正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1945年8月16日、汪兆銘・南京政府解消

汪兆銘の南京政府は終戦翌日の1945年(昭和20年)8月16日をもって解消し、
南京政府に参画した支那人は、
「漢奸(売国奴)」として重慶政府に逮捕、処刑された。

汪自身は、1935年に狙撃されたときの傷が悪化したため、
1944年(昭和19年)3月来日し、名古屋帝大付属病院に入院したが、
同年11月10日他界していた。

南京・中山陵に隣接したコンクリート製の汪の墓地は
支那陸軍空軍総司令・何応欽の密令を受けた部隊によって無残に爆破され、
その上、汪の霊柩は市内に運び出されて焼却された。
終戦時に汪が存命していたならば、
第一級の漢奸として処刑されたことは間違いない。

戦後、汪兆銘は台湾の国民政府からも、
支那大陸の中共政府からも漢奸という不名誉な扱いを受けてきた。

汪兆銘夫人は裁判にかけられたが、
そこで次のような主張を堂々と述べ、傍聴席から激しい拍手が起こった。

「日本軍の進撃の前に国民政府要人が先を争って逃亡し、汪は決然、
対日和平を提唱し、あえて虎穴に入り虎児を得んとしたのであった。
日本軍の手中におかれた南京・上海地域の支那民衆を
保護する支那側機関としては、汪の南京和平政府しか存在しなかった」

国民にとって自らの国の政府が存在しないことほど悲しいことはない。
実権は日本の軍隊が握っていたとしても、汪兆銘の政権があれば、
充分とまではいかなくても民衆の要望は多く通る。
無政府状態よりははるかにいい。それを裁判の傍聴者は実感していたのだ。

反共平和政府を樹立し、
日華和平の範を示すことによって重慶と国民を啓蒙し、
重慶の交戦政策を翻意せしめんとする。…これが汪の運動の狙いであった。

日米開戦と日本の敗北という予期せぬ事態の展開が、
蒋介石を勝者たらしめ、汪兆銘を敗者たらしめたにすぎない。

汪はかつて国民党左派の領袖であり、
支那共産党と事を共にした経験があるだけに、
共産党の本心と手段をよく見抜いていた。

汪には、蒋介石の交戦が日本に抵抗できぬのみでなく、
共産党を押さえることもできず、
このままでは国家民族は共産党の犠牲になる他ないことがわかっていた。

「抗日戦争」勝利の後、国民党が共産党に裏切られて敗退し、
支那が赤化されるに至った歴史をみると、共産党の謀略に対する
汪の憂慮と警告の的確であったことに改めて驚嘆する他ない。
共産主義の危険な成長に関する彼の予言は見事に的中した。
2010/05/12 21:26|年表リンク用資料
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