正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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南京安全区国際委員会・宣教師・南京大学教授、シール・ペイツ

ベイツは宣教師で、南京で大学教授をしていました。

南京安全区国際委員会のメンバーであり、
当時から日本軍の犯罪を米国領事館へ報告したり
日本大使館へ抗議をしまくっていました。

また、戦後の東京裁判でも様々な証言をして、
「南京大虐殺」を作り上げた中心的人物の一人です。

実は、1937年12月15日に南京を去ったNY・タイムズのダーディン記者や
シカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者に
出鱈目メモを渡したのもベイツでした。
――――――――
南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』105項。
1938年1月5日、上海のアメリカ総領事ガウスからワシントンの国務長官宛の
「祕密扱い」の報告書簡 (出典:Record of US Embassy to Chinam
Correspondence American Embassy Nanking)には次のように記されている。
「南京大学のシール・ペイツ博士(社会学および歴史学の教授)が書いた
日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。
本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』 の
アーチボルト・スティール氏が当総領事館の館貞に手渡したものである」
――――――――
ベイツは長く南京に滞在したのですが、
ベイツ自身が目撃した虐殺は0件なのです。

ベイツが所属した安全区国際委員会の公文書にある殺人事件の報告を基に
犠牲者を数えると、出鱈目ばかりですが、それでもたったの約50件です。

ところが、ベイツは、「ベイツ・メモ」で
4万人大虐殺を主張した1938年に国民政府から勲章を受けました。
また、ベイツは、東京裁判で
市民1万2000人大虐殺を主張した1946年にも国民政府から勲章を受けました。

他の安全区国際委員会のメンバーは、
1938年や1946年に国民政府から勲章を受けていません。
ベイツが国民政府から貰った「勲章」と
南京大虐殺の「大宣伝」の相関関係は、これで充分に説明がつきます。

日本軍占領地で日本人と親しく付き合っていた者たちは、
戦後、国民党から弾圧されました。
日本軍占領地に居ながら、
戦後、国民党から勲章を受けたというのは余程のことです。
このことだけでも、ベイツが国民党側の人物だったことは確実なのです。

さらに、2001年には、ベイツが「国民政府の顧問」と
紹介されていた新聞記事の切り抜きまで発見されました。

「南京虐殺問題」

―――――――――――――――――

南京陥落(1937年12月13日)後に日本軍によって中国の一般市民や捕虜が
虐殺されたとする"南京虐殺"問題について新事実が明らかになりました。

亜細亜大学教授の東中野修道氏は『諸君!』2002年4月号の
「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」で、
当時、南京大学の歴史学教授で敬虔な宣教師、
従って中立的な証言者として知られたマイナー・サール・ベイツが
実は国民党中央政府の顧問だった事実を昨年イエール大学で発見しました。

また同大学では、ベイツがその著書で初めて4万人虐殺を主張した1938年と
東京裁判で市民1万2000人虐殺を主張した1946年に、
当時の中国政府(国民党政府)から勲章を受けたと
晩年に書かれた自筆の履歴書も見つかっています。

「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」

そのティンパーリと反日的な点で同志関係にあったベイツも、
中華民国政府顧問であったことも次の史料から明らかになりました。

それを証明したのが、イエール大学で私が発見した
小さな新聞記事の切り抜きであった。写真説明は次のようになっている。

「中国の首都南京の城門を攻める日本軍の砲撃がこだまするなか、
それに怯むことなく、
オハイオ州・ハイアラム出身の南京大学歴史学教授にして、
中華民国政府顧問のマイナー・サール・ベイツ博士(写真)は、
城壁で囲まれた南京城内の自らの持ち場を離れることを拒否した。
アメリカ大使館は、ベイツ博士が最後の瞬間に逃げることを許可し、
彼に、城壁をよじ登って降りるさいの縄ばしごを提供した」

『諸君!』2002年4月号



―――――――――――――――――

ベイツは、東京裁判で日本軍による強姦についても証言をしましたが、
これがまた驚くべきトンデモ証言でした。
――――――
「それより少し前私はずっと内輪に見積もりまして、
又安全地帯の委員会の報告のみによりまして、
強姦事件は八千と見積もったのであります。」

