正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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日高信六郎

資料・提出証拠、支那関係

東京裁判で証人として出廷し、宣誓供述書で証言した証人、日高信六郎

本証人は、昭和12年(1937年)4月30日から8月16日まで大使館参事官として
在南京日本大使館に勤務、
次いで8月29日から翌13年3月3日まで同じ資格で上海におり、
3月17日総領事に転官、同年12月、命により帰国するまで、
上海総領事を務めていた人物であり、松井被告との関係、
南京事件に関して承知する事項等について、要旨次のように証言している。

「上海勤務中、南京へは2度行った。第1回目は12月17日、18日両日、日本軍の
入城式および慰霊祭に参列のため、第2回目は12月25、6両日に行った。
(中略)
軍司令部の幕僚その他軍の幹部が執った措置について、
私が知ってる主なものは次のと通りである。
(略)
2.南京入城当時、日本軍憲兵の態度は概して公正であり、
外国人および中国人に評判が良かった。
ただ、初めの間人数は極めて少なく、12月17日、
私が聞いたところでは隊長の外に14人であり、
数日中に40名の補助憲兵が得られる、とのことであった。
(中略)
南京陥落前後には、次のような事情があった。
(略)
(7)南京陥落当時、市内の状況は完全な無政府状態であった。
占領直後に私が同地で見たところでは、次のようなものがあった。
(略)
【2】(略)また、外国新聞記者はいずれも、籠城中の有様を
本社に電報するため南京から早く出たいと希望し、南京陥落数日の後、
日本軍側から提供された便宜を利用して全部上海に下り、
12月17日、私が行った時は1人も残っていなかった。
(以下略)
『「南京大虐殺」はこうしてつくられた』冨士信夫著
―――――――――――――――――
種明かしをすれば、日高参事官が南京在留外国人から
総領事館に対する抗議について、軍に直接注意をしたという事実は
東京裁判の宣誓口供書にも述べられています。

しかし、それが行われた時期についての記述はありません。
この件について宣誓口供書には、

『日本軍人に依て行はれたと称する種々の行為に関して
在留外国人から総領事館宛申入れがありました。
是等の大多敦は伝聞でありましたが総領事館では事実を
一々調査する暇も無かった為、一応其の儘之を東京外務省に報告し
(私は上海で其の写しを読みました)
南京では直接軍側に話し其の注意を喚起しました。
東京で外務省から陸軍側に注意したものと見えます。』

とあります。

国際委員会が「日本兵の不法行為の事例」を日本大使館に
最初に提出したのは12月16日で、
17日、18日にも日本大使館への手紙を提出していますが、
日高氏がこれらの報告を写しで読んだのは上海ですから、
どんなに早くても最初の出張から帰った後のことです。

是等の事情を勘案すれば、
日高氏が軍に注意したのは12月25日、26日の出張の際です。
この時期ならば松井司令官は上海に戻っており、
日高参事官が直接話をしなかったことにも合理的な説明がつきます。

このことは、飯沼日記12月25日の
『午後日高参事官、福井領事(南京総領事代理)来リ種々話ス。
要ハ外国大公使館等ニハ為シ得レハ歩哨ヲ立テ彼等ヲ安心セシメラレ度、
又成ルヘク早ク所要ノ外国人ヲ南京ニ来リ得ル如クセラレ度ト云フニ在リ。』
という記述からも裏付けられます。

このように、『広田弘毅』の日高証言の価値は
『極東国際軍事裁判速記録』に収録された日高証言に大きく劣後するのです。
この件に関して言えば、外国人からの抗議について、
日高参事官にはそれが事実という認識はなく、
飯沼参謀長に対する申入れもつけ込まれることがないようにという
注意喚起の域を出るものではなかったということだ。
『広田弘毅』に収録された日高証言は、
日高氏の実体験から大きく歪められています。
2009/01/07 21:00|年表リンク用資料
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