正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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盧溝橋事件以来、支那事変は次第に拡大しつつあったが、
日本政府としては、適当なところで収束させたかった。

しかし、蒋介石が第二次上海事変を起こしたことで、
日本は南京攻略という強硬手段を決断する。
首都である南京を押さえれば蒋介石は講和に応じると考えたのだ。

日本軍は1937年(昭和12年)12月1日に南京攻略を命令したが、
そのたった13日後にはあっさりと決着がついた。

そのとき、欧米諸国に難癖をつけられないよう、
日本は慎重を期して南京攻略に望んだ。
南京には多くの外国人ジャーナリストがいて
日本を落ち度をてぐすねをひいて待っていたからだ。

このため、南京城を包囲した日本軍は、
まず籠城している国民政府軍にオープン・シティ勧告を出した。
しかし、それが拒否されたため、攻め込んだ。

また、総司令官(中支那方面軍司令官)の松井岩根大将は、
全軍に軍規の徹底を呼びかけた。
攻撃開始から3日後にあっさりと南京は攻略されたが、講和は叶わなかった。
既にアメリカ、イギリス、ソ連の
後ろ盾を得ていた蒋介石が徹底抗戦の姿勢を示したのである。

この南京戦で日本兵たちは衝撃的な支那兵を見た。
自分の足をトーチカ内で鎖につながれ攻撃させられていた兵士、
退却してくる味方を射殺する督戦隊などである。
日本軍は恐るべき人種と戦ったわけである。

中国の便衣兵、督戦隊(とくせんたい)、清野戦術
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2009/01/20 21:00|年表リンク用資料
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