●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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◆1924~27年(大正13年~昭和2年)、第一次 幣原外交
1929年7月~1931年、第二次 幣原外交 1929年(昭和4年)7月に民政党の浜口雄幸内閣が成立、 幣原喜重郎がまたしても、外相として返り咲き、 弊害がすでにあきらかだったはずの「幣原外交」が再開されてしまった。 このため満州の日本人はさらに我慢に我慢を強いられることになった。 その我慢に何らかの展望があり実を結ぶ可能性があればよいが、 幣原の満州問題対策は、つまるところ 「被害に遭うのが嫌なら、引き揚げて来い」ということだった。 明治の昔に政府の政策に従って満州に赴き、 何十年も営々と努力して築いた財産や生活基盤を、 少し情勢が悪いからというだけで放棄して帰国せよ、 と言われても納得できるものではない。 そんなことをしたら当時の日本経済がほとんど崩壊し、 国内政治も安定が保てる可能性はあろうはずはなく、 政局が大波乱を呼ぶことは目に見えていた。 幣原が再び外相をやった期間に幣原は 日支関税協定を結んで支那の関税自主権を認めた。 これは日本の「抜け駆け」として非常に他の列強から嫌がられた。 それだけの恩恵を支那に与えながら、 支那から帰ってきたのは満州赤化と排日暴動だけだった。 日支関係が好転したかに見えたその時期、満州は赤化され、 支那中央政府の支配の及ばぬ間島地方の反日暴動となって重大化した。 1930年(昭和5年)5月30日夜から31日、間島暴動 理想主義的な外交原則を掲げて再び登場した幣原外交だったが、 支那は決して幣原の善意に答えようとはしなかった。 むしろ幣原外交の時代になり、 支那は安心して着々と革命外交を実施するに至った。 幣原は一度失敗した(第一次幣原外交)のだから 二度目には謙虚な気持ちで反省すべきだったのに、 強情で自負心ありすぎて反省できなかった。 支那大陸で日本人居留民の生命が危険に陥っても、武力を用いず、 話し合いで解決しようとしたから、関東軍将校は、 「日本政府は頼りにならない」と思うようになった。 このような事態を打開するために、 関東軍は1931年(昭和6年)9月18日、満州事変を起こした。 満州事変に際して「不拡大方針」をとったものの 軍部の強い反対を受けて幣原は退陣した。 ◆1928年、革命外交 1926年の第一次北伐、1928年の第二次北伐(1928年)が終わり、 一応の支那統一が実現した後、 国民政府の外交部長・王正廷は「革命外交」という概念を打ち出した。 「革命外交」とは、支那側の一方的な通告で一切の「不平等」条約を 廃棄せしめ得るという甚だ勝手な外交政策で、 要するに相手国を無視して条約を廃止するという外交方針である。 こういったものは外交交渉で結ばれたものなので、 外交交渉でこれを解消するのが本筋である。 日本もそうであった。 治外法権と関税自主権の喪失という不平等な条約を列強に強いられた日本は、 不平等条約を解消するために、 実に並々ならぬ努力を半世紀にわたって続けてきた。 まず、日本を近代化しようと努力したわけで、 外人を招いて、司法制度だとか軍政だとか教育、いろんなものを改革した。 そして日清戦争、日露戦争を戦って ようやく日本は平等の条約を手に入れたのだ。 これに対して支那は外交交渉で結ばれたものを 外交交渉で解消するのではなく、 一方的な宣言でこれを無効にしようとしたのだ。 このような乱暴な外交を始めたわけだ。 だから支那の「革命外交」方針は日本にとってはとんでもない話だった。 また、その革命外交の対象の中には、 なんと日本が日露戦争で獲得した旅順と大連(関東州という)、 それから満洲鉄道(満鉄)、これも全部入ってきた。 そうなると満州の居留民や関東軍がピリピリ緊張してくるのは当然だった。 ところが、この支那の自分勝手な革命外交に対して、 協調外交を標榜する幣原喜重郎外相はしなくてもいい妥協を重ねてしまった。 その結果、逆に支那になめられてテロが増えてしまったのだ。 1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけて、 蒋介石に抵抗する軍閥が反乱を起こし、支那は再び内戦に入った。 その間も、革命外交は続けられ、 蒋介石が内戦を抑えると、国民政府は一段と強い姿勢に出た。 国民政府が革命外交を進める一方で、 満州においてはコミンテルンの指導による排日運動が行なわれていた。 ソ連(コミンテルン)は支那共産党にゲリラ活動の指令を出し、 反日テロが相次いだ。 支那共産党の狙いは国民党と日本軍を戦わせ、漁夫の利を得る作戦だった。 世界大恐慌が起こると、1930年(昭和5年)には、 日本の満州経営の中核をなす満洲鉄道(満鉄)が 創業以来の大赤字となった。 そういった危機に乗じるかのように、 国民党政府は日本の権益を全面的に否定する法令を次々と制定した。 1929年(昭和4年)2月には「土地盗売厳禁条例」を出す。 これは、満州で日本人に土地を売ってはならない、 日本人に土地を売ることは「盗人」だという条例である。 1930年(昭和5年)5月には、日本人の土地利用を禁止して、 鉱山経営も厳禁にするという「鉱業法」も制定する。 さらに100万近い朝鮮人(当時の朝鮮人はすべて日本国民だった)農民を 全部満州から追い出そう、という議論まで出た。 さらには、支那に進出している日本企業が まったく営業できないようにしようという政策がとられた。 これらはすべて明らかな国際法違反だった。 また、満州を支配する張学良は、徹底的な排日政策を展開した。 英米からの資金援助を得て、 満鉄が経営する南満州鉄道と平行して鉄道を敷き、 運賃値引き競争で満鉄を追い詰め、 日本のすべての権益を満州から叩き出そうとした。 満鉄と並行する鉄道を敷くというのは25年前の日清協定下で はっきり謳われている禁止条項だった。 国家間の約束、条約という観念が 通用しないわけだから日本の苛立ちは高まる。 しかも、向こうには、いまや対支那政策を 大転換したイギリス、アメリカがバックに控えている。 これは巧妙かつ陰険な日本排除を策する支那の戦略だった。 それを「革命外交」の名の下に、 「民族自決」の権利だとして日本を追い詰める。 これでは日本人の我慢が限界に達するのは火を見るより明らかだった。 満州では民衆の排日運動が急激に高まり、手が付けられなくなった。 間島暴動などが起こっている。 これに対して満州にいる日本人たちが、治外法権撤廃に反対し、 幣原外相と桜内商工相に断固として実力で守って欲しいと求めた。 こうした事態は1931年(昭和6年)になって突然生じたわけではない。 国民政府が「革命外交」を進める一方で、 満州においてはコミンテルンの指導による排日運動が行われていた。 つまり、支那における排日運動と同じく、 満州でもその陰にはコミンテルンの赤化が潜んでいたのだ。 日本国内でも支那に断固たる態度を取れない政治家は信頼を失い、 軍への期待が高まった。 このような状況で、1931年(昭和6年)9月18日、満州事変が勃発する。 |
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