正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏

南京事件を世界に知らせた男

自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談

古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89・10から)

予想されなかった虐殺
―――――――
日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか?
「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。
銃剣を使う場合もあった。
とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」
―――――――
上記は、南京戦から50年以上が経って述べられた
ダーディンの回顧談の一部ですが作り話です。

HPのタイトルが『南京事件を世界に知らせた男』とされているのは、
南京事件に関する彼のレポート(記事)が
1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに掲載されていたためです。

しかし、その記事を読めば分かるのですが、
ダーディンは日本軍による民間人虐殺を目撃していません。

見出しとその直後にある要約部分に
「婦人への暴行」とか「民間人の殺害」という言葉を挿入していますが、
その後にある約5000字におよぶ長文レポートに
それらに関する説明がまったくありません。

回顧談のとおり、ダーディンが、本当に南京で日本軍がウサギを殺すように
多数の民間人を虐殺したのを目撃したなら、
そのような記事には決してならないはずです。

ダーディンの約5000字におよぶ長文レポートは、殆どが伝聞記事で、
彼自身の目撃記事は支那人便衣兵の悪行や
便衣兵の処刑や戦闘状況など僅かです。
日本軍による民間人虐殺に関する目撃記事は全くありません。

5人の日本兵がアメリカ大使の私邸から懐中電灯1本を略奪したとか、
大学病院で金品が盗まれたことについては具体的に述べているが、
日本兵による民間人殺害の具体的なレポートは全ないのです。
せいぜい、外国人が通りで
民間人の死体を見たことを簡単に述べている程度です。

本当に日本軍による民間人殺害を目撃していれば、
こんな記事は有り得ません。
新聞を売るために「東スポ」と同じように派手な見出しを付けただけでした。

同じ頃、シカゴ・デイリー・ニューズのスティールも、
これと酷似した記事を書いていますが、それは2人とも、
ベイツが安全区委員会として作成したメモ(レポート)に
基づいてそれぞれ記事を書いたからです。
(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』105頁)

ベイツなど南京に長期間残った安全区委員会のメンバーは
誰も日本軍による市民虐殺を目撃しませんでしたが、
1937年12月15日に早々と船で南京を離れたダーディンやスティールが、
日本軍による民間人殺害を目撃する筈がありません。

特にダーディンは句容に行っていて南京に戻ったのは14日の夜でした。
また、ベイツは支那国民党の顧問だったことが判明しており、
国民党の宣伝に関わっていたことは間違いありません。
(「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」
『諸君!』2002年4月号、『正論』2002年4月号)

ダーディンの記事の派手な見出し「民間人も殺害」に関しては、
当然世間は相手にしませんでした。

ところが、それから8年以上が経った戦後の東京裁判で、
日本軍による南京市民大虐殺事件があったことになってしまったのです。
「東スポ」のように、見出しなど一部にだけ派手に
「民間人も殺害」という言葉を入れていたダーディンは、
一躍、『南京事件を世界に知らせた男』となりました。
自分でも、さぞかし驚いたことでしょう。

ダーディンは、1962年のニクソン訪中で北京に同行し、
1988年には南京の虐殺館を訪問しました。
古森義久氏への回顧談でも、
見て来たようなウソをつき通すしかなかったのです。

(注)ダーディンの記事は、
ベイツ(宣伝工作員)の宣伝用レポート(メモ)を基に書かれました。

当時(1930年代)のアメリカの新聞が
いかに偏った反日親支の嘘報道を行っていたかということを
裏付ける資料がありますので、参考までに紹介しておきます。
著者(ラルフ・タウンゼント)は、支那に駐在した米国人外交官です。
―――――――
正しい中国情報が伝わらない理由をいくつか述べましたが、
これだけではまだまだ危ないと思っている連中が山ほどいます。
作家、新聞社、出版社です。
こういう連中は寄って鷹って「与太記事」をでっち上げ、
いい加減な本を出し、さも「建設的」であるかのような顔をしています。
(9頁)
当然、新聞等には最悪の情報等は出せない。
中国人読者の気分を害しないよう
最大限の注意を払って記事を書いているからです。

記事を出すか出さないかを決める責任者は、
地元住民との「和」を最重視します。友人や知人がいるからです。
だから、たとえ公然の秘密だとしても、
不快感を与える記事は出さないのです。

