正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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■冀=河北省
■察=察哈爾(チャハル)省
■冀察=河北省と察哈爾省
■冀東=緩衝地帯(非武装地帯、非戦地区)→ややこしいが略して「戦区」と呼ばれていた。
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満州事変は1933年(昭和8年)5月31日の塘古(タンクー)停戦協定で終了し、
満州と支那が緩衝地帯(非戦区)を挟んで境界が明確になった。
塘沽(タンクー)停戦協定

1935年(昭和10年)の11~12月、緩衝地帯(非戦区)の実力者で日本寄りの殷汝耕(いん・じょこう)が
緩衝地帯の自治を宣言して冀東防共自治政府が誕生。
ほぼ同時に、そのすぐ左側(支那側)の天津や北平(北京)でも自治の機運が高まり、
宋哲元が冀察政務委員会を発足させた。
華北分離

1935年、冀東・冀察政権成立

塘沽停戦協定によって満州国と接する北支那の河北省内に
非戦地区が設けられたが、そこで独立を望む動きが生まれた。

この地域に住む人たちは北方民族であり、
蒋介石や孫文など南支那の人とは民族的にかなり違う。

南方の人間が作った南京の国民政府が北支那を支配し、
とんでもない高額の税金を課していた。

例えば1935年頃は、南京中央国民政府は中央税、税外収入として、
北支から年額14000元徴収したが、中央から北支への支出額は
8350元(差額5650元)であり、北支は中央政府に不満があった。

自分たちは南支那の連中にべらぼうな税金を取られて
苦しんでいるというのに、すぐ北の満州は支那から独立して成功していた。

彼らは当然のことながら満州がうらやましくなった。
こういった不満から北支那の人々によって自治を求める運動が起きた。

こうした中、1935年(昭和10年)11月に非戦地区の
督察専員であった殷汝耕(いんじょこう)という人物が、
通州において自治宣言をして、冀東(きとう)防共自治委員会を作った。

「冀東」とは「河北省東部」のことで、非戦地区と重なる地域である。
こうして南京政府から独立を主張する自治区ができた。
この冀東政権は非常に親日的だった。

これに対し、天津や北平(北京)でも自治を要望する人たちが現れた。
1935年12月11日、南京行政院(南京政府)は先手を打ち、
冀察政務委員会設置法案を満場一致で可決し、
その委員長に宋哲元を任命して冀察政務委員会を発足させた。
「冀察」とは河北省とチャハル省のことである。
冀察政権のほうはそれほど親日ではないけれども、反日でもない。

冀東・冀察の両政権はいずれも反共を唱え、
日本にとっては満洲帝国の南に反共の独立国ができることは好都合で、
これらに対して好意的であった。

このように昭和10年の終わりごろ、
北支那では独立を志向する自治地区が誕生するという状況があった。

盧溝橋事件のすぐ後に起こったあのおぞましい大虐殺・通州事件を
起こしたのは冀東政府の保安隊である。

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冀東特殊貿易

1929年、支那国民政府は関税自主権を獲得し、
以後、関税率を上げ続けていたが、相次ぐ災害などの理由で
1938年に大幅に関税率が引き下げられるまでの
約10年間で7倍の高率関税になっていた。

また、日本からの輸入貨物のみに排日的な高率関税政策を実施していた。

このような高関税の設定が北支民衆の生活に多大な影響を与えたので、
1935年11月に成立した冀東防共自治政府は、
民衆の生活を無視した従来の政策的関税引き上げに対処し、
1936年2月12日、秦皇島、北戴河その他を陸揚地に指定して
輸入貨物査験所が設置され、支那正規関税の8割、
日本商品については特別に税率4分1の特殊低税率を設定して査験料として
徴収されることとなり、この関門を通じて生活必需品の輸入が行なわれ、
支那民衆の生活に多大な便益を与えた。

1938年2月1日、冀東政府は、
王克敏の北支臨時政府(のちに汪兆銘政府に合流)に接収され、
冀東特殊貿易は解消となった。

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塘沽停戦協定によって冀東地域は非武装地帯となっていたため、
武装した海関(税関)監視船は
冀東沿岸に入れないため密輸が行なわれやすい面があった。

協定

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大阪毎日新聞 昭和13年(1938年)1月27日

北支関税引下 大体正常に回復

北支臨時政府は今回海関税率の一部改正を発表するとともに
冀東政府を接収し、従来冀東政府で行っていた特別貿易を廃止し、
一律に改正税率を適用することとなり、二十二日から実施した。