「東京裁判速記録第三六号」『南京大残虐事件資料集 第一巻』P50

A little earlier I estimated, very much more cautiously and on the
basis of thesafety zone reports alone, some eight thousand cases.
「The Tokyo War Crimes Trial, 」pp.2633-2634
――――――
"on the basis of the safety zone reports alone"、

つまり、「安全区国際委員会の報告のみを基にして」、
強姦件数を8000件と見積もったと証言したのです。

しかし、安全区国際委員会が記録した「被害届」に記された強姦事件は、
未遂を含めても361件で、記録者名のある事例は僅かに61件で、
さらに日本軍に通報された事例は7件のみだった。

「安全区国際委員会の報告のみを基にして」、
強姦件数を8000件と見積もったというベイツの証言は、
明らかな嘘であり、口からデマカセの数字でした。

―――――――――――――――――

また、上記の証言の少し前には以下のような証言もしました。
――――――
「私は現に強姦している現場を見て、
そして其の兵隊の五回に亙る強姦の現場を通り合わせました。
其の詳細は尤も御希望でありましたら申述べますが、私は其の
強姦して居る兵隊を強姦されて居る女達から引き退けたのであります。」

「速記録第三六号」
――――――
なんと、ベイツは、
「強姦されて居る女達から日本兵を引き退けた」と言うのです。
こんな証言を誰が信じるでしょうか?

―――――――――――――――――

同じように非常に不思議なベイツの安全区国際委員会「報告」があります。

――――――
第467件
3月19日午後3時半から4時の間、金陵大学語学学校の難民キャンプで、
日本兵1名が19歳の難民の少女を強姦した。
ベイツ博士が4時5分ころ、現場に到着して兵士に近づくと、
兵士は脅すように銃剣を振り回し、
ふてぶてしい態度で「女が欲しいのだ」と言った。
だが、ベイツ博士は兵士を説得してそこを立ち去らせた。
兵士に酔っている様子はなかった。
――――――

なんと、ベイツは、
『銃剣を振り回し、ふてぶてしい態度で「女が欲しいのだ」と言った』
日本兵を説得して立ち去らせたと言うのです。

ベイツが日本語で説得できる訳がないので
英語で説得したのでしょうが、実に不思議な話です。

さらに、ペイツは、アメリカ大使館の
アリソン宛に1月14日付で次のような手紙を出しています。

――――――
昨夜4人の日本人が金陵大学付属中学校の教室へ入ってきました。
彼らの行動の詳細は充分には分かりません。
というのはしかるべき目撃者が脅えきっているためです。
とにかく彼らは1人の少女を連れ去りました。
それらの日本人たちは憲兵で、少なくともその一部は、
中学校の門に配備された衛兵たちでした。
彼らは中国人の布靴を履き、一部に中国服を着ていました。
――――――

ペイツは「詳細はわからない」と言いながら、
また自ら目撃したわけでもないのに、
犯人は支那人に変装した日本兵、それも憲兵だと断定しています。
目撃したと称する支那人の証言を何の疑いもなく受け入れているのです。
しかし何のために日本兵が支那人に変装しなければならないのか、
合理性を欠くと言わざるを得ません。

―――――――

ベイツが嘘をついて宣伝工作活動を
行なっていた決定的な根拠は、1937年12月15日の言動です。

12月15日、ベイツは、南京の金陵大学を訪れた2人の日本の新聞記者には、
『…秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです』
と話して記者の手を握りました。

しかし、同じ日に南京に居ない知人に宛てた手紙には、
『…日本軍は、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行…
(略)…南京で示されているこの身の毛もよだつような状態…』と書き、

また、12月15日に南京を去るダーディンやスティールにも
同様に民間人殺害や強姦について書いたメモ(レポート)を渡しました。

ベイツの行為は、宣伝工作そのもであり、
宣伝工作員だったことは間違いありません。

12月15日、南京において目の前に居て、
その後も南京に留まる日本の新聞記者や同僚の陳教授には
嘘が通用しないから有りの儘の事実を話し、南京に居ない知人や
南京を去るダーディンやスティールたちには大嘘宣伝工作をしたのです。

