●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
東日本大震災(2011.3.11)ニュースのなかの注目の話
南相馬市 津波映像 気仙沼湾に押し寄せる大津波が湾内を回流する様子 仙台空港に津波が到達 2011年3月11日 東北地方太平洋沖地震 大津波(1) 2011年3月11日 東北地方太平洋沖地震 大津波(2) 迫りくる津波の恐怖 宮城・南三陸町 南三陸町志津川高校から見た津波の様子 陸前高田市消防団員の津波映像 フル映像その1 東日本大震災からこうして避難・そして大津波 岩手県宮古市田老地区の防潮堤 ![]() 岩手県宮古市田老地区の防潮堤 ![]() 岩手県宮古市田老地区の防潮堤 ![]() 信じていた強固な防潮堤粉々に 津波防災の岩手・宮古市 産経ニュース 2011.3.18 08:52 http://sankei.jp.msn.com/region/news/110318/iwt11031810490000-n1.htm 「守られていると思っていた。でも、油断もあったのか…」。 津波被害の歴史を繰り返してきた岩手県宮古市田老地区。 “万里の長城”の異名を持つ、高さ10メートル、 総延長約2800メートルの防潮堤が整備され、 住民が絶大な信頼を置いてきたが、津波は粉々に破壊した。 田老で生まれ育った住民は口をそろえる。 「堤防(防潮堤)があるから大丈夫だと思った」。 昭和8年の大津波を受けて建設が始まった。 東西南北と町を十字形に横切る巨大建造物で、 海外からも視察が訪れるほどの住民自慢の防災設備。 このうち、港の中心部から東へ延びる約580メートルは 一部の土台や水門を残し、跡形もなくなった。 住民の男性は、昭和の大津波を経験した老人が 壊れた防潮堤を見てこう言うのを聞いた。 「全部平らになって80年前の田老の姿になってしまった」 ――――――――――――――――― 明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手・普代(ふだい)村 2011年4月3日22時05分 読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm?from=navr 津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、 岩手県北部にある普代(ふだい)村を 高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。 村内での死者数はゼロ(3日現在)。 計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、 当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。 「これがなかったら、みんなの命もなかった」。 太田名部(おおたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は 高さ15・5メートル、全長155メートルの 太田名部防潮堤を見上げながら話した。 津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。 ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。 堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、 足もとがぬれることもなかった。 村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、 人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。 海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、 残る村人は高台で生活している。 普代地区でも高さ15・5メートル、 全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。 防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、 水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。 既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、 「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老(たろう)地区の 防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。 村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で 計439人の犠牲者を出した。 当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。 「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、 村長の頭から離れなかったのだという。 今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、 数百人の死者・不明者を出した。 岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。 普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、 船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。 深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。 まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。 ![]() 死者ゼロの岩手・普代村を守ったのは… 2人の「ヒーロー」 産経ニュース 2011.4.25 22:16 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110425/dst11042522170042-n1.htm 過去の津波で多数の犠牲者を出した岩手県普代村は東日本大震災では 死者ゼロ、行方不明者1人にとどまった。 被害を食い止めたのは高さ15・5メートルもの水門と防潮堤。 昭和40~50年代、当時の村長が反対の声を押し切り、 建設にこぎつけたものだ。 ただ、今回は水門脇ゲートの自動開閉装置が故障し、 1人の消防士が水門へ向かい、手動でゲートを閉めた。 危機を見越した過去の政治的英断、 そして地震直後の献身的な行動が村を守った。(梶原紀尚) もう少し低かったら… 久慈消防署普代分署の副分署長を務める立臼勝さん(50)は 「水門の高さがもう少し低かったら、村にはすごい被害が出ただろう。 もちろん私の命もなかった」と振り返る。 3月11日の地震直後、自動開閉装置の故障を知った立臼さんは、 村を流れる普代川の河口から約600メートル上流 にある水門に向かって消防車を走らせた。 故障したゲートを閉めるには水門上部の 機械室で手動スイッチを使うしかないからだ。 津波の危機感はあったが、 「まさか、あれほど大きな津波がくるとは思っていなかった」。 機械室に駆け上がって手動スイッチに切り替えると 鉄製ゲートが動き、ほっと一息ついた。 消防車に乗って避難しようとしたとき、 背後から「バキ、バキッ」と異様な音がするのに気付いた。 普代川を逆流してきた津波が黒い塊になって防潮林をなぎ倒し、 水門に押し寄せてくる音だった。 アクセルを踏み込み、かろうじて難を逃れた。 津波は高さ20メートルを超えていた。 水門に激突して乗り越えたが勢いはそがれた。 水門から普代川上流にさかのぼってほどなく止まり、 近くの小学校や集落には浸水被害はなかった。 立臼さんは「高い水門をつくってくれた和村さんのおかげ」と話した。 名物村長の“遺言” 和村さんとは、昭和22年から10期40年にわたり 普代村の村長を務めた故・和村幸得さんのことだ。 昭和8年の三陸大津波を経験し、防災対策に力を入れた村長だった。 村では明治29年の大津波で302人、 昭和8年の大津波でも137人の犠牲者を出した歴史があり、 和村さんは「悲劇を繰り返してはならない」 と防潮堤と水門の建設計画を進めた。 昭和43年、漁港と集落の間に防潮堤を、 59年には普代川に水門を完成させた。 2つの工事の総工費は約36億円。 人口約3千人の村には巨額の出費で、 建設前には「高さを抑えよう」という意見もあった。 だが、和村さんは15・5メートルという高さにこだわった。 普代村住民課長の三船雄三さんは 「明治の大津波の高さが15メートルだったと村で言い伝えられていた。 高さ15メートルの波がくれば、 根こそぎやられるという危機感があったのだろう」と話す。 和村さんは反対する県や村議を粘り強く説得し、建設にこぎつけた。 村長退任時のあいさつで職員に対し 「確信を持って始めた仕事は反対があっても説得してやり遂げてください」 と語ったという和村さん。 三船さんは「当時の判断が村民の命を守ってくれた、 とみんな感謝している」と話している。 ――――――――――――――――― 此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う 2011年3月30日07時22分 読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm?from=main6 「此処(ここ)より下に家を建てるな」――。 東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、 重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では 全ての家屋が被害を免れた。 