正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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戦場手記『征野千里』 中野部隊上等兵 谷口勝著 新潮社 昭和13年12月発行

谷口上等兵(陸軍軍医学校にて)
谷口上等兵(陸軍軍医学校にて)

■序章

◆陸軍少将 桜井忠温

日露戦争後、ある兵士が作った戦争記録を読んだことがある。

世間に発表しないですんだものだが、
それには、玉子一個何銭、鶏一羽何十銭、
といったようなことまで細かく書いてあった。

戦争の記録もここまで来ないといけない。
戦史にも何もないことが、あとになってどれほど役立つかわからぬ。

こういう記録は、百年後を目標にして、始めて生きて来ると思う。

谷口君のこの著は、細かい日々の生活がよく描かれてある。
飾りも何にもないところが尊い。

ヤマも何もないようなところに、何度も何度も読み返したいところがある。
本人の気のつかない(だろうと思う)ところに何ともいえない味わいがある。

支那事変が生んだ作品は幾多ある。
しかし、この書の中に盛られているものは、
その一つ一つが何の装飾もない、「ホントウの戦争」の姿である。

この作品を世に送られるということは、
谷口君が同時に二つの御奉公をなしたのである。
剣とそして筆と、――

これこそ、永遠に残る書であって、その一字一語に血と汗とが滲み出ている。
われわれは深く谷口君に感謝しなければならぬ。

◆読者の皆様

皆様の信頼こめた万歳に送られて祖国を発った私ではありましたが、
僅かばかりの傷のため任務中途で再び銃とれぬ身となって、
生きては二度と見まいと誓ったこの祖国に帰ってまいりました。

皆様に申訳の言葉もなく、御詫び申上げる胸中、
ただ腑甲斐無さへの自責の念で一っぱいです。

この情けない私が今更戦場を語るも
あまりにおこがましい次第とは存じましたが、
私のこの微少な経験にしていささかなりとも
銃後の皆様に戦場を偲ぶよすがともなれば・・・・と存じ、
私が経験しました一切を読売新聞にお話した次第であります。

幸いにして同社社会部の原四郎記者が、
私が意図したことそのままに手記の形式に
まとめるの労をとって下さいましたので、
拙い言葉も実感溢れる文字にかえていただくことが出来ました。

ここにこのおこがましき手記を世に送るに当って、
護国の鬼と化した幾多戦友の英霊及び光輝ある軍旗の下に
烈々として進軍をつづけつつある懐かしい戦場の戦友に
深い感謝を捧げると共に、銃後の皆様の日夜にわたる支援と
数々の御慰問に厚く御礼申上げておきます。

一切を語り終えて今はただ銃執る身となって
再起奉公の日が一日も早く来るのを待つのみです。

南京城の戦闘を思い起しつつ

中野部隊 歩兵上等兵 谷口 勝 昭和十三年十二月十日

―――――――――――――――――

◆瀕死の瞼に浮かぶ駅頭の旗 燃える燃える草と敵屍

「ラッパラッパ、漢口へ入るときラッパなしでどうするんだ!」
と誰かが叫んだ。

クリークがあってこれに丸太が二本渡してあった。
丸木橋を狙って敵はチェコ機銃の掃射をくれていたし、
この弾幕を抜けてクリークの対岸に取っついても、
そこの土手に飛びでるとたんにみんなバタバタと倒されて行った。

土手の上は敵か味方かわからぬ死体で一杯になっていた。
この死体を楯に、ほとんどその中に体を埋めるようにしていると、
敵の野砲弾が飛んで来て死体を再び叩いて、コナゴナにして空へ吹き上げた。

敵も味方もなかった。
敵と味方と一緒クタにした集団の真中へ、
敵は野砲弾を盲射ちで目茶苦茶に叩き込んでいた。

砲弾が炸裂すると弾片が飛んで来る前に、
死体の手や足や肉片やが飛んで来て、鉄兜や背嚢やを打った。

この肉片と音響の雨の中で「ラッパラッパ!」と叫んでいる。
ラッパ――と聞いた瞬間、私は思わず声の方を振り向いた。
ヅキンと胸を突かれた。私は夢中で声の方へ駆けて行った。
クリークの脇に倒れている兵隊の背をつかんで引き上げると、
果してこれはラッパ手の石原上等兵だった。

「兄さんどうした」と私は叫んだ。
石原上等兵は部隊のラッパ手の中で
二年兵の一番秀れたラッパ手として本部づきのラッパ手をやっていた。

私は一つ年上の石原上等兵を冗談で『兄さん』と呼んだ。
これが北支、中支から漢口への長い戦場の間じゅう続いて
『兄さん』というのが石原上等兵の名前のようになってしまっていた。
石原上等兵は左胸から右背部を射抜かれていた。

私が引き起すと石原上等兵は目を開いた。
「谷口、部隊長にようく御礼をいってくれんか。
俺はもう駄目だがお前元気で行ってくれよ」といった。

私には何もいえなかった。黙ってただ背をさすったりなぞした。
長い間、生死をかけたつき合いだった。と思ったりした。

石原上等兵はまた何かいおうとすると、
砲弾が炸裂して飛んで来た腕が一本私と石原上等兵の顔を横なぐりに殴って、
ポトリと音をたてながら私たちの前に転がった。
焼夷弾を射って来たらしく
十メートルほど横で支那兵の死体が焔をあげて燃え出した。

「何かあるか、いえよいえよ」と私がはじめて石原上等兵に声をかけた。
石原上等兵は首を振った。
そして「煙草をくれ」と言った。

「駄目だ駄目だ。そんなもの喫んだら駄目だよ」
と答えると、また首を振って
「水をくれ」といった。

「それもいかん。死んじまうじゃないか」
というと黙っていた。
やがてまた首を振って
「アア旗が見える、何処の駅だろ、旗が一杯あるよ」
といった。

私は心臓を射抜かれたようになにかハッとした。
そこへ看護兵がきた。
「駄目だ」と看護兵がつぶやいた。
死体が一杯燃えて青い草さえ燃えてきた。
肩から下げたラッパに手を触れるとヒヤリと冷たかった。

私は図嚢から葉書を出して燃える死体の中で鉛筆をなめた。

『・・・・安慶を出て漢口へと向う、潜山を抜いて漢口へあと四十里。
兄石原上等兵、駅頭の旗の波を見た、と叫んで立派に戦死す。
煙草も喫わせたかった、水ものませたかった、二つともなしあたわず、
若し幸にしてこの葉書を見得ることがあったら、
兄の最後の望みであったこの二つさえなし得なかったという一事をもって、
この戦闘とその最後の状況を偲んでいただきたい。
死体は燃え、暑気は猛烈を極む。
午後三時、弟谷口上等兵より、石原上等兵実家の皆様方へ』

この葉書を四つに折って私は石原上等兵の財布の中へ入れた。
私自身が果して生きて軍事郵便に托し得るかどうか
五分先きのことが判らない。

財布は、石原上等兵の遺品として必ず実家に届くだろう。
葉書をしまい終わると、とめどなく涙が出てきた。
石原上等兵と出発以来の長い間の生活が思い出されて来た。
私の目にも涙の中に駅頭の旗の波がボーッと浮かんで来た。

■支那事変戦場へ向う

◆嬉しいあだ名『兄さん』『お母さん』『嬶』

「オーイ、うちの嬶(カカア)はいないか」と荒木准尉が呼ばれた。
すぐ私が飛んで行く。
○○に上陸して、再び汽車に乗って私たちは何処とも知れず運ばれていた。

私は荒木准尉の将校当番だった。それで嬶なんである。
汽車も幹部と一緒に二等車に乗って私は少々得意であった。
石原上等兵も本部付のラッパ手でやはり二等車の嬶組だ。・・・・・

小林伍長は新編成以前からの私の友達だ。
色が白くて、丸顔で、優しい男振りの兵隊さんだった。
小林伍長の任務は衛生兵だったので、
これもまた本部付き、すなわち二等車の嬶組であった。

小林伍長は顔が優しかったように性質も優しくて綿密だった。
細かいところまで気がついて、私や石原上等兵の持っていないものは
小林伍長のところへ行けば必ず持っているという風だった。

だから私たちは小林伍長を『お母さん』と呼んだ。
あまっちゃれた言葉で兵営内の言葉には似つかわしくないものだったが、
それだけに『お母さん』というアダナを口にすることは、
ホッと息を抜くような、なにか自慰的な気持で楽しかった。

『兄さん』とアダナされる石原上等兵は無遠慮で大まかで、
そして『お母さん』は気が弱くて綿密で、
この真ん中へ入って『嬶』と呼ばれる私は、
温かい蒲団にでもくるまったように楽しかった。

汽車は歓声と旗の波に埋められた駅をいくつも通過して走っていた。
とうとうある駅で汽車が停った。
歓声と旗が窓々から流れ込むように溢れている。

洋服を着たり、綺麗な着物を着た人たちに混って、
朝鮮の白い着物をつけた人々が一生懸命になにかを叫んで旗を振っていた。

私はオヤ、と思った。白い着物を付けた人々は汽車が再び動き出すとドッと、
堰を破ったように汽車の窓々へ飛んで来て、
なにか口々に叫びながら汽車の中へ旗やいろんなものを投げ込んだ。
私のところへも一つ白い布切が投げ込まれてきた。
同時に、アクセントの強い癖のある語調で
「兵隊しゃん、しっかりやって下しゃい」という叫びが耳を打った。

