●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1927年7月、国共合作終了
蒋介石が国民党内に潜伏している共産分子の 粛清(上海クーデター)を実施すると、 驚愕したコミンテルンは支那共産党に農民の武装蜂起を指令し、 農民・労働者の団体内に共産党秘密機関を作るよう指示した。 武漢政府は共産党的な政府だったが、国民党左派の汪兆銘がトップにいて、 完全にコミンテルンに掌握されていたわけではなかった。 反共の南京政府が樹立された2ヵ月後の1927年(昭和2)6月初旬、 汪兆銘はインド共産党の首領ロイから、 コミンテルンがロイに送った電文を見せられた。 そこには、 「共産党員や農民、労働者を組織して軍隊を作り、 国民革命軍に取って代われ」 「国民党中央執行委員で共産党に従わない者は追放しろ」 などの項目が並んでいた。 愕然とした汪兆銘と国民党左派は、 コミンテルンと支那共産党が孫文の目指した三民主義ではなく、 ひたすら共産革命を目指していることを知ったのである。 ここにおいて武漢政府は「容共政策放棄声明」を発表し、 共産党との絶縁を宣言し、 ボロジンをはじめとするソ連の政治・軍事顧問を解雇、追放した。 1924年(大正13年)1月に孫文が認めた国共合作は、 1927年(昭和2年)7月に終了した。(3年7ヶ月) 孫文の善意と楽天主義が共産党の陰謀にまんまと利用されたものだった。 分裂は当然の結果だった。 そして2ヵ月後の1927年9月、 武漢政府は南京政府の元に統一される。(国民党統一) 共産党は国民党に入り込んで政権の内部から 支那を赤化しようとするのが水泡に帰し、戦略の転換を迫られた。 共産党はブルジョア階級を頼りにするのをやめ、 「紅軍(赤軍)」の建軍を目標に、農民・労働者を中心に勢力拡大を行なう。 そして、南昌武装蜂起、湖南暴動を引き起こし、 また広東コミューンなど各地にソビエト区(解放区)を建設した。 この農民や貧民の寄せ集めのような共産党が、 インテリとブルジョアの政党である国民党と 血で血を洗う戦いを繰り広げることになる。 1924年、第一次国共合作 |
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