●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1868年、朝鮮が国交樹立拒否。1873年、征韓論。1876年、江華島条約へ。
日本と朝鮮の関係は豊臣秀吉の朝鮮出兵後に断絶したが、 慶長12年(1607)に徳川家康が国交を回復し、 以降、幕府の将軍の代替わり時などに 朝鮮が日本に通信使を送ってくるようになっていた。 明治元年(1868)、明治維新後の政府は諸外国に日本の新政府樹立を通告した。 朝鮮には、朝鮮との窓口だった対馬の宗氏を通して、 朝鮮と修好したいと伝えたが、朝鮮はそれを拒否した。 その理由としていくつかあげたが、 ひとつには朝鮮に提出した国書の中に清の皇帝と対等であることを示す 「皇」「勅」「朝廷」という文字があったというのである。 これらの文字は支那の王朝だけが使うもので、 支那の属国である朝鮮にとっては そういう文字を日本ごときが使うのは許せないとうことだった。 また、書式や判が江戸時代のものと違うということも理由とした。 政権が代われば書式や判が変わるのはおかしくないのだが、 それが問題だという。 翌年に入って明治政府はふたたび宗氏を通じて朝鮮に手紙を送り、 説明を試みるが朝鮮の態度は変わらない。 それどころか、「皇」「勅」を使うのは、 日本が朝鮮を隷属させる野望をもっているのだなどと、 おかしな文句をつける始末である。 その数年前、朝鮮はロシア、ドイツ、アメリカ、フランスなどの 船を追い返したり、船員を殺したりしていた。 そういったことが自信となり、当時朝鮮で実権を握っていたのは大院君で、 白人に勝った朝鮮が日本なんかの 要求など聞けるかという思いがあったらしい。 武力に対する認識が江戸幕府のように正確でなかった。 拒否されても日本は朝鮮が開国・近代化して独立国になることを切望した。 というのも北方からロシアの侵略が南下してきており、 朝鮮半島がロシアの植民地になれば、日本の安全は脅かされるからだ。 ●1860年、ロシア、沿海州奪取 1858年に黒竜江(アムール川)以北の地を奪取したロシアは、 その2年後の1860年にはイギリス・フランスとのトラブルにつけ込んで 清国と北京条約を結び、ウスリー川以東の沿海州を割譲させた。 そしてロシアは、ウラジオストック(ロシア語で「東方支配」という意味) に念願の不凍港の軍港を建設し始めた。 ロシアの次の侵略目標は満州と朝鮮である。 このようにして日本への脅威はますます増した。 実際に翌年、対馬事件が起きている。 ●1861年2月3日、対馬事件 1860年に、イギリス・フランスとのトラブルにつけ込んで 清国からウスリー川以東の沿海州を割譲させたロシアは ウラジオストックに念願の不凍港の軍港を建設し始めた。 ロシアの次の侵略目標は満州と朝鮮であり、 日本への脅威は現実のものとなった。 陸伝いに領土を拡張し続けるロシアの姿を見たとき、 日本人がただちに気づいたのは、朝鮮半島の重要さだった。 もしロシアが南下し、朝鮮を植民地とすれば、日本にとって危険極まりない。 ロシアは、日本本土と朝鮮の間にある対馬や壱岐を占領し、 島伝いに日本へやってくるであろう。 かつて元寇のとき、蒙古はこのコースで日本へ攻めてきた。 案の定、ロシアは対馬にやってきた。 1861(文久1)年、 ロシア軍艦のポサドニック号が船体修理を理由に対馬に入港した。 そして永住施設を建設しはじめたのだ。 幕府はこの対応に苦慮したが、 艦長と交渉するとともにイギリスに折衝を依頼した。 7月になるとイギリスは2隻の軍艦を派遣しロシアの退去を迫ったため、 8月にポサドニック号は退去した。 日本はなんとかロシアの侵略の第一歩を未然に防ぐことに成功した。 ●1873年(明治6年)、西郷隆盛の「征韓論」 日本としてどうしても朝鮮に華夷秩序、 清国の属国から抜け出し、自主独立の国になってもらいたかった。 しかし、朝鮮は相変わらず拒絶し続けた。 やがて、朝鮮では理由もなく反日運動が高まり、 日本を侮辱し始めたので、日本側はとうとう怒った。 当時の日本政府の要人の多くは岩倉使節団として外国にいた。 1873年(明治6年)6月、国内にいた一番の重要人物は西郷隆盛で、 彼は朝鮮への軍の派遣に反対した。 しかし、自分が朝鮮に行き、もし殺されたら、そのときは軍を出してくれ、 と主張し、西郷隆盛を使節として派遣することを8月に決定した。 (これが「征韓論」といわれる) ところが9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは これに反対し、10月、遣韓中止が決定。 西郷の要望は受け入れられず、西郷は下野した。 事態が動いたのは「江華島事件」だった。 ●1876年(明治9年)、日朝修好条規(江華島条約) ロシアの侵略を防ぐため、日本は朝鮮に一刻も早く近代国家になって 欲しかったが、日本の要望に朝鮮は拒否し続けた。 朝鮮との外交権を対馬の宗氏から政府に移した日本は、 1870年(明治3年)、「皇」「勅」「朝廷」を使わないで文書を送った。 それでも徳川時代と違ったやり方は嫌だ、 日本政府から直接でなく対馬の宗氏を使ってくれ、 と朝鮮は相変わらず拒絶を繰り返した。 この翌年に朝鮮の宗主国の清国とは修好条約を結んでいることを考えると、 清国よりも朝鮮の方が頭が堅かった。 日本から行った外交使節はむなしく帰る形になった。 しかも、この後朝鮮では理由もないのに反日運動が日に日に高まって、 江戸時代から釜山にあった日本の外交事務所に薪や食糧を供給しなくなり、 その門前には侮辱のプラカードのようなものを立てたりした。 さすがに日本も腹を立てた。 当時の日本政府の要人の多くは岩倉使節団で世界を回っていて、 国内にいた一番の重要人物は西郷隆盛で、 彼は朝鮮への軍の派遣に反対した。 しかし、自分が朝鮮に行き、もし殺されたら、そのときは軍を出してくれ、 と主張した。 これが「征韓論」といわれるものだが、反日・自虐史観に洗脳された人の 説明には変なことがいろいろと書かれている。 1874年(明治7年)、日本は外務省の役人を朝鮮に派遣し、 「新しい手紙を送ったら朝鮮は受け取る」ということで話をまとめた。 しかし、翌8年(1875)、日本の使節が朝鮮に行き返書をもらおうとすると、 朝鮮側は拒否した。 これは、排外主義の大院君が明治7年には勢いがなかったのに、 8年になって盛り返したため、一転して拒絶政策になったためである。 朝鮮が臆面もなく前言を翻すのは今も昔も変わらない。 こうしているうちに事件が起きた。 1875年(明治8年)、日本の軍艦・雲揚号が朝鮮西岸の航路研究を行なうため 江華島の沖合いに停泊していた。 そして、飲料水を求めてボートで陸地に近づいたとき、 砲台から突如攻撃を受けた。 一方的に砲撃されたから、雲揚号の艦長は即座に反撃を加え、 陸戦隊を砲台に送り込んで武器を没収して、その後、長崎へ戻った。 これを「江華島事件」という。 今までは白人諸国の船を追い返したり、船員を殺したりして朝鮮は白人よりも 強いと思っていたが、今回の件で日本に簡単にやられて態度が変わった。 それまで日本の要望を拒否し続けていた朝鮮はこの事件をきっかけに、 1876年(明治9年)に日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。 これは近代になって朝鮮が外国と結んだ最初の条約である。 明治政府が朝鮮と国交を結ぶまで9年もかかった。 (清国とは1年もかかっていない) この条約は朝鮮の清国との宗属関係を否定、 つまり独立国であることを謳ったという点で、 朝鮮にとっては画期的なものだった。 条約の第一条では「朝鮮は独立の国であり、日本と平等な権利を有する」と 謳われている。 つまり、平等であることをわざわざ書き、 朝鮮は自首の国といって独立を認めた。 これは朝鮮の地位を引き上げたのである。 朝鮮に対してこのように言ってあげたのは、日本が最初の国だった。 この条約のもっとも重要なこれらの点を反日・自虐教科書は無視している。 日朝通商条規は、朝鮮が始めて自分で結んだ国際条約だった。 事実、それに続くようにして、イギリス、ドイツも朝鮮と条約を結んだ。 江華島条約を機に、鎖国攘夷政策を取っていた朝鮮政府内で 開国派が影響力を持つようになった。 日朝双方にとって喜ぶべき状況が生まれたのだが、 それもわずか6年足らずのことだった。 残念なことに、壬午政変を機に、 朝鮮は再び清国の影響を強く受けることになった。 反日・自虐史観においては、この条約は釜山をはじめとした三港の開港や 関税免除を定めた不平等条約とだけ説明して、 日本が列強に突きつけられたような不平等条約を、 弱い朝鮮に強いたと匂わせている。 |
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