買収事件がどう報じられるか紹介しましょう。

ある将軍が敵に買収されました。
その将軍は窮地にある味方を見殺しにして、トラック隊を指揮し、
自分が獲得した略奪物資や阿片を持ち逃げしました。

さて翌日の新聞は「某地区防衛の某将軍の命により兵は20里後退。
将軍は再攻撃のため南京の首脳部と協議中」となります。
取材して真実を知っている記者は事実をかけないので
「腐りきった○○め。他よりはましだと思っていたのに」と怒り狂います。
(30頁)
私は卒業後2年間サンフランシスコにいましたので、
カリフォルニアの人間が中国人と日本人に
どういう感情を持っているかがよくわかりました。圧倒的に中国よりです。
もっとはっきり言えば、圧倒的に反日でした。
中国人が嫌いという人も大好きという人も少ない。
大多数は無関心なのになぜか反日感情だけは盛んでした。
親日家はゼロに近かったのです。

第一の理由は、愛嬌がないことでしょう。
二番目は、太平洋での日本の動きに対する不安だったのでしょう。
この不安をカリフォルニアの財界が盛んに煽っています。
軍港と陸軍基地の増設を目論んでいるのです。
そうなれば地域は活気づきます。兵隊が金を落とします。
地域経済は万々歳です。

しかし新聞には「造幣して金を落とさせろ」とは言えないから、
「適切な防衛」と表現したのでした。
事情を知らない者は不安に駆られ、
寝る前に日本人が潜んでいないかベットの下を調べたりする。

「日本軍特殊部隊メキシコに上陸」という見出しに、
カリフォルニアのオレンジ農家は震え上がり、新聞が売れる。
とかく新聞社は発行部数を気にする。
(252頁)
さて、復讐事件(福州で日本人教師夫婦が支那の学生秘密結社と支那兵の共謀
により殺害されたため、田村総領事が軍艦を盾にして支那当局から
遺族のために5万ドルの賠償金を獲得した)
から1ヵ月後の上海事変に戻りましょう。

ご承知の通り、アメリカでは対日批判の嵐が吹き荒れました。
ハーバード大学の教授連は日本を無法国家と難じました。
聞くところによると、ワシントンの新聞社には
「『アジアの狂犬』に宣戦布告せよ」という投書が
段ボール箱何杯分も届いたといいます。

婦人倶楽部は日本製品ボイコットを呼びかけた。
最大のお得意さんをなくすつもりか?
アメリカ製品を中国の2倍も買ってくれる国である。
正確な情報が伝わらないからである。
アメリカ人を虐殺し、国際義務を無視し続ける国の肩を持っていたのである。

中国の現場で汗を流すアメリカ人は、
官民ともにある意味、猿轡をかまされている。
彼らの声はアメリカには全く届かない。
アメリカの新聞を手にするたびに、口から泡を飛ばす。
「何だこれは!アメリカ人は完全にキチガイにでもなったのか。
一人でもいいから現場の中国人と取引してみろ。
人の喉を掻き切る血に飢えた海賊だ。
日本製品不買運動でキャンキャン吼えるのは直ちに止めて、
銃を取って日本軍に加勢したくなるよ」
(274頁)
ラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸中国の真実』(1933年)

『・・・・右ノ外十一月十日在上海AP、UP、ルーター、ハヴハス、
其他各国ノ主要ナル通信員ト会見シ、上記同様軍ノ方針ト将来ニ於ケル
企図等ニ就キ説明ヲ与ヘ、特ニ左ノ要旨ヲ述ヘタリ。
此次上海事件ノ発端ハ支那軍ノ江南方面ニ於ケル排日行動ニ対シ、
列国カ日本ト協同シテ一九三二年ノ停戦協定ノ維持ニ
尽クサゝリシコトニ原因セリ。然カモ列国カ事変勃発後支那側ニ同情スルノ
余リ日支ノ抗争ニ対シ中正ナル態度を保持セス、中立的義務ヲ実行
セサリシコトハ甚タ遺憾トスル所ニシテ、其結果戦禍ノ及フ所遂ニ
列国官民モ之ヲ免レ能ワサリシハ巳ムヲ得サル所ナリ。云々
之ニ対シテハ各通信員ハ何人モ敢テ之ニ対シ反駁的態度ニ出ツル者ノナク、
之ヲ肯認セルノ風アリシヲ認メタリ。・・・・』

『支那事変日誌抜粋』(松井石根)

―――――――――――――――――

ダーディンは、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズで、
――――――――
日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。
彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、
高さ六フィートの小山を築いていた。
水曜日(15日)遅くなっても日本軍は死骸を片付けず、
さらには、その後の2日間、軍の輸送車が、
人間や犬や馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。
(12月18日付NY・タイムズより一部抜粋)
――――――――
という記事を書いておきながら、
後(1987年8月)に、
――――――――
この下関地区では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、
お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。
前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、
この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。
この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。
中国軍はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、
これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。
この地域で戦闘はありませんでした。
(『南京事件資料集』アメリカ関係資料編)
――――――――
と、あっさり嘘を告白した。