今回の関税改正は戦乱、水害その他によって極度に疲弊した支那民衆の
生活救済を主眼として行われたもので、その種目の如きも輸入税においては
綿糸、綿布、人絹等の被服類、木材、鉄材、セメント等の建築材料、
鮮魚、乾魚、砂糖等の食料品、普通印刷用紙、肥料等に対し
二割乃至五割以上の大巾引下を行うとともに、
民衆救済に絶対必要なる小麦粉、米、籾、血清ワクチンなどを暫定無税とし、

また荒廃地の復興をはかるため農業機械の輸入を無税とし、
輸出税においては民衆の購買力の涵養のため
棉実、亜麻子、棉花、鉱、鉄鋼、屑鉄などを
無税乃至暫定無税としたことは注目せねばならぬ。

かくしてわが北支貿易は冀東貿易廃止と輸入税引下とによって、
従来の情勢は一変しほぼ常軌に復することとなった。

支那国民政府はさきに関税自主権を獲得するや、
自来逐次関税率を高め、僅か十年間に平均約七倍の高率に引上げた。

殊に輸入税率の如き、表面上はわが製品を目的としてはいないが、
その内容を見ると従量税と従価税とを巧に配合し、
わが製品を主とする輸入貨物については殆ど禁止的関税を設定し、
排日的関税政策を採った。

このため昭和六年当時天津のみで七千五百万元に達していたわが北支輸出は、
昭和十年には三千五百万元となり、半額以下に激減するの余儀なきに至った。

かかる高関税の設定が直接北支民衆の生活に多大の脅威を与えたのに鑑み、
同年成立した冀東防共自治政府は、
民衆の生活を無視した従来の政策的関税引上に対処し、
税率四分一の特殊低税率を設け、
秦皇島、北戴河その他を陸揚地に指定したため、
自来生活必需品の輸入はこの関門を通じて行われ、
支那民衆の生活に多大の便益を与えたのみでなく、
冀東特殊貿易は俄に発展して年額一億元に達した。

しかし冀東貿易は支那民衆の生活安定をはかるため設けたものとはいえ、
変態的のものであるだけに、冀東地区以外への密輸出その他の問題を生じ、
わが貿易業者に不測の損害を蒙らしめるなど、
決して完全のものではなかった。

しかるに今回北支臨時政府の冀東政府接収に伴い冀東貿易が解消し、
新たに北支一帯にわたる広範囲の新関税が制定されて
正常の貿易に全面的に移行することとなったのは、
北支貿易今後の本格的建設の基礎をなすもので、
支那経済発展政策上誠に慶賀すべきことといわねばならぬ。

今回の北支関税改正は王行政委員長も述べている如く、
支那民衆を救済する見地から行われ、
各国商品に対して何等の差別的待遇を与えず、
一律公平に取扱ったものである。

従って特にわが国に有利ならしめるように改正したのではなく、
全く相次ぐ災害のために日用品にさえ事欠く支那民衆の生活救済を
目標としたものであるが、従来の関税が排日的色彩が多く、
わが商品を対象として多数の生活必需品に禁止的高率を課していただけに、
これ等必需品に対する引下が
自然わが商品の輸出に好影響を及ぼすことは疑いない。

また今回の関税引下率が従来の冀東特殊税率に比し、
一部商品を除いては遥かに高率であるが、
その地域が広大な北支一帯に及ぶだけに、
これによってわが商品の北支進出が減殺されるものとは思われぬ。

殊に今回の北支関税引下は、国民政府下の民衆圧迫的税率を除去し、
その生活安定をはかる部分的改正であるだけに、
在来の弊竇がなお全然是正せられるに至らぬ。

北支臨時政府は今後その採るべき財政、経済、産業等の各政策に基づいて
関税政策を検討し、慎重考慮の上、
さらに全面にわたって根本的合理的関税改正を実行するようその善処を望む。

大阪毎日新聞 昭和13年(1938年)1月27日
大阪毎日新聞 昭和13年(1938年)1月27日

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いわゆる「華北分離」とは。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-687.html
1935年6月10日、梅津・何応欽協定、1935年6月27日、土肥原・秦徳純協定
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-577.html
北支分離(華北分離)工作を日本がおこなった経緯
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-119.html
チャハル作戦
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-579.html