汽車の窓を旗と人の波がさッさッと過ぎて行った。
私は投げ込まれた白い布を拾った。
立派に千の赤い糸で『尽忠報国』と縫いとった千人針だった。

◆素晴しい同胞の宿

私も石原上等兵も小林伍長も黙ってしばらくはこの布を眺めていた。
朝鮮の同胞が丹精こめたこの千人針は、
「兵隊しゃん、しっかりやって下しゃい」
という絶叫と一緒に私たちのところへ投げ込まれた――

大きなことをいう癖に石原上等兵がもう目を真っ赤にしている。
お互に涙ぐんだ顔を見られるのが口惜しいのか、恥かしいのか、
しばらくは目をそらして三人とも顔を見合せないでいた。
「しっかりやらにゃ!」と、なにか胸の底からこみ上げて来るものがあった。

列車は○○に停って、ここで一泊することとなった。
私たちは部隊の幹部と一緒に泊ったので○○府の府長宅に寝た。

一夜を立派なこの邸宅で明かして再び出発という朝、
連絡にやって来た他の部隊の兵をつかまえて石原上等兵が
「昨夜の宿はどうじゃったい」と得意そうに聞いていた。
府長の豪奢な邸宅に寝た私たちは、秘かにそれが自慢だったのだ。

するとその兵が
「ウム、それが素敵なんだ。まあ聞いてくれ」
といって語り出した。

この兵たちは朝鮮の同胞の家に泊めてもらった。
家には老人夫婦と十七歳ぐらいの娘さんとの三人が住んでいるきりだった。

老人夫婦は全然日本語が話せなかったが、娘さんは上手に日本語を話した。
老人夫婦と娘さんは持ち物全部を総動員してこの兵たちを歓迎した。
喰っても喰ってもまだまだといって馳走をくれる。
純朴そのものの老人夫婦は
終始ニコニコ笑って惚々とするように兵たちの姿を眺めてばかりいる。

やがて一夜が明けてこの宿舎を出るというとき老人夫婦が
なにかボソボソいって泣き出した。娘さんがそれを通訳してくれるには
「わしは日本語が話せなくて、それが悲しい・・・」
娘さんは小さな日の丸の旗に立派な日本文字で
「天皇陛下の御為めに、草むす屍・・・」
と書いてその兵たちに持たせた。

そして別れるときには老人夫婦も娘さんも三人ともオイオイと泣いた。
なかでも娘さんはいつまでも
「兵隊さん万歳!兵隊さん万歳!」と叫び続けていたという。

これを語りながらその兵は
「わしも泣けてなァ。一緒にいた奴等ァみんなやっぱり泣きやがってなァ」
といった。
またもや石原上等兵を真っ先に私たち三人ともが感激した。

私たち一人一人はこうまで全国民の熱狂と支援に
価するほどの人間なのだろうか・・・なにかわからぬ気持になってくる。

そのわからぬ気持の中をただなにかやらねばならない気持がこみ上げてくる。
どんなことがあっても私たちは再びこの地へ帰っては来まいと思って来た。

この小さな家に住む三人の朝鮮の同胞の気持だけに対してでも、
オメオメ帰っては来られまいと思って来るのだ。
「ようし、きた!」そう叫んで石原上等兵が一人歩いて行った。
やがてこの優秀なラッパ手が
出発合図のラッパを部隊命令で高々と吹き鳴らすだろう。

■初めて聞く敵弾の音

墓前の祈り
墓前の祈り

◆「畜生!」で一貫した気持 眼を射た新しい墓標

汽車が停って「下車」の命令が出たときはじめて天津へ来た、とわかった。
私たちのしなければならない一切の目的がこれではっきりとわかった。
目的がはっきりわかると、
こんどはまだ経験しないその目的に対する新しい好奇心が勃々と湧いて来た。

「実際の戦争とは一体どんなものだろうか」とただそれだけを思ってくる。
それが直接自分の生命と関係のある問題だとはちょっとも考えない。
ただ好奇心で一杯になる。早く知りたい、とみんなが思ってくるのだ。

天津で少し警備について再び汽車に乗った。
乗ったと思ったらすぐ降ろされた。
『廊坊』と書いた駅標が目につくと同時に真新しい墓標が目を射った。
きのう建てられたばかりだというこの墓標を兵たちはみんな眺めた。

私たちがこれから生まれて初めて経験しようとするもの、
私たちの好奇心を胸一杯に揺さぶっているもの――
それとこの墓標とが、なんの関係があるというのだろうか。――
誰もそれをいうものはない。

それをいう前に、この墓標が私たちと同じ兵の上に
建てられたものだということだけを、焼きつくような熱さで考えてくる。
 
『同じ兵』――それは『戦友』といわれる。
私たちは一年有余の軍隊生活でなんでも個人を超えて
『兵隊』という概念でしかものを考えないようになってきた。

この墓標は兵隊の墓標だ。
それだけだ。
同じ兵隊の墓標だ。
ここに戦友が倒れている。
ただそれだけをハッキリと考える。

そして口惜しさが、
名状しがたい口惜しさが、頭の中の一切を占めてしまった。

これから知ろうとする戦争がなんであるか、
死がなんであるか、すでに問題ではない。

まじまじとこの新しい墓標を眺めて、ただ「畜生!」と心の中一杯に思った。
これが私の戦闘経験の発端だった。
私の戦争への経験は「畜生!」の字ではじまった。

そしてこの「畜生!」が限りなく続いて、
最後まで「畜生!」で一貫したことをここで告白しなければならない。

駅に下りて憩う間もなく行軍がはじまった。陽は落ちて星が空に降っている。
何という広い空だろうとしみじみ大陸の空の大きさを考えた。
道がほとんどなかった。

なにが植わっているのかわからぬような畑を通ったり、
或は小さな山を通ったりして歩きつづけた。

五里も歩いたろうかと思うころ、
突然前方遠くの暗闇にカンカンカンという機銃の音が起って、
深々とした夜の空気にビリビリビリと反響した。

同時にヒューンと呻って頭上をなにか飛んで行った。
またヒューンと飛んで行く。
しばらくは頭の上を飛んで行くものを
なにか気がつかないような気持だったが、やがて「あ、弾だ弾だ」と思った。

生まれてはじめて敵からの弾の音を聞いた。
弾だ――と気がつくと、つぎからはヒューンという音を聞くと、
ちょっと反射的に首を引っ込めた。

弾はしきりに飛んできた。
ブルーンというような音をたてて顔のすぐそばを飛んで行くのもあった。

そんなときには周囲の四、五人が、思わず首を引っ込めて、
しばらくして期せず顔を見合って笑い出したりした。
この弾で死ぬ、ということはちょっとも考えない。
ただ体のどこへ当るだろうか――などなど考えた。

◆夢破る迫撃砲の音

再び部隊が動いた。だんだん弾に近付いて行った。

ふと、いよいよ戦争をやるぞ、と考えて見たりする。
やがて黒々と林に囲まれた部落の中に入った。
すると戦争もしないでここで宿泊という命令が出た。

土で作られた家の中へ入って私と石原上等兵とが列んで寝転がった。
小林伍長がゴソゴソと入って来て、
黙って私たち二人の上へ自分の上着を被せると、
そのまま自分も私の横に喰ッついて転がった。

「や、すまない」といってお礼をいうのが
なにかテレ臭いようだったのでそのまま黙って寝ていると、
家の外の空にヒュルヒュルヒュルという自動車のタイヤが
アスファルト道路で軋むような音がした。

つづいてダーン、ジャリーンという大きな炸裂音が聞えた。
私は思わず首をもたげた。小林伍長もちょっとゴソゴソと動いた。

つづけざまに二つ炸裂する音が響いた。
思わず「大砲だな」というと、小林伍長が「迫撃砲という奴さ」と答えた。

次の一弾はこの家のすぐ傍にでも落ちたのか、
とてつもない大きな音と一緒に屋根や壁が礫でも投げつけられたように
バリバリバリという音をたてた。
埃がバラバラっと空一杯に広がって鼻や咽喉がザラザラになってむせた。
あちこちの家でゴソゴソいっている声も聞えた。

「オイ、射って来たぞ!」というと、
石原上等兵が「放っとけよ」というようなことを
ムニャムニャといって寝返りを打った。

私も小林伍長も呆れた気持で黙っていた。
ふと、弾に当るかもしれないと思った。妙に気持が落ちつかなくなった。

小林伍長は立ち上がって「忙しくなるぞ」といった。
細心な注意で、もう衛生兵としての役目につこうとしているらしい。

衛生兵――はじめて私は自分がどうした渦中に置かれているかを知った。
この一弾一弾が私たちの生命を狙っていることを知った。

私が起き上がると同時に隣との仕切りのところから
「オイ、うちの嬶はいないか」と呼ばれる荒木准尉の声がした。
私は隣へ走って行った。

「間違いはないか。そうか、よしよし」と荒木准尉がいわれた。
瞬間すでに生命ということを忘れてしまった。
全弾この身に受けてもそれがなんだと思った。
この室のまた隣の室から児玉少尉の声が聞えていた。
児玉少尉は私の教官殿だった。
五尺七寸五分もある大きな体で、
その姿の立派さと豪快さは私たちの憧れの的だった。

児玉少尉は「二百メートルばかりが砂地で、
その先二百五十メートルほどが水流ですが、
水深胸まで、大丈夫歩いて渡れます」と報告していられた。

やがて次の室へ入って来られて
「ポカポカして温かいぞ」と笑いながら荒木准尉にいわれた。
「真裸になって泳いでやったよ。
月がいいし、いい気持だぞ」そして大きな声で笑われた。

