正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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『曾虚白自伝』 曾虚白・元国際宣伝処処長

我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、
我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を探して
我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。

ティンバーリーは理想的人選であった。
かくして我々は手始めに、金を使ってティンバーリー本人と
ティンバーリー経由でスマイスに依頼して、
日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、
印刷して発行することを決定した。

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英マンチェスター・ガーディアン紙・中国特派員、H・ティンパーリー

ティンパレーの『What war means: The Japanese terror in China』
の内容は、エドガー・スノー「アジアの戦争」にも派生、
様々な著作・メディアに引用され、東京裁判でも大いに重宝され
「日本軍による南京大虐殺」なるものの本家本元・元祖家元となっている。

国民党国際宣伝処の処長・曾虚白は自伝のなかで次のように書いている。
「ティンパレーは都合のよいことに、
我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の
『抗戦委員会』に参加していた3人の重要人物のうちの1人であった・・・
(中略)
我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、
国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。
ティンパレーは理想的人選であった。

かくして我々は手始めに、金を使ってティンパレー本人と
ティンパレー経由でスマイスに依頼して、日本軍の大虐殺の目撃記録として
2冊の本を書いてもらい、発行することを決定した」

当時、極めてタイムリーに出版された日本断罪の書、
『戦争とは何か』と『南京地区における戦争被害』(「スマイス報告」)が、
実は、中立的立場の第三者の人物によって書かれたものではなく、
国民党の戦時宣伝戦略のために資金援助を受けて
執筆されたものであることが判明したのである。

英語版は文字だけだが、同時に出た中国語版「外人目観中之日軍暴行」には
写真までが加わっていて、これらの写真が現在、
南京大虐殺館に展示されている胡散臭いおなじみの写真そのものなのである。

そして今年、東中野氏は国民党中央党史史料編纂委員会の所蔵史料から、
それらの写真と同じ写真も見つけた。

ティンパレーは序文の中で、見聞したという日本軍の暴行記事を
ガーディアン紙に打電しようとしたが上海の日本側電報検閲員に
発電を差し止められたので、本を書くことで世界に知らせようとした、
と記している。

しかし、根拠のない30万という数の記事など、
非常識として差し止めるのは当然であり、
むしろ彼は承知のうえで「差し止め」させる状況をわざと作り、
「差し止め」られるとその事実を誇大に宣伝することで
自分の捏造記述に信憑性を持たせたのだった。

そして、理不尽な日本の弾圧をくぐりぬけ、
良心的ジャーナリストとして真相を発表・告発したのだと、
自分と自著を持ち上げた。

国民党にとってティンパレーは、
まさにツボを心得た見事なエージェントであった。

昭和13年1月17日、ティンパレーのこの
「南京その他で30万を下らない民間中国人が殺戮された」
という記事を広田弘毅外相名でワシントンの日本大使館に送信、
それがアメリカ側に傍受され解読されていた。

これをもって、当時の日本の軍中央や政府の指導者が
南京大虐殺を知っていた証拠だと嬉々として述べる人がいる。

しかしこれは「こんな与太記事を流す記者がいる」と伝達しただけのもので、
南京の暴虐を事実としたものではない。

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「新『南京大虐殺のまぼろし』」 鈴木明著 より引用

ティンパーレー(田伯烈)の『外国人の見た日本軍の暴行』、
この史料は「南京大虐殺」を語る上で、
戦前から、特に中国では有名になった本といわれ、
「東京裁判」でも、「南京難民区」の実状を語る証人に選ばれたのは、
この本でティンパーレーに手紙を送った人たちであった。

しかし何故か「東京裁判」にティンパーレーが呼ばれることはなかった。
そればかりではなく、ティンパーレーがどのような人であるかは
「マンチェスター・ガーディアンの記者である」という以外は全くわからず、
僕はイギリス、アメリカ、オーストラリアの人名辞典を頼りに、
ティンパーレーなる人物を探しまくったが、
どの人名辞典にも「Timperley」の名はなかった。

僕が、ティンパーレーの原著作と思われる
『What war means : The Japanese terror in China 』と、
その最初の中国語訳と思われる『外国人目睹中之日軍暴行』
を初めて発見したのは、全くの偶然であった。・・・・

