正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1936年(昭和11年)11月14日、綏遠(すいえん)事件

1936年(昭和11年)11月14日に、反漢(反支那)主義から蒙古自治を目指して
関東軍に接近した徳王(モンゴル族の王公の一人)の内蒙古独立軍と
反蒋派軍閥・王英の軍で編成された蒙古軍が、
南下して綏遠の軍閥軍を攻撃したものの、惨敗を喫した戦いである。

この蒙古軍に関東軍の参謀・田中隆吉ら4人が個人的に関与していた事から、
蒙古軍の実態は関東軍だなどと支那は馬鹿げた嘘を言い、
「(支那軍)による関東軍撃滅」と宣伝し、支那国内を狂喜させた。

このデマにより反日世論は頂点に達し、
国民党が対日攻撃を宣言する事態にすら発展した。

このことが軍事的な自信と対日侮蔑を生み、
やがて起こる盧溝橋事件と同じく
空虚な対日強硬論へと高まっていってしまった。

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時事新報 1936年(昭和11年)11月23日

熱血徳王蹶起 赤化と圧政に反抗 内蒙と綏遠の抗争

蒙人の自治完整を標榜して徳王は遂に起った、
久しく国民政府の枇政下に喘いできた内蒙古民衆にとり
最近における国民政府の圧迫態度は正に絶望的に見えたのだ、
今こそ国民政府との腐れ縁を断つべきであろう、

去る十九日徳王が国民政府並に蒋介石氏に宛てて発した通電には、
中央から離脱するための挙兵ではないと釈明しているが、
これは単なるカムフラージュに過ぎないとみられる節がある、

蒙人自治運動の起原はすでに古いが、満洲国の独立、
ことに同国の版図に編入された蒙古人の優遇ぶりは一層この傾向に油を注ぎ、
昭和九年に至り徳王の国民政府に対する自治請願となって現われた。

この不穏空気を察知した国民政府は時の内政部長黄紹雄氏を
百霊廟に急派する一方、蒙古各地の王族を集めて所謂「百霊廟会議」を開き
治蒙の大方針を協議せしめた、
これが昭和九年三月に正式成立した蒙古地方自治政務委員会
(略称は蒙政会、主席は雲王)の起源で、
実際上は徳王を中心とする蒙人自治の半独立機関であった、

かくして多年の懸案であった蒙人自治の大理想は達成されたので
徳王はさらに此辺を脅かす赤色外蒙古の南下に備えて
着々蒙古軍を近代化したのみならず、
進歩主義的で近代人を誇る徳王は内政方面においても
革新政策を断行して相当の実績を収めたのである、

然るに国民政府の圧迫はその後も熄まぬばかりか
蒙政会打倒の苦肉策は深刻化するの一途にあった、

即ち国民政府は本年一月に至り
綏遠省境内蒙古各盟族地方自治政務委員会(綏境蒙政会)を組織して
徳王一派の蒙政会に対する有力なる対抗勢力たらしめた、
之は阿王をロボットとし行政院直属のもとに閻錫氏
及び傅作義氏を指導官とするものである、

百霊廟会議当時の盟約によれば、
蒙政会の管轄区域は錫林郭勒盟、伊克昭盟、寧夏蒙旗、察哈爾部の内蒙古など
四区域を包括するものであったが綏境蒙政会は国民政府の使嗾のもとに
行政区域の奪還を企てたのである、国民政府の圧迫はこれのみに止らず、
経済的圧迫のほか徳王暗殺の非常手段をさえ講じた、

ここに至って両蒙政会の抗争は逐日熾烈化し、
最近においては傅作義氏の綏遠軍が平綏線を越えて
綏遠省内にある察哈爾盟の四旗を実力で占拠し、
蒙政会の勢力を察哈爾省の線において包囲した、

このため徳王一派は綏遠省政府に対して圧迫の緩和方を懇請したのであるが、
遂に顧みられず、
去る十五日に至り両軍は遂に干戈に訴えるに至ったのである、

ロシヤの積極的南下政策、ソヴィエト化工作は外蒙共和国
及び新疆省を通じて既に綏遠、寧夏にまで手を伸ばしている、
徳王を盟主とする内蒙は共産主義反対の旗旆を高く掲げ、
共産軍の進出に対する防風地帯として重大な地位にあるもので、
単に地理的に見ても蒙政会の勢力の消長は
我が国人の無関心たり得ないものがあるのである、
蒋介石氏が防共問題に就ていかなる方針であるかは
目下南京交渉の主題として種々折□中であるから、

はっきりしたことは判らないが、
蒋氏も原則的には防共の必要を認めているのである、

それにも拘らず、南京政府の蒙政会に対する態度は終始圧迫的であり、
綏遠省政府の如きは蒙政会を崩壊せしめんとして
ロシヤの出店たる赤色外蒙と気脈を通じて居った、

今回の綏東事態が発生するや、蒋介石氏は洛陽、太原、済南と
飛び廻って軍事会議を開き、尨大な中央軍を北上させて、内蒙攻撃を策し、
国難に当面したような誇大な宣伝を行っている、まるでお祭り騒ぎである、

しかも事態の背後に日本がいると悪宣伝を放ったので
綏遠軍救援抗日運動は北平、上海を初め支那各地に起り
今や全国的に蔓延する勢にある、

これは国民政府が一方では日支交渉を遷延せしめる
口実として打った苦肉策であると共に、
一面には北支を掌中に納めて軍事的国内統一をはからんとする
蒋介石氏の例のやり方であるが、

それにしても少し薬が利き過ぎはしなかったか?
事態の進展如何によっては東亜の全局にも
影響を与える恐れなしとしないことを思うとき、
日本としても雲煙過眼視するわけにゆかぬが、
日本は飽まで支那の内戦に介入する意図はなく、
従って支那側が放送する如き事実は毛頭ないのである、

日支交渉が好望視されていた折柄、内蒙問題を逆宣伝の具として捉え
交渉の進展を阻害せんとするのは非常に遺憾である。

綏遠事件 【時事新報 1936年(昭和11年)11月23日】

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綏遠(すいえん)事件 → 察哈爾(チャハル)作戦

1937年(昭和12年)8月9日~10月17日、チャハル作戦(察哈爾作戦)。
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