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大阪朝日新聞 昭和12年(1937年)5月13日

冀東政府成立の意義を語る 殷汝耕

本稿は中華民国二十六年(昭和十二年)一月在通州冀東放送局より
中華民国国民に対して放送した殷氏の講演の大意を翻訳したものである。

我等は何故冀東防共自治政府を組織したか

冀東防共自治政府が成立して既に一ヶ年を経過したのである。
政府の方針に付いては此間宣言通電等によって屡々説明した通りであって、
既に一般民衆周知の事と考えられるので再述を要さぬと思うのであるがただ、
冀東地域には何故に防共自治政府を組織せねばならなかったかという事に
就いては其の意義を未だ十分に理解せられて居らぬのではないかとも
考えられるので今回特にラヂオによって
再び簡単ながらも其要点を申述べる次第である。

即ち我等の第一目的とする処は内政の改革と云う事である支那が
何故に今日の如く衰えるに至ったかといえば
その原因は政治が悪いからである、前清時代に於ても積年衰微しつつ
あったのではあるが国内一切の関係は尚小康を保っていたのである。

然るに民国となって以来内政の改革は常に軌道を逸した為
現在に至っては意に農村は破産し民は貧乏し財は尽き道徳は地を掃い、
国勢は漸次衰うるという有様である。
此等は総て南京政府の秕政が其の原因となっているのである。

即ち党人専政後財政の如きは二十億元余と云う多額の公債を濫発した為
人民には故なくして多額の負担増加となったのである。
経済が非常な枯渇を来したのも又当然であったのである。

次は教育である、学校の数は極めて少ないのみでなく
其の教育方針は甚だ誤っていたのである。

即ち支那固有の文化は殆ど棄て之を用いず却って
欧米諸国の糟粕をなめて支那の教育標準を定め甚だしきに至っては
支那の国情と絶対に相容れぬ所の共産思想を奉じて規範とし
青年の空疎な自負心を鼓舞して之を利用したので
多数青年の思想は其の煽動によって異常の紊乱を来し多数の学生は
最もよき勉強の光陰を放擲して徒らに政治を論じ朋を呼び類を引いて
街頭に群集し何を打倒せよ彼を打倒せよ等と喊ぶのである。

斯様の事は何等実際上に裨益する所がないのみか
却って禍患を増加するもので実に青年を毒するものと云うべきである。
この様に青年を犠牲にする所の国民党の教育方針は
実に国家の前途を永久に減尽するものである。

次は産業である。
支那は面積拡大、各種の富源は世界に冠たる所であるが
歴代の政府の党局者の多くは権勢の争奪に力を尽し
産業建設に関する方面は殆ど棄てて省みいなかったので
大なる富源も開発されたのは甚だ少ないのであった。

しかも此間僅かに開発されたものも多くは
外国人の手に操縦されている始末で
支那四億の人民は徒らに広大の富源を擁して
身は経済枯渇の厄を受けたのである。
これ亦政治不良の結果であってこの様な事は枚挙に遑が無いのである。

そこで吾等が若し国家を滅亡から救い人民を水火の苦より免れしめ様と
思うならば先ず政治の改革から着手せねばならぬのである。

就中党人専制下にある南京政府を改造する事が最も肝要な事である、
現在の南京政府は既に支那全国を代表する機能を喪失しているのである。

故に我々は自ら危亡を救わんが為に始めて
中華民国二十四年十一月に党治を離脱して自治を宣布し
冀東二十二県七百万民衆によって
先ず政治の改革を謀り全支那の魁を行ったものである

冀東管内二十二県は地域は甚だ狭小であるが
我等の意気は非常に雄大なものである。

即ち我冀東に於て先ず政治を正して人民を救い引いては
冀東を出発地点として支那四億の民衆を塗炭の苦しみより
救出せんとするものであって
之即ち我々が冀東政府を組織した第一の目的である。

我等の第二の目的は人民の為に実際上の権利を譲ると云う事である。

支那古来の聖賢の教えた治国平天下の道は
人民の為に幸福を謀るより以外にはなかった。

然るに政治不良の結果として憐にも全国の人民は
ここ数十年の間生に安んずる事が出来なかったのである。

即ち党治脱離以前の冀東二十二県の如きは
天災人禍連年打続いて非常に疲弊し
其上更に今回の長城戦の厄に逢い
民間の損失は直接間接共非常に夥しいものであった。

当時南京政府は用兵に最も緊急を要する時であったにも係らず
何等軍隊の出動費に関する準備もなかった関係上
只出動を命じて数十万の虎狼如き大兵を
我等冀東二十二県に終結したのであるから
人民はどうしても残酷な蹂躪を受ける立場に置かれていたのであった。