何回目の中国旅行のときであったか、A君(中年のガイド役)はある日、
七百頁ぐらいの『近代来華外国人名辞典』
(中国社会科学出版社、1981年12月出版)
の奥付がある本を持って来て、「多分、これじゃないか」と、
なにげなくこの、やや手あかによごれた一冊の本を渡してくれた。

彼の友人が以前買って、結構便利に使っている、
という人名辞典であった。
そして、そこに「田伯烈(ティンパーレー)」の名前が出ていたのである。

たまたまコピーもなかったので、これはそっくり手書きで書き写した。
・・・「(訳文)ティエンパレー、ハロルド・ジョン・ティエンパレー、
1898年生まれ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。
ロイター通信の北京記者となる。
その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。

1937年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、
宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。
編著に『中国に於ける日本人の恐怖』(1938年)一書がある」

ついでに同じ本の中でエドガー・スノーの箇所も参考に見て、
その内容の正確さを比べてみたが、
スノーの部分は完璧といってもいい正確さであった。・・・・

とにかく、長い間続いていたイライラが一挙に解消したのは、
ティンパーレーが「国民党中央宣伝部顧問であった」ということである。

その上、僕が二十五年以上も前に買って参考にした、
ティンパーレーの日本語訳本を出した「龍渓書舎」というのは、
実は「チャイナ・ウイークリー・レビュー」が
中国語訳本を出版するときに使われた書店名であることもわかった。
チャイナ・ウイークリー・レビューは、
そもそもが国民党の息のかかった英文紙だったのである。・・・

ここで新たにわかったことは、ティンパーレーは、
南京から送られてきた手紙を、
ただ「真実」として読者に伝えようと思ったのではなく、
「宣伝部」という国民党組織と一緒になってあの本を書いた、
ということである。

もし「真実」を伝えたい、
と思うのがジャーナリストの本来の責任であるとするならば、
「南京戦」が終わったあと、ティンパーレーは「中立外国人」の立場で、
南京を取材することも可能であったはずである。・・・

※口をつぐむ南京市民

「東京裁判」で読み上げられた「南京の惨状」の報告書は、
「東京裁判記録」の中に残っている。

その中で代表的なものは「南京地方法院首席検察官」という肩書のついた、
陳光虞と署名のある、長文の「宣誓供述書」である。

これは「前文」と「本文」にわかれ、
「本文」の方には多くの「虐殺」の事項、数字が出てくるが、
不思議なのはその「前文」に当る部分である。

まず「前文」の日本語速記録は、「調査の経過」からはじまるが、
南京地方院では、1945年11月7日(日本敗戦後約三ヶ月近く経って)
所定の文書を印刷して一般の市民に告知し、
南京市民がどのように日本軍に暴行を受けたか、
そのアンケート調査を南京中央調査統計局ほか
十四の部門を総動員して第一次会議を開催し、調査を開始した。

ところが、ここから速記録原文をそのまま引用すると、
「此間、敵側の欺瞞、妨害等激烈にして、民心消沈し、
進んで自発的に殺人の罪行を申告する者、甚だ少なきのみならず、
委員を派遣して訪問せしむる際に於ても、
冬の蝉の如く口を噤みて語らざる者、或は事実を否認する者、
或は又、自己の体面を憚かりて告知せざる者、
他処に転居して不在の者、生死不明にして、探索の方法なき者等あり」
で、調査は異常な困難があった、という文章からはじまっていることである。

本来なら敵国日本が無条件敗北をし、市民は狂喜して、
進んで「調査」に協力すると思うのが常識であろう。
ところが、南京の市民は全く協力しなかっただけではなく、
「敵側の欺瞞、妨害」を恐れていた、というのである。

戦争が中国側の勝利に終わって三ヶ月も経つのに、
「敵側の妨害」とは一体何を指していうのだろうか。
委員まで出張させているのに、
何故市民は口を閉ざして語ろうとしないのか。・・・・

それにもかかわらず、続いて陳光虞が書いている内容は、
例えば「虐殺に関するもの」を例にとれば、

「敵軍入城の日より起算し、集団屠殺二十余万人の外、
凡そ我軍民にして未だ退去せざりし者は、敵人に遭えば必ず殺され、
身を匿し居りて発見逮捕されし者は、多く刀剣の下に生命を失い、
四肢と体とバラバラと成り、血肉の区別も分らぬ状態と成り、
此虐殺の惨状は、実に有史以来未曾有の事なり――」

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産経新聞(平成15年3月01日)