ダーディンたちは12月15日まで南京に居ましたが、
戦闘の様子や便衣兵の処刑しか目撃していません。

5人の日本兵がアメリカ大使の私邸から懐中電灯1本を略奪したとか、
大学病院で金品が盗まれたことなどは取材で知ったようです。

しかし、日本軍による民間人殺害とか強姦の記事はベイツのメモによる
ものでした(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』)。

そもそも、15人の安全区国際委員や多くの日本人記者などは
12月15日以降も長く南京に滞在したのに1件も日本軍による市民虐殺を
目撃しなかったのですから
15日の昼に南京を去ったダーディンやスティールが虐殺を目撃した訳がなく、
ベイツのメモを記事にしたことは記事を読んでも判ります。

一方、昭和12年12月16日付東京日日新聞の若梅、村上両特派員の記事は、
『空襲下の南京生活 金陵大学・米人教授に聴く』と題し、
12月15日のベイツの発言そのものを記事にした。

そこで、ベイツは、
「…『…秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです』
と記者の手を握つた、…」訳であり、同じ日に南京に居ない知人に
宛てた手紙や南京を去るダーディンやスティールに渡したメモには
『…日本軍は、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、
婦女暴行…(略)…南京で示されているこの身の毛もよだつような状態…』
と書いていました。

ベイツが知人に宛てたこの手紙は、翌年、ティンパリーの
『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)に編纂され出版された。
『WHAT WAR MEANS』には、この手紙の他にも12月26日付の
『埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が
南京城内または城門の付近で殺され、
その内の約30%はかつて兵隊になったことのない人々である。』
などとベイツが書いた手紙も編纂されました。

ベイツたちがもし日本軍の犯罪を知ったら、日本軍憲兵隊や日本大使館や
日本の新聞記者などに訴えるのが安全区国際委員会としての責務だった。
それなのに、ベイツらは、そのような責務を果たさず、南京の外
(上海や海外)に向けて荒唐無稽な万単位の虐殺を宣伝していました。

これらの宣伝工作が評価され、
ベイツは1938年に蒋介石政府から勲章を貰ったのです。

もう一つベイツが嘘つき宣伝工作活動を行なっていた決定的根拠は、
1946年、東京裁判で「安全区国際委員会の報告のみを基に強姦件数を8千件」
と証言したことです。

安全区国際委員会が記録した「被害届」に記された強姦事件は、
未遂を含めても361件で、記録者名のある事例は僅かに61件で、
さらに日本軍に通報された事例は7件のみだったのですから、
この嘘が覆ることは絶対にありません。

また、ベイツは、東京裁判で、
「スミス教授及び私は、色々な調査・観察の結果、
我々が確かに知っている範囲内で、
城内で1万2000人の男女及び子供が殺されたことを結論といたします」
と偽証しました。

他にも理解不可能な様々な驚くべき証言をしました。

蒋介石政府は、日本の「戦争犯罪」を裁くための「東京裁判」に備え、
1945年11月7日「南京敵人罪行調査委員会」を設置し、
支那人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけましたが、
マトモな証人が現れず非常に苦労しました。

その中にあってベイツ証人の活躍は凄いものでした。
「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」
(戦争への罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)
を遂行中だったGHQに、とっても頼もしい証人でした。

これらの宣伝工作が評価され、
ベイツは1946年に、再び、蒋介石政府から勲章を貰いました。
ベイツが嘘つき宣伝工作員だったことは100%確実です。

―――――――――――――――――

◆ベイツからテインパリーへの手紙 1938年3月3日

われわれの考えはこうです。
ずっと行われてきた戦争における野蛮な行為を、
戦場から隔たっている公衆に知ってもらうためには、
一つの街についてよりももっと広範囲な地域にわたって
述べたほうが効果があるということです。