□県一県も其損害は三百万元と云う多額に達し
比較的軽少と云われている遵化県でも
一百五十万元を超過している程であるから、
二十二県を総計したらば恐らく幾千万元に達するであろう。

此等の損失は単に軍馬の糧食に供したものや
割当てられた一切の軍用徴発物品等で金額の計算し得る部分だけであって
大小無形の損害に至っては全然含まれて居らぬのである。

従って此等の無形の損害を加えたならば驚くべき損害となるのである。
其後停戦協定が成立し自分が専任委員となったので
逐次民衆の元気を培養し恢復を計らんとして
凡そ民を利する為の所有る献策を行ったのであるが、
党人は徒らに空疎な自負心を重んじて、
人民の疾苦に対して全く無関心であったので、
民力恢復に関する献策何一つ実行を見たものがなかったのである。

事此処に至っては最早断然党治を離脱しない限り
絶対に人民の為に福利を謀る事は不可能である事が明瞭になっって来たので、
此処に冀東二十二県七百万人民の自治政府を組織し、
以て人民の為の福利増進を謀らんとしたものであって、
これ我等が冀東政府を組織した第二の目的である。

政府組織以来僅かに一ヶ年、此の間に於て人民が完全に福利を享けたとは
敢て言えぬかも知れないのであるが既に一切の政治は軌道に乗ったのである、

即ち治安方面は保安隊を改善し、警備団を処理し、
保甲団(地方自治体)を整理した。

教育方面では排外的教科書を改良し、教育を拡充し、
教員の待遇をよくし、学校の内容を改善した。

財政方面では苛酷な公課金や雑税を免除して一切の財政を整理した。

行政方面では県政府の組織を改革し
官吏の待遇を引上げる等逐次行政の改革をした。

交通方面では道路を改修し橋梁、暗渠等を修築し電信を架設し、
電話網を完成し放送局を設けた。

産業方面に於ては水利委員会を創設して水利の開発に着手し、
又綿花、果樹の栽培等を改良し、各種の鉱山資源を開発した。

其他通商、工業等民衆の福祉増進に関しては
着手しないものは殆どないのである。

その成績に就いて敢て自賛する訳ではないが、
この方針に依って進めて行くならば五年十年の後には
必ずや冀東の面目を一新する事が出来るであろう事を確信するものである。

冀東区域は土地狭小ではあるが地勢に恵まれ山に依り、
海に面し河流は貫通して土地は肥沃、
天産は豊富で全国の各省と比較するならば
冀東の如く恵まれた地方は甚だ少ないのである。

我等は此の如く天恵の資源があるにも係らず、
何故に従来南京政府は此等の資源開発に当らなかったのであろうか、
殊に此等の開発事業は我等自身の手に依って開発されるべきものであるが、
従来は往々にして幾多の絶好の地方が中国人の手中に在る間は
その利益を放擲されて顧みられないのであるが、
一旦外国人の手に帰すると開発されるという状態である。

例えば台湾の如きは支那の領土であった数百年の間に於ては
完く其の荒廃に任せられ寧ろ荷厄介の儘であったのであるが
日本に割譲してからは数十年ならずして
非常な開発が行われ富饒な地域となったのである。

満洲も亦同様であって、満洲事変以前に於ては支那に隷属する事
数百年であったが官僚軍閥等は只その地位の争奪を事として
天然の富源に対しては毫も顧みなかったのであった。

然るに満洲国が成立して後は僅か五年に過ぎないのであるが、
一切の経済及産業の開発は非常な速度で進捗して
到底従前とは比較にならないのである。

我等の冀東は錦□の山河たるに愧じざるものであるから
外人の来って開発を待つべきでなく我等が自身によって
当然開発すべきものである事を主張するものである、

我等が自治宣布以来既に其の開発が可能になり
この一ヶ年間に於ては些か其の端緒を開いただけであるが
既に五ヶ年計画も定まり着々として資源開発に着手しているのであるから
全区域の人民の福利も必ずや近く実現する事を確信するものである。