この部落の先二百メートルほどで永定河が流れていて、
将校斥候となって渡河地点の水深などを調査して来られた、とわかった。
私自身が恥しい気持だった。

私が砲弾の炸裂音を聞いて『生命』をちょっと考えていたとき、
児玉少尉は真裸で対岸の敵を見ながら永定河を泳いでいられた――
胸の底からなにかワクワクと湧き上って来る。
戦友たちがギッシリすし詰めに寝ている。
石原上等兵が大きな鼾をかいていた。

■捕虜を殺さぬ皇軍の情

敵110師の捕虜
敵110師の捕虜

◆演習と違わぬ感じ 

一面の野菜畑だった。
白菜や人参などが水々しい青さで炎熱の直射に照り映えていた。

野菜畑を進むと永定河の長い土手がある。
土手には野いばらが一杯生えていてゲートルに虫のように喰いついた。

土手にたどりついてここで携帯してきた飯盒をおろして飯を喰った。
野砲が盛んに対岸の敵陣地に射ち込んでいたし、
友軍の飛行機がひっきりなしに飛んできて対岸を爆撃していた。

にもかかわらず土手からちょっと頭を出すと
対岸からダダ―ンと飛んで来る。
この中へ飛び出すのか、とチラと考えてみないではいられなかった。

石原上等兵が元気な声を出して伝令に飛び廻っている。
午後三時三十分! 部隊は一斉に土手から永定河の中へ飛び出して行った。

土手を下りると、広い砂地が海岸のように広がって、
そこを演習どおりに散開して進むと、
対岸の土手から機銃弾が薙ぐように飛んで来た。

その弾幕の中に飛び込んでいった瞬間、
もう弾というものを考えなくなってしまった。
「こりァ演習とちょっとも違わんじゃないか」と思ったりする。

砂地を走り抜けると水が激しい勢いで流れていて
ズボズボと腰から胸までつかった。
河底は泥になっていてちょっとも足に力が入らない。

左足を踏み出すと右足がズボズボと泥の中へ入る。
慌てて手をつこうとすると顔まで水の中へつかってしまった。
一人流れそうになるのを助けるとこんどはその重みで自分が流れそうになる。
すると助けられた戦友が、慌てて自分を助けてくれる。

一つにかたまっては敵に射たれると焦るが、
どうしても散開することができない。
助け、助け合って四、五人が転がるようにしながら水を渡った。・・・・

「衛生兵!」と喘ぐように呼ぶ。
「通訳だ、通訳がやられた」「なにッ通訳が?」
と石原上等兵が憤って叫んだ。

「隣の○隊の通訳だ!」と、叫び返してくる。
ムカムカと腹の底から憤りが湧き上がって来た。
「畜生! ここで目茶苦茶に敵をやっつけて死んでやろう」と思ってくる。

焦ると足はますます泥にとられて進めない。
喘ぎ喘いで高粱と泥の中を転げるようにして漸く土手にとりつくと、
上から手榴弾が飛び、この下をかいくぐって土手に上ると、
支那兵の死体につまづいてゴロゴロと土手の下へ転がり落ちた。

もうなにも考えなかった。
ただ訳もなくじいっとしていられなかった。
もっとなにかしたかった。突き殺すとか、射つとか、走り廻るとか――

すでに、とっくの昔に、あれほど考えていた
「弾は私の体の何処へ当るだろうか」
はすっかり忘れていた。

◆起上った偽装死体

捨てて来た背嚢を取り返して再び前進すると、
ここもまた何処まで行っても膝までつかる泥沼に高粱が生えていた。

陽が落ちて暗くなって来た。
私たちの右側で他の○隊が敵と遭遇しているらしく
ひっきりない銃声と突撃の喚声が聞えていた。

私たちは泥の中に伏せて隣の○○隊の戦闘が終るのを二時間近く待った。
じいっと伏せて動かないでいると泥水が
足といわず腰といわず身体全部に浸み透って来る。

「前進!」という声とともに少し進んでこんどは粟畑に伏せると、
前方の部落から粟畑を盲射ちして来た。
擲弾筒が盛んにこの部落を叩いている。
部落の近くで家が一軒燃え、煙と焔が赤く夜空を照していた。
この赤く照らされた夜空をみていると、フと故郷のことを思ったりした。

私の故郷には火山がある。夜はこの山の空が赤かった。
この山を眺めて「火を吐く阿蘇の峰・・・」と軍歌を唱う。

すると広々とした希望と、沁々とした夜気を感じたものだった。
惻々たる郷愁だった――ふと、肩を叩かれて気づくと伏せたまま眠っていた。

夜が明けて再び沼地を進むと梨畑に出てきた。小粒な梨が一杯なっていた。
私たちは叉銃して梨の木に駆けより次々とチギッて夢中で喰った。
西洋梨のような味で溢れる汁が歯にしみ腹にしみ、
いくつ喰っても何処へはいってゆくのかわからない。
部隊は歓声で溢れた。松永軍曹が「うまいうまい」と呻く様にいう。

とたん、梨を入れた口を噛み終らないで、
アングリ口を開いて目を瞠ったが「敵だ!」と叫んだ。

叫ぶと一緒に叉銃線へ駆けて行った。みんながどっと駆けた。
同時にダンダンダン、チェコ機銃が鳴った。

「松平軍曹殿!」と叫ぶ。
胸から血が流れて松永軍曹が倒れている。
銃を片手にして松永軍曹は「不覚だ、しまった」と一言いった。
これが最後だった。噛んだ梨が口からこぼれている。
口惜しさがこみ上げて来た。

一小隊が突撃に移ると、敵は秩序もなく逃げ散った。
二百メートルも進むと一軒家があって、
家の中には一杯敵の負傷兵が逃げ場を失って寝ていた。

一人一人調べると軍曹で何処にも傷のないのが死んでいる。
石原上等兵が「コラッ!」と怒鳴って頭を叩いた。
偽装死体の敵軍曹はムクムクと起き上がって来た。

石原上等兵はこれを引っ張って家の外へ出した。
「立てッ」と叫んで石原上等兵が銃を向けた。
みんなハッとした。

すると小林伍長が飛んで来て「いかんいかん!」と叫んだ。
「何がいかん!」「いかん、殺すのはいかん、そりァよせ」

「『母さん』はいつでもそれだ。松永軍曹殿が戦死したのをあんたは見たか、
『母さん』は口惜しいと思わんかッ」

『母さん』と呼ばれる小林伍長は黙っていた。
石原上等兵は「貴様、戦友を殺しやがった」と泣声で敵の軍曹を睨みつけた。

「『兄さん』いかんいかん」
と再び云って小林伍長がこの軍曹を引っ張って行った。

『兄さん』と呼ばれる石原上等兵はその後姿を睨みつけていたが
「畜生め!」といって銃を片手に一人立ちつくし、
手で目を幾度もこすった。

――その晩も私を真中に、石原上等兵と小林伍長と三人で抱き合って寝た。
しかし石原上等兵は小林伍長と口を利かなかった。

戦地へ来て
この『母さん』とこの『兄さん』の二つの性格ははじめて喧嘩をした。

■保定城壁突入

決死の突撃を前に名残の一服
決死の突撃を前に名残の一服

私たちは保定への泥濘を進んでいた。
永定河から保定まではいたるところに野菜畑があったので、
部隊がちょっと停るとすぐ野菜を採りに行った。

この日も部隊が停って炊事がはじまる前の寸暇に、
四人の戦友たちと付近の畑へ出かけて行った。

銃があっては、野菜を十分両手に持てないので、みんな銃なしだった。
高粱畑の向こうの方にどうも立派な野菜畑がありそうだというので、
散歩でもするような気持でブラブラと出かけた。

空は晴れ上がってなにか鳥の声さえ聞える。長閑な北支の田園風景だった。
高粱畑を抜けると果して見込みどおり見事な野菜畑が広がって、
その向こうには小さな部落さえ見えている。
畑には円くて一尺くらいの長さの立派な大根がニョキニョキ生えていた。

「しめた!」と口々に叫んで大根を掘りはじめた。
「まだあちらにもある、こちらに白菜がある」といって
私たちは下ばかりみて這いずり廻る間に、
部落に近づいていたのを気付かなかった。

瞬間、ダ、ダ、ダ、と機銃が部落の端で鳴って
同時にピューッピューッピューッと弾が耳元をかすめて飛んで行った。

ハッと思って伏せる。
反射的に銃を構えようとして銃代りに
白い大根を持っていることに気がついた。
「しまった!」と思った。

弾は連続的に飛んで来てプスップスッと畑の土に喰いいる。
じいっと伏せている、とやがて機銃がピッタリ止んだ。
ヤレヤレと思ってこの間に退ろうとじりじり二、三歩動くと、
とたんに再び機銃が鳴って弾が傍の大根に突刺さった。
二進も三進もゆかなくなった。

しきりと軽率さが悔まれてきた。
武器も持たないで、大根を抱いてはなんとしても死なれない。
他の三人を見るとみんな、しまった、という同じ思いの顔つきをしている。
それでも目を見合った拍子にニヤニヤと笑ってみせた。

ジリジリ這って、やがてうまく高粱畑の中へ入った。
高粱畑を抜けて、もう大丈夫、と思うとまた四人が期せずして顔を見合った。
そして、四人ともワッハッハッハと笑った。・・・・

部隊へ帰って「ひどい目に会ったぞ」とこの失敗の巻を披露に及んでいると、
表から石原上等兵がノソリノソリと入って来た。
左手で一人の支那兵の腕をつかまえ、右手に鶏を二羽ぶら下げている。

みんなが呆れ顔で目を瞠ると、
石原上等兵はニヤリニヤリ笑って二羽の鶏を突き出した。
「それはわかっているよ、左手の方はなんだい」というと、
石原上等兵は支那兵を振り返って胸を張った。