1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に 建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、 改めて先人の教えに感謝していた。 「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ 惨禍の大津浪(おおつなみ)」 本州最東端の●ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、 姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。 結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛) 地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、 生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。 昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。 その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。 地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、 高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの 坂道を駆け上がった。 巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、 その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。 地区自治会長の木村民茂さん(65) 「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。 先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。 ――――――――――――――――― 津波の中、響き続けた鐘の音 鳴らした消防団員、不明に asahi.com 2011年4月1日16時58分 http://www.asahi.com/national/update/0401/TKY201104010225.html 停電で鳴らなかったサイレンの代わりに、町に響いたのは半鐘の音だった。 津波が防潮堤を越え、市街地に迫ってきても鳴りやまなかった。 たたき続けた消防団員は行方不明のままだ。 岩手県大槌町で20年以上消防団員を続けていた越田冨士夫さん(57)は 3月11日、自家用車で水門を閉めに向かい、 その後、消防団の屯所に向かった。 揺れから20分以上たち、屯所の消防車には、 近くの消防団から「津波が来た」と無線が入っていた。 乗車していた団員は「早く乗って」と越田さんに叫んだ。 消防車のサイレンの音で聞き取れなかったが、越田さんは腕を振っていた。 「いいから、いけ」。腕はそう語っていた。 「カン、カン、カン」 団員たちが屯所を離れてしばらくたった頃、鐘の音が聞こえてきた。 防災行政無線とサイレンの導入で、 20年以上倉庫にしまったままの半鐘だった。 屯所の火の見やぐらに設置されたサイレンは停電で鳴らなくなっていた。 きっと、それを知った越田さんは、なんとか非常事態を住民に伝えようと、 屯所の屋上から半鐘を鳴らしたんだろう。団員たちは、みなそう思った。 屯所から200メートルほど離れ、避難所になった神社にも、 その音は届いていた。 自転車で神社に向かっていた団員仲間の佐々木大一郎さん(67)は、 屯所で越田さんの姿を見かけていた。なんとも悲しい音に聞こえたという。 「長い間鳴っていた。今も頭から離れない」。 越田さんの行方はわかっていない。 ――――――――――――――――― 命の限り叫び続けた 防災放送の女性職員、 結婚式控え安否不明 母「頑張ったね」 産経ニュース 2011.3.29 13:19 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110329/lcl11032913240000-n1.htm 大きな揺れの後、津波の来襲と高台への避難をひたすら呼び掛け続けた。 東日本大震災で、津波に押しつぶされた宮城県南三陸町で防災放送の 担当職員だった遠藤未希さん(24)。いまだ安否が分からない。 「しっかり頑張ったね。でも、何も命を張ってまで…」。 いたわりと無念さに揺れる母親。秋に結婚式を控え、準備を進めていた。 「ないよね」。 避難所に張り出された身元不明者、死亡者の特徴を書いた紙を 指で追いながら、母親の美恵子さん(53)がつぶやいた。 震災から2週間以上が経過し、更新される情報も日に日に少なくなっていく。 震災翌日から2日間はがれきの中を歩き続けた。 「見つけられなかった。自分たちの手ではどうしようもなかった」。 隣に寄り添う父親の清喜さん(56)はうなだれた。 3階建ての防災対策庁舎は津波にのまれ、赤い鉄筋だけが無残に立ち尽くす。 11日、未希さんは2階で放送していた。 「6メートルの津波が来ます。避難してください」。 冷静で聞き取りやすい呼び掛けが何度も繰り返された。 海岸にいた両親にもその声は届いた。 庁舎に残った職員約30人のうち、助かったのは10人。 高台の高校に避難した人からも波にさらわれる職員の姿が見えた。 未希さんは勤続4年目の昨年4月、危機管理課に配属された。 介護の仕事に就くことを考えていたが、 両親の希望を聞き入れ、町職員を選んだ。 昨年7月に婚姻届を出し、今年9月の披露宴に向け楽しそうに準備していた。 景勝地・松島のホテルを早々と予約。 昨年12月、初めて衣装合わせをしてみた。 「3月にはウエディングドレスの新作が出るの。 お母さん一緒に見に行こうね」。そう約束していた。 美恵子さんは「放送が途中で切れた」と知人に聞かされた。 最後の方は声が震えていたという。 「放送するのに精いっぱいで、逃げられなかったんだろうね。 実際は怖かったと思う。母親の私が守ってあげられなくて。申し訳なくて」 町は人口約1万7千人。 約8千人の所在が分からず、被害の全容はまだ把握できていない。 それでも避難所へ逃げた女性(64)は 「あの放送でたくさんの人が助かった。 町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と思いやった。 「『ご苦労さま。ありがとう』という言葉をかけてあげたい」 と清喜さんは涙ぐんだ。 「未来の未に、希望の希」。 美恵子さんは娘の名前をそう説明した。 壊滅した町には新しい電柱が立ち、がれきの間に道が通るようになった。 少しずつだが、未来に向けて動き始めている。 ![]() ――――――――――――――――― 交際相手に「大津波来た」惨事直前、緊迫のメール 南三陸町の24歳女性職員 産経ニュース 2012.3.5 08:09 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120305/dst12030508100002-n1.htm 東日本大震災の津波に襲われた宮城県南三陸町の 防災対策庁舎で亡くなった町職員、三浦亜梨沙さん=当時(24)=が、 流される直前、交際していた男性に「大津波来た!」と メールを送っていたことが5日、分かった。 やりとりされたメールは5通あり、 「ぜってー死ぬなよ!」と呼び掛ける男性に「死なない!愛してる!」 と応えるなど、緊迫する状況下で互いの安否を気遣い励まし続けていた。 亜梨沙さんの母悦子さん(54)は「今年1月に遺体が見つかり、 かすかな生存の期待を失いつらい時期もあった。 もうすぐ1年で、メールもやっと見られるようになった」と話している。 亜梨沙さんの自宅も津波で流され、写真や思い出の品の多くを失った。 男性は昨秋、撮りためていた亜梨沙さんの写真やメールを遺族に届けた。 ![]() ――――――――――――――――― 「お父さん、ありがとう」妻の声津波に消え 毎日新聞 4月20日(水)10時16分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110420-00000025-mai-soci 東日本大震災の津波で数百人の行方不明者が出たにもかかわらず、 福島第1原発の事故に伴う避難指示で1カ月以上捜索が 実施されなかった福島県浪江町請戸(うけど)地区。 津波に遭い、九死に一生を得た男性の耳には、 50年近く連れ添った自分への感謝の言葉とともに 波間に消えた妻の声が残る。「一刻も早く見つけてほしい」。 男性は14日に始まった捜索による発見を祈るように待ち続けている。 「真っ黒い波が数十メートルの高さに立ち上がり、一気に倒れてきた」。 海岸から数百メートル先に住む無職、熊川勝さん(73)は 目前に迫る大波に度肝を抜かれた。 妻洋子さん(73)の手を引いて 2階に駆け上がったが水位はみるみる上がり、 洋子さんを抱えて顔を出すのがやっとになった。 死を覚悟し「これまで、ありがとな」と呼び掛けると、 洋子さんはうなずいて唇を動かした。「お父さん、ありがとう」 もう一度、熊川さんが「2人で孫3人の名前を呼んで終わりにしよう」 と声を掛けた直後に強い衝撃があり、洋子さんが沈んだ。 必死で手をたぐったが、渦巻く波に引き込まれていった。 熊川さんは着ていたジャンパーが偶然浮袋代わりになり、 天井と屋根の隙間(すきま)で息ができた。 引き波で家ごと沖に向かって流されかかったが、 橋桁に飛び移って助かった。その間、ずっと洋子さんの名を叫び続けた。 その後、身を寄せた県内の親族宅も原発事故の深刻化でいられなくなり、 横浜市の長女(42)の元へ。 だが、原発から約5キロの請戸地区には捜索が入らないままで 「原発内で(復旧の)作業している人もいるのに、 何で警察も自衛隊も助けに行かねんだ」。もどかしさが募った。 今月14日。警察の捜索がようやく始まり、熊川さんはすぐ福島に戻った。 