正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1850年~1864年、太平天国の乱

1850年から14年間に渡って南支那で繰り広げられたこの乱は
世界史上最大規模の内戦である。

死亡者数は推定で5000万人、支那全人口の5分の1とも言われる。

太平天国軍は従来の農民反乱と違い、新興宗教団体だった。
キリスト教プロテスタント系と道教的な土俗信仰が
結合したカルト集団である。

教祖の洪秀全(こうしゅうぜん)は科挙試験に4回落ちた
読書人(知識階層)だった。
失意のうちに広東に帰郷し、病中に見た幻覚を”天からの啓示”と
受け取って拝上帝会を作ったという。

自分をキリストの弟と称して、
天父=神の意向を伝えるという形で信仰を広げた。
1850年、広西省で蜂起した洪秀全は、みずから「天王」に即位して、
”太平天国”の樹立を目指した。

1853年に南京を占領、「天京」と改めて都とし、みごと”天国”を樹立した。
その兵力は百万とも号された。
これはまた北京の満州人王朝に対抗する
支那人(漢人)政権=興漢でもあった。
その後、精鋭を集めて北伐軍を作り、黄河を渡って天津付近まで迫ったが、
1855年、北伐軍は各個撃破され敗退、
太平天国自体も守勢に向かうことになった。

なお、太平天国は内部分裂を重ね、
揚子江以南を支配していたが清朝の征伐軍に敗れ、
1864年、洪秀全は毒を仰いで自殺、南京も陥落した。
太平天国の乱に際しては、各地の会党、教党、匪団も蜂起した。
2010/03/12 06:00|年表リンク用資料
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