「鶏と一緒に分捕って来た。
敗残兵の癖に生意気にこの『兄さん』を撃ちやがる・・・」
と悠然たるものである。

一言もなかった。
私たちは大根を抱えてホウホウの態で帰って来るし、
石原上等兵は敗残兵を従えて帰って来る――

これだけの違いが私と彼にはあるのだろうかと
惚れ惚れとして『兄さん』を眺めるほかなかった。

激しい行軍がつづいた。
もう何を喋るものもない。
黙って前を歩く戦友の靴をみて行く。

行けども行けども沼地で、
ひどい泥濘が膝まで喰い入って足の乾くことが絶対になかった。

皮膚はふやけてみんな水虫になった。
ビッコを引かないものはいなくなってしまった。
それでもちょっと休止するとすぐ覚えた支那語で片言の冗談を云い合った。

◆山下曹長一番乗り

やがて保定の大城壁が遥か彼方に見えて来た。
「ああ」とみな目を瞠ってこれを眺めた。ぐんぐん進むと鉄道線路があった。
「ここから大城壁へ一気に突撃」という命令だ。

この土手下に伏せると野砲や迫撃砲が四、五間後に
ドーンドーンと落ちて来た。

やがて鉄道線路を装甲車が走って来て鉄道隊の戦友達が
手を振りながら煙草などを投げて行った。
疲れ切った兵たちがこれを拾ってヤンヤと騒いだ。――

突撃に移ったらもう生死のほどはわからない。
これが今生の喫いおさめとあったら、
煙は腸までしみょ――という思いだった。

煙草に火をつけて二喫三喫ひすると装甲列車が通り過ぎてしまった。
とたんに線路から飛出して城壁へと突進して行った。
このドタン場になっても煙草は丁寧に火を消して
短くなったのを内ポケットにしまう。

第一線と第二線と○○メートルの間隔で進んで行った。
どんどん進むと城壁二、三間前にクリークがあって、
飛び込むと水は胸までひたした。

それを這い上がったが、どうしても足場がなくて城壁に上れない。
友軍の重砲が城壁目がけて撃つのが炸裂して、破片が四方に呻って飛んだ。
砲兵は私たちがまだここまで取りついたとは知らないらしい。
ラッパの音が聞えて来る。
ラッパで部隊の居所を知らせようとしているらしい。

石原上等兵が吹いているのだろうか、とチラッと思った。
ラッパが吹き鳴らされてもまだ友軍の重砲はドーンと身近に飛んできた。

城壁がどうしても上れないので私たちは広い道路を走って正門へと向った。
この道路の上にも重砲が次々と落下している。

城壁が三角になった隅のところへ来ると
城壁に喰ッついて軍用自動車車庫があった。
戦友同士でお互いに肩に乗ってこの車庫の屋根に登った。
屋根の上から城壁の上までは何の足場もなかった。

山下曹長が「丸太をもって来い」と叫んだ。
車庫の向うに材木屋のような家があって大きな丸木が一杯積んであった。
屋根から飛び降りてこの丸木を担いだ。

山下曹長と有土上等兵がそれを屋根から城壁の上へ立てかけると、
私たちは屋根に登って下から押えた。
みんなが焦って、丸木を登って行こうとする。
誰でもが一番乗りをしたかった。

「これじゃ駄目だ」誰か叫ぶと
「そうだ、山下曹長殿一番乗りをして下さい」と期せずしてみんなが叫んだ。

「オオ」といって山下曹長がこの丸木をよじ登った。
つづいて有土上等兵がよじ登った。
下から木を押えてこれを仰いでいると、なにか涙が流れて来る気持だった。

「アア、俺も登りたい」と思わずそれをつぶやく。
城壁の上に登って山下曹長がしきりと旗を振った。
これを見てとったか友軍の重砲は射撃をやめた。

山下曹長と有土上等兵は城壁に旗を立てると
二人きりで城壁の中へ降りて行った。

やがて中から二人が正門を開いた。
私たちは車庫の屋根を飛び降りて、正門に殺到した。
空は澄み切っていた。

足の痛みも体の疲労も全部忘れてしまった。
小林伍長も駆け込んで来た。
あのおとなしい小林伍長が私の肩を掴んで
「男と生れた、男と生れた!」と絶叫して私の体を振り回した。

「『母さん』が男と生れたらこれなんじゃこれなんじゃ」
といいながら石原上等兵が走って来た。
三人は一緒に保定の街の中へ走って行った。
もう石原上等兵と小林伍長の喧嘩は仲直りになっていた。

■陣中の身嗜み

傷ついた仲間を担架に乗せて山を降りる日本兵
傷ついた仲間を担架に乗せて山を降りる日本兵

保定城外の民家だった。
少し萎れてはいたが、支那兵のちぎり残した葡萄が沢山蔓に残っていた。

永定河を渡ってから十日間、来る日も来る日も野菜をかじっては
泥と弾の中を進み続けて来た私たちには、
萎れていてもその小さな青い円味の果物が、
世にも珍しい貴いもののようにさえ思われるのだった。

半透明な粒を歯に噛むとプツ、とつぶれて、
そのしみ渡る甘味は皮も種も吐き捨てるのが惜しかった。

城内の住民たちは湯を持って来たり、
粟粥を御馳走したりして盛んに私たちを歓迎する。

石原上等兵が何処かから大きなカメを探して来た。
これに湯を沸かして初めての陣中風呂に、
まずまずと児玉少尉や荒木准尉をお入れ申した。・・・・

児玉少尉や荒木准尉たちが「おい、あんまり汚くしていては、
日本軍の不面目だぞ、少しは綺麗にしろよ。」と注意して廻られた。

戦線に来て日が浅かったので、そんな余裕があるのだった。・・・
晩は豚の御馳走に、舌鼓をうった。

寝ようとすると部隊全部にはじめて千人力飴が配布された。
小さな袋に入っていて朝鮮飴のように柔らかくて甘い。
これを噛んで小林伍長と石原上等兵と三人で抱き合って寝ていると、
久し振りで湯を浴びた快さも手伝って
何か楽しさがゾクゾクと身内にこみあげて来た。

昨日までやっていたあの激しい戦争なぞはすっかり忘れてしまっている。
いや、たったいま、ヒュルヒュルヒュルと空気を裂く弾の音がすれば、
それと同時に何が起らないとも知れない。

しかしそんなことは一切忘れてしまっていた。
戦場というものは飛びだすことも早いが忘れることも早い。
一貫した想念というものが全部無くなって、
ただ瞬間瞬間の想念の外にはなにも考えない――これが戦場だった。

従って兵隊はみんな子供のように、その場その場の感情で動いている。
十日間の洗礼で明日の命を考える馬鹿ものなどは
一人もいなくなってしまった。

この瞬間瞬間の行動が連続して、
東洋の一転期を画するような大きな仕事が出来て行くのだろうか――
と不思議な気もするが、そんな考えも一寸目の前を閃いて行ったかと思うと、
次の瞬間には、もう別の途方もないことを思ったりしている。

◆こみ上げて来る怒り

楽しいおめかしの五日間が過ぎた。朝九時十四分、
正定へ向って一線部隊を追っての再び埃と泥の行軍が開始された。

轍の一杯ついた広い軍用道路を前進していると、
担架をかついで友軍が三々五々とやって来る。
担架の上には白い仮包帯をした戦友が
煙草をプカプカふかしたりして乗っていた。

「ア、負傷だ・・・」と心を刺されるように思ったが、
誰もそれを口に出していうものはなかった。
黙って行き過ぎてゆく戦友を眺める。

眺め送っても隣の戦友と顔を見合わす気にはなれなかった。
自分自身が負傷することは考えない。
自分の身をふと振り返って思い沈むわけではもちろんない。

ただ第三者の――
そして『同じ兵隊』の痛々しい姿を見るのがなにか堪えられなかった。

十日間も戦闘に従事していたのに、
そして、負傷! 戦死! と朝から晩まですぐそばで聞いていたのに、
いや隣で倒れる戦友も見たのに、
『負傷兵』を見たのはこれが初めてだと思った。

第一線を退ってはじめて負傷兵を見た。
そして初めて戦友の負傷に心を痛めた――
戦争というものは全く不思議なものだ。

馬上姿の将校が、通る負傷兵一人一人に挙手の礼をしていられた。
何気なくその肩章に目をやった私はハッと胸を突かれて思わず歩みを止めた。

○○部隊長だった。
じーっと瞳を凝らして負傷兵を見送られる、
担架の上の戦友はそれを知って上らぬ手を挙げようとしたり、
担架の上に身を起そうとする。

やがて、それもなし得ずただ担架の上へ顔を伏せてしまった。
どの戦友も、どの戦友もおそらく泣いているのだろう。
担架に顔を伏せて洩れ出ようとする嗚咽を必死に抑えているに違いない。

ムラムラと私の胸に込み上げて来るものがあった。
出よう、早く一線に出よう。
すでに戦争への回顧の気持はすっとんだ。

ただ「畜生!」と口にして一線へ一線へと歩いて行った。
昼夜ぶっつづけの行軍だった。
正定に近づくと友軍の観測気球がポッカリと空に上っていた。
この下で大休止になったので、私たちはゴロリゴロリと畑に寝転がった。
仰向けに転がるとすぐまたお喋りがはじまる。・・・・

その時パンパンパンと地上で銃が鳴った。
「ホー、なにをやりよる」とのん気な顔でみんなが音の方を見る。
ほとんど弾の音は刺戟がなくなっていた。

すると「敵機だ!」と誰かが叫んだ。
パンパンパンと対地射撃の音が激しくなって来る。
複葉の飛行機がズンズン気球の方へ飛んで来た。
気球が慌てたようにグングン下りはじめた。