洋子さんが最後までつかんでいたジャンパーを着て、 日々、遺体安置所や遺留品写真の掲示所を回る。 もし、捜索が打ち切られたら自分で捜しに行くつもりだ。 「女房は『金婚式の時は、日光の紅葉を見たい』と楽しみにしていた。 秋には骨つぼ抱いて紅葉見に行ぐんだ」 ――――――――――――――――― 産経ニュース 2011.3.17 00:09 より一部を抜粋 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110317/dst11031700100001-n1.htm 「妻がひょっこり戻ってくるかもしれない」。 ほぼすべての建物が損傷した宮城県石巻市湊地区で 自動車整備業、鳥畑真一郎さん(61)は話す。 妻は津波発生直前に「友人と買い物に行く」 と出掛けたまま帰ってきていない。 かろうじて浸水しなかった2階の一部で生活している。 台所などにあった水と食料は残りわずか。 だが「結婚して38年。家の再建はもう無理だろうが、 とにかく妻が帰るまでは」と離れる考えはない。 県担当者は「強度が守られている場所にいてほしい。 食料を家へ配って歩くのは危険すぎる。 懸命にサポートしていくので協力願いたい」と話した。 ――――――――――――――――― わが子よ 石巻市立大川小学校 Sankei Photo 2011.03.24 http://photo.sankei.jp.msn.com/essay/data/2011/03/0324ookawa/ 教科書や鍵盤ハーモニカ、絵、写真などが散乱した校舎。 そこにはがれきをかき分け、 児童たちの遺留品をみつけて涙する親の姿があった。 北上川の河口にある宮城県石巻市立大川小学校は、 地震で校庭に大半の生徒と教職員が 避難していたところを津波にのみこまれた。 23日現在、全校生徒108人のうち、 21人が死亡、56人が行方不明になっている。 教職員は、13人のうち1人が死亡、9人が行方不明。 消防隊員らによる懸命の捜索が今も続いている。 ステンドグラスが施されたホールは面影もなく崩壊していた。 校舎と体育館をつないでいた2階の渡り廊下もねじれたように落ちていた。 校舎内は腰の高さほどまで土砂で埋まり、 津波で押し流されてきたがれきが散乱していた。 音楽室のピアノはひっくり返り、4本の足をつき上げていた。 毎日のように遺体が見つかる。 「ケンちゃん、ケンちゃん。苦しかっただろう。 ケンちゃん、ケンちゃん。ゴメンな」。 ビニールシートに包まれて運ばれてきた子供の姿を 確認した親の悲痛な声が響く。 近くには、捜索隊が持ち帰った泥だらけのランドセルやピアニカ、 学習用具などが山積になっている。 「少しでも子供の思い出が見つかれば」 と山積の遺留品の中から懸命に 自分の子供の写真を探していた母親(37)がいた。 小6の長女(12)と小3(9)の長男を失ったという。 「学校で避難したと聞いて、安心していたが…。泣くしかできない」 と唇をかんだ。 ![]() ![]() ![]() ――――――――――――――――― 「ママ、待ってるからね」 読売新聞 2011年3月31日 母親へ手紙を書いた昆愛海(こん まなみ)ちゃん。 (22日午後、岩手県宮古市で)立石紀和撮影。 2011年3月31日付け読売新聞より ![]() 岩手県宮古市の昆愛海(こん まなみ)ちゃん(4)が 22日午後、「ママに手紙を書く」と言い出した。 親戚の家のこたつの上にノートを広げ、色鉛筆を持つ。 1文字1文字、1時間近くかけて書いた。 「ままへ。いきてるといいね。 おげんきですか」。 そこまで書いて疲れたのか、すやすやと寝入った。 両親と妹は11日の東日本巨大地震による津波にさらわれ、 今も見つかっていない。 ――――――――――――――――― 妹宿したお母さんは津波にのまれた 宮城 毎日新聞 2011年3月26日 11時49分 http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110326k0000e040062000c.html?inb=yt 来月、妹が生まれるはずだった。 宮城県東松島市の市立大曲小4年、高橋さつきさん(10)は、 避難所に変わった小学校で「お父さんだけでも元気でいて」と祈り続けている。 母奈美子さん(30)が昨年のクリスマスイブに寿作さん(30)と再婚し、 さつきさんは初めての妹との暮らしを心待ちにしていた。 妹は自分と同じ平仮名の「ほのか」になるはずだった。 しかし、お母さんと一緒にあの津波にのまれた。 地震の数時間前、お母さんとお父さんが学校に来て 「赤ちゃんの服を買ってくるから、お迎えちょっと待っててね」 と出かけていったのが最後だった。 「あの時、引き留めておけば……」。 22日、遺体安置所で泥まみれのお母さんと対面した。 とても信じられなかった。お父さんは依然安否不明だ。 お母さんとお菓子を作るのが好きだった。夢はパティシエ。 両親のいない避難所暮らしはつらい。 それでも「新しい友だちができた。お母さんは亡くなっちゃったけど、 大人になるまで元気で頑張る」。精いっぱいの明るさを振りまく。 避難所で一緒に暮らす祖母、熱海恵美子さん(55)は 「母親を埋葬した日に思い切り泣いて、 それから、さつきは涙を見せない」と話した。 ――――――――――――――――― 「ママのこと言わないで」救援物資ノートに不明母の絵、宮城の9歳女児 ![]() 産経ニュース 2011.3.25 12:45 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110325/dst11032512490031-n1.htm 大津波の被害にあった宮城県名取市の避難所で暮らす市立閖上小3年、 宮下奈月ちゃん(9)は、最近、しきりにノートに母親の久実さん(38) の絵を描く。久実さんは地震後、25日まで、行方が分からない。 きょうだいのなかでもっともママっ子だった奈月ちゃん。 久実さんの姿は描くのに、母親の話は決してしない。 一緒にいる祖母のヨシ子さん(67)は奈月ちゃんが心配でたまらない。 宮下家は名取市の海岸沿いに家があり、奈月ちゃん、姉の奈々さん(12)、 兄の直人さん(14)、母の久美さんと祖母のヨシ子さんが家族。 久実さんは5年前に離婚し、父は一緒に暮らしていない。 津波に襲われた11日は閖上小3の奈月ちゃんと小6の奈々さんは授業中。 久実さんは警備会社で仕事をしていた。 直人さんは中学校の卒業式を終えヨシ子さんと自宅に。 家族5人は3カ所にばらばらにいたのだ。 激しい揺れに襲われ、 自宅にいたヨシ子さんは直人さんと近くの閖上中に走って避難。 そのときに久実さんから携帯電話のメールが着信。 内容は「子供たちは大丈夫? 早く避難してよ」。 ヨシ子さんは「避難した。会社にいて。自宅には絶対戻ってはダメ」 と返信した。 津波の黒い波は、すぐに閖上中を襲い、校舎は2階まで飲み込まれた。 あわてて3階まで駆け上がり、助かった。 11日は水が引かず、一晩をそこで明かした。 12日になって、水が引いた閖上中を離れ、内陸寄りの館腰小へ移動し、 閖上小から移った奈々さんと奈月ちゃんに会えた。 閖上小も浸水したが無事だった。 あとは久美さんだけだった。 このとき、ヨシ子さんは久実さんは会社で避難していると信じ込んでいた。 「子供は全員無事」と伝えたくて、久実さんが務める警備会社に電話すると、 「久実さんは地震直後に会社を出た」と告げられた。 ヨシ子さんにメールを送った後、 「娘2人がいる小学校に行く」と車で飛び出したらしい。 会社から閖上小に向かう道はすべて水没している。 「津波に巻き込まれたのでは」と久実さんの携帯に電話した。つながらない。 ゾッとした。すぐに避難所を探し始めた。 市役所で避難者名簿を確認し、市内の救急病院すべてに問い合わせた。 遺体安置所も行った。 久実さんと同じ年ごろの女性の身元不明遺体を震えながら確認したが、 別人だった。車も見つからず手がかりは全くない。 ヨシ子さんは「会社にいれば大丈夫だったのに。 子供が心配で様子を見に行って波にのまれるなんて…」と声を詰まらせる。 久実さんは離婚後、会社勤めをはじめ、 毎朝、子供たちの食事を作ってから出勤、夜遅くまで警備会社で事務をした。 「お金のことで不自由な思いはさせたくない」 と毎日、忙しそうに働いていた。 子供たちの希望どおり、奈月ちゃんを英語教室に通わせ、 奈々さんにはピアノを習わせた。 久実さんが行方不明と聞き、直人さんや奈々さんは声を上げて泣いた。 「津波が憎い」とはっきり言葉に出して怒った。 だが、奈月ちゃんは怒りも悲しみも見せない。いつもと変わらなかった。 「ママのことはあんまり言わないで」とぽつりと言った。 奈月ちゃんは時々、ヨシ子さんの携帯電話を持って1人でどこかへ行く。 ヨシ子さんが「何していたの」とたずねても、 奈月ちゃんは「ナイショ」とほほ笑む。 久実さんが子供たちを思って残したメールをみているのだろうか。 ママに電話をしているのかもしれない。 ヨシ子さんは小さな心に 大きな傷を抱えてしまった奈月ちゃんがふびんでならない。 ――――――――――――――――― 中国人研修生20人の安全優先 宮城の男性に北京紙「感動報道」 産経ニュース 2011.3.17 20:13 http://sankei.jp.msn.com/world/news/110317/chn11031720150007-n1.htm 東日本大震災で、自社の中国人研修生らを助けるため逃げ遅れ、 行方不明となっている宮城県女川町の日本人男性の行動が 中国国内で大きな感動を呼んでいる。 女川町入りした中国国営新華社通信記者の記事によると、 地震が発生した11日午後、同町の水産会社「佐藤水産」で 研修する大連出身の中国人女性研修生20人が 会社の寮の近くでうろたえていたところ、 同社専務の佐藤充さんが「津波が来るぞ」と叫びながら走ってきて、 全員を高台にある神社に避難させ、立ち去った。 佐藤さんの安否は17日現在も不明という。 佐藤さんの妻は石巻市で、長女と長男は東京で無事が確認されている。 17日付の北京紙「新京報」は「感動」とのカットを付けて この新華社電を大きく掲載した。 