正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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「岡村寧次大将資料」について

下記サイトより抜粋

今尚進行するWar Guilt Information Program
(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)
に対抗する為の資料収集を目的とするサイト
http://1st.geocities.jp/nmwgip/index.html
『岡村寧次大将資料』について
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/okamura/okamura.html

『岡村寧次大将資料(上)戦場回想編』(岡村寧次著 原書房)
という本があります。
著者は中国戦線にて第十一軍司令官、北支那方面軍司令官、
第六方面軍司令官、支那派遣軍総司令官を歴任した岡村寧次大将です。
その「第四編 武漢攻略前後」に以下の記述があることを以て、
「南京大虐殺」の証拠と論ずる人々がいます。

―――――――――――――――――
上海に上陸して、一、二日の間に、
このことに関して先遣の宮崎周一参謀、
中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から
聴取したところを総合すれば次のとおりであった。

一、南京攻略時、数万の市民に対する
掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。

一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。
 註 後には、荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。

一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。

一、最近捕虜となったある敵将校は、
われらは日本軍に捕えられれば殺され、
退却すれば督戦者に殺されるから、
ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。
―――――――――――――――――

(中略)

『岡村寧次大将回想録』は日記等の
当時の記録そのものではないということです。
陣中感想録を「抜粋摘記」している、
つまり編集を加えているということになります。

そうすると、それがどんな状況下で編集されたものであるか、
ということが内容に大きく反映してきます。
その状況を示すものとして「終戦後戦地に於て」と説明しています。

岡村寧次大将は、終戦後支那派遣軍総司令官として、
中国軍に対する降伏手続き、日本軍の武装解除・武器引渡しと、
不当に武器引渡しを要求する共産党軍に対する抵抗指揮、
共産党軍の横暴や不当軍事裁判についての国民党政府に対する抗議、
日本兵の復員手続き、そして自身の戦犯裁判の為、
昭和二十四年一月二十九日の出航まで、中国国民党軍に拘束されていました。

その間蒋介石に厚遇され、蒋介石との個人的なコネにより
戦犯として処刑されることを免れています。
この事は、同年一月二十二日に蒋介石が大総統職を追われ、
替って臨時大総統となった李宗仁が無罪判決後再逮捕を命じたところを
間一髪で逃れている事実、帰国後岡村氏が「白団」を組織して
蒋介石を支援し続けた事実に裏付けられていると言えるでしょう。

帰国直前、帰国後の事情については、『支那派遣軍総司令官岡村寧次大将』
舩木繁著(河出書房新社)にこのように書かれています。

―――――――――――――――――
・・・・中国政府は岡村の入監について遷延待機の策をとった。
連絡班を特設して還送工作等の任務を課し、
東京の軍事裁判の進捗を待ちながら世論の動向や、
国際関係の配慮からやむを得ず入監せしめた。

その後病気が悪化したため、秘密保釈が許されて今日に至り、
本日ついに無罪の判決となった。
岡村は中国政府、殊に蒋総統、国防部上層諸将軍の終始一貫の好意は、
真に感謝に堪えず、戦犯に服役している二百数十名の旧部下の
内地服役の実現に努めると共に、
病癒えたならば壮年時代からの宿志でもあり、
日中の提携に身を投じようと心にかたく誓っている。

二八日夕、軍事法廷から、明朝六時半までに戦犯監獄に帰り、
他の者と共にアメリカ船に乗って帰国すべしとの命令を受けた。
翌二九日午前八時半、日本人戦犯二百五十九名と共に乗船し、
三〇日午前一〇時出帆した。

岡村は知らなかったが、
李宗仁代理総統は中共との和平に岡村の身柄を引渡すことを条件として、
再逮捕を命じたのである。

既述のように、中共軍は戦犯第一号として岡村を指名していた。
しかし、上海の湯恩伯はその命令を握りつぶし、
東京の中国代表商震も占領軍当局と協議して拒否した。

この間、この再逮捕の情報を察知した東京の代表団付武官王武少将は
アメリカ軍と連絡し、岡村収容のため船舶派遣を手配した。
このアメリカ船の横浜出帆を確認して、
国民政府は最終公判を開いたのである。・・・・

・・・・帰国後、岡村大将は、蒋介石総統の要請を容れ、
政治・経済的な問題を抜きにして、
ただ終戦時の恩義に報いるという名目で、
昭和二五年(一九五〇)二月、
富田直亮少将を長とする十九名の陸軍参謀を台湾に送った。

「白団」と称せられるこの軍事顧問団は、
以後十五年間続き、団員の数ほ延八十三名に達した。

この間、内地に残った岡村将軍は、幸いにも健康が回復したため、
「白団」の面倒を見ながら旧軍首脳の一人として
元軍人の在郷軍人会の設立に協力し、
郷友連盟に発展させて第二代の会長となった。・・・・
―――――――――――――――――

つまり岡村氏は「終戦後戦地に於」ける期間、
蒋介石の意向を無視できない状態にあったと推測できます。

『岡村寧次大将回想録』が書かれた状況を前記のように理解すれば、
『岡村寧次大将資料』前半部分に収録された終戦後の日記の内容と、
後半部分の回想編の内容が矛盾している理由が説明できます。

『岡村寧次大将資料』前半部分に収録された日記と、
『岡村寧次大将回想録』は同一時期に書かれた物です。
その内容は、本来一致していなければならない。
しかし、そうなってはいなかった。

