物凄かったかを如実に物語っている。 城外の遺族学校は蒋介石麾下の軍人の遺族を集めて、 特殊の教育を誇った美齢夫人を校長とする学校だが、 ここも総て皇軍の日向ぼっこの場所となって、 教室に掲げた「徹底抗日」の四字が恥しそうに消えかかっている。 城門の一部では部隊長が部下を集めて 「ここは敵の首都南京だ、 お前たちは天晴れ皇軍たる規律を厳守して寸毫も犯してはならない」 と堂々と大和武士の本領を説き聞かせていた。 城門をよじ登って一歩中山門に入れば、堂々24間道路が東西に一直線に貫き 明の故宮の美しい緑色の屋根と赤い柱とが昔日の面影をそのまま映し、 所謂新生活運動の本城たるその隣の励志社が朝霧の中に低くうなだれている。 中山門が開かれ一同万歳の声と共に戦車を先頭に大野部隊を主力として、 どっと大南京市に部隊が進入したのは13日午後3時であった。 それから敗残兵掃討が開始された。 暖かい程の戦勝日和「国威宣揚」と書いた日章旗が 市の東方の東京の永田町ともいうべき政治区を意気揚々と進んで行く。 中山門から向って左側の故宮飛行場に入れば、 ここは中国民間の全国第一の飛行場で欧亜航空公司、 中国航空公司の待合所がしょんぼりと孤影を大地に投げ、 格納庫の中にはまだ新しいユニヴァーサル二機と小型一機とが潜み、 わが爆撃のため、ところどころに大穴をあけられた飛行場の片隅には 敵機一機が見苦しい残骸を曝している。 突如その付近の一棟から毛布を背負った 敵の正規兵2、3名が現れたが巧みに敬遠した。 窓ガラスの割れた中央監察委員会の絢爛たる支那建築を見過ごして 抗日支那の本拠中央軍官学校の前道路を入ると 前方に土嚢を築いた陰からこれも突如敗兵の射撃だ。 蒋介石の居室をのぞき見て慌てて退散、 広大な近代式の中央医院の前にも土嚢中から銃眼が鋭く覗いている。 建築委員会の建物の中は敵の兵舎と化し去って水筒二つが残り、 火が燻っているところを見ると、敵はほんの今し方逃げたらしい。 【南京にて12月17日 朝日 今井特派員】 嗚呼感激のこの日、同胞一億の唱和も響け、 今日南京城頭高く揚がる万歳の轟きは 世紀の驚異と歓喜茲に爆発する雄渾壮麗な大入城式である。 この軍中支に聖戦の兵を進めて4ヶ月、 輝く戦果に敵首都を攻略して全支を制圧し、 東亜和平の基礎茲に定まって国民政府楼上に 翩翻と翻る大日章旗を眺めては誰か感激の涙なきものがあろうか、 荘厳勇壮を極めるこの大入城式を目のあたりに 実況を故国に伝える記者の筆も感激と興奮に震える。 南京は日本晴れ、この日紺碧の空澄み渡って雲一つ浮ばず 銃火茲に収まって新戦場に平和の曙光満ち渡る。 中山門、光華門、通済門、中華門、和平門、太平門、 日の丸の旗波打つこれら輝く各城門から 午前早くも光輝燦然たる日章旗を捧持して、 南京総攻撃参加の各部隊続々入城、 中山門より国民政府に到る三キロのメーンストリート中山路の沿道に 堵列の将兵は征衣に積もる戦塵を払って意気軒昂。 見渡せば道の北側に上海派遣軍、南側に杭州湾上陸部隊、 血と汗に汚れた戦闘帽に輝く両頬は今日 この一瞬の歓喜に満ち満ちて日焦した満面が感激に燃えている。 午後1時全部隊集結完了した。 畏くも金枝玉葉の御身を以て親しく南京攻略戦に御従軍遊ばされた 朝香宮殿下の召された御自動車が中山門に到着した。 続く車は杭州湾上陸の○○部隊長、 そして中山門に感激の瞳を輝かせつつ下り立ったのは 上海戦の労苦を双頬に刻んだ軍司令官松井石根大将である。 午後1時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り○○部隊長、 各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。 