また、
――――――――
南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談
元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89.10から)
―――――――
の回顧談と、ダーディンの1938年1月9日付ニューヨーク・タイムズの記事には
以下の矛盾もある。

●新聞記事
―――――――
「中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為」ニューヨーク・タイムズ
1938年1月9日 F・ティルマン・ダーディン
「(中略)
南京を掌握するにあたり、日本軍は、
これまで続いた日中戦争の過程で
犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。」
―――――――
●回顧談
―――――――
上海から南京近郊に到達するまでの過程で、日本軍が中国側の捕虜や民間人を
多数殺したという話しは当時あったのですか?
「いや、それはありませんでした。(中略)虐殺に類することは
なにも目撃しなかったし、聞いたこともありません。」
(文藝春秋89.10から)
―――――――――――――――――

『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』東中野修道著 P114~117 より

外国人が多くの殺害を目撃したのかどうかを検討するうえで、
最も基礎的な根本資料は「市民重大被害報告」であろう。
これは、南京在住の外国人からなる国際委員会が、
南京の不祥事を日本大使館に届けた市民被害届である。

この「市民重大被害報告」がスマイス教授の手で
1938年2月に1セットにまとめられ、その約3割(全444件中の123件)が
『戦争とは何か』に付録として収録された。

その後、それは、蒋介石の軍事委員会に
直属する国際問題研究所の監修のもと、
徐淑希編『南京安全地帯の記録』(英文)として1939年夏に出版された。

したがって今日でも「市民重大被害報告」は
『南京安全地帯の記録』のなかに見ることができる。

そこで、『南京安全地帯の記録』にもとづいて、
スティール記者やダーディン記者が
問題にした南京陥落後3日間をみてみよう。
国際委員会が日本大使館に届けた事例のうち、2つを引用しておく。
(略)
ここで注目しておくべきは、この2つの事例を読んでも分かるように、
誰がこの事件を目撃し、誰が第一発見者となり、誰が報告し、
誰が記録したのかが、記述されていないことである。

国際委員会は「これらの事例は、国際委員会の外国人委員
または職員により確認済みであります。謹んで提出いたします。
ルイス・スマイス」というふうに書いているが、
肝心の日本兵が行ったという確証はない。

ともあれ、このように書かれた「市民重大被害報告」から、
3日間の全事件を採り上げてみると、
次のようになる。
以下は冨沢繁信『南京事件の核心』巻末の「被害事例の日計表」にもとづく。

●12月13日は、殺人ゼロ件、強姦1件、略奪2件、
放火ゼロ件、拉致1件、障害1件、侵入ゼロ件であった。

●12月14日は、殺人1件、強姦4件、略奪3件、
放火ゼロ件、拉致1件、傷害ゼロ件、侵入1件であった。

●12月15日は、殺人4件、強姦5件、略奪5件、
放火ゼロ件、拉致1件、傷害5件、侵入2件であった。

目撃者が判明している殺人事件はゼロ件であった。
スティール記者やダーディン記者が報じた
「外国人はたくさんの殺害を目撃した」
という表現は事実にもとづいていないことが、はっきりと分かるであろう。

しかし、洩れがあるといけない。
そこで念のため「ラーベ日記」「ヴォートリン日記」など
当時の記録や「アメリカ関係資料集」に出てくる殺人の記録を
すべて収録した冨沢繁信「被害事例の日計表」を見てみたが、
当時の日中英独の記録を全部集計しても、
12月13日の殺人事件は3件、14日が4件、15日が8件であった。
しかし、それでさえも目撃された殺人事件はゼロなのである。

マギー牧師は東京裁判に出廷して、多くの殺人が南京で起きたと証言した。
しかし、実際のところ何件の殺人を目撃したのかと問われると、
牧師は「ただ僅か一人の事件だけは自分で目撃しました」と証言した。
ところが彼は日記に「その殺人が現実に起きたとき、
われわれはそれを見ていなかった」と書いている。

そうなると、
マギー牧師が見たと証言した「一人」の事件ですら疑われてくるのである。

このように3つの視点からアメリカの新聞記事を検証した結果、
殺人事件にかんするかぎり、日本軍による市民殺害を
裏付ける証拠は当時のどの記録からも見出すことはできない。
スティール記者やダーディン記者が、外国人は南京で頻発する市民殺害を
目撃したと書いたのは虚報であったとしか言いようがない。