インターネットには、「災害時に会社に来ている外国の若者のことを優先する 日本人の優しさと責任感に涙した」など多くのコメントが寄せられた。 ――――――――――――――――― 「私たちも逃げない」 米軍家族ら、孤児院支援を継続 産経ニュース 2011.3.28 17:48 http://sankei.jp.msn.com/world/news/110328/amr11032817520006-n1.htm 東日本大震災の被災地などで米軍による救援活動「トモダチ作戦」が続く中、 米軍艦船や航空機を使ったハード面の支援とは別に、 米軍人の家族らが震災孤児の救済などに汗を流す草の根支援も広がっている。 大地震と余震、原発事故の被害から逃れるため、 米軍人らの家族数千人が帰国するなど自主的に退避する一方で、 日本にとどまり、児童養護施設で孤児の面倒を見続けている米国人らがいる。 青森県七戸町の米軍三沢基地に勤務する海軍士官を夫に持つ ジェミニ・サンフォードさんらだ。 同町の児童養護施設「七戸美光園」(後藤辰雄理事長)では、 地震発生当時、約40人の児童が生活していたが、 震災後に親を失った孤児ら約30人を新たに収容したため、 食料や衣類などが極度に不足した。 米ラジオ番組「キロ・ラジオ」(ワシントン州シアトル) に出演したサンフォードさんは、 「震災後の22日に夫が美光園に駆けつけると、 4日分の非常食しか残っていなかった。 三沢基地に報告し、(以前から行っていた)支援を続けることが決まった」 と語った。 米軍家族には自主退避の許可が出ており、 司会者からなぜ退避しないのかを聞かれ、 「われわれが逃げたらだれが子供たちに食料を届けるの?」と答えた。 美光園の男性職員は産経新聞の電話取材に 「26、27の両日にも米軍関係者が施設を訪れ、 昼食のとき、持ってきた弁当を子供たちと一緒に食べた。 子供たちも喜んでおり、本当に感謝している」と語った。 米軍三沢基地は美光園と20年以上の交流があり、 こうした信頼関係が今回の支援にも生かされたようだ。 また、三沢基地に勤務する米空軍中佐の妻、 ケリー・ウィンマーさんは震災後、米軍家族に衣類などの提供を呼びかけた。 空軍広報によると、ケリーさんは「想像以上の物資が集まり本当に驚いた。 友人の三沢市民の少しでもお役に立てればうれしい」としている。 家族だけでなく、支援活動に当たる将兵からの寄付も相次いでいる。 三陸沖に展開する原子力空母「ロナルド・レーガン」では、 毛布やセーター類が1千着以上、ぬいぐるみ20個が集まった。 ジャスティン・ハーツ少佐は「自分の子供にもらったぬいぐるみを 提供した水兵もいた。日本の被害を聞いた子供から、 そうしてほしいと頼まれたそうだ」と語った。 ――――――――――――――――― 米軍救援活動に密着 命懸け「トモダチ作戦」 産経ニュース 2011.3.27 00:49 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110327/dst11032700550004-n1.htm 東日本大震災の被災地や沖合で、 「オペレーション・トモダチ(トモダチ作戦)」と名付けた 救援活動を展開している在日米軍。 「友」と日本語で刺繍(ししゅう)されたワッペンを身につけた隊員は 「作戦を誇りに思う」と胸を張る。 26日、米軍基地から支援物資とともに輸送機に乗り込み、 “史上最大の救援活動”に密着した。(大竹直樹) ■物資とともに輸送機に 「これから放射線を測定する」。 午前5時、神奈川県綾瀬市の厚木基地。 大きな倉庫内で放射線測定器を持った隊員に全身を計測された。 福島第1原発の放射能漏れ事故を受けた措置で、 簡易測定器を常時身につけることも指示された。 「ここだ。ここで降ろせ!」。 午前5時半、米海軍の輸送機が並ぶ駐機場では、 慌ただしく動き回るフォークリフトに隊員の声が飛ぶ。 ミネラルウオーターや毛布、衣服などの支援物資が 入った段ボール数十箱がリフトから次々と降ろされていく。 駐機場では輸送機「C-2」が離陸の準備に入っていた。 5人の隊員が手渡しリレーで次々と段ボールを積み込む。 ゴーグルと防音ヘッドホンのついたヘルメットを装着し、 段ボールが積まれた貨物室に乗り込むと、 朝日が顔をのぞかせた午前6時に離陸した。 ■「任務は誇り」 激しい振動と騒音の中、 輸送機は約1時間半で三沢基地(青森県三沢市)に着陸。 「この任務に当たり、日本人の助けになれることを誇りに思う」。 出迎えてくれた第5空母航空団ヘリコプター対潜飛行隊の ペレラ・シル中佐(43)が、「友」「がんばろう日本」 と刺繍された右腕のワッペンを見せてくれた。 「自分たちのやれることは少ないが、 物資を被災地に持っていくと笑顔を見せてくれる」と誇らしげだ。 救援活動の中核部隊は米海兵隊と米海軍。 東北地方の太平洋側に艦船を展開している。 第7艦隊によると、救援活動には約1万8280人が従事。 艦船19隻と航空機約140機で物資を被災地に届けている。 雪が舞う滑走路では、隊員が懸命に除雪作業に当たっている。 沖合の揚陸艦との間を往復する輸送機やヘリが陸着陸できなければ、 それだけ支援物資が被災地に届くのも遅れてしまう。 ヘリコプター対潜飛行隊に所属する 上枝(かみえだ)俊介1等兵曹(34)は、 「トモダチ作戦」について、「言葉にならないほど感謝している。 米軍人も日本人も同じ気持ちだ」と語った。 雪がやんだ午後5時ごろ、第7艦隊のドック型揚陸艦「トーテュガ」 に向けて大型ヘリで三沢基地を離陸した。 500人以上の米海兵隊員が支援物資輸送の 任務に当たるトーテュガまで15分ほどのフライトだった。 ――――――― トモダチが勇気くれた SANKEI EXPRESS 2011/03/27 00:16 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/499313/ 「Operation Tomodachi」(友達作戦)。 東日本大震災の人道支援作戦をそう命名した米軍は、 原子力空母「ロナルド・レーガン」を中心とする艦艇部隊や 航空機部隊の数万人を投入し、被災地への物資輸送などを活発化させている。 3時間で滑走路完成 圧巻は、津波が押し寄せ、軽飛行機が浮かんだ仙台空港の復旧だ。 「日本側はお手上げだった。 だからノウハウを持ったわれわれが最初に復旧を手がけることにした」 米空軍のジョセフ・ブッカー大尉は24日付の 米軍準機関紙「星条旗新聞」でそう語った。 大尉が所属する嘉手納基地(沖縄県嘉手納町など)の 第320特殊戦術飛行中隊は16日、 落下傘で空挺(くうてい)隊員と装甲車ハンビーを 宮城県松島町上空付近から投下した。 日本唯一の空挺部隊である陸上自衛隊第1空挺団は 今回の震災では空挺作戦を行わず、 陸上で救出や輸送作業を行っているが、米軍はやってのけた。 いち早く仙台空港に陸路で入り、復旧作業を始めるためだった。 この部隊は、夜間や悪天候をついてひそかに敵の背後に 落下傘降下するのを得意とする米軍きっての精鋭。 アフガニスタン戦争を経験した部隊の本領発揮だ。 ロナルド・レーガンが三陸沖に展開中だが、 いかに空母といえども大型輸送機は離着陸できない。 物資の大量輸送を可能にする空港の重要性を熟知した上での判断があった。 自衛隊を支援してがれきを撤去。 大型輸送機C130が着陸できる1500メートル滑走路が わずか3時間で完成した。 20日には、C130の3倍の積載量を誇る米空軍最大の輸送機C17が 約40トンの人道支援物資を積んでアラスカから着陸した。 励まし続ける米大統領 最高司令官のバラク・オバマ大統領(49)は 米軍の持てる能力を日本側にフルに提供する姿勢を見せている。 対応は素早かった。地震発生から5時間20分後の 11日早朝(日本時間11日夜)には「日米の友情と同盟は揺るぎない」 との声明を発表。 昼の記者会見では 「日本には個人的なつながりを深く感じており悲痛な思いだ」と心情を吐露。 その後も8回にわたり日本の災害に言及し、繰り返し日本を励ました。 ジョン・ルース駐日大使(56)夫妻と米太平洋軍の ロバート・ウィラード司令官(60)夫妻は23日、 約1200人が避難する宮城県石巻市の渡波(わたのは)小学校 を訪れて被災者を励ました。 ルース大使は、教室で毛布にくるまって寒さを しのぐ被災者一人一人と10秒以上抱き合いながら、 「全面的に支援したいと直接伝えたかった」と語り掛けた。 体育館でも、子供を抱きしめたり、お年寄りの手を握った後、 「米国は日本の友人にどんなことでも支援していく」と述べ、 被災者から大きな拍手を浴びた。 困っているときに、口先だけでなく身をもって助けるのが本当の友達だ。 ――――――― 「救援活動のお礼」米軍にワッペンを提供 産経ニュース 2011.3.29 22:33 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110329/dst11032922390068-n1.htm 東日本大震災の救援活動「オペレーション・トモダチ(トモダチ作戦)」 に当たる在日米軍で、「友」と日本語で刺繍(ししゅう)されたワッペンを ジャケットにつける隊員が増えている。 ワッペンは、米海軍関係者と長年親交のあった日本人が 救援活動に感銘を受けて製作し、 「日米の懸け橋になれば」と無償で提供したものだった。 「トモダチ作戦という名前を聞いて涙が止まらなくなった。 お礼の気持ちからワッペンを作ろうと、手がすぐに動いた」。 そう語るのは、「友」ワッペンを考案した月刊誌「航空ファン」 編集部員の雨宮隆太さん。妻の亜希美さん(33)が運営する インターネットの航空グッズショップを通じて、 台湾の刺繍工場に発注し、14日から製作にとりかかった。 デザインは雨宮さんが担当。 「トモダチ」をイメージし、日の丸の中央に「友」という漢字を置いた。 「がんばろう日本」という文字を添えたのは、 「被災された方も『アメリカ人が助けにきた』とすぐに分かり、 被災者にも安心が伝わると思ったから」という 厚木基地(神奈川県綾瀬市)で開かれる航空祭での通訳や ボランティアなどを通じ米軍と親交を深めてきた雨宮さんは これまでに1000枚を基地の部隊に無償提供。 その後も、各部隊から「こんなにフレンドシップを感じるものはない」 「みんなでつけて頑張るから全員分ほしい。