しかし飛行機が飛んで来る方が早かった。
半分ほど下がった気球の真上に来て
グルーッと旋回しながらダダダダと機銃の音をたてた。

グーッと廻ってはまた帰って来てザーッと気球を射つ。
地上からは一斉に銃をとってこの飛行機を射った。
いまに気球が落ちるかと思ったが、気球はちょっとも落ちなかった。

飛行機はあきらめたようにグルーッと廻って、
遥か彼方へ帰って行ってしまった。

気がついてみると、
石原上等兵が仰向けにヒックリ返ったまま空を見て煙草を吹かしている。
「オイ、兄さん、見たかい、銃の一つぐらい射てよ」と私がいうと、
石原上等兵は空を眺めたまま
「よせよせ、相手が飛行機じゃこちらは突撃は出来めェ、
口惜しくなるだけ損だ」といった。

なるほど、こうした考え方もあると感心した。

戦場での口惜しさは何か相手に体ごと叩きつけねばすまない気持になる。
それが出来ないほど石原上等兵にとって辛いことはない。
『兄さん』はみんなの気持の何処かの部分をいつでも代表している。

■慰問袋の草鞋(わらじ)に泣く

野戦局にて笑顔で慰問袋を受け取る日本兵たち
野戦局にて笑顔で慰問袋を受け取る日本兵たち

◆霙(みぞれ)ふる中の慰霊祭

『拝啓 当地は早秋冷の候となり候が御地は如何に候や、
御前様にもその後御変りもなく勇奮転戦されていることと存じ候、
御蔭様にて留守の方は私をはじめ弟妹とも皆々元気にて
候間御安心下されたくただお前様が元気にて
男子の本分を尽くされることを日夜祈り居り候、
何卒しっかりやり下さるようただそれのみ御願申上候、
父より、勝様へ。』

これだけである。幾度読み返してみてもこれだけの長さでしかない。
巻紙に筆で太々と書かれた父の戦地へ来て初の便りは、
石家荘のすぐ前、花園村にはいって一週間したとき漸く私の手に入った。

父の手紙と一緒に妹と弟の寄せ書きや
友人からの便りなど十二通が一度に私の手に入った。
妹と弟の寄せ書きには『保定占領万歳』とか
『小学生が提灯行列をやって全村を廻った』とか、
『兄さんも保定へ入城したのか』などと書いてあったが、
もっと何か細々と云ってくるだろうと思った父からの手紙は、
一尺にも足らない巻紙に五、六行の書きなぐりだ。

「父の手紙ってこんなもんかなァ」と私が小林伍長にいうと、
小林伍長も幾度もその手紙を読み返しながらしきりと頭をひねった。
やがて
「しかし・・・」といった。
「しかし、ようく読んでみると実に要領を得とるぞ、
ウチは元気じゃ、そちらは元気か、しっかりやれ――と」

確かにそうだった。それだけでしかない。
ウチは元気じゃ、そちらは元気か、しっかりやれ――と。
私は幾度も読み返した。

読み返すうちに父の体臭がプーンと匂って来たような気がした。
「こちらは元気だ、そちらも元気か、しっかりやれ」――
これ以外に父としていい得ることは何があるだろう。
これ以上の何を父は戦場に捧げた息子にいいたいというか。
ここは戦場だ。
改めて読むとこの簡略で常套きわまる手紙は
万感溢れるものを私に語っていた。

私は洟をかもうとした、すると「出発!」の命令が出た。
霙は大陸に来てはじめてだった。この霙の中で部隊の慰霊祭が行われた。

初の戦闘に参加して以来ほとんど沼と泥にひたりつづけて来た体だが
この時初めて心の底から寒いと感じた。
霙に打たれる旗の下で、石原上等兵が必死と『君が代』を吹いた。

銃を捧げて、正面の壇に列べられた幾つかの白木の箱を見つめていると、
深い溜息のようなものが心の底から出て来た。
倒れて行った戦友の幾人かに、
煮えくり返るような口惜しさを感じたものだったが、
それは慌ただしい弾雨の中でだった。

突撃の最中に
「ア、あれがやられた」と思いながら自分は先へ先へと進んで行く。
そして、そこに起きた新しい事態に
全心を奪われて死んだ戦友を忘れて行った。
いまその戦友が小さな白木の中に入って、ふたたび私たちの前へ還って来た。

◆汚れた戎衣に誇り

汽車は私たちがニケ月余を泥と弾雨に戦って来た大陸の野を一瞬に走って、
大きな街に入って停った。「天津だ天津だ」といってみんな騒ぎたてた。
実にニケ月ぶりに見る天津だった。

私たちは懐かしい天津の駅に見惚れる前に、
ドーッと売店へ押しかけて行った。
天津をニケ月ぶりで見ると同じに甘納豆や
パイナップルの缶詰などもニケ月ぶりの味覚だった。

私たちの軍帽も軍服もみんな泥と埃でクチャクチャになっている。
それを見て駅にいた新しい兵隊や邦人たちが
「前線の兵隊だ前線の兵隊だ」といって騒ぎたてた。

私たちははじめて汚れた自分達の服を顧みて、
何か誇らかなものを感じるのだった。楽しい騒ぎも僅か五分間だった。

再び列車は走って大沽に着いた。
ここで汽車を捨てると私たちに戦地へ来てはじめての慰問袋が渡った。
慰問袋は四人に一つ平均だったのを、
私は石原上等兵と小林伍長と三人で一つだけを貰った。

石原上等兵は慰問袋を手にして
「俺はよう開けん、誰か開けてくれ」といった。
全くその感じだった。何か開けるのに手が震える思いだった。

小林伍長が慰問袋を開けにかかった。
額を集めた三人の目の前へ慰問袋が口を開くと
大きな足のワラジがコロリと転がり出て来た。
しばらくは三人とも誰も声を出さなかった。

やがて三人が次々と顔を見合わせた。そしてまた黙ってワラジを見つめた。
ワラジは藁の匂いがプンプンするように真新しかった。
そして足袋だったら十一文のを履く足にちょうどいい程に大きかった。
ワラジには一通の手紙が添えてあった。

『(前略)靴は豆が出来ます、地下足袋は水虫になります。
若しやと思ってこのワラジ御入れしておきました、
いま母と一緒に作ったばかりのところです』

一足のワラジはどうして三人の足にあてがおうか。
これは三人のお守りにしよう。新戦場へのマスコットともなろう。
石原上等兵が呼びたてられてラッパを吹いた、
ドヤドヤと集った戦友たちはみんな目を真赤にしていた。
それぞれの慰問袋でそれぞれ兵隊が、みんな泣かされたに違いない。

慰問袋が持って来た新しい感激を体の中にしまって、
部隊はぞろぞろと船に乗った。
船尾には『○○丸』と白い文字が太々と書かれてあった。
馬も積み、小さな砲も積み、
自動車さえもがそのままそっくりこれに積み込まれた。

この近代的大部隊の輸送船に真新しいワラジが一足積み込まれたことは、
私たち三人以外には誰も知るまい。
ワラジはしみじみとした祖国の真心を持って
ギッシリならぶ近代兵器の中にただ一足混っていた。

やがて離れるであろう大沽の街なみを眺めて、
そして街の向うに煙っている大陸の風物を眺めて、
戦い来し京漢線の戦線を遥かに思わないではいられなかった。

廊坊の真新しい墓標にはじまったこの戦線の幾ケ月――
いつかまた自らもあの墓標に終る日があろう。
汽笛も鳴らないで、船は黙って港を出た。

■杭州湾の敵前上陸

杭州湾敵前上陸の朝の光景
杭州湾敵前上陸の朝の光景

寝転がったり唄ったりして三日ほどすると、
突然、石原上等兵が階段をガタガタいわせながら飛び降りて来た。
「来てみい、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」と叫ぶ。
「なんだ、なんだ」とみんながドッと階段に押し寄せた。

階段を押されて甲板に出て見ると、アッと私たちは目を瞠った。
この海を走っているのは私たちが乗っている『○○丸』だけだと思っていた。
それだのに、何時、何処でどう集って来たものか、
私たちの船の前後には、
実に○隻に余る大船隊が二列縦隊にズラリと列んでいる。

そして沢山の軍艦がこの船隊と列んで進んでいた。
『○○丸』はこの大編隊艦船軍の一単位に過ぎなかった。

完全に私たちはこの大景観に圧倒されてしまった。
船は、そして軍艦は、一尺の延び縮みもないように
ピッタリ間隔を保って堂々と波を蹴っていた。

やがて○○○艦『○○』が何処からともなくその奇怪な姿を現して来た。
海軍機が一斉に飛び立って
或は先導したり或は二列縦隊の交互の連絡をとったりした。

「戦争って、こんなことが出来るもんかのう」
と石原上等兵が感に堪えて嘆声を発した。ただ見惚れる綺麗さだった。

「堂々たる」という言葉をこのときほどはっきり知ったことはない。

ある日私たちの教官殿である児玉少尉が、私たちを甲板に集められた。
児玉少尉は大きな体の広い胸を張って、
「明日、我々は再び新しい戦闘をやる。
こんどの戦闘は上海戦の横ッ腹に突入するのである。
敗敵の退路に向って前進する。
従ってある地点までは生きても死んでも
あくまで強行前進が決行されるだろう!」と怒鳴られた。

期せずして私たちの中からワーッと云う万歳の声があがった。
「万歳、万―歳―!」

そのとき私たちの船の横を真白な病院船が反対に通って行った。
病院船の甲板には真白い看護婦さん達が一杯立ち列んで
「バンザイ!」と叫びながらしきりと手を振っていた。

