正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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食糧などの補給と調達

「日本軍は南京で食糧などを現地調達したため、
掠奪し、その際に虐殺もあった」などと嘘をつく者がいます。
そこで、日本軍の食糧の補給や調達について説明しておきます。

●食糧などの補給と調達

日本軍の食糧は、日本本土からの補給を原則としましたが、
輸送などの問題で補給が不如意になり現地調達する際にも、
支那軍のように強奪するのではなく、お金を払って調達しました。

調達

12月1日 第16師団の後方参謀・木佐木久少佐

奔牛鎮で米八百表、小麦1千表、
砂糖百袋、小蒸気(発動機船)二杯(隻)を徴発せり。

12月4日 上海派遣軍参謀長・飯沼守少将の日記。

「無錫に大工場多く且倉庫櫛比す」
「本日、白米、軍の約一か月分、塩大麦燕麦多量徴発せり」
―――――――――――――――――
このような大量の食糧が、普通の民家に隠されているわけがないので、
公的機関か商業関係の倉庫にあったもの。
「南京攻撃を前に無錫で大量に食糧を徴発したことで、
主食に関しては輸送の問題を除いてほぼ解決した」(榊原証言)

ただ、南京米はポロポロだというので、不評を買いました。
尚、徴発や労役に関しては、原則として現金を支払いました。

貨幣は最初、日本銀行券と法幣を使いましたが、
当時、日本の国際収支がよくなく、外貨準備も裕福でなかったので、
内地の円に影響が現れ、金融面、為替管理に不都合を生じました。

その為、急遽、10月の閣議で軍票の発行が決まり、
11月の第十軍杭州湾上陸から、軍票支払いに切り替わりました。

輸送の問題

食糧自体に心配はありませんでしたが、輸送が隘路でした。
日本軍は上海付近だけで行動する予定だった為、
南京まで物資を輸送する自動車が足りませんでした。
鉄道は破壊されて使えませんでした。

松井石根日記には次のようにあります。

11月18日
「軍ノ追撃二伴ヒ蘇州河、劉河及白茆河、又ハ滸浦河ヲ利用シ主トシテ
水運二依リ一部ノ陸路輸送ト相俟テ概ネ其目的ヲ達成スヘキ
見込ミナルヲ知ル。尤モ太倉其他所在ノ地二相当多量現存セルヲ以テ
一時糧食ノ補給ヲ欠クモ糧秣ハ心配スルヲ要セス」

11月22日
「両軍ノ補給ハ連日ノ追撃前進二伴ハス已ムナク飛行機ヲ以テ空中ヨリ
糧食・弾薬ヲ投下シ其急ヲ救フノ状ナリシカ、
今日ノ晴天御蔭シ今後逐日其状勢ヲ恢復スルコトヲ得ン」

11月27日
「両軍ノ後方補給ハ軍ノ追撃二伴ハス、一時困難の状勢ニアリシカ、
天候の恢復ト地方舟楫ノ整備ニヨリ漸次ニ補給力ヲ増加シツツアリ。
此処旬日ノ間ニハ概ネ両軍共ニ補給ノ整正ヲ得ルニ至ルヘシ」

『南京戦史資料集Ⅱ』

以上、板倉由明著『本当はこうだった南京事件』P355~P361より抜粋要約引用

【まとめ】

11月18日、糧食は太倉その他の所在地に相当多量現存、心配する必要ない。

11月22日、前進に追いつけないので飛行機より投下。

11月27日、ここ10日以内には補給がまともにできるようになるだろう。

となります。

19日が蘇州陥落で22日が蘇州出発ですから、
松井大将の日記はこの時のことを補足しています。

つまり、物資はあったけど輸送に限界があったため、
一時途切れたりはしたが補給はちゃんと行なっていたのです。
(参考)
【不如意の補給・給養】
上海~南京間約200里を概ね30日間で進撃しました。
(追撃発起11月11日前後、南京占領12月13日)。
したがって、1日の行程は平均7里であり、当時の軍兵站の常識から見れば、
第一線への補給追随が困難な作戦ではありませんでした。

試みに当時の弾薬・糧秣を見てみましょう。
各兵士は非常用の携帯口糧3日分
(乾パンと米、固形調味料とカン詰)を持っていましたが、
この携帯口糧は後方から補給途絶した非常の場合、
指揮官の命令によらなければ使用できませんでした。

歩兵連・大隊には大行李(糧食1日分)、小行李(弾薬)があり、
師団輜重兵連隊は通常6個中隊で、歩兵弾薬2個中隊、砲兵弾薬2個中隊、
糧秣2個中隊(2日分)に編成されていたので、
師団では7日分の糧秣を携行していたことになります。

さらに、第一線師団への常続補給をつづけるために、
軍には兵站自動車中隊が配属され、
上陸基地には兵站補給諸厰が設けられ日本本土と補給線をつないでいました。

上陸後、引き続いて追撃作戦に移った当初は、各師団の追撃隊は、
補給給養が意の如くならず、現地物資によったのですが、
南京攻略当時(12月10日以後)は後方兵站も漸く追随していました。
したがって、将兵が飢えのあまり掠奪を行うような状態にはなかったのです。
2009/01/09 21:00|年表リンク用資料
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