●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
1938年7月~、日支和平工作
1938年1月16日、第一次近衛声明「国民政府を相手にせず」が出た後、 水面下では日支双方の和平派の接触が精力的に進められることになった。 7月には国民党の高宗武が来日し、 影佐・陸軍省軍務課長ら軍の指導部と会い、 「国民政府を相手とせず」の近衛声明発出にはそれだけの理由もあり、 すぐには撤回できないので、 過渡期の策として支那の元老である汪兆銘を相手に和平工作を進め、 それが軌道に乗ったところで、 汪の推薦で正式の交渉相手を蒋介石に切り換えてはどうか、 との提案を受けた。 帰国した高宗武は同志の梅思平(中央宣伝部香港特派員)と協議の上、 和平試案を作成して日本側に内話するとともに、汪兆銘に決起を求めた。 汪も、国民政府内の対日和平派が漸次弾圧を加えられつつある状況に鑑み、 自ら決意するところあり、 高らを改めて支那側代表に指名して対日折衝を命じたのであった。 かくして汪出馬への気運は、 相当早い時期から日支双方の和平派の間で動き出したのだ。 ――――――――――――――――― 参考 『大東亜戦争への道』 中村粲 著 |
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