遠くにいるものは、南京は結局例外です、
つまり首都と言う名前ゆえの政治的憎悪や、時間的、
人員的な偶発事件によるものと簡単に思ってしまいます。

しかし、同じ時期に、上海、松江、蘇州、無錫、湖州、抗州にも同様な話が
あることが分かれば全体的に見てずっと信憑性があるということになります。

◆『南京事件資料集』アメリカ関係資料編。
テインパリーからベイツへの手紙 1938年3月28日

なぜ私が上海、松江、嘉興を放っておくのかとお尋ねですが、
『戦争とは何か』の第7章を読んでいただければ分かると思います。
この点を調べていくと、上海付近の民衆に対する暴行については、
確実な証拠がほとんど見つかりません。
日本に対して申し立てられた事件は主として南駅の爆撃とか攻撃機から
民衆を機銃掃射するといった一連の空爆が主なのです。

『南京事件資料集』アメリカ関係資料編 【注】一連の空爆も支那軍による。

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支那側が宣伝工作を本格化したのは、1937年11月頃からである。
―――――――
極秘文書の『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』のなかの
「編集課工作概要」は次のように記していました。
―――――
董顕光副部長が命を受けて上海から南京に赴き、
第五部の業務を肩代わりして対外文書宣伝の重要性を察し……
同月(1937年11月)中旬……第五部は範囲を縮小して、
国際宣伝処と改められ、国際宣伝処は中央宣伝部に所属することになる。
―――――
1937年11月と言えば、上海が陥落したところである。
第五部とは、国民政府軍事委員会のなかで国際宣伝を「主管」していた第五部
のことで、董顕光は南京陥落の2ヵ月前にその副部長となっていた。
そして対外的な宣伝戦を重視する董顕光の発案により、
国民政府軍事委員会の第五部が、国際宣伝処に改組されて
中央宣伝部の直属となり、本格的に工作活動を展開し始めたことになる。
董顕光は次のようにも「自伝」に記されている。
―――――
政府は大規模に改組した新しい部署の中から第五部を取り消し、
国際宣伝業務は中央党部所属の宣伝部に組み込まれて、
私は宣伝部の副部長という身分で、
曽虚白を始めとする国際宣伝処の仕事を監督指導することになった。・・・
―――――
P30
『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』東中野修道著

―――――――――――――――――

このように、支那が宣伝工作を本格化させ始めたのは、
1937年11月頃からでした。

1937年11月頃から本格化した支那側の宣伝工作において、12月以降、
ベイツは日本軍の極悪非道の対外宣伝に中心的役割を果たしました。

しかし、そのベイツも1937年7月から始まっていた支那事変において、
11月まで全く残虐行為をしていなかった日本軍が
12月から突如急に南京で大虐殺を始めたのでは不自然だと思ったのでしょう。

そのため、何とか11月以前にも上海やその他の街で
日本軍が残虐行為をしていたことも宣伝もしておきたかったのですが、
上海に居たテインパリーかいくら調査しても、1937年11月以前の
日本軍の残虐行為を何一つ把握することが出来なかったのです。

結局、それでもベイツは12月以降南京における
日本軍の残虐行為の嘘宣伝を断行するのですが、
冒頭に提示した1938年3月に行われた
南京のベイツと上海のテインパリーの手紙のやり取りは、
宣伝工作員としてのベイツの憂慮を表したものとして面白いといえます。

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ベイツは蒋介石政府の顧問だった。

イェール大学所蔵の南京関係文書の中にあった新聞記事の切り抜き

(顔写真の下の説明文)
中国の首都南京の城門を攻める日本軍の砲撃がこだまする中、
それに怯むことなく、
オハイオ州ハイアラム出身の南京大学歴史学教授にして、
中華民国政府顧問のマイナー・サー・ベイツ博士は、
城壁で囲まれた南京城内の自らの持ち場を離れることを拒否した。
アメリカ大使館は、ベイツ博士が最後の瞬間に逃げることを許可し、
彼に城壁を下りる際の縄ばしごを提供した。
2009/01/04 21:00|年表リンク用資料
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