正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1937年(昭和12年)11月、重慶政府樹立

南京攻略前に南京から逃げ出した蒋介石は、
最初は漢口、そして重慶に首都を定め、そこに逃げ込んだ。

重慶は山奥の都市で機関銃や大砲を作る工場もない。
日本軍に商工業の拠点すべてを占領され、奥地の重慶に撤退した蒋介石は、
普通なら武器弾薬の調達ができず、講和に望む以外なかった。
また、本来ならば汪兆銘の南京政府に対抗し続けるわけがない。

1940年(昭和15年)3月30日、汪兆銘、南京政府を樹立

しかしながら、この蒋介石の重慶政府に
アメリカ、イギリス、ソ連(フランスもドイツに降伏するまで)
が莫大な援助を行い続けた。

巨額な借款が供与され、援蒋ルートと呼ばれる道路や鉄道が開かれ、
重慶には膨大な兵器弾薬が運び込まれていた。

ソ連は陸続きで共産ゲリラを助け、飛行機も送り込んだ。
イギリスはインド・ビルマルートを通じて援助した。
アメリカは空軍部隊まで送り込んだ。

いずれも中立国にあるまじき行為だった。
特にアメリカの援助が崩壊寸前の蒋介石に抗戦を続けさせ、
日本軍を泥沼に引きずり込んだ。

日本のインドシナ進駐も、
この蒋援ルート(蒋介石の援助ルート)を止めるためであった。
海南島の占領も同じ目的であった。

1940年・昭和15年9月23日、北部仏印進駐
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2009/01/12 21:00|年表リンク用資料
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