我等の第三目的は天道に順応して我ら自ら自治を実行すると云うことである

中国は前清時代以来政治は腐敗し国力が衰微してからでも
尚百年近くも世界に一国として存立させて行くことが出来たという事は
決して中国の自力によってものではなく
世界各国の勢力の均衡がとれていたので各国共力を
中国に用いる事が出来なかった為に危うく侵略を免れたと云う
極めて消極的な存在であった然し乍ら斯の如き国家存在は
決して永久性のあるものではないのである。

世界各国の勢力の均衡と云う事は時に変化がある。
従ってその勢力の消長によって中国の存立が動揺する事は
甚だ危険極まる事である。

されば若し真実に中国の存立を謀ろうとするならば
徐ろに国力の充実強盛を謀るべき筈のものである

然るに旧来の政府の採用した方針は甚だ誤っていたのであった。
妄に遠交近攻の策を用いて座して漁夫の利を占めんことを計ったのである。

この様な方針は屡々失敗の歴史を繰り返し
又根本的に誤っているにも係らずまだこりもせず
党人専制後は一層甚だしく之が濫用に陥り内政を整え
民力を培養する事等は殆ど顧みず専ら外交上の権謀術策
即ち以夷制夷遠交近攻等の手段を用いて或は英米に連携して日本に対抗し、
或は連蘇容共に結びて抗日を訴う等総て外人の力を借りて
自ら漁夫の利を謀らんとしたのである、
天地の間に於てこれ程狡猾な話があるであろうか。

又民国十八年には東清鉄道の些細な事件が原因で軽々しく露西亜に向って
挑戦した結果一敗地に塗れハバロスクに於て
屈服条約を訂結して漸く解決したのである。

満洲事変の発生に際しても当然自ら解決の衡に当るべきにも係らず
実行不可能の謬論を唱え国際連盟を利用して日本を牽制せんとして失敗した。

又熱河問題の時に於ても南京政府当局は急いで
之が解決を計ろうともせず依然として抗日を高唱し
何等能力なき義勇軍に頼って失地回復を計ったのであるが
結果に於て非常な失敗をしたのみならず
我が冀東各県迄も多くの兵災を蒙らしたのであった。

斯の様な政府であるから外交は次々に失敗し、
内政に於ては民は生活に安ずることが出来なくなった而も
又党自身は小□を別って互に猜疑嫉視すること水火よりも甚だしく、
現在の環境にあっても尚根本的に内政改革や民力培養を考えず
徒らに抗日を高唱し甚だしきに至っては猛獣の如き共産党と妥協して
連合抗日戦線を組織し只一時の意気を挙げん事を図って
百年の計を誤り国家を累卵危きに置くことを更に憂えないのである。

この様な状態は極めて危険な状態であり
又斯様な政策は根本的に国家に不忠実な政策であるにも係らず
党人は自己の政治上の権勢を維持する為に手段を択ばず
一切の犠牲を顧みずして無理な悪政策を実行しているのである、

斯様な政府や党人が政権を盗奪しても
それは絶対に中国を代表する機関として認められないではないか。

我々は党人が自滅するのと一所に自滅することは出来ないのである。
特に塘沽停戦協定以来南京党人政府は華北民衆を棄てて
殆ど顧みず我が冀東を以って辺境の棄地としてしまった。

若し我等は自ら起って存立を謀らなければ恐らく
党人の為に抛棄されたであろう!
天地の間に於て斯の如き無情の行為があるであろうか。

ここに於て我等は天道に順応して自ら自治を実行し、
この否運を挽回し以って二十二県七百万人民の安全を謀らんとして
冀東政府は成立したのである、
これ即ち我等が冀東政府を組織した第三の目的である。

政府成立後の態度に就いて

冀東政府成立後の我等の態度に就いては幾分誤解を生じ易い点も
ありはしないかと考えられるのでここにその精神を闡明することにする。

それは

第一、我等は絶対に中華民国を離脱したものではない。

よって南京の党人政権を脱離し防共自治政府を組織したのであるが
その真相を詳かにしない者は往往にして我等が
中華民国を脱離して独立国家を成立したと誤解している様であるが
それは全く見当違いの見解であって我等は国民党の党治をこそ
離脱したけれど中華民国を離脱したものではないのである。

支那は面積広大にして人口夥多なれば当然全国国民の代表によって
政府が組織されるべきものであるにも係らず
南京政府は極めて少数な党人を以って
中華民国の政権を盗奪したものであるから
南京政府が全国国民の代表機関では絶対ないのである。