幾日振りかで通り過ぎる船の上に日本の女を見たのだ。
私達もまた手を振って「バンザイ!」と絶叫した。
私たちは新しい戦場へ行く。

これを白衣の天使は「バンザイ」と叫んで送ってくれる。
必死に手を振った。ちぎれるようにいつまでも手を振った――。・・・・

背嚢を背負って救命具を付けて、一日六合宛の米五日分三升と、
荒木准尉の分の三升と、都合六升を背負って、
ちょっとよろめくと倒れてしまいそうになる。

軍艦が盛んに岸を砲撃していた。
その砲声は朝の闇をビリビリビリと裂いて
遠く遠くへいつまでも木魂のように伝わって行った。

午前五時三十分。私たちは海軍の小艇にギッシリ詰め込まれた。
小艇はまたたく間に波を蹴った。
波はキリの様な舳で二つに割られて
私たちの背丈よりも高く小艇の両側にもり上った。素晴らしい速さだった。
岸に叩きつける気で舟が走って行く。

幾隻も幾隻も、舟は小山のような白波をあげて列んで走っている。
東の空は明けかけて来た。いい気持だった。私はキャラメルをしゃぶった。
荒木准尉は巧に風をよけて煙草に火をつけ、
うまそうにプカプカとふかしていられた。

舟の蹴る波でほとんど前方が見えなかった。
突然、ダーンと音がして大きい水柱が前方に立ち上がった。
水柱はつづけさまに三つ、舟の前後に立ち上がった。
ピューッピューッと小銃弾が頭上に鳴り出した。・・・・

突然舟底がガリガリときしんで砂地につき上げてしまった。
舟から飛び降りると腰のところまで水に入った。
波がうねって来て背に背負った糧食の重さで危く倒れそうになった。・・・・

岸へ走り進んでそこにピタリと伏せた。
はじめて機関銃がダダダダダと海岸から前方の掩蓋機銃座を射った。
「衛生兵ッ」と呼んでいる。「いよいよやった」と思う。

バタバタと二、三人が声の方へ走って行った。
「上田伍長!」という声が聞える「ア、あれが・・・」と思う。

北支で幾度か経験したあの同じ思いだった。長い間伏せていた。
一人が一人の戦友を担いで走って来た。私は伏せたまま上半身を振り向けた。

戦友に助けられている上田伍長と目が合った。
肩から半身真赤な血に包まれた上田伍長は、
私と目が合うとニッと笑って首を振ってみせた。淋しそうな笑い顔だった。
私もニッコリ笑い返して黙って首を振ってやった。

上田伍長はそのまま戦友に抱きかかえられて海の方へ帰っていった。
これで一人北支以来の戦友と別れたのだ。・・・・

弾が盛んに右側の方から飛んでくる。
そちらで激しい戦闘が行われているらしい。雨はいよいよ激しく降って来た。
荒木准尉は私の横であぐらをかいてプカプカと煙草を喫っていられる。
あれだけ昨夜はグッスリ眠ったのに、
伏せているとまたウツラウツラと眠くなった来た。

「オイオイ」と云って荒木准尉が指揮刀で私の肩を叩かれた。
ハッとして目を開いた。
荒木准尉がニヤリと笑われた。私も思わずニヤッと笑った。・・・・

部落へ飛び込むと、ここには鍋や皿など食事の道具が一杯散らかっていた。
雨はいよいよ激しい。
ここで部隊をまとめて食事をした。
小林伍長が飛んで来て、黙って私の手を握った。
みんな無事だったと思うと何か目頭が熱くなってきた。・・・・

小さな建物の中へ入った。夜中の十二時だった。ここではじめて休憩した。
夕食の支度をやれという命令だ。建物は小さかったが、立派な小学校だった。
壁には一杯抗日のビラが貼ってあった。
夕食をたいて、すぐ翌日の朝食と昼食をたいた。

するとまた再び前進の命令が出た。コクリッとも眠る暇はない。
大急ぎで飯盒をしまって再び前進をはじめると、
私の腕時計は午前三時を指していた。
雨はあくまで降りつづいている。また泥の中だった。

石原上等兵が
「戦争というものはなァ、ひもじいのと眠いのを我慢するだけのものだよ」
と云った。

塹壕を越えていざ突撃へ
塹壕を越えていざ突撃へ

大きな鉄橋が見えていた。鉄橋の遥か彼方には、
地平線に瘤が出来たようにたった一つ山が浮き上がって、
その上に塔が立っているのが雨に霞んでみられた。

杭州湾に上ってただひた走りの一直線。
この大追撃の終点たる崑山があれに見えて来たという。

第一線部隊を承った私たちの○隊は急に勢いづいて来た。
長い激しかった行軍の一切の苦しさを忘れてしまってみんなはしゃいだ。
いま一と息、と疲れた足に元気をつけて更に前進にかかったとたん、
前方の鉄橋付近からダダダダダ、と重機関銃を射って来た。

すぐ部隊は広い軍用道路から畑の中に展開した。
畑には満々と水が溢れていた。水は泥と一緒に私たちの腰をひたした。
冷たい雨がシトシトと鉄兜を打った。

散開して一気に水の中を岸近くまで突撃すると
鉄橋は轟然たる音をあげて真中付近から空に吹きあがった。
鉄骨の梁がピューンという唸りと一緒に私たちの近くに飛んで来た。
あとには四本の橋桁だけが残っている。
この残った橋桁を伝って三人の敵が走って来た。

敵は橋の真中まで来ると石油を撒いてこれに火をつけた。
一斉に友軍の機銃がこの三人に向って鳴った。
二人がコロッ、コロッと転がって河の中へもんどり打って落ちた。
残る一人は猿のように橋桁を走って対岸の壕へ飛び込んだ。

橋桁は炎々と燃え上がる。私たちは一斉に畑から飛び出して橋に迫った。
四方から飛び出してきた私たちは、橋のところで一本の道に集ってしまう。
対岸の重機はこの一点を狙って弾幕を張った。
橋の前へ躍り出して、次々と折り重なって戦友が倒れてゆく。

コンクリートの橋脚の上に幅五寸ほどの木が四本渡して橋桁ができていた。
石油はこの四本の木の上を流れて焔は煙と一緒に橋桁を四筋に走っていた。
橋桁は泥靴の下でスルッスルッと滑った。

私の前を走っていた戦友がガクンと左脚を折曲げたと思うと
半身が斜めに傾いてハッと思ううちに鉄橋から落ちていった。
下を向いて一気に走る私の目に、
橋桁の間から河を流れる戦友の顔がハッキリ見えた。
一瞬の映像だった。顔が火で熱かった。
眉毛がジリジリと燃えたのをハッキリ意識した。

隣を走るのは誰か、前で倒れたのは誰か、全然わからない。
燃える橋桁を走って対岸に一歩踏み込もうとするところに、
敵か味方かわからぬ死体が土嚢陣を築いたように折り重なっていた。
この死体の山を踏み越えて目の前の壕に飛び込んだ。

壕に入るとどうしてもこれ以上一歩も出られなかった。
「嬶、嬶!」と呼ばれる。私は壕を這って行って荒木准尉に飛びついた。

「よかった。怪我はなかったか。よかったよかった」
といって荒木准尉が私を抱かれた。ただ涙が溢れてきた。
荒木准尉の真黒な泥と煙にすすけた顔にも涙が走って、
地肌の筋がいくつかできていた。
荒木准尉は私を抱きながら私の耳に口をよせられた。

「児玉が・・・児玉少尉が死なれたぞ」「アッ、教官殿・・・」というと、
荒木准尉は私の口を押えて「云ってはいかん!」といわれた。
そしてまた耳に口をつけて
「ここで部隊の士気を阻喪したら○隊の名誉はどうする・・・」
と泣くようにいわれた。

橋桁が燃えて背を照りつける。壕の中の水は腹までしみ込んだ。
陽が落ちて、ただ橋の火が真赤だった。

壕の中に首を縮めて入っていると
弾は頭上五寸ほどのところをピューンピューンと飛んで行った。
迫撃砲弾がひっきりなしに飛んできた。
橋の袂の死体に命中した砲弾は、ドロドロの肉片を四方に飛ばして、
私たちの頬にピシャリと叩きつけた。

右からも左からも、闇の中から「小林伍長! 小林!」と呼ぶ声がする。
その度に「オー!」という小林伍長の元気な声が聞えた。

私たちは殆ど弾も射たず壕の中にじ―とひそみ続けていた。
私の横に死体がある。真先に燃える鉄橋を渡った石川伍長の冷たい体だった。
私は水の中でこの冷たい死体を抱きつづけた。隣の戦友の横にも死体がある。
その向うにも・・・
石川伍長が指揮する隊の戦友が一人残らず
冷たい死体となってこの壕の中にあった。

戦友の骸を抱いて水の中に一夜を明かすとは何時私が想像したろう。
お互に命は投げ出して、そして一瞬後には
何が起きるかわからない戦場がなんであるかを知っている。

にもかかわらず、
この一瞬の変転は私に感情を整理する道を失わせてしまった。

水の壕にじいっと入っているととても眠くなる。
水の中へ顔を突っ込んで眠ってしまう。
「眠っちァいかん!」と荒木准尉は狂気のように叫びつづけられた。

ハッとして目を開く。そしてまた銃を両手に持って首がだんだん下って行く。
ジャボンと水に額が落ち込んでもそのまま眠った。
「谷口! 松田! 今村!」
と荒木准尉が眠る部下たちの名を呼びつづけられる。

