●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1924~27年(大正13年~昭和2年)、第一次 幣原外交
幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)が外相となった時期、 日本の外交は「国際協調主義」が特徴とされるが、 幣原のやった友好外交は、ひどく現状を無視するものであった。 後の松岡外交同様、日本を害するものだった。 幣原は支那に甘いエサばかり与えてなめられすぎた。 幣原は支那に関する情報を知らされても、 自分が思い込んだ平和外交で行くと主張して聞く耳を持たない。 日本とイギリスは支那における利益がだいたい一致するから 平和外交路線がイギリスに近ければまだよかったが、 アメリカに近いという愚を侵した。 アメリカでは排日移民法が可決されていた。 当時、アメリカに行けるのなら 満州に行く必要はないという感情が国民の間にあった。 だが、一方的に絶対的排日移民法を作ったので、 幣原外交に対する国民の拒否につながっていた。 イギリス租界が武力接収された(イギリス租界奪取事件)とき、 イギリスは2万3000人の軍隊を動員すると共に列国に同調を求めた。 清朝のときから支那で騒乱が起こり外国人居留民の安全が脅かされた場合は、 列国は出兵するのが、北清事変同様、しきたりとなっていたからだ。 ところが、幣原は断固として出兵を拒否してしまった。 この日本の平和的というより軟弱な態度は、 逆に支那人の侮日感情を高めてしまい、 幣原外交の継続を不可能とする事件を起こし続けることになる。 それは南京事件や漢口事件であった。 日本はイギリスやアメリカと同じように 支那で大被害を受けていたにもかかわらず、 日本だけは報復せずに、居留民の一方的な引き揚げを決めてしまった。 これは、支那共産党運動あるいは過激化する支那ナショナリズムからすれば、 物凄く弱腰に映った。 「ちょっと暴れれば日本人は逃げていく」と。 その後、支那革命運動の矛先は一気に日本へと集中してゆくことになった。 この幣原の危険な軟弱外交がまかり通ったのも、ちょうどその頃、 大正天皇の崩御(1926年12月)と 昭和天皇の即位で国内の注目は釘付けとなっており、 同時に南京事件と平行して有名な「昭和2年の金融恐慌」が起こり、 政治は大混乱を極めていたからである。 のちに幣原への大非難が起こるが、 時すでに遅しで、このことがその後の日本に大きな悲劇をもたらす。 幣原は1929年(昭和4年)7月に外相に就任して、 再び軟弱外交をやって失敗してしまう。 ◆1929年7月~1931年、第二次 幣原外交 |
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