おそらく『岡村寧次大将回想録』は蒋介石の意を受けて、
国民党の宣伝戦略に合致するように書かれた物です。

しかしそれは、岡村寧次大将がいくら軍の在り方に不満を持っていた改革派、
理想主義者だったとしても、
岡村氏本人にとり不本意なものだったのでしょう。

それで、回想録とは別に、
本当に自分の認識していた記録として、日記を残したのだと思われます。
だからこそ『岡村寧次大将回想録』は転載・公表を禁じられていたのだし、
『岡村寧次大将資料』も本人の生きている間は出版されなかったのでしょう。
(岡村氏の没年は1966年、『岡村寧次大将資料』の出版は1970年)

ところで、一口に軍紀の乱れと言っても、その程度は様々です。
一つの都市を攻め落とせば千件単位の略奪・強姦が当たり前の軍隊では、
五百件の略奪・強姦の発生は寧ろ軍紀が保たれた戦闘に分類されるでしょう。

一方、常に二、三件の軽微な戦時犯罪しか発生しなかった軍隊が、
十件以上の略奪・強姦を発生させれば、
その時の指揮官は軍紀の乱れを強く非難されることになるでしょう。

では『岡村寧次大将回想録』で認識されている軍紀の乱れとは
どの程度のものであったのか。次の記述が象徴的に示していると思います。

―――――――――――――――――
昭和一三、一一、二〇 A

漢口占領当時支那人及外人は南京攻略時の我軍大暴虐より推察して
我軍の暴行を予期せしが案外に軍紀厳粛なりしかは民心大に安定せり。
然るに入城后二、三日にして第六師団其の他に
強姦事件二、三発生し謡言次で起り、
市中不安を招きたるは遺憾とする所なり。

予は武漢入城に際しては極力兵力を減少し漢口に入れたるは
第六師団の二大隊のみ又第六師団も入城前随分厳格に訓諭するありしも
一年以来の悪習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず、
燦然たる戦功を樹てたる部隊が遂に一汚点を印するに至りたるは遺憾なり。

被害者の多くは外人宣教師の許に遁れて再難を防きたる為是等外人より
我憲兵に告訴し来り事件は世界的に喧伝せらるへし。
予は本日軍の宣撫規定を発布するに臨み改めて是等非行厳戒の旨を訓示せり。
―――――――――――――――――

回想録の当該部分と照合することにより、
『岡村寧次大将資料』における「南京攻撃戦で前科のある師団」
の「前科」とは、主に掠奪・強姦であることが分かります。

そして「二、三件」の強姦事件を以て
「一汚点を印するに至りたるは遺憾なり」と嘆き、
「一年以来の悪習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず」
と責めているのです。

岡村大将の言う「軍紀の乱れ」というのがどの程度のレベルのものなのか、
これで分かると思います。

「二、三件」の強姦事件を「汚点」と嘆く指揮官が、
千件、万件単位の強姦事件に関わっていた師団を、
如何に用兵上の都合があろうと入城部隊として投入するはずがありません。

数十件、どんなに多くても百件前後の強姦・掠奪、
それが岡村氏の言う「大暴行」の正体だと思われます。
(それが事実という確証もありませんが)
また、「二、三件」の強姦事件が判明した経緯は、
被害者を保護した外人宣教師の告訴によるものだったことも窺われます。
この遣り口は、南京安全区国際委員会による日本大使館宛抗議と同じもの、
つまり事件の多くは
外国人宣教師の主張の中にのみ存在するものだったのです。


畑俊六 陸軍大将、岡村寧次 大将
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-556.html

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■軍紀の乱れのレベルの部分のまとめ。

第11軍司令官、北支那方面軍司令官、
第6方面軍司令官、支那派遣軍総司令官を歴任した
岡村寧次大将の『岡村寧次大将回想録』にみられる
岡村寧次大将が考えていた「軍紀の乱れ」の程度とは、

以下、『岡村寧次大将回想録』より
―――――――――――――――――
昭和一三、一一、二〇 A

漢口占領当時支那人及外人は南京攻略時の我軍大暴虐より推察して
我軍の暴行を予期せしが案外に軍紀厳粛なりしかは民心大に安定せり。
然るに入城后二、三日にして第六師団其の他に
強姦事件二、三発生し謡言次で起り、
市中不安を招きたるは遺憾とする所なり。

予は武漢入城に際しては極力兵力を減少し漢口に入れたるは
第六師団の二大隊のみ又第六師団も入城前随分厳格に訓諭するありしも
一年以来の悪習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず、
燦然たる戦功を樹てたる部隊が遂に一汚点を印するに至りたるは遺憾なり。

被害者の多くは外人宣教師の許に遁れて再難を防きたる為是等外人より
我憲兵に告訴し来り事件は世界的に喧伝せらるへし。
予は本日軍の宣撫規定を発布するに臨み改めて是等非行厳戒の旨を訓示せり。
―――――――――――――――――

このように2、3件の強姦事件を非常に嘆いています。

さらにその「二、三件」の強姦事件が判明した経緯は、
被害者を保護した外人宣教師の告訴によるものだったことも窺われます。
このやり方は南京安全区国際委員会による日本大使館宛抗議と同じもので、
事件の多くは外国人宣教師の主張の中にのみ存在するものだったのです。
2008/12/28 12:00|年表リンク用資料
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