ハッと目を開くと目の前を真赤な曳火弾が燃えて飛び、
背後にボソボソと橋が燃えていた。
「今村! 今村! 眠るなツ」と幾度も呼ばれる。
今村上等兵は依然水から顔をあげない。
「オイッ!」といって私が今村上等兵の肩を力一杯殴りつけると、
今村上等兵は姿勢を崩して水の中へ転がってしまった。
驚いて水から抱き上げると、今村上等兵の体は冷たかった。
私の手に血が流れ伝ってきた。
背嚢を背に、銃を両手に杖のように握って、
眠った姿のままで立派に今村上等兵は戦死していた。

弾雨下に勇士と共に活躍する軍用犬
弾雨下に勇士と共に活躍する軍用犬

背後の鉄橋はまだブスブスと燃えくすぶっている。
依然として敵の銃火はこの橋に弾幕を張っている。

河向うと連絡に走る戦友はみんなこの橋桁の上で倒されて行った。
私たちはこの河を境に完全に後方と連絡を絶たれて孤立してしまっている。
なんとか連絡をつけねば、とみんなが焦った。

すると誰かが叫んだ。
「犬が・・・犬が!」
みんなが壕から振り返って橋を見た。

橋の上を、燃え残った橋桁の上を、
大きなセパードが一匹こちらへ向かって必死に走っている。

敵陣に重機が一ときは激しく鳴って、
黒く燃え残った橋桁が炭を散らすようにパッパッと刎飛ぶのが見られた。

セパード犬はこの中を煙をかむって一気に走っている。
「サチだ、サチだ!」と荒木准尉が叫ばれた。
私たちの隊についている軍用犬の『幸』号だった。

みんなが歯を喰いしばってこれを見た。
『幸』はやっぱり私たちと同じに敵の銃火が
自分に集中されたことを知ったのか必死な目をして猛烈なスピードで走った。

橋桁の上に死体がある。
一つ、二つ、三つと『幸』は走った余勢でこの死体を飛び越えていた。
ちょっとよろめいたようだった、みんなハッとして胸が詰まる思いであった。
「サチ! サチ!」と大声で叫ぶ。

『幸』は、また走りつづける。死体を越えて。
そうして大変な勢いで私たちの壕へザブーンと飛込んできた。
サチは全身水の中へ入ってしまった。

私たちは自分が弾丸に射たれるのを忘れて『幸』を抱いた。みんなが抱いた。
耳をキッと立てて口を開いて、長い舌を出して、荒い息をした。
抱くと『幸』はよろこんで私たちに強く体をすりつけてきた。
『幸』は本部からの命令書をつけている。
そして米を、僅かだが重い米さへ体につけていた。
この米は一粒づつみんなに分けて大切に噛もう。

雨は降りつづけている。敵の銃火は一こうに衰えない。
いやますます激しさを加えてきたようだ。
『幸』は再び大切な命令への返事と報告を体につけた。
荒木准尉が『幸』の頭を撫でられた。
「すまんのう。もう一度頼むぞ」私たちはみんなで『幸』に頬ずりした。
「すまないすまない」とみんな口に出していう。
『幸』はその間もはやって橋の方へ飛び出して行こうとする。
私たちは、はやる『幸』をじっと抱きかかえて
銃火が少しでも衰えるのを待った。

橋からは煙が上っていた。
橋の向うに、友軍の鉄兜がチラチラと動いていた。
「オーイ、これ頼む!」と叫んで
横の壕から石原上等兵がなにか私の方へ放り投げてきた。
濡れてはいたが、千人針だった。

死線さえ越える五銭玉もついて、
『大和魂』と縫った赤い糸の色が水に崩れて赤い千人針になっていた。
説明を聞かなくとも一切がわかった。
私はこれを『幸』の腹に巻いてやった。銃火が少し切れたようだ。
「たのむ!」と叫んで手を放した。

『幸』はなにか獲物でも見つけたように猛然と飛び出して行った。
また死体を越えて、橋桁を走った。
敵の銃火がソレッ! というように一斉にわめき叫んだ。
橋桁がパラパラッ、パラパラッと崩れて飛ぶ。

『幸』は走っている。
一つ、二つ・・・死体を越えた瞬間、ハッキリと『幸』がよろめいた。

「やられたぞ!」と自分たちが射ちぬかれたように絶叫する。
『幸』はヨロヨロとしてちょっと死体の横に止まった。
死体の下へ頭を入れようとさえする。石原上等兵が壕を飛び出した。
「危い!」と叫んだが駄目だ。石原上等兵は橋の方へ這って行く。
つづいて小林伍長がまた這い出した。

「小林、いかん!」荒木准尉が怒鳴られると、
小林伍長は「自分は衛生兵であります!」と這いながら叫んだ。

『幸』は死体の下へ『伏せ』のような恰好をしたが、
突然、ワンワンワンと猛烈な叫びをあげたかと思うと、
死体を越えて再び一さんに鳴きながら橋桁を走って行った。
左の後脚が真赤だった。

みんなが泣いた。
声をあげてオイオイと泣き出すのだった。
雨は依然としてやまず、機銃弾は唸りつづけている。

「アッ、連絡が来るぞ!」と誰かが叫んだ。
私たちは一斉に後ろの燃え残った鉄橋の方を振り向いた。
対岸から友軍の重機関銃、盛んに敵陣を制圧し出した。

鉄橋の袂でチラチラしていた鉄兜が、
ちょっと敵の射撃の衰えたのを見てパーッと橋の上へ飛び出した。
橋の上へ出た戦友は前かがみになって一さんに橋桁を走っている。
背中にはなにか包みを背負っていた。
一人橋桁を走って真中あたりへ行くとまた一人飛び出す。
一目見て部隊の大行李の特務兵たちだということがわかった。

○砲が対岸から橋を狙う敵機銃座へ射ち込み出した。
特務兵たちは丸くなってただ一心に橋桁をひた走る。
橋桁がパッパッパッと壊れ散って
敵の機銃弾がこれを追っていることがはっきり見て取れた。
みんな息を詰めた。

特務兵たちは背になにか背負って
前へ倒れんばかりの姿勢で次々と走って来る。
必死になって敵弾の中を走る姿を見ていると、目頭が熱くなってきた。

先頭の一人が私たちの壕へ飛び込んで来た。
飛び込みざま私たちに抱きついた。
そして口を開いてハーハーと息をしたまま
放心したようになにもいわなかった。

また一人橋の上へ飛び出す。敵の重機は狂ったように鳴りつづけた。
二人目も私たちの壕へ飛び込むと
水の中へ顔をつけてピッタリ伏せてしまった。
私たちはこの特務兵を抱き起した。

泥と雨水と涙となにもかもが一緒くただった。
一番先頭に飛び込んできた特務兵は、
まだ口を開いたまま荒い息をしてなにもいわない。
なにかただ手を動かしている。
「わかったわかった。有難う!」と荒木准尉がその手をとって叫ばれた。
それを聞いて、放心したように見開いていた特務兵の大きな目から
ポロッポロッと涙が落ち出してきた。
特務兵の背の包には、温かい握り飯が一杯詰っていた。

「ヤッ!あそこでやられた!」誰かが叫ぶ。
ハッとして振り向くと、続いて橋の上を走っていた特務兵の一人が
橋桁に両足をついたまま今にも崩れそうな恰好になっている。
すでに自己の生命に対する一切の危惧は何処かへスッ飛んでしまった。

バラバラッとみんな壕を飛び出して行った。
橋桁に両足ついた特務兵の体はガラッと左に崩れるように倒れて、
サーッと河の中へ落ちて行った。

私たちは夢中で土手から河岸に駆け降りた。
弾が集中されていることなど全然、私たちの想念の中になかった。
機銃の音もなにも聞えなかった。みんなが河岸から水の中へ飛び込んだ。
流れる特務兵を救い上げて「オーイオーイ」とみんなが叫んだ。
特務兵はちょっと目を開いたようだった。
なにかしきりと忘れ物でも探しているような顔をした。
そしてやがて目を閉じた。
小林伍長が頭を振った。若い、綺麗な顔だちの特務兵だった。

握り飯は水に濡れてもまだ温かかった。なんという味だ。
なんというたまらない匂いだ。それでもどうしても喰えなかった。
胸がつかえて喰えなかった。
「これを、俺たちに食わせたいばかりになァ!」
そういって石原上等兵が泣く。
みんなが握り飯を手につかんで喰いもせずただ泣いた。

城壁を乗り越えて敵陣へ
城壁を乗り越えて敵陣へ

敵の陣地が一度に大火薬ででも炸裂したように、
ダーンダーンと幾十とも知れない機銃が喚きつづけた。

このすさまじい銃砲火の狂乱の後になにが来るかを
私たちは長い戦闘の経験で知っていた。
私たちの壕の中には忽ち生々としたものが甦って来た。

「野郎いよいよ逃げ出すな――」とみんながつぶやく。
そして早速背嚢を背につけて、いつでも壕を飛び出せる用意をした。

戦場では兵隊というものは実に不思議なほど瞬間瞬間で変化をする。
豆が出来て、もう一歩も歩けないという兵が散開すると、
歩けぬ筈の足で立派に畑を蹴って突撃するし、
眠気なぞ何処にあるかという顔で走りわめいていた兵が
ちょっと休止すると、もうぐうぐう眠ってしまったりする。いまもそうだ。

焦躁と疲労の極ドロドロの壕の中に
おのおのの生気を溶かしこんでしまつた兵たちが、
猛烈な銃火が敵の敗走準備を意味すると知るや、
とたんに、シャンと張りきってきた。