従って我等が能く冀東二十二県の区域を以って党治を脱離した事は
即ち中華民国の一部分の政権を恢復したのであるであるから
我等の冀東政府こそ中華民国の一部分を代表する処の
正統の政権であると云う事が出来るのである。

南京政府は国民を代表する事が出来ない。
それ故我等は南京政府を脱離して地方政府を成立し
支那の一部分の汚れざる土地を保持するものである。

現在我等は先ず二十二県の政権を恢復したのであるが
心から望む所は将来全国の政権が悉く
冀東の如く中華民国の政権に恢復される日の来らん事である。

第二、我等は絶対に其の独善を計らんとするものではない。

我等は現在冀東二十二県七百万民衆の為全力を傾けて
冀東地区を整備し一つの理想郷を形勢せんと努力しているのであるが、
全支那四億民衆に対する影響としては尚甚だ少いのを遺憾としている。

併し乍ら我等は決して二十二県の整備完了を以て其任務が終ったものと考へ
全国十八省四億民衆の幸福を顧みないというのではないのである。

我等としては先ず現在我等の力の及ぶ範囲の地域
即ち冀東二十二県を理想郷形成の出発地点として
先ず七百万人民の安居楽業を計り其後に於て
逐次冀東区域以外の中国全体が次第に劣悪の党治を離脱して
真に中華民国の政権を恢復されん事を希望するものであって、
斯の如く中国全体が総て党治を排して真に明朗なる中華民国の政権を恢復し、
四億民衆が等しく安居楽業をなし得ると言う事が我等の最後の目的である。
従って我等は絶対に其身の独善を計らんとするものではないと言う事を
此処に言明するものである。

第三、我等は絶対に政権を独占しようという意志はない。

我等は少数の人員を以て政権を把持することを希うものではない
現在冀東二十二県の地域は甚だ狭小であるが
政権に参与する人員は多数なのである。

斯くの如く我等の希望する処は、天下有為の士が皆共同合作して
共に党治を廃して中華民国の政権を恢復し
共に四億民衆の幸福を計らん事を希うものである。

一昨年華北の局面が非常に緊張した際、
私は十一月十五日附を以て華北五省三市の当局諸公に対して電報を発し、
「皆共に来って国権恢復の弁法を商議せん事を希望」したのである。

当時は唯電報を発した許りでなく、現在の冀察当局者たる宋明軒(哲元)先生、
蕭仙閣(振瀛)先生秦紹文(徳純)先生及其他華北各省の代表者と共に
屡々共同商議して「華北の各省市が一様に組織を立て、
党治を離脱して防共自治を実行する華北防共自治委員会を
組織せん事を準備した」のである。

当時は皆一同この事に賛同されたのであったが、
其後に於て特に冀東地域の環境が切迫した関係上、
先ず我等の冀東が防共自治を宣布したのである。

これに次いで彼の人達も相共に防共自治の宣布を行う事を商議決定し、
将に華北全体が一様に党治を離脱して
中華民国の政権を恢復し得べき事を期待していたのであったが、
計らずも其後種々の事情に依って今日迄未だに華北各省は
防共自治宣布の実行が行われずにいる次第であるが、
斯の如く我等は多くの人々との共同合作を希図した事実があるのである。

尚我等冀東が防共自治を宣布して以来も華北各当局の諸公が意を定め、
最初の希望達成に邁進されん事を日々希望しつつあったのであるが
既に万一箇年を経過した今日に到っても尚其傾向が見えぬので
止むを得ず冀東政府成立一周年記念を契機として
先ず我等は五色の国旗を回復し、更に政府組織に関しては
依然全国の賢哲の出で来って支持せん事を希望したのである。

又昨年の西安事件に際しても十二月二十日附の電報を発して
全国各省の軍政当局や朝野の名士に対し、速やかに出で来って
共に約法を共同商議し共和政府を組織せん事を請求したのであった。

此等は総て我等の冀東が政権を独占せんとするものでなく、
多くの人々が出で来って共同合作して
共和政権を恢復し相共に国を救はん事を希望した事実を表示するものである。

要するに現在の中華民国は既に危険が極点に達しているのである。
内部に於て民は窮し、財は尽き、金融の危険此の上なく
又赤禍の蔓延日に甚だしく、外部に於ては国際連盟既に頼むべからず
英米亦たよるに足らず、
容共連蘇を説くが如きは更に自ら滅亡を招くものである。