東方紫の峰を横たえる紫金山の中腹にこの盛典を見守る中山陵、 ああ、この日! この時! 新支那建設の父、孫文はその陵下に在って如何なる感慨があるであろうか。 恐らくは抗日支那の末路をわが将士とともに哀れんで居るであろう。 此時下関に上陸した支那方面艦隊司令長官長谷川中将は、 各幕僚を随えてこれに加わる。 午後2時国民政府正門のセンター・ポール高く大日章旗が掲揚された。 翩翻と全東洋の風をはらんではたはたと靡く日の丸の美しさ、 嚠喨たる海軍軍楽隊の「君が代」が奏でられ始めた。 空に囂々たる爆音を響かせて翼を連ねる陸海軍航空隊の大編隊・・・・・ 挙げる祝杯は畏くも将士を労わせ給う恩賜の日本酒立食の大卓に 並べられた饗宴は、烏賊、かち栗、昆布の戦捷を祝う品々だ、 肝に銘じしみ渡る美酒の味! 再び繰返される聖寿万歳の轟きだ。 恐らくはこの一瞬祖国日本に一億の同胞が 挙げる万歳もこの歓喜をともにするであろう・・・・ ■松井軍司令官重大声明 【南京読売特電18日発】 17日威風堂々南京入城式を挙げ続いて18日陣没将兵慰霊祭を主祭した わが松井上海方面軍最高指揮官は、 同日午後4時南京入城の第一声として特に司令官談を発表し、 南京陥落後に処する毅然たる皇軍の態度を表明するとともに 重ねて国民政府及び支那朝野の反省を求むるため恩威両立、 情理兼ね具えた左の如き重大声明を発表した。 わが軍は南京を占領し17日を以て晴れの入城式を行い 18日慰霊祭を執行したので、 直ちに今後の作戦に即応すべく新たなる体勢に移り、 その一部を以て直ちに江北地方に、 また他の一部を以て浙江、安徽地方に向わしめ連続作戦を行いつつある。 併しながら軍全般としては上陸以来4ヵ月に亙り間断なき湖会戦に 引続き追撃に移った為相当疲労しているので、若干の休憩を必要とするから、 この間において新たに軍備を整備し、その作戦地方における警備、 人民の宣撫を図りつつ再度の作戦を準備する筈である。 而して今後の軍の作戦如何は実に蒋介石 並びに国民政府の態度如何にかかるもので、 今直ちにこれをいうことは出来ぬが、 惟うに江南地方軍民は過去の戦闘により少なからず脅威を受けたものと思う。 また自然これにより国民政府に真の反省の機会を与えたと信ずる。 自分はもともと今次の出征により 支那軍民の蒙った甚大なる損失に対して寧ろ同情に堪えない。 随って国民政府をして速やかに反省せしめ 支那軍民をして真に皇軍に頼るべく親しむことを 悟る日の一日も速やかに来ることを願うものであるが、 国民政府にしてなお反省するところがなかったならば、 遺憾ながら当然の任務上国民政府が漸次承服する時期の 来るまで軍を進めなければならぬ。 時将に寒気に向い年末も迫っている。 自然軍としては一面には支那軍民の反省を促すため、 一面には軍の正義のため暫く支那軍に反省の時日を貸そうと思う。 本日はわが軍陣没将兵を弔って感慨深いものがある、 しかしながらこれら陣没将兵に対する惻隠の情は 独り日本将兵に対するのみに止まらず東洋の現勢に盲目にして かくの如き事態に立ち至らしめた国民政府に虐使せられた 不幸なる支那軍陣没将兵に対しても同様である。 殊にこれら戦争に禍いせられたる幾百万の 江浙地方無辜の人民の損害に対し一層の同情の念にたえぬ。 今や旭旗南京城内に翻る皇道江南の地に輝き東亜復興の曙光将に来らんとす。 この祭に当たり特に支那四億万蒼生に対し反省を期待するものである。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『世界画報』日支大事変号 第6輯(集)第14巻 第2号 掲載の地図 ![]() |
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