●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1933年(昭和8年)5月3日~25日、関内作戦。
熱河作戦で関東軍は張学良軍を万里の長城以南(関内=支那本土)へ追いやったのだが、 熱河省は満州国領内で、長城の向こう側の河北省は支那(中華民国)の領域 だからという理由で万里の長城まで占領はしなかった。 熱河作戦は支那と戦争をするためのものではなかったからである。 ところが、国民政府は張学良に代えて何応欽を責任者に任命し、 5万の中央軍が万里の長城に登って、関東軍を見下ろす形で攻撃してきた。 さらに支那側は20個師団近くを集め、全線に渡って攻撃を始めた。 また、一部の軍隊は満州国領内の熱河省に入ってきた。 ここでようやく関東軍は長城を超えて進撃した。 しかし途中で止まり、万里の長城の外へ戻った。 天皇陛下が「関東軍の前進中止を命令したらどうか」 という質問の形で侍従武官に述べたため、関東軍は撤退したのである。 「日本が退いたから、このへんで手を打とう」 という発想が支那にないのは悲劇だった。退いたら必ず出てくる。 結局は万里の長城にいる支那軍を放置することができず、 関東軍は再度長城を超えて関内に軍を進め、北京のすぐそばまで迫った。 そこでやっと何応欽が停戦の提案を行ない、 1933年(昭和8年)に塘沽停戦協定が結ばれる。 ![]() |
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