原価だけでも払いたい」 と追加注文が殺到したという。 原価は1枚約400円だが、 1枚1ドルで9000枚を提供することにしたという。 「友」ワッペンが報道されると、「ぜひほしい」という、 一般からの問い合わせが相次いだため、 1枚1000円でチャリティー販売することも始めた。 製作コストなどを除いた利益の全額を 東日本大震災の義援金として寄付するという。 ワッペンには「Don’t give up!」 という英文も添えられている。 雨宮さんは「部隊の結束力を高める効果が期待されるなど、 ワッペンの力は大きい。日本人の気持ちを理解してもらい、 救援活動に尽力してほしい」と話している。 ―――引用おわり――――― ワッペン購入は、こちら http://navygear4u.ocnk.net/ ――――――― トモダチ作戦に参加している米兵の姉が、 弟からの手紙をアメリカのネットコミュに投稿。 「姉さん、僕はいま軍隊に入って一番充実しているんだ、 それを知って欲しい。 イラクで激しい戦闘も経験したけど、そんなのとは比較にならないのさ。 僕は兵士だから命令されれば人も殺すし、他人の家だって破壊する。 だけど姉さん、それは僕が望んですることじゃないんだ。 僕は兵士だから危険は覚悟してるし、それを期待してすらいる。 だけど姉さん、僕が望むのは人々の命を救う事なんだ。 この作戦が終わったら、初めて真っ直ぐに姉さんに会いに行けると思う。 自分をごまかすための酒まみれの日々は、今度はいらない。 一緒に母さんの墓へ行こう。 今なら母さんも息子の僕を誇りに思ってくれると思うんだ。」 ――――――――――――――――― 津波から3週間後に救助された漂流犬、飼い主の元へ 産経ニュース 2011.4.4 16:58 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110404/dst11040417010028-n1.htm 宮城県気仙沼市の沖合約1.8キロの海上で漂流していたところを、 津波から3週間後に救助された犬が4日、名乗り出た飼い主の元に戻った。 飼い主は「これから絶対離さずに、大事に飼う」と喜んでいたという。 犬は雑種の雌。 震災の行方不明者を捜索していた第3管区海上保安本部(横浜)の 特殊救難隊のヘリコプターが1日に発見、救助艇で助けた。 県動物愛護センターで保護されていたが、 気仙沼市の避難先でテレビを見た50代男性の家族が 「うちの犬じゃないか」と名乗り出た。 妻が同センターを訪れたところ、犬はしっぽを振って大喜び。 センター職員らに見せる態度とは全く異なり、飼い主と判断したという。 鈴木寿郎同センター所長は「不慮の事故で離れ離れになったペットと 飼い主が再会できて、うれしい」と話した。 ![]() ――――――――――――――――― 先人は知っていた 「歴史街道」浸水せず 毎日新聞 2011年4月19日 15時00分 http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110419k0000e040095000c.html?inb=yt 東日本大震災に伴う津波で大きな被害を受けた仙台平野で、浸水域の先端が、 江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まっていることが、 東北大の平川新教授(江戸時代史)の調査で確認された。 仙台平野は400~500年おきに大津波に見舞われており、 街道は過去の浸水域を避けて整備された可能性が高いという。 平川教授は「先人は災害の歴史に極めて謙虚だった」と話し、 今後の復旧計画にも教訓を生かすべきだと提言する。 国土地理院が作製した東日本大震災の浸水図に、 平野を縦断する奥州街道と浜街道を重ねたところ、 道筋の大部分と宿場町が浸水域の先端部から わずかに外れていたことが分かった。 宿場町の整備後に仙台平野を襲った慶長津波(1611年)では、 伊達領で1783人が死亡したとの記録が残る。 平川教授は「慶長津波を受けて宿場町を 今の位置に移したとも推察できるが、 今回の浸水域と比べると見事なほどに被害を免れる場所を選んでいる。 津波を想定して道を敷いた可能性は高い」と指摘する。 同平野は明治以降も繰り返し津波に見舞われた三陸海岸と比べ、 津波被害の頻度が少ないとされる。 慶長津波の浸水域は明らかになっていないが、 内陸約4キロの山のふもとまで船が漂流したとの記録がある。 東北大の別の研究チームによれば、 今回の津波は海岸線から最大5キロ程度に達し、 平安時代の貞観地震(869年)の浸水域をやや上回った。 平川教授は「残念ながら明治以降の開発において、津波の経験は失われた。 復興のまちづくりは災害の歴史を重視して取り組んでほしい」と話している。 津波浸水図 東北大学防災科学研究拠点事務所の資料・国土地理院航空写真を基に作成 ![]() ――――――――――――――――― 命救った掛け声 「逃げろ」「高台に」 わずかな時間に誘導 共同通信 2011年04月03日 http://www.47news.jp/47topics/e/203629.php 東日本大震災の巨大津波は、地震後約20~30分で襲来したとされる。 そのわずかな時間に、高台に避難するよう叫んだり、 促したりして多くの生命を救った地域の人たちがいた。 家族や隣人、従業員、ツアー客…。 かけがえのない人々を守ろうとした「掛け声」を集め、 その行動の意味を考えた。(大がっこがその場面の掛け声) 【みんな逃げろ】 宮城県南三陸町の漁港にあった水産加工会社 「行場(ぎょうば)商店」。従業員58人と中国人研修生12人がいた。 激しく長い揺れ。 高橋正宜(たかはし・まさよし)社長(49)が声を張り上げた。 多数の犠牲者が出たチリ地震津波(1960年)の翌年に生まれ、 祖父母や両親から津波の怖さを教わってきた。 自動車の鍵を取りに行こうとした従業員を制止。 裏のがけから避難階段を上って高台に抜けるよう指示、全員が難を逃れた。 階段は約15年前に設置、短時間で約15メートルの高さを稼げた。 工場や事務所はのまれ、 「なくしたものは大きいが、みんな助かってよかった」 【高台に上がれ】 「揺れが大きい」。宮城県女川町竹浦地区の男性民生委員(60)は 小学生の時にチリ地震津波を経験し「今回も津波が来ると思った」。 海辺の集落に走る。 「早く声を上げないといけないと思った。助けようと必死だった」 ドンドンドン。一軒一軒ノックした。 ある家では女性がテレビをつけようとしていた。 おろおろする高齢女性が多く、「声を掛けないと出られない状態だった」。 20軒目あたりで遠くに波が見えた。 高齢女性を背負い、階段を駆け上がった。地区は津波にのまれた。 【もっと上に】 岩手県大槌町の海沿いの浪板観光ホテル。 農業笹川哲男(ささがわ・てつお)さん(79) =秋田県五城目町=ら秋田のツアー客約40人が地下で観劇をしていた。 大きな揺れ。「津波が来るよ」。女性従業員2人が呼び掛けた。 非常階段で外へ。誘導に従い、 敷地の高台にある駐車場を目指し、坂をスリッパで駆け上がった。 駐車場に着くと津波が来るのが見えた。「ここでも危ない。もっと上へ」。 女性従業員が促し、国道を越えて線路まで急いだ。 「駐車場にいたら助からなかった。 フロント係やコックさんなどいろんな制服の人が誘導してくれた。 冷静で素晴らしい対応だった」 秋田に無事戻った一行。多くの人が「恩返しをしたい」と、 逃げたときのホテルのはんてん姿で街頭に立ち、 大槌町への募金を呼び掛ける。 【はよ、山に上がれ】 岩手県大槌町の水産加工会社「ナカショク」で働いていた 荻野貴紀(おぎの・たかのり)さん(40)は、 地震直後に響いた社長の声を耳にした。 「地震が来たら津波が来るということを知ってはいたが、 揺れであたふたしていた」。トップの声に背中を押され、 約300メートルの坂道を駆け上がり、高台に避難した。 工場は流されたが、従業員約50人全員が助かった。 「あの声で皆逃げた。社長に助けてもらったと思っている」 【早く逃げんだよ】 宮城県気仙沼市の古谷館(こやだて)地区の自治会長、 佐藤英一(さとう・えいいち)さん(69)。 揺れに「あまりにも大きい。津波が来る」と思った。 年配の人から「地震があったら避難」と聞いていた。 両隣に声を掛け、近所の人にも大声で叫んだ。 歩くのが不自由な高齢者は車に乗せ、高台へ階段を駆け上がった。 津波は地区をのみ、階段の途中まで達した。 「みんな顔見知り。近所に声を掛けるのは自然だった」 危機対応に詳しい慶応大の 吉川肇子(きっかわ・としこ)教授(社会心理学)は 「大変な状況の中で、的確な行動をした方に頭が下がる。 地震があったらすぐ高台に逃げるという 重要なことを学んでいたからできたと思う」と指摘する。 地域の顔見知りが声を掛けた例が多い。 「知り合いの声ということが重要。 逃げる自覚がなかった人や、逃げなければと考えていた人の背中を押したと思う」 ツアー客が称賛したホテル従業員の誘導については 「非常事態では、消防関係者など制服姿の人の言葉に従いやすい。 権威を見いだすからで、従業員の制服も一定の効果があったかもしれない」 その上で「ただ『逃げろ』と叫ぶだけではない。 状況を段階的に判断し、理由を示してさらに高台へ誘導した」 と一連の行動に敬意を示した。 吉川教授は96年の福岡空港ガルーダ航空機炎上事故で、 乗客が「出られるから落ち着け」と声を上げた例を紹介。 出口に人が殺到しないで済んだといい、 「理由を示すことが大事」と強調した。 2000年の北海道・有珠山噴火で、 住民の事前避難に尽力した岡田弘(おかだ・ひろむ)北海道大名誉教授は 「声を出した人は地域のキーパーソンが多い」と着目した。 「住民は普段からキーパーソンの行動を見ている。 その人が必死に声を掛けると 『この人があれだけ言うのなら』と従いやすい」とみる。 岡田さんは「三陸の沿岸はもともと防災意識が高い。 生命を救った多くの事例を集めてほしい」と提言している。 ――――――――――――――――― 「怖い、怖い」泣きじゃくる園児30人、救った背中 大槌保育園 産経ニュース 2011.4.5 10:00 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110405/dst11040510020021-n1.htm 女性保育士とスーパーの従業員らは、四つんばいでしか はい上がれない急斜面を園児30人を背負って駆け上がった。 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町の大槌保育園。 園舎も避難場所も津波に襲われたが、保育士らの必死の避難で園児を守った。 八木沢弓美子園長(45)によると、地震発生時は昼寝が終わったばかり。 園児約100人はパジャマのまま防災ずきんをかぶり外に出た。 向かったのは国道沿いの小高い丘にあるコンビニ。 町の指定避難所は空き地で寒さをしのぐ建物がない。 保育園は、津波浸水想定区域のぎりぎり外にある このコンビニを独自の避難場所と決めていた。 八木沢さんはコンビニ店内で、 迎えに来た親に園児のうち約70人を引き渡し、外を見た。 「家の屋根をたくさん浮かべた高い波」が迫ってきた。 「怖い、怖い」と泣きじゃくる園児ら。 覚悟を決めた。「山に逃げよう。先生のそばにいれば大丈夫」 国道は市街地から逃げる人や車で大渋滞。 八木沢さんらは、1歳から年長まで残っていた園児30人を 散歩用の台車に乗せて車道を駆け上がり約300メートル先の山のふもとへ。 近くのスーパー従業員約30人も避難していた。 さらに津波が迫ってきた。もう考えているひまはなかった。 目の前には30度を超えるような急斜面。でも登るしかない。 八木沢さんら女性保育士20人と男性保育士1人、 さらにスーパー従業員の男女が手分けして園児をおんぶし、 斜面に張り付くように四つんばいになって、 切り株や木に手をかけて登り始めた。上へ、上へ。 必死だった。 登りながら振り返った。 大槌湾から押し寄せる波が、コンビニと園舎、 指定避難所の空き地に向かう道路をのみこんでいった。 山頂は雪。眼下で火事も起きていた。山頂まで何分かかったか覚えていない。 20分だったか、30分だったか…。 気持ちが落ち着いたら、 山頂からふもとにつながる細い山道があることに気付いた。 歩いてふもとに下りたのは真夜中だった。 コンビニで親に引き渡した園児のうち9人が、 死亡または行方不明になっていた。 最後に引き渡した女児は、 乗用車の中で防災ずきんをかぶった姿のまま遺体で見つかった。 「あそこで引き渡さなければ、あの子は助かったんだろうか」。 八木沢さんは保育士を辞めようと思い詰めたが、 保護者の声に支えられ保育園再開のために汗を流そうと決めた。 亡くなった子供や親の分まで、自分にできることを精いっぱいやるつもりだ。 保育園児たちを背負って登った山の斜面の前に立つ八木沢弓美子園長 ![]() ――――――――――――――――― マグニチュード9・0の超巨大地震により発生した大津波。 岩手県釜石市唐丹町小白浜地区にあった高さ10~12メートルの防潮堤は なぎ倒され、集落は押し流された。津波は防潮堤の高さを超えていた。 http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/Earthquake/201104/404bouchoutei/ ![]() ――――――――――――――――― 「小さな遺体に涙こらえきれず…」法医学者が語る検視の現場 産経ニュース 2011.4.6 08:53 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110406/dst11040608550016-n1.htm 法医学者は遺体確認のプロだ。 宮城県で警察に協力して遺体の検案に当たっている法医学者の男性が、 「何が起きているか、事実を伝えたい」と重い口を開いた。 その日は被災地の小学校の体育館だった。 天井からつるされたブルーシートで仕切られ、 玄関側で警察官や法医学者が遺体の検視、検案を行う。 ステージには身元の特定された遺体がひつぎに入れられ、 家族との面会を待っていた。 教室から持ってきた机を並べて作った即席の検視台に遺体が乗せられる。 泥や枯れ草は、警察官がわずかな真水を使ってぬぐってくれた。 東北の寒さが、今はまだ遺体をきれいに保っていた。 体育館に並ぶ遺体は100体。 遺体を見慣れた法医学者の自分でさえ、感覚がまひする被害の大きさだった。 ステージから常に遺族の泣き声やおえつが漏れていた。 必死でこらえる声、運命を呪う声、ぶつける先のない怒りの声を聞きながら 「冷静な科学者でいなければ」と必死に自制した。 しかし、自分の娘によく似た小さな遺体を目にしたとき、 涙をこらえられなかった。 大切そうに抱えていた緊急持ち出し袋には 大量のレトルト食品が詰め込まれていた。 持って走るには、きっと重過ぎただろう。 宮城だけで毎日100人以上の遺体が見つかっていたが、 身元確認は遅れている。 骨の形状を読み取るエックス線撮影やCTはもちろん、 歯型の写真さえ撮れていない。震災から3週間がたった。 少しずつ損傷の激しい遺体が見つかり始めている。 身元確認はどんどん難しくなるが、 必要な情報収集ができていないのが現状だ。 ――――――――――――――――― 宮城の島民が米海兵隊に謝意 がれき撤去終了、撤収へ 産経ニュース 2011.4.6 13:17 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110406/dst11040613220026-n1.htm ![]() 宮城県気仙沼市の離島・大島で、がれき撤去作業を行った米海兵隊が 活動を終了して撤収するのを前に、島民代表らが6日、 謝意を表明して、地元の画家が描いた大島の絵など記念品を贈った。 海兵隊は1日に強襲揚陸艦エセックスから上陸し、浦の浜港を中心に、 ブルドーザーなどの重機を使って流された車やがれきを撤去。 住民にシャワーも提供した。 島で災害対策本部長を務める白幡雄児さん(63)らは絵のほか、 気仙沼の特産のサメの皮で作った名刺入れを贈った。 ジョーンズ准将は「『緑の真珠』と呼ばれた美しい島で支援できて光栄。 再生の時が必ず来ると信じている」と激励し、 エセックスの帽子などを手渡した。 港近くに避難している女性は、 「ほぼ1カ月ぶりにお風呂にも入れてくれた。うれしくて涙が出た」 と話した。 ![]() 大島の活動、ほぼ終了 トモダチ作戦 産経ニュース 2011.4.6 22:11 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110406/dst11040622120067-n1.htm ![]() 「オペレーション・トモダチ(トモダチ作戦)」の一環として、 在日米軍が宮城県気仙沼市の離島、 大島で行っていたがれき撤去作業が6日、ほぼ終了し、海兵隊員らが撤収した。 震災後、孤立していた大島に、 米軍は海兵隊員約300人と海軍将兵約30人を投入。 強襲揚陸艦「エセックス」のLCU(汎用(はんよう)上陸艇)で 上陸した隊員らが、搬入した重機を使って、 自衛隊や住民と協力し、車やがれきを撤去。 小学校にはシャワーを設置し、住民に感謝された。 見送り会で、部隊を指揮したジェフリー・ジョーンズ准将は 「互いに手をとって作業できたことを誇りに思う。 もうすぐ春が来て、再生のときが訪れると信じている」と語った。 大島観光協会の村上晴美さん(27)は、 行方不明の母親(60)の捜索を兵士が手伝ってくれた。 「母はまだ見つかっていないが、がれきが少なくなり、 作業しやすくなった。また来てほしい」 今後は、港湾内に沈むがれきなどが大島と 気仙沼を結ぶフェリーの運航を妨げているため、 青森・八戸沖で展開していたドック型揚陸艦「トーテュガ」が がれきの調査・撤去作業に当たる。 ![]() 砂浜に描かれた「ARIGATO」 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-580.html ――――――――――――――――― 【被災地から】輝く子供たち SankeiPhoto 2011.04.06 http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/Earthquake/201104/0406child/ 流された自宅の跡で思い出の物を探す熊谷ひなちゃん(5)。 一番悲しいことは「お家が無くなったこと」だというが、 「津波も家が欲しかったんだよ」と言ってと大人を笑わせた。 岩手県陸前高田市(門井聡撮影) ![]() 3月11日に発生した東日本大震災は、地震や津波の被害に加えて、 福島第一原発の放射線?Y漏洩(ろうえい)事故や計画停電が、 国民生活に大きな影響を与えている。 寒さと物資不足で厳しい日々を強いられている被災地。 人々の表情に疲労が影を落とすなか、 元気を失わない子供たちが、一筋の光となっている。 避難所となっている仙台市立若林小の6年生の女子は、 「卒業式は延期になったし、中学校にもいつ入学できるのかわからない。 でも避難所で友達みんなと一緒にいると安心できるし、 頑張ろうという気持ちになれる」と笑顔を見せた。 「僕たちもできることをやるんだ」と、大人たちに混じって、 手伝いに励む子供も多い、同市立七郷小では、 給水のための手動ポンプを使って、児童が元気に水くみをしていた。 小さな体ではかなり力がいる作業を、 数人で協力して何本もの容器に水を満たしていた。 両親や家族が行方不明になった子供たちも少なくない。 それでも笑顔を失わず、がんばる子供たち。 その姿に、瓦礫から立ち上がろうとする力の源泉を見た気がした。 ――――――――――――――――― 石川遼の会見に米メディアも泣いた 前年覇者ミケルソン「尊敬している」 産経ニュース 2011.4.6 21:03 http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110406/glf11040621030005-n1.htm 男子ゴルフの今季メジャー第1戦「マスターズ」(7日開幕)に 出場する石川遼(19)=パナソニック=が訴えた東日本大震災復興支援の メッセージが世界中に広がっている。