私の今全国民衆に希望する処は皆蹶起して速かに約法を恢復し共同合作して
真正の中華民国を代表する政府を組織せよという事である。
然らば速かに支那も復興するに至るであろう。

呉々も此重大時局に際し因循姑息にして
中国を滅亡に委ねてはならないのである。

申述べたい事は尚甚だ多いのであるが、更に今後の機会に譲る事にして、
只今は単に「我等は何故に防共自治政府を組織したか」の真義に就いて
其大要を闡明した次第である。

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冀東・冀察政権成立~通州事件

満州事変が1933年5月31日の塘古(タンクー)停戦協定で終了し、
満州と支那が緩衝地帯(非戦区)を挟んで境界が明確になったのですが、
その緩衝地帯(非戦区)内に住む人たちは北方民族であり、
蒋介石や孫文など南支那の人とは民族的にかなり違っていたことと、
南方の人間が作った南京の国民政府が北支那を支配し、
とんでもない高額の税金を課していて、
例えば1935年頃は、南京中央国民政府は中央税、税外収入として、
北支から年額14000元徴収しましたが、中央から北支への支出額は
8350元(差額5650元)であり、北支は中央政府に不満がありました。
自分たちは南支那の連中にべらぼうな税金を取られて
苦しんでいるというのに、すぐ北の満州は支那から独立して成功していて、
彼らは当然のことながら満州がうらやましくなり、
こういった不満から北支那の人々によって自治を求める運動が起きたのです。

1935年11月、非戦地区の督察専員で日本寄りの殷汝耕が、
緩衝地帯の自治を宣言して冀東防共自治委員会(自治区)を作りました。
この冀東政権は非常に親日的でした。

これに対し天津や北平(北京)でも自治を要望する人たちが現れ、
1935年12月11日、南京行政院(南京政府)は先手を打ち、
冀察政務委員会設置法案を満場一致で可決し、
その委員長に宋哲元を任命して冀察政務委員会を発足させました。
冀察政権のほうはそれほど親日ではないけれども反日でもありません。

冀東・冀察の両政権はいずれも反共を唱え、
日本にとっては満洲帝国の南に反共の独立国ができることは好都合で、
これらに対して好意的でした。
日本の傀儡ではなく、現地の人たちが望んだ結果だったのです。

1937年7月27日、南京政府(国民党)が
下記のようなラジオのデマ放送をしました。
―――――――――――――――――
日本軍は盧溝橋の戦場に於いて、我が優勢な29軍と交戦の結果、
支離滅裂の敗戦に陥り、豊台と郎坊とは完全に我が手に奪還してしまった。
(略)
なお、最近北京における軍事会議の結果、蒋委員長は近く29軍を提げて、
大挙冀東を攻撃し、偽都通州を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにして、
満州失地恢復の第一声を挙げる事を決議した。
―――――――――――――――――

日本軍を撃破した支那の宋哲元軍(29軍)が、
冀東防共自治政府(通州)に攻め込んで来れば、
今まで親日だった冀東防共自治政府の保安隊は
漢奸として処刑されると思い込み、
そこで保安隊は、日本人を大虐殺し、
冀東防共自治政府の殷長官を捕らえ、
これを手土産にして北京の宋哲元に馳せ参ずることを決意しました。

保安隊の連中は、日本人大虐殺を手土産にして
意気揚々と宋哲元が居ると思い込んでいた北京へと向かいましたが、
そこにいたのは宋哲元軍(29軍)ではなく、実際には日本軍でした。

北京に居るのが宋哲元軍(29軍)ではなく
日本軍だと知った保安隊は慌てて逃げましたが日本軍に捕まりました。

中島29軍顧問は「機関銃をくれ、仇をとってやる」と息まきました。
しかし「それでは暴に酬ゆるに暴を以ってするだけだ。」と止められ、
結局、保安隊は収容もされず城外に放置されただけとなりました。
理由は、「収容すると飯を食わさにゃならん。
本当は鉛の弾を食わしたいくらいなのに、飯などもったいない。」
という事でしたが、保安隊は、のちに移動して支那軍に加わりました。

これが当時の日本軍であり、お人好しぶりは今の日本人と変わりません。

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通州事件
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2009/01/22 21:00|年表リンク用資料
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