正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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日本の外国人居留地

日本にも開国後、租界のような『外国人居留地』がありました。

神戸・大阪の外国人居留地

日本には幕末から明治にかけて「外人居留地」というのがありましたが、
あれはつまり共同租界と同じ。
いわば中国語で租界=日本語で居留地というわけで、
1920年代くらいまで日本では中国の租界のことも「居留地」
と呼んでいました。英語ではどちらもsettlementになります。

日本の外人居留地は、安政5年(1858年)に江戸幕府が
アメリカ合衆国と締結した日米修好通商条約をはじめ、
オランダ、ロシア、イギリス、フランス、ポルトガル、プロシアと
それぞれ結んだ安政条約(いわゆる不平等条約)に基づいて、
横浜、長崎、函館、新潟、神戸の開港場と東京、大阪に
設置されることになったもの。
土地の造成や道路、港、下水などのインフラ整備は日本側が行い、
外国人は土地の永代借地権を入札で購入する形で、
日本人の土地所有や居住は認められなかった。

不平等条約を結んだ国の外国人には領事裁判権などの
治外法権が認められるほか、
居留地では外国人に行政権と警察権が認められていたが、
外国人が少なかった函館と新潟には居留地は作られず、
東京(築地)の居留地は宣教師が主体で外国人による行政組織は作られず、
横浜と長崎ではいったん行政組織や警察が作られたものの、
財政難と外国人同士の対立から横浜は3年間で、長崎は16年間で解散し、
最後まで外国人が行政権を行使し続けたのは
神戸と大阪(川口)だけだった。

居留地の行政を担当する市役所のような存在は行事局で、
居留地会議によって運営された。

居留地会議は居留地(またはその周囲)に住む外国人から
選挙で選ばれた代表3人と各国の領事、
地元(兵庫県や大阪府)の知事によって構成されていたが、
会議が英語で行われていたこともあって、
大阪の知事はほとんど出席しなかったようだ。

居留地の道路管理や環境整備、インフラなどは行事局が行い、
その財源として地租(毎年、永代借地料の1%)を徴収したほか、
独自の警察署の運営費用として住民から警察税(地租の3分の1以内)
も徴収した。

神戸の場合、居留地警察は欧米人署長1人と欧米人巡査2人、
日本人巡査7~8人の構成で、
日本の警察官は居留地へ立ち入ることはできなかった。

もともと外人居留地は、
外国人を特定の地域だけに居住させて管理しやすくし、
さらに国民との接触の機会を減らすという、
「長崎の出島」の延長線上のような考えで、
日本政府の意図にも合った存在だったが(中国の租界にしても、しかり)、
やがて外国人の旅行制限が撤廃され、
居留地にしか住めない居住制限も緩和されると、
日本政府にとってのメリットはなくなり、
外国人の治外法権や、日本の領土内で日本の統治が及ばない居留地の存在は、
日本にとって屈辱の象徴となった。

こうして日清戦争さなかの1894年に、
日本は不平等条約の撤廃を列強各国に認めさせ、
外国人居留地は1899年7月17日に廃止となり、
行政権が日本へ返還され、行事局の資産は日本政府へ引き渡された。

―――

中国では租界と言えば「列強による侵略の拠点」として悪名高いのに、
日本の居留地は「欧米文化の窓口」みたいに
ノンキな評価をされているのはなぜでしょう?

もちろん20世紀前半に両国が歩んだ歴史の違いがあるわけですが、
大きな要因として
(1)中国の租界には列強諸国の軍隊が駐屯し、
後に日本軍による中国占領の前線基地となった。

(2)中国の租界も当初は面積が狭く外国人が居住するだけだったが、
やがて中国人が住む地域に拡大し、
多数の中国人が外国人の統治下に置かれた。

(3)日本の居留地は工業化の前に撤廃されたが、
20世紀まで残った中国の租界は工業化が進み、
外資系工場で起きた労働者のストライキに対して
租界の警察が発砲し犠牲者が出るなどの事件が頻発した。

(4)日本の居留地撤廃は外交交渉で実現したが、
中国の租界撤廃は中国人の抗議活動によるもので、
その過程で租界警察に武力弾圧されて多くの死傷者が出た・・・
などの違いがあります。

日本の外人居留地もあと何十年か存在し続けて、
「外国資本の工場で起きたストライキを外国人が指揮する居留地警察が
武力鎮圧して、日本人の労働者がバタバタと倒れる」なんて事件が
繰り返されたとしたら、神戸や横浜の居留地に対する現在の評価も、
だいぶ違ったものとして語られたでしょう。

【租借地と租界】
http://bit.ly/19vf0JM
http://megalodon.jp/2010-0503-0925-13/www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/international/international.html
http://bit.ly/1e3zQWF

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1863年6月、イギリス・フランス軍が横浜に駐留開始。(以後12年間駐留)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-533.html
朝鮮の租界
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-44.html
中国の租界
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
2010/03/15 06:00|年表リンク用資料
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