(夕刊フジ) 会場のオーガスタナショナルGCで行われた公式会見は想像以上の反響で、 思わず目頭を熱くした米報道陣もいたほど。 2月からの米遠征は不振だが、天性のパフォーマンス能力で 開幕前に大仕事をこなした格好。 前年覇者のフィル・ミケルソン(40)=米国=は5日の会見で 「有望な若手はリョウ・イシカワ」と名前を挙げた。 昨年のマスターズは乳がんと闘病中の妻に 優勝を送ったミケルソンの話題一色となった。 自らのためでなく、被災地のために賞金を稼ぐ石川には、 そのミケルソンも注目していた。 5日の会見で「若手の有望株の一人としてリョウ・イシカワの 名前を挙げることができる。彼のことを尊敬しているし、何より礼儀正しい。 非常にいいプレーヤーだ」と評した。 これに先立つ4日、オーガスタナショナルGCで行われた石川の公式会見。 米各メディアや英BBCなどが石川のメッセージを世界に配信している。 「いやあ、感動したよ。マスターズの歴史の中では さまざまな感動のシーンがあったが、 その1ページに刻まれる会見だったんじゃないかな。 少なくとも私が担当した会見では最も印象的な会見だったよ」 目に涙をためながらこう語ったのは、 石川の司会を務めたロブ・ジョンストン氏だ。 ジョンストン氏は地元の不動産会社社長を務めながら 会見の司会をしているが、通訳を介してでも 石川のメッセージ性のある言葉と立ち居振る舞いに驚いたという。 石川は会見の中で、今季賞金全額を被災地に寄付することを決めた心情を 説明しながらゴルフによる復興支援を熱弁。 「被災地で冷静に行動する日本人を見て、 ボクは日本人であることを誇りに思った。スポーツの持っている力は無限。 だからかならず影響を与える。 これまで恵まれた生活をしてきた恩返しをしたい」などと語った。 「彼の言葉の力に圧倒されたよ。被災地を思う愛情と、 災難がありながらゴルフに集中しようとする 自分の思いがうまく表現されていた。 あれだけのメッセージを伝えられる才能を持った若者は 米スポーツ界にもあまりいないと思う」とジョンストン氏。 会見に出席した地元紙オーガスタ・クロニクルのスコット・マシュックス記者 も石川の受け答えに思わず胸が熱くなったという。 米ゴルフ界の若手にもリッキー・ファウラー(22)=米国=など 明晰な発言をする選手がいるが、 石川はさらに表現力に長けていると評している。 「落ち着いていて、大人としてしっかりとした発言だった。 トップ選手としての社会貢献の責任に 言及しているところは19歳とは思えない。 特に感動したのは、 『被災地とつながっている思いを持てば100%の力でプレーできる』 と言ったセリフだ」 同紙は『日本の災害が10代選手の心を引き裂いている』と題して、 5日付1面のマスターズ特集で 石川、松山英樹(19)=東北福祉大=のほか、池田勇太(25)、 藤田寛之(41)を大きく取り上げている。 見出しは「スポーツの力を信じている。 だから被災者に喜びが届くようにベストを尽くしたい」とする石川の発言。 同紙は4日にも1面で石川を紹介しており、2日連続となっている。 被災地の国から来た日本人選手の活躍は今大会の 大きな話題として注目を集めている。 米各メディアが石川の会見を報道しているほか、 英BBCも石川の発言を伝えている。 マスターズ週間に沸くオーガスタの町中やホテルには、 「日本をお見舞いします」などの看板も見かける。 マスターズ優勝は石川が少年時代から夢見た目標。 しかし今季の米遠征は予選落ちなど不本意な結果が続いており、 海外ではまだ思うように力を発揮できていない。 被災地の思いを背負うことがもうひと皮むけるきっかけになるかもしれない。 ―――引用おわり――――― 【動画】石川遼選手、マスターズ公式記者会見で東日本大震災について... http://www.dailymotion.com/video/xhz5gp_yy-yyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyy_news ――――――――――――――――― 平河総合戦略研究所メルマガ(2011年9月2日 NO.892号) http://melma.com/backnumber_133212_5146748/ 西村真悟 『被災地にも堺にも来た四月』 津波で亡くなった二十四歳の美しいアメリカ人女性。 被災地の中学校で英語の先生をしていたミス、テイラー・アンダーソンさん。 テイラーさんは、地震に際し、生徒達を安全な場所に移してから 自転車で自分のマンションに戻ろうとした。 その時路上で津波に襲われ亡くなった。 数日後に遺体は発見され遺品とともにバージニア州の両親の元に還った。 テレビで、彼女の両親(五十四歳)がインタビューを受けていたが、 彼女の行動を知り「娘を誇りに思う」と語り、 娘の教え子の三人の中学生の「サンキュー、ミステイラー」 という声を聞いて、「ああー、うれしい」と微笑んだ。 両親は、バージニアの自宅で、日本での彼女の楽しげな写真を見ていた。 祭りの日に浴衣姿で生徒達と映っている美しい若い娘の写真があった。 そして、いつかまた、娘が英語を教えた地を訪れたいと語っていた。 その立派な抑制された両親の態度に、深い悲しみが現れていた。 ―――引用おわり――――― ![]() 日本を愛した米女性教師の「絆」継ぐ 復興支援基金創設 産経ニュース 2011.4.9 10:04 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110409/dst11040910080019-n1.htm 東日本大震災では外国人も被災している。 米国人で初めて身元が確認された英語女性教師、 テーラー・アンダーソンさん(24)は、宮城県石巻市で亡くなった。 日本と日本人を愛し、生徒に慕われていたテーラーさん。 米国では父親が復興支援基金を創設し、テーラーさんが築いた 日米の絆が受け継がれようとしている。(会田聡) 「3年生、卒業おめでとう!」。 石巻市立稲井中には、テーラーさんが卒業生約60人全員の 名前を英語で手書きした模造紙が今も廊下に張り出されている。 3月11日、市内の小学校で授業を終えたときに地震が起きた。 大津波警報を受け、自宅のあった門脇町に 向かう途中で津波に巻き込まれたとみられる。 震災翌日は稲井中の卒業式。 吉田純一教頭は「休日なのに式に出席すると言っていた。 思いやりが伝わってくる先生だった」と声を震わせる。 テーラーさんは米国バージニア州出身。大学で日本文学を専攻、 2008年に外国青年招致事業(JETプログラム)で来日した。 石巻市の小中学校で外国人指導助手として3月まで教壇に立ち、 8月に帰国予定だった。 同校で約2年間教わった杉山彩音(あやね)さん(14)は 「たくさん質問したけど、嫌な顔ひとつせず丁寧に教えてくれた。 壁を作らない性格で話しやすかった」と振り返る。 同校と隣接する稲井幼稚園では趣味のカメラで、 園児たちとたくさんの写真を撮った。 杉山さんの妹、大愛(だいあ)ちゃん(6)も 「飛びつくとハグしてくれる」と話し、みんなに好かれる存在だった。 それだけに関係者の悲しみは深い。 市立万石浦(まんごくうら)小の相沢一夫校長は 「最後まで生きていると信じて、職員室の黒板に名前を残していた。 残念でならない」と語る。 3月20日に遺体が確認されると、同校には春休み中にもかかわらず、 テーラーさんの安否を確認する児童が数人訪れたという。 だが、その悲しみを乗り越え、遺志を継ごうと、 テーラーさんの父、アンディ・アンダーソンさんらは3月23日、 米国で復興支援基金を創設。 約10日間で5万ドル(約420万円)が集まり、 学校再建などに使われる見込み。 「交流が終わってしまうと思っていたが、 テーラーさんの思いがつながった」(吉田教頭) 保育士を目指す杉山さんは 「子供と気さくに話せるテーラー先生のようになりたい」と涙をぬぐった。 ――――――――――――――――― 「ひとりになっちゃった」家族4人失った自衛官、思い秘め任務 産経ニュース 2011.4.11 14:14 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110411/dst11041114150031-n1.htm 津波で家族4人を失いながら、 被災地の駐屯地に寝泊まりして任務に没頭する44歳の自衛官がいる。 がれき撤去など危険な任務に当たる隊員を後方支援する仕事に終わりはない。 「これ着てますから」。表情を変えず、迷彩服を軽く触った。 宮城県内の陸自駐屯地。 朝食をめぐって口論になった妻(42)から「まだ怒ってる?」 と電話があった。「怒ってないよ」。数時間後、大津波が沿岸地域を襲った。 すぐ緊急出動する車両や重機の準備に取りかかり、 矢継ぎ早に指示を飛ばした。家に戻る余裕はまったくない。 義父(76)を車いすに乗せてみんなで避難したはず。そう信じていた。 翌朝、出動中の車両を確認するため駐屯地を出た。 家があった方向には何もなかった。 避難所名簿に名前がないことを知り「だめだ」と分かった。 仕事の合間を縫って安置所や役所に掲示されたリストを見て回り、 また任務に戻る。娘(14)の遺体と対面できたのは地震から10日後。 中学校のジャージー姿で、顔は穏やかだった。 妻と義父、義母(68)も同じ安置所にいた。 家から1キロ以上ある場所で、4人ばらばらで発見されたのだと知った。 妻と娘は秋田市の実家に運ぶことにした。 たまの連休に一緒に帰省するのが楽しみだった。仏間に並べた2人のひつぎ。 「なんでこうなっちゃったんだろう」。初めて泣いた。 任務は多忙を極めている。 いつも通りに振る舞う自分に、周囲も自然に接してくれる。 いつか、落ち着いたら駐屯地の近くにアパートを借りるつもりだ。 「誰もいない部屋に帰るようになったら、ひとりになっちゃったな、 と思うんでしょう」。静かな声。 ヘルメットには「まげんな(負けるな)!」の文字があった。 ――――――――――――――――― 「避難3原則」守り抜いた釜石の奇跡 防災教育で児童生徒無事 産経ニュース 2011.4.13 14:03 http://sankei.jp.msn.com/life/news/110413/edc11041314070001-n1.htm ![]() 背後を気にしながら高台を目指す子供たち。 