南京大虐殺 覆す新事実
根拠の著書 中国宣伝本と判明

これまで「南京大虐殺」の根拠とされてきた英国の新聞記者の著書が
中国国民党の宣伝書籍だったことを示す極秘文書が二十八日までに、
東中野修道・亜細亜大学教授の調査により台湾で発見された。
「大虐殺」説を覆す決定的な証拠として注目される。(石川水穂)

問題の著書は、日本軍の南京攻略当時、英マンチェスター・ガーディアン紙
の中国特派員だったH・ティンパーリーの『戦争とは何か』。
「四万人近くの非武装の人間が南京城外または城壁の付近で殺された」
などと書かれ、「大虐殺」の証拠とされてきた。

東中野教授が見つけた文書は『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』という題で、
「極機密」の印が押され、
日本軍が南京を占領した一九三七(昭和十二)年十二月から
約三年間の中国国民党の宣伝工作を記録していた。

その中の「対敵宣伝科工作活動概況」という項目で、
国際宣伝処が編集・印刷した単行本として『外人目睹中之日軍暴行』を挙げ、
「この本は英国の名記者、田伯烈が著した。
内容は、敵軍(日本軍)が一九三七年十二月十三日に
南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪、極悪非道の行為に触れ、
軍紀の退廃および人間性の堕落した状況についても
等しく詳細に記載している」と書いていた。

『外人目睹中之日軍暴行』は、「外国人が見た日本軍の暴行」という意味で、
『戦争とは何か』の中国語版の題名。
また「田伯烈」はティンパーリーの中国名にあたる。
東中野教授は台湾の調査で、一九四三年に発行された
『中央党部職員録』も見つけ、その中の「対敵宣伝委員会」のメンバーに、
ティンパーリーと対外宣伝について協議した曽虚白がいることを確かめた。

また、国民党中央党史史料編纂(へんさん)委員会の所蔵史料から、
『戦争とは何か』の中国語版に掲載されている写真と同じ写真を見つけた。
東中野教授は「『戦争とは何か』が中国国民党の宣伝本であったことは
百パーセント確実になった」と話している。
『戦争とは何か』をめぐっては、ノンフィクション作家の鈴木明氏が、
ティンパーリーが中国国民党の顧問だったことを指摘し、
立命館大学の北村稔教授が、
ティンパーリーと曽虚白の関係を明らかにしている。

今回の発見は、鈴木、北村両氏の調査を補強する証拠になるとみられる。
東中野教授の詳しい調査結果は、
一日発売の雑誌『正論』四月号に掲載される。
―――――――――――――――――
『戦争とは何か』の序文を書いた編者のティンパーリ記者は、
『戦争とは何か』の編集のいきさつについて次のように記している。
「昨年(1937年)12月、南京を占領した日本軍が中国市民にたいして
行った暴行を報ずる電報が、上海国際電報局の日本側電報検閲官に
差し押さえられるという事実がなかったならば、
おそらくこの本が書かれることはなかったであろう」
(略)
たしかに、それは事実であった。ティンパーリ記者は、
上海から英国の『マンチェスター・ガーディアン』に
「揚子江デルタ地帯(上海、松江、嘉興の一帯)30万人虐殺」
という電報を打った。それが上海の日本当局に差し押さえられた。
(略)
ここで見落としてならないことは、『戦争とは何か』の序文に、
肝腎要の「揚子江デルタ地帯30万人虐殺」という電報の内容が
提示されていないことである。

そもそも彼からすれば「揚子江デルタ地帯30万人虐殺」こそ、
日本軍を告発するのに恰好の「事実」ではなかったのか。

ところがティンパーリ記者は電報の内容を序文に書かなかったのである。
なぜなのか。ティンパーリ記者は、
「電報差し押さえ」という事実だけがほしかったのである。
そのために、彼はそうなるよう、必ず日本側が差し止めるに違いない、
不当な電報内容を書いた。

それが「揚子江デルタ地帯30万人虐殺」であった。
それが事実無根であることは、ほかならぬ彼自身が一番よく知っていた。

ベイツ教授はティンパーリ記者宛ての手紙で、
3月3日に、『戦争とは何か』の編集方針にかんして、
「戦争における野蛮な行為を……一つの町についてよりも
もっと広範な地域にわたって……同じ時期に上海……にも
同様な話があることが分かれば、
全体的に見てずっと信憑性がある」と提案し、
3月21日にも同じことを再度提案している。

