●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1931年(昭和6年)6月27日、中村大尉殺害事件
1931年(昭和6年)6月27日に参謀本部の中村震太郎大尉と 井杉延太郎予備騎兵曹長は北満州へ地誌調査へ行った。 そこで張学良麾下屯墾軍第三師団の関玉衡の兵隊に捕らえられて殺され、 証拠隠滅のために死体は焼き捨てられた。 (張学良は租借地や満鉄の奪取、関東軍撤退を主張してる輩) この情報を関玉衡の妾だった植松菊子が日本のチチハル総領事に知らせ、 中村大尉一行が殺されたことが明らかになった。 日本は外交交渉で決着を図ろうとしたが支那の対応は不誠実なものだった。 (張学良は既に易幟していたので支那政府が処理対応) 支那側は事件の調査を約束しておきながら実行せず、 支那の新聞や王正廷外交部長も大尉の殺害事件は事実無根といい、 王は「満州には不良ごろつきの日本人が多いのでその連中が捏造した宣伝だ」 と言い張った。 こうした支那の態度に日本国内では強い非難が沸き起こり、 満州はますます緊張した状態になっていった。 3ヵ月後の9月18日になって、やっと支那側が中村大尉の殺害を認めたが、 その日の夜、柳条湖事件(満州事変)が勃発するのである。 |
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