小学生は、中学生に手をひかれている。 これは東日本大震災の大津波から避難する岩手県釜石市の 鵜住居小学校(361人)、釜石東中学校(222人)の避難の様子を、 住民が撮影した貴重な写真だ。 釜石市内の児童・生徒はほぼ全員が無事に逃げ延びた。 「釜石の奇跡」といわれる避難はどのように行われたのか。 南海地震の大津波に備える西日本にとって学ぶべきことは多い。(北村理) ●原則1「想定、とらわれるな」 海岸からわずか約1キロの鵜住居小では地震直後、 校舎3階に児童が集まった。 地震では建物自体は被害がなかったことや 浸水想定区域外だったのが理由だった。 海岸から近いにもかかわらず浸水想定区域外だったのは、 明治、昭和の津波で被害がなかったからだ。 しかし、児童が3階に集まり始めたころ、 隣接する釜石東中では生徒は校庭に駆け出していた。 校内放送は停電のため使えなかったが、 これを見た児童たちは日頃の同中との 合同訓練を思い出して自らの判断で校庭に駆け出した。 児童・生徒ら約600人は、 500メートル後方にある高台のグループホームまで避難。 ここも指定避難場所だったが一息つく間もなく、 裏側の崖が崩れるのを目撃する。 危険を感じて児童生徒はさらに約500メートル先の 高台にある介護福祉施設を目指した。 その約30秒後、グループホームは津波にのまれた。 ●原則2「最善を尽くせ」 背後から聞こえる轟音と防潮堤にぶつかる白い波しぶきを見た児童・生徒は たどり着いた介護福祉施設からさらに高台へ駆けた。 写真はまさにこの時の様子だ。 津波は介護福祉施設の約100メートル手前で止まった。 すべてが避難開始から10分足らずの出来事だった。 「間一髪で小学生全員が津波に巻き込まれるところだった」と、 釜石市の小中学生の避難行動を調査した群馬大学大学院災害社会工学研究室の 片田敏孝教授と金井昌信助教。 もちろん津波は小中学校をのみ込み、 鵜住居小では3階まで流されてきた自動車が突き刺さっていた。 ●原則3「率先し避難せよ」 釜石市教委は平成17年から片田教授らとともに 防災教育に取り組んでいたが、 翌年の千島列島沖地震の際には避難率は10%未満だった。 このため、片田教授は子供たちにも登下校時の避難計画も立てさせた。 津波の脅威を学ぶための授業も増やし、年間5~10数時間をあてた。 そして、「避難3原則」を徹底してたたき込んだ。 (1)想定にとらわれない。 (2)状況下において最善をつくす。 (3)率先避難者になる。 今回の大津波で児童が校舎3階から校庭に駆け出して高台に向かったこと、 中学生が率先避難者となって小学生を導いたことなど すべてが「避難3原則」にあてはまる。 市内では、すでに7割の児童が下校していた釜石小学校(児童184人) もあったが、全員が無事だった。 祖母と自宅にいた児童は、祖母を介助しながら避難▽指定避難所の 公園にいた児童は津波の勢いの強さをみてさらに高台に避難するなど、 ここでも「避難3原則」が生かされていた。 ――――――――――――――――― 石巻の壁新聞、米博物館へ 被災後に手書きで発行 産経ニュース 2011.4.15 13:03 http://sankei.jp.msn.com/life/news/110415/trd11041513050013-n1.htm 米ワシントンの報道博物館「ニュージアム」 に展示される「石巻日日新聞」(ニュージアム提供) ![]() 東日本大震災で被災した「石巻日日新聞」(宮城県石巻市)が震災直後、 フェルトペンの手書きで発行を続け避難所などに張り出した壁新聞を、 米ワシントンの報道博物館「ニュージアム」が譲り受け、 展示に加えることになった。同博物館が14日までに明らかにした。 同紙は1912年創刊で、夕刊1万4千部を発行。 武内宏之常務・報道部長(53)によると、停電と浸水で編集、 印刷設備が使えなくなったが、無事だったロール紙を切り取り、 社員が「日本最大級の地震・大津波」などの見出しで記事を書いた。 被災した夜にろうそくの明かりの下で 「ペンと紙があれば伝えられる。壁新聞で行こう」と話し合った。 壁新聞は電気の復旧まで6日間、6カ所に張り出された。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 「日本人を見習いたい」 被災者らが助け合い 略奪も発生せず 産経ニュース 2011.10.26 09:55 http://sankei.jp.msn.com/world/news/111026/mds11102610020001-n1.htm 多数の死傷者を出したトルコ東部の地震被災地では避難生活を送る人々が お互いに助け合い、落ち着いた行動を呼び掛け合っている。 「日本人を見習いたい」。東日本大震災で注目された日本人の忍耐強さ、 秩序を守る姿勢が教訓となっている。 多くの建物が倒壊、損壊するなど大きな被害が出たエルジシュ。 千人を超す被災者がテント生活を送る競技場では、 食料配給を求める人々が整然と列をつくっていた。 割り込む人はおらず、妊婦に先を譲る姿も。 物資が不足しているとされる被災地のワンでも 商店で略奪などは発生していない。 「昨晩、みんなで震災後の日本人の姿勢を 見習わなければいけないと話していたんだ」。 25日午後、エルジシュの競技場で、 一家7人でテント生活を強いられている被災者の一人、 イザット・アカーンさん(46)が打ち明けた。 2011年10月25日 トルコ東部エルジシュで食料配給で整然と列を作る被災者たち ![]() 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 アメリカのテレビ局PBSが2012年2月28日に放送したドキュメンタリー 「Frontline: Inside Japan's Nuclear Meltdown」 福島第一原発事故の壮絶な舞台裏 http://video.pbs.org/video/2202847024 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 Arigato from Japan Earthquake Victims 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 「家ぞくへ」息子の手紙お守りに 大川小で犠牲児童の母 産経ニュース 2012.3.10 22:48 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120310/dst12031023000023-n1.htm あれから1年。児童74人が死亡・行方不明になった 宮城県石巻市立大川小学校で、長男の健太君=当時(9)=を 失った佐藤とも子さん(48)のバックには、 お守り代わりに健太君が書いた一通の手紙が入っている。 3年生になったころ、道徳の授業でやりとりしたものだ。 流産を経て39歳のときに授かった一人息子。 「健太だけが私たちの生きる、頑張るすべてだったんです」。 涙が止まらない。 学校で先生がついていながら、なぜ命を落とさなければいけなかったのか。 健太君を思うと、いつもそこに考えが行き着き先に進めなくなる。 津波到達までの約50分間、 目の前に高台があるのになぜ逃げられなかったのか。 助かったはずの命と思うだけで、悲しみと悔しさで胸が張り裂けそうになる。 4月には新学期が始まる。 震災の記憶が世の中から薄れていくほど、 知りたい先にはたどり着けなくなる。 「私たちにとっては風化も何も、まだ終わっていないんです」。 悲しみに暮れ、まだ前を向くことができない人も少なくない。 (手紙全文) 家ぞくのみんなへ お母さん、手紙ありがとう。 手紙をよんだとき(べんきょうがんばるぞ。)と思いました。 手紙にはおもいやりのある子とかいてあったけど、 ほんとうにおもいやりのある子になれたのかわかりません。 やさしい子になれたのかわかりません。 いつもめいわくかけているぼくだけどこれからはいうことをききます。 手つだいしなさいといわれるまえからするようにがんばります。 牛のせわもまい日して、おじいさんをたすけたいです。 津波で亡くなった大川小学校の佐藤健太君が 生前、家族にあてた手紙=宮城県石巻市 ![]() ――――――――――――――――― 奇跡の一本松でも黙祷、献花「安らかに」 岩手・陸前高田 産経ニュース 2012.3.11 16:47 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120311/dst12031116500030-n1.htm 津波に耐え奇跡的に残った岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」には、 11日の朝から多くの人が訪れ、 献花や黙祷(もくとう)をささげる光景がみられた。 近くの空き地には常に100台ほどの車が停車。 京都や北海道といった全国各地のナンバーがあった。 喪服姿の人も数多く、一本松に手を合わせ涙ぐんでいた。 一本松を撮影していた仙台市の会社員、沢口まり子さん(27)は 「空に向かって伸びている姿を見ると、前向きな気持ちになれた」と語った。 地震発生の午後2時46分になると、 近くにいる海上の船から汽笛が鳴らされ、 一本松に向かい、約100人が黙祷した。 岩手県奥州市の会社員、佐藤洋平さん(27)は 「1年前と違い、青空の下で海も穏やかだったので、 亡くなった方に『安らかに眠ってください』と祈った」と話した。 地震発生時刻に合わせ、「奇跡の一本松」の前で海に向かって黙とうする人たち =11日午後2時46分、岩手県陸前高田市 ![]() 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 外国から見た日本【現代版】 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-177.html |
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