正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1853年、ペリー来航

アメリカは19世紀前半に太平洋まで領土を奪いつくすと、
太平洋に乗り出し、とうとう日本へ来る。

1853年(嘉永6年)6月3日、日本に開国と通商を求め、
ペリー艦隊が黒船4隻を率いて江戸湾口の浦賀沖にやって来た。

ペリー来航の表だった目的は、アメリカの捕鯨船などが給炭、食糧補給の
ために立ち寄る港の開港を迫ったものであったが、
黒船がかなり長期にわたって付近の海洋調査などを実施したところをみると、
やがて遠征軍を持って日本を侵略し征服する野望が
当初からあったことは明らかである。

白人帝国主義の侵略の波がとうとうやってきて、
国内はあわて、緊急対応に迫られた。

ペリーらに対して江戸幕府は弱腰に徹した。
ペリーは大統領の親書を幕府に手渡し、
「来年またやってくるからな」と脅しを入れて日本を離れた。
実際に来年やってきて日本に日米和親条約を結ばせた。


当時はこのような脅迫外交が良いとか悪いとかいう時代ではなかった。

佐久間象山や吉田松陰は浦賀でペリーの船を視察していた。

日本が外国から開港を求められたのはペリーが初めてではなく、
以下の表のように以前から多くの外国船が日本に来ていた。

●1779年、ロシア船、蝦夷地に現れ松前藩に通商を要求するが、日本は拒否。

●1792年、ロシア使節ラクスマン、
根室に来航して通商を要求するが日本は拒否。

●1796年、イギリス船、室蘭に来航。

●1804年、ロシアのレザノフ、長崎に来て通商を要求する。日本は拒否した。

●1811年、ロシア軍艦長、国後に来て捕らえられる。(ゴローニン事件)

●1812年、高田屋嘉兵衛がロシアに捕らえられる。

●1825年、江戸幕府、異国船打払令を発布。

●1837年、アメリカ船が漂流民を伴い浦賀に入港。打ち払い令のため撃退。

●1853年、ペリー来航
2010/03/11 06:00|年表リンク用資料
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