つまりベイツ教授は上海など
南京以外の日本軍をも取り上げるよう問題を提起した。

それにたいしてティンパーリ記者は、
「なぜ私が上海、松江、嘉興を放っておくのかとお尋ねですが、
『戦争とは何か』の第7章を読んでいただければ分かると思います。
この点を調べていくと、上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、
確実な証拠がほとんど見つかりません」と答えている。
上海、松江、嘉興の揚子江デルタ地帯では、
「30万人虐殺」どころか日本軍の暴行すら確証がないことを、
ティンパーリ記者自身が認めていた。
(略)
彼が本当に「揚子江デルタ地帯30万人虐殺」を
確実に打電したかったのであれば、
上海のフランス租界や英米人の支配する共同租界で電報を打てばよかった。
ところが、彼はわざわざ日本の管理していた電報局で打電した。
案の定、日本側は、ティンパーリ記者の電報は
「誇張が過ぎる」という理由のもとに、これを差し押さえた。

ティンパーリ記者は差し押さえることを十分に予測したうえで、
意図的に日本側の電報局から電報を送ったと言うほかない。

『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』東中野修道著 P137~139

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中央宣伝部が総力を挙げて製作したのが、
宣伝本のティンパーリ編『戦争とは何か』であった。
この本は「死亡した市民の大部分は、13日午後と夜、
つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、
銃剣で突き殺されたりしたものでした」とか、
「強姦を拒んだ婦人も銃剣で突き殺されました。

また、邪魔になった子供たちも突き殺されました」
といった南京の「度重なる殺人」を描いていた。

ベイツ教授は「埋葬証拠の示すところでは」と述べ、
市民1万2千人を含む4万人という数字を挙げて
「日本軍(4万人)不法殺害」を主張していた。

このようにベイツ教授やフィッチ師が
描写した市民虐殺を裏付けようとしてか、
中央宣伝部は英語版『戦争とは何か』の漢訳版『外人目撃中の日軍暴行』に、
子供の死体、中国人の処刑、公開処刑などを多くの写真を掲載していた。
(これらの写真についての検証は共著の
『南京事件「証拠写真」を検証する』をご覧いただきたい)。

南京の状況をこのように描写する本を読んだあとで、
その要約を求められたとき、私たちはどのように要約するであろうか。
ごく普通に考えても、私たちは、いの一番に、
南京の「殺人」と「虐殺」を挙げて必ず要約するであろう。

ところがこの『戦争とは何か』を製作し印刷した国際宣伝処の対敵課は、
極秘文書のなかの「対敵課工作概況」に次のように要約していたのである。

A『外人目睹中之日軍暴行』

この本は英国の名記者田伯烈(ティンパーリ)が著した。
内容は敵軍が1937年12月13日に南京に侵入したあとの
姦淫、放火、掠奪、要するに極悪非道の行為に触れ、
軍紀の退廃および人間性の堕落した状況についても
等しく詳細に記載している。

この本は中国語、英語で出版したほか、日本語にも翻訳した。
日本語版では書名を『戦争とは?』[『所謂戦争』]と改めている。
日本語版の冒頭には、日本の反戦作家、青山和夫の序文があり、
なかに暴行の写真が多数ある。

本書は香港、上海、および海外各地で広く売られ、
そののち敵の大本営参謀総長閑院宮が日本軍将兵に告ぐる書を発し、
〈皇軍〉のシナにおける国辱的な行動を認め、訓戒しようとした。

右に見るように、『戦争とは何か』の内容は、
「姦淫、放火、掠奪、要するに極悪非道(窮兇極悪)」と要約されていた。
いの一番に記述されるべき「虐殺」「屠殺」「殺人」
の2文字は見当たらない。

中央宣伝部がティンパーリ記者にお金を出して、
『戦争とは何か』に日本軍の暴行を大いに書いてくれるよう頼んだのは、
南京陥落前なのか陥落後なのかは分からないが、
この秘密報告は南京陥落から3年半後に書かれたものである。

したがって、中央宣伝部が南京大虐殺の発生を
実際に認識していたのであれば、『戦争とは何か』の要約に際して
「虐殺」という言葉を大々的に明示していたであろう。

『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』東中野修道 P212~214
2009/01/04 21:00|年表リンク用資料
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