●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1939年5月6日、汪兆銘、上海へ脱出
重慶を脱出して仏印のハノイへ到着した汪兆銘に対し、 重慶政府は、汪の和平提議に報いるにテロを以ってせんとした。 蒋介石は工作員をハノイに送り込み1939年(昭和14年)3月21日、 汪を襲撃させたが、 汪と間違えられた人が凶弾に倒れ、汪は九死に一生を得た。 さらに、汪に呼応して決起するものと目論んでいた雲南や四川の将領たちも、 蒋介石の中央軍に牽制されて動くことができなかった。 重慶政府が和平提議に応じない場合は、自分の出身地の広東をはじめ、 広西、雲南、貴州、四川など日本軍占領地区以外の諸省に 和平政府を樹立するのが汪の構想だった。 日本の占領地域で生まれた政権では支持が得られにくいためである。 しかし、これらの諸省の軍隊は一兵も動かず、 汪の目論見に重大な誤算が生じたのであった。 のみならず、仏印滞在さえ危険になるに及んで、 汪は遂に日本占領下の上海に脱出した(5月6日上海着)。 上海に着いた汪は、直ちに、 和平政府樹立によって抗日の無意義であることを実証したいこと、 日本は第三次近衛声明を額面どおりに実行すべきこと、 将来重慶政府と和平政府が合流したときには自分は下野すること 等の意向を表明した。 翌6月、汪兆銘は日本を訪問した。彼は平沼首相や各大臣、 近衛前首相らと会見して、日本側が支那の主権と独立を尊重するよう 改めて釘を打った後、上海に帰って新政府樹立運動に乗り出した。 そして1940年(昭和15年)3月30日、南京で政府を樹立することになった。 |
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