正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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「婦女暴行ノミニテモ百餘件ニ上ル」

「丁集参一第一四五号」1937年(昭和12年)12月20日
【杭州占領に伴う秩序維持と配宿等に関する丁集団(第十軍)の命令】
の中に
「婦女暴行ノミニテモ百餘件ニ上ル」
と述べられていたことを以って、
「日本軍は12月20日時点において既に強姦だけでも
100件以上発生していたことを認識していた」と主張する者がいますが、
これには「からくり」があって、
12月20日までに日本軍が100件の強姦を行なった事実はありません。

日本軍が南京で把握した強姦件数は、10件程度でした。
――――――――
(南京安全地帯の記録より強姦の事例を紹介)

そこで、記録者名のある強姦(未遂)事例61件のうち、
日本軍に通報された事例を挙げると、それは次のように分類されます。

【1】日本兵逮捕の事例は、右の「事例167」の1件のみであった。

【2】日本兵が憲兵に引き渡されて事例は、
右の「事例227」の1件のみであった。

【3】憲兵に連絡された事例は、「事例426」の1件のみであった。

【4】日本兵が連行された事例は、
「事例168」と、「事例220」の、2件であった。

【5】被害者が証人として同行を求められたのは、
右の「事例146」の1件のみであった。


【6】日本兵と被害者(未遂)が連行されたのは、
「事例216」の1件のみであった。

このように日本軍に通報された件数は、合計7件でした。
右の計算には、あるいは見落としがあるかも知れません。

そこで、東京裁判に出廷した塚本浩次法務部長の証言をも紹介しておきます。

法務部とは軍関係の裁判を司る部門でした。
塚本法務部長は上海派遣軍法務官として、
1937年12月から1928年8月まで南京に在勤しました。
その間に、何件の事件を扱ったのか。
サトン検察官から、そう尋問されて、彼は次のように答えました。

《10件内外であつたかと思います。(略)
10件と申しましたのは1人1件ではございません。
1件の中には数人を含む場合も相当あります。》

P261 『「南京虐殺」の徹底検証』東中野修道著
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では、どうして、12月20日付の第十軍参謀長命令に、
「婦女暴行ノミニテモ百餘件ニ上ル」などと述べられていたのか?

実は、外国との折衝をしていた上海日本大使館参事官の日高信六郎が、
12月17日・18日に南京を訪れたとき、
参謀長や朝香宮司令官や憲兵隊長や警備司令部などを訪ねて、
暴行の多発などあること・ないことを説いてまわっていました。
(「広田弘毅」 広田弘毅伝記刊行会 1966 P311~P315)
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日高信六郎氏は、南京事件当時、大使館参事官として上海におりました。
南京には、1937年12月17・18日、12月25・26日など、
4回にわたり出向いています。
「南京大虐殺事件資料集1 極東国際軍事裁判関係資料編」P180
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全区国際委員会のデマ宣伝が、日本の外務省関係者に伝わり、
そのデマ宣伝を真に受けた上海日本大使館参事官の日高信六郎などによって、
南京に居た第十軍参謀長や朝香宮司令官などに伝わったのです。

南京安全区国際委員会メンバーで支那国民政府の外人宣伝工作員
→(デマ宣伝)→上海の各国領事館や海外→日本外務省→
上海日本大使館参事官の日高信六郎→第十軍参謀長など

したがって、
「12月20日時点において既に強姦だけでも100件以上発生していた」
と言うのは事実ではありません。

丁集参一第一四五号(第十軍参謀長命令)1937年(昭和12年)12月20日は、
日本軍による強姦100件以上の証拠には成り得ません。

現場に居た日本軍憲兵隊に通報された事件は、
強姦がせいぜい10件程度で掠奪も似たようなものです。
虐殺に至っては0件でした。
2009/01/08 21:00|年表リンク用資料
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