『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』東中野修道著 P120~121 より

そのベイツ教授が上海から「諸友宛て」に送ったという、
1938年4月12日付の手紙が残っている。

「その本には、12月15日に南京を離れようとしていたさまざまな特派員に
利用してもらおうと、私が同日準備した声明が掲載されています」
その特派員とは、スティール、ダーディン、メンケン、
マクダニエル、スミスの諸氏である。

ベイツ教授の言う「その本」とは、今日では中央宣伝部が製作した宣伝本
であると判明したティンパーリ編『戦争とは何か』である。
その本の第1章の前半はベイツ教授が匿名で執筆していた。
それが、ベイツ教授の言う「声明」(レポート)であった。
ベイツ教授はそれを新聞記者に「利用」してもらおうと、
12月15日に南京を離れる新聞記者たちに渡したと言うのである。
(略)
ベイツ教授が特派員たちに渡した「レポート」は、
『戦争とは何か』の第1章前半に匿名で収録され、今日に残っている。
早速、それを見てみよう。
2日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、
婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、
事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。

市内を見まわった外国人は、
このとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告しています。
死亡した市民の大部分は、13日午後と夜、
つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、
銃剣で突き殺されたりしたものでした。

元中国兵として日本軍によって引き出された数組の男たちは、
数珠つなぎにしばりあげられて射殺されました。
これらの兵士たちは武器をすてており、
軍服さえぬぎすてていたものもいました。
南京で示されているこの身の毛もよだつような状態は。

ベイツ教授がこれを特派員に渡したのは12月15日であった。
したがって、この「レポート」が問題にしているのは
(すでに見たアメリカの新聞記事と同じく)
12月13日の陥落から3日間の出来事である。

そこに書かれていることを挙げてみると、殺人、略奪、婦女暴行、死体、
さらに中国兵の摘発、連行、射殺である。

南京在住の外国人の記録を比較検討した前項からも分かるように、
これは陥落3日間の状況から大きくかけ離れていた。
しかも、ベイツ教授は国際委員会の有力なメンバーであった。

彼が東京裁判で証言したように、
「みずから」南京の日本大使館に渡していたという「市民重大被害報告」
のなかには、ベイツ教授が12月15日の「レポート」に記したような
「陥落後2日もすると頻発する殺人」
という非難は一つも書かれていなかった。

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『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P388

『ニューヨーク・タイムズ』 特電 1937年12月7日、火曜日、南京発。
「敵の侵攻を遅らすべく中国軍抗戦中」
F・ティルマン・ダーディン

湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。
少年たちは年齢一〇から一二歳、軍服姿の正規兵で、
伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。
ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。
南京東方の村落はどこも無人の巷と化していた。
住民は守備隊に代わられ、公路上には難民があふれている。

―――――――――――――――――

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P390~391

『ニューヨーク・タイムズ』 特電 1937年12月8日、水曜日、南京発。
「南京郊外で中国軍抗戦中、一週間は堅持するか」
F・ティルマン・ダーディン

南京防衛軍の司令長官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し、
すべての非戦闘員は国際管理下の安全区に集結しなければならない、
と布告した。

市内他地区での非戦闘員の移動は、
黄色の腕章に特別の印で示される特別許可所有者を除いて、禁じられる。
【略】
中国軍による防衛戦内の障害物の焼却が続けられていた。
中山陵園の中国高官の広壮な邸宅も昨夕燃やされたところに含まれる。
南京は深い煙の層によって囲まれた。
昨日、中国軍の半径一〇マイル以内の
町の建物や障害物を焼き払い続けたからだ。

本記者は車で前線に行く途中、中山門外、
中山陵東南の谷全体が燃えているのを見た。
中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村は、一面煙る廃墟と化し、
事前に避難しなかった住民は、
その僅かばかりの哀れな持ち物を背に南京に向かって道にあふれ、
ときおり立ち止まっては、もといた家のほうを悲しげに見やるのであった。
【略】
南京には数万人の難民が雪崩れ込んでおり、安全区委員会は本日、
正式に安全区の成立とその完全な非武装化を宣言する予定になっていた。

本日、高射砲中隊一と多数の軍事機関が安全区から退去した。
同地区非軍事化の約束を実行しようという、
中国軍の意志をいっそうはっきりと示すものであろう。

難民はとりわけアメリカとイタリアの大使館周辺地区に群がり、
付近の道路は混雑していた。
安全区委員会は食糧調達の方面で大きな成果をあげ、
いまや二万五千人の貧民に一週間食べさせるのに十分な米を持っている。

昨日、旗と印で地区の境界標示を取り付けることから、
安全区はスタートした。
司法行政部、陸軍大学その他の学校など公共の建物は
貧民に開放されつつあり、必要とあれば無人の邸宅も接収されるであろう。

