●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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南京安全区国際委員会ジョン・ラーベ代表
![]() 安全区国際委員長だったラーベは虐殺を1件も目撃しませんでした。 ラーべの日記や手紙の中では ラーべ本人が殺人現場を見た記述は一つもありません。 ラーベは、1937年12月17日に、日本軍による破壊や犯罪が極めて少数で 秩序が回復した旨の『第6号文書』を日本大使館宛に送っていました。 ところが、東京裁判で検察側書証として提出された 「1938年1月14日付のドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」 (ジーメンス社社長マイアー宛の手紙)には、 「約2万の婦女子を冒し、数千の無辜の市民を殺害」と書いていました。 さらに、『ヒトラーへの上申書』には、 「中国側の申し立てによりますと、10万の民間人が殺されたとのことですが、 これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。 我々外国人はおよそ五万から六万と見ています」と報告しました。 ラーベの報告は、数千だったり5~6万だったり滅茶苦茶です。 もしも、本当に日本軍が市民大虐殺をしていたのなら、 日本軍憲兵隊に通報したり日本大使館に抗議するのが 安全区国際委員長の責務であるのに、それをせず、 南京の外(上海やドイツなど)に向けてのみ、 日本軍の犯罪を発信していたのは、 彼が嘘の宣伝工作をしていたとしか考えられません。 このラーベの嘘宣伝は、安全区国際委員会全体が 嘘の宣伝工作委員会と化していたのが大きな理由ですが、 ラーベ独自の事情もありました。 ラーベは、安全区の自宅に、現金を一杯に詰めたトランクを 幾つも持っていた支那軍将校の龍大佐と周大佐を潜伏させていました。 これは、中立と、安全区の保護を責務とする安全区国際委員長としては、 言語道断であり、この行為自体が支那軍のための工作活動です。 また、当時ジョン・ラーべは、支那の蒋介石政権に重電機・通信機などを 売って莫大な利益を得ていた「軍需産業ジーメンス」の南京支社長でした。 支那事変が始まってから 日本は再三ドイツに支那への軍需品輸出をやめるように要請していました。 ヒトラーはソ連を牽制するためにも、 日本と手を組む事を選び、支那への軍需品輸出を控えました。 ラーベにしてみれば、 自分が30年間も支那で培ってきた商売が水の泡になるので、 「日本はこんなひどい事をしている。こんな国との同盟は止めてくれ!」 と言いたかったのでしょう。 しかし、ラーベの荒唐無稽な「数千人」とか「5~6万人」とかの虐殺の話は あまりにも不自然過ぎて、同胞のドイツ人にも信じて貰えませんでした。 1938年1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、 2月10日、自分の目で実情を確かめた上で漢口のドイツ大使館に、 ラーベが語る日本軍の暴行事件について、 「暴行事件と言っても全て支那人から一方的に聞いているだけ」 と書き送っています。 結局ラーべの策略は実らず、ドイツに呼び戻され、 二度と支那の土を踏むことはありませんでした。 ――――――― 『第6号文書』安全区国際委員会 「1938年1月14日付のドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」 (ジーメンス社社長マイアー宛の手紙) 『ヒトラーへの上申書』 『ラーベの日記』 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 1937年、支那事変の発端である第二次上海事変の前、 蒋介石は1932年の第一次上海事変の上海休戦協定を無視し、 呉淞と真茹を結ぶ線の北側の非武装地帯に クリークや2万個以上のトーチカを作るなどして 軍事要塞線(ゼークト・ライン)を築いていた。 支那にいたドイツ軍事顧問団の最高責任者 アレクザンダー・フォン・ファルケンハウゼンが保存していた内部文書。 (ドイツ、フライブルク連邦軍事資料館所蔵) ![]() ![]() ファルケンハウゼンはドイツが国民党軍に武器を供給する際、 その取引可否を決裁する権限を持っていた。 この人物と家族ぐるみで親しかったのが 南京安全区国際委員長でナチ党員のジョン・ラーベで、 ラーベはシーメンス社の武器部門責任者だった。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 1932年5月5日、第1次上海事変の戦後処理の上海停戦協定。 第2条 中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て 追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし。 前記地点は本協定第一附属書に掲記せらる。 第一附属書 本協定第二条に定むる中国軍隊の地点左の如し 付属縮尺十五万分の一郵政地図上海地方参照 安亭鎮の正南方蘇州河上の一点より 北方安亭鎮の直ぐ東方のクリークの西岸に沿ひ望仙橋に至り、 次て北方にクリークを越え沙頭の東方四キロメートルの一点に至り、 次て西北揚子江上の滸浦口に至り且之を含む。 右に関し疑を生するときは問題の地点は共同委員会の請求に依り 共同委員会の委員たる参加友好国の代表者により確めらるへし。 ![]() 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 国民政府は上海停戦協定違反を認めている。 以下、『抗戦簡史』 中華民国国防部史政処編 より抜粋 わが最高当局は一・二八事件[昭和七年の上海事変]以後、 敵[日本]の北方における侵略が止まらないので、 事をゆるがせにできないと判断し、民国二十四年[昭和十年]冬、 張治中にひそかに命じて南京、上海方面の抗戦工事を準備させ、 戦争を避けることができなくなったとき、 わが方は優勢な兵力をもって敵の不意に出て、 上海の敵全部を殲滅してこれを占領し、 爾後、敵の増援を不可能にしようと企図した。 このため呉淞・上海周辺の各要点にひそかに堅固な工事を築き、 わが大軍の集中を掩護させ、更に常熟、呉県において 洋澄湖・澱山湖を利用し、堅強の主陣地帯(呉福陣地)を、 また江陰-無錫間に後方陣地帯(錫澄陣地)を構築した。 民国二十五年幹部参謀旅行演習を実施するとともに、 龍華、徐家匯、紅橋、北新、真茹、閘北停車場、江湾、大場江湾、大場の 各要点に包囲攻撃陣地を構築し、呉福〔呉江-福山〕陣地の増強、 京滬〔南京-上海〕鉄道の改築、後方自動車道路の建設、 長江防備及び交通通信の改善、民衆の組織訓練等を実施した。 |
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