正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1854年、日米和親条約

前年に浦賀に来航したペリーは脅しどおり再び日本にやってきた。
今回は、浦賀沖から羽田沖まで艦隊をまわし、
横浜で交渉するよう江戸幕府に要求した。

そして、嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約が調印された。
この条約により次のようなことを幕府は承認した。

・下田、函館の開港

・遊歩区域の設定

・薪・水・食料の供給

・外交官の下田駐在

・最恵国約款の承認

これにより幕府の鎖国政策は終了した。

アメリカに続いて、日本はロシア、オランダ、イギリス、フランスとも
同じような条約を結ばされた。

今回のペリー来航では、ペリー艦隊が下田に入港したとき、
吉田松陰と金子重輔がボートでペリー船に近づき、乗り込むことに成功した。
吉田松陰らは、外国に連れて行ってほしいとお願いしたが、
ペリーは拒否し、追い返した。

当時は外国に密航することは国法で禁止されており、
吉田らは自首して投獄された。

その後、吉田松陰は出獄し、
叔父の玉木文之進が長州藩の萩、松本村に開いた松下村塾を継ぎ、
明治維新につながる逸材を多数育てることになる。
2010/03/10 06:00|年表リンク用資料
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