―――――――――――――――――

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P394

『ニューヨーク・タイムズ』 特電 1937年12月9日、木曜日、南京発。
「日本軍の放つ火に囲まれ、山頂で中国兵三〇〇虐殺さる」
F・ティルマン・ダーディン

南京での中国軍の防衛作業の特徴は、相変わらず建物の全面的焼却である。
南門近くの人口密集地区全体から住民が追い立てられて、
市の安全区に送り込まれ、
この小都市一つくらいの規模の地区が燃やされていた。
同様に、下関駅近くのモデル新村一つが焼却された。

―――――――――――――――――

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P401~402
『ニューヨーク・タイムズ』 特電 1937年12月12日、日曜日、南京発。
「南京城の重防御に攻略軍阻まれる」
F・ティルマン・ダーディン

広間と中庭が連なる迷宮「朝天宮」は、
ほぼ十年にわたって兵工廠または軍の集結中枢の役を果たしてきており、
最近は周囲の近代的兵舎とともに重要な駐屯軍の中枢、武器庫になっていた。

寺院のある丘は市内でも最も人口稠密な地区の中心にあたるが、
その一般住民の多くはまた安全区に避難していない。
太平路が商業中心である。
【略】
南京の住民は金曜日に比べて緊張も解けパニック状態もなくなっている。
日本軍の城内進入撃退によって、
中国軍が攻撃軍に十分持ちこたえているということを立証したからだ。

現在の気持ちは一種の諦めであって、
何千という人々がまだ安全区に避難しているが、
彼等の恐怖心を表わさず、いかなる戦禍をも耐え忍ぶ用意があるかに見える。
下関門(悒江門)は朝方再び明けられ、一日中、自由通行が許された。
門は夕方早くにはまた閉じられた。

―――――――――――――――――

『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P403

『ニューヨーク・タイムズ』 特電 1937年12月12日、日曜日、南京発。
「南京城の重防御に攻略軍阻まれる」
ハレット・アベンド

南京の安全区委員会は金曜日に日中双方に向け、
委員会が三〇万の市民に避難所を設け、
かつ安全区内からの中国側軍事物資の完全撤去を行うために
三日間の停戦をするように求める、哀れなほど空しい提案を行った。

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『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P416

『ニューヨーク・タイムズ』 1937年12月17日
「日本軍、三路に分かれ中国軍前線に進撃中」
ハレット・アベンド 12月16日、南京発(米砲艦オアフ号より無線、AP)。

日本側は、在南京のアメリカ人、ドイツ人の主唱によって成立した安全区に
砲爆撃をしないよう努めてきた。10万以上の中国人が地内に避難した。

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『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P423

『ニューヨーク・タイムズ』 1937年12月19日
「南京における外国人の役割称賛される」
F・ティルマン・ダーディン 12月18日、上海発。
ニューヨーク・タイムズ宛無線

それにもかかわらず、この地域は暫くのあいだ、
かなりの規模にわたって非武装地域となり、
そのため日本軍もあえてこの地域を砲爆撃する必要性を認めなかった。

その結果、10万人を超す非戦闘員たちは、
安全区の上を通過するひっきりなしの砲弾による恐怖にもかかわらず、
日本軍の市内への入城までは比較的安全に過ごすことができた。

それ弾、損害を与える
日本軍の砲弾が新街口近くの一角に落ち、100人以上の死傷者を出した。
それ弾による死者はほかにも100人はいると思われる。

一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は
5万人以上を数えるものと思われるが、
市の死傷者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。

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『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P439

『ニューヨーク・タイムズ』 1938年1月9日
「中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為」
F・ティルマン・ダーディン 1937年12月22日、上海発。
ニューヨーク・タイムズ宛 航空便

しかし、日本軍は安全区を狙って集中砲撃や空襲をしたことはなかったので、
そこに避難した市民は、比較的に安全だったといえる。
市の西部地区に3、4マイル四方を占める安全区に
避難した市民は10万人いたものと思われる。

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『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』

『ニューヨーク・タイムズ』 特電 1938年1月31日、月曜日、上海発。
「南京の無秩序、収束中との報」
ハレット・アベンド

南京から日本側への報告は、南京の情況はそこにいない者の理解を超えるほど
困難であることを示している。
新聞、ラジオその他すべての外界の事業から切り離され、
真夏には人口100万以上であった町は荒廃し、
いまや残っている中国人は20万人に満たない。
中国人の多くは一文無しで、救済に頼っている。

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ダーディンの記事
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Durdin.html
2009/01/03 21:00|年表リンク用資料
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