正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1941年9月6日、御前会議

9月3日のルーズベルトの回答及びオーラル・ステートメント(9月3日回答)
により、日本はいつまでもあてのない対米交渉を継続すべきか、
見切りをつけるべきか、見切りをつけて開戦すべきか、
という重大決断を迫られた。

こうして9月3日、連絡会議は和戦に関する重大決定
「帝国国策遂行要領」を承認し、9月6日、御前会議で採択した。

この御前会議で、あくまで平和的外交手段を尽くすが、自存自衛のため、
対米戦争を辞せざる決意の下に10月下旬を目途として戦争準備を完整、
10月下旬になっても交渉成立の目途がない場合は
直ちに対米(英蘭)戦争開戦を決意することを決定した。

経済封鎖や石油禁輸などののっぴきならない事態に
追い込まれた日本はやむなく日米開戦を決意した。

この御前会議の前日、近衛文麿首相は
翌日決定されることとなった国策要綱について天皇に内奏したとき、
天皇は近衛首相の説明を聞き、戦争準備を第一に記し、
外交交渉を第二にかかげている点を指摘し、
「なんだか戦争が主で外交が従であるかのごとき感じを受ける」
との感想を述べた。

近衛首相は、
「そのような意図はなく、あくまで外交交渉を行い、
交渉がどうしてもまとまらない場合に
戦争準備に取りかかるという意味である」
と答えた。

さらにこの点を明らかにするために陸海軍両総長が招致され、
天皇から同様の質問を受けた。

9月6日の御前会議では、前日に引き続き、
天皇は「外交が主か、戦争が主か」と尋ねた。
及川海相が「重点は外交にある」と再度答えると
天皇は懐から明治天皇の御製を記した紙片を取り出し、詠み上げた。

よもの海みなはらからと思ふ世に
など波風のたちさわぐらむきようく

「全員恐僭して、しばらくは言も発するものなし」
と近衛首相が日誌にその時の様子を記している。

永野修身海軍軍令部総長が発言を求め、苦しい胸のうちを切々と語った。

「政府側陳述によれば、
アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、
戦うもまた亡国であるかも知れない。
すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、
戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、
戦って護国の精神に徹するならば、
たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、
われらの子孫はかならず再起三起するであろう。
統帥部としてはもとより先刻申したとおり、
あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、
もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、
勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である」

この永野総長の発言こそ、
当時の日本首脳の心境を如実に物語っているものである。
この発言でもわかるとおり、日本は、この時点でも戦争の準備は進めるが、
できることなら外交で開戦は回避したいと望んでいた。
2010/05/11 19:35|年表リンク用資料
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