そして、口惜しくて口惜しくてたまらない敵だ。
全滅してもいいからこの壕を飛び出して
敵の機銃座へ銃剣を突きつけたいと思った。
こんどこそ、どんなに逃げても必ず追いついて突き刺してやろう、
とみんな考えた。

果して夜中近くになると敵の銃火が、
人の足音にピタリと鳴き声を静めるコオロギのように、寒々と衰えて来た。

「前進!」と命令が出た。一切の疲労が消し飛んだ。
一足飛びに右側の機銃座へ飛び込むと、
敵の死体と死体の間へグチヤグチャと足を突っ込んでしまった。

抜こうとすると、一つの死体が私の足をしっかりとつかんだ。
「畜生!」と怒鳴って刺そうとして気がついた。
敵の死体が両手で私の足を掴んだのではない。
私は死体のポケットの中へ足をふみ込んでいて、なかなか抜けないのだった。

駅を過ぎて崑山の街へ雪崩れ込むと街の真中を
幅四十メートルほどのクリークが流れていた。
クリークの橋を一気に渡ろうとすると、
対岸の民家からビューッビューッビューッとチェコ機銃が鳴って
戦友が三人バタバタと橋の袂に倒れた。

さっそく友軍の軽機が橋の袂からこの民家を射った。
私たちはクリーク岸の民家の中へ陣どって窓からそこを射った。
敵の弾は窓から室の中へ飛び込んでピンッピンッと壁を割ったり、
跳弾になってカラカラカランと室を一と廻りしたりした。

クリーク前方の民家から射って来ると思うと、
左側から壁を突き抜いて弾が飛んで来たりして、
何処から弾がくるかほとんど見当がつかなかった。

室の中は酒倉らしく、酒の香がプンプンしていた。
弾は酒甕に当って、甕はいくつもの破片となって室一杯に飛んだ。
酒がザーッと流れ落ちる。

「オ、オイ」と石原上等兵が呼んだ。
「こ、この室で射つのはよせ、隣へ行こう。こりァ酒がみんな駄目になる」
と慌てていった。

酒倉を出た石原上等兵は橋の袂へ来て、
「いつまでやったって駄目だ、飛込め!」と叫んだ。

そして一気に橋を渡って対岸へ走って行く。
五、六人一緒について飛んで行った。

橋向うの角の民家から手榴弾が二つ飛んで来て道の向う側で炸裂した。
石原上等兵が銃でこの民家の表戸を叩き破っていた。
私が駆けて行くと、
この民家から悠々石原上等兵が出て来て吐き出すようにつぶやいた。
「たった三人だ、チョッ!」
方々で市街戦をやっている音が聞えていた。

私たちは市街をずっと掃蕩して日も暮れだしたので、
街外れの民家で宿営することになった。

歩哨を立てて炊事にかかると、しきりと機銃の音がして弾が
いくつかピューンピューンと民家の屋根に当たり出した。
銃声はいよいよ激しくなって、どうしても戸外で炊事をすることが出来ない。

家の中へはいると弾は室の煉瓦を突き抜いて飛び込んで来る。
またぞろしつこく逆襲をはじめてきたのだが、
もうそれにかかり合う気にもなれなかった。
敵は民家の二、三十メートル近くまで押し寄せて来て、盛んに射つ。

友軍の機関銃隊が何処かに陣を作ってザーッとこれを薙いでいた。
すると激しい銃声の中にしきりと犬の鳴き声が聞えるように思った。
オヤ、と思ってみんなが聞き耳をたてた。
確かに犬の鳴き声だ。聞き覚えのある鳴き声――
「サチだろ」と、誰かが叫んだ。
「サチだ、サチだ」とみんなが一斉に飛び出した。

崑山の前衛線の燃える鉄橋で、片足を真赤に血に染めながら駆け出したきり、
生きたか死んだか知らなかった『幸』だ。
私たちは家を出て本部の方へ走って行った。
本部の入口で見覚えのある大きな耳を立てた犬が、
兵たち二、三人と戯れていた。

私たちが走って行くと、『幸』は猛然と飛びついて来た。
両足を私たちにかけようとしてヨロヨロッとよろめいて止める。
そして嬉しそうに「クークー」と咽喉で鳴きながら
首を曲げて鼻を足のところへもってゆく。

よく見ると、『幸』は片足に白い包帯を巻いていた。
よろめいてそれをペロペロなめる。
あまりなめるので包帯は黒く汚れてしまっていた。
「オイ、生きてたかッ!」
と石原上等兵が叫んでその大きな首をしっかりと抱いた。
『幸』は長い舌で石原上等兵の軍服の襟をペロペロとなめた。

やがてまた「クークー」といって足に巻いている包帯を鼻で嗅ぐ。
「おーお、わかったわかった、サチ、よかったなあ」
そういって、みんながポロポロ泣いた。

弾が本部の屋根にカンカンと当っている。

■南京への行軍を知らされる

クリークを距てて機関銃隊の猛射
クリークを距てて機関銃隊の猛射

崑山を出るとまた爆破された鉄橋があった。
この鉄橋を渡って前進をつづけていよいよ蘇州へ入るんだ、
と誰かがいいだした。

おぼろげながらも伝え聞いている『蘇州』――そこへ行く、
ちょいとした感慨だった。

この感慨にふけりつつ鉄橋を渡っていると、「前進停止」の命令が来た。
「ハテ?」とみな首を傾げる。
私たちの不審には一切おかまいなしに部隊は鉄橋の近くに集結した。
そのまま崑山に二日泊まって再び行軍を起こして気がついてみると、
私たちは崑山を抜け、あの苦戦の鉄橋も過ぎ、
さきに来た道をまたどんどん逆もどりしていた。・・・・

一体私たちは何処へ進むのだ。なにもわからなかった。
蘇州を攻めるのをなぜ他の部隊にゆずった。腹がたって来た。
黙りこくってただ下を向いて歩く。お得意の饒舌はもう何処にもなかった。

時々どうしても喋らなければならない時には
プンプン腹をたてたように怒って喋る。
なにを見てもなにを考えてもただわけもなく腹が立ってきた。
石原上等兵など大ムクレな顔をして何をいっても、
「知らん」といって河豚のようになっている。
おかしくて笑い出すと、石原上等兵もプンプンしながら笑ってしまった。
 
雨に打たれてクタクタになって嘉善へ着くと、
「南京に向け前進する!」といって来た。
「アー」とみんな目を瞠る気持だった。

南京――敵首都の南京、これを私たちが攻める。
もう腹などはたてていられない。
それ飯を炊け、しっかり炊け、うんと腹を作れ、
と大変なはしゃぎようだった。

みんなが立ったままで葉書を書いたりした。
どうしてもこれを故郷へ知らせないではおけない気持だった。
私たちが北から中支の戦線に廻ったとき、誰が南京を攻めると考えたろうか。

石原上等兵が飯盒を持って水でも汲みに行くらしかった。
「オイ、何処に行くんだイ」と私が声をかけると、
石原上等兵は「南京だイ」と言って昂然と肩を聳やかした。

こうして前進の準備をはじめていると荒木准尉が来られた。
准尉は情けない顔をして、
「われわれの部隊は南京へ前進する。・・・が、
わが部隊は○○の予備隊となった」と告げられた。

戦友たちはまたみんな腹を立ててしまった。南京戦に予備隊とは何だ。
それでは戦争がすんでも故郷へは帰れない――という。

再び行軍がはじまった。行軍は猛烈をきわめた。
ほとんど休憩というものがない。
ただ走るようにして行軍する。

漸く私たちに部隊の意図がわかって来た。
一線部隊に追いつき、これを抜いて予備隊から脱しよう、
自ら一線の戦闘を買って出よう――それだった。

みんなが歩いた。歯を喰いしばって歩いた。
一線部隊を越せ、一線部隊に追いつけ、そして――南京へ南京へと進む。

前方を二人、三人と足を引きずりながら友軍の歩兵が歩いている。
その歩兵たちは竹を切って作った杖をついたり、
或は路傍に腰をおろして溜息をついたりしている。

近よって、「お前さんたち何部隊か――」と聞くと、
「千葉部隊だ、豆で歩けァせん」と答えた。

私たちは晴れの南京戦に○○の予備隊という閑職から逃れるために、
湖州への街道を第一線に出た他の部隊を追って猛烈な行軍をやっていた。
「しめしめ、そろそろ一線部隊の落伍者に追いつき出したぞ」
とこの豆で歩けぬ兵の部隊名を聞いてみなが思った。
「もう一息だ」と考える。空は晴れていた。

砂塵がもうもうと街道に巻上って顔も服も靴も埃で一緒くただった。
一線を落伍した兵たちは次第に殖えてきた。
そしてドンドン私達の後へまた落伍して行ってしまう。
行軍の激しさの労苦はすでに問題ではなかった。
無言の中に全部隊が一つの目標をはっきりとみつめた。
ただ、どんなことがあっても一線に出ようと思い詰める。

これを知って○○から、「部隊はその部落に停止せい」といってくる。
すると部落に一時止まって、夜中にまたコソコソと進軍し出した。

竹杖をついて部隊長が真先に進まれる。
兵たちはみな目頭を熱くして、これについて行くのだ。
「糞!」と思う。
どんなことがあっても南京へは一線だ、と考える。

どれだけ敵がいてもいい、私たちでみんなこれを引き受けてやろう――
そして、ただ一心に行軍した。ただ一心に一線部隊を追いかけた。

廣徳へ着くと、千葉部隊や矢ケ崎部隊の第一線部隊がいた。
私たちがゾロゾロと街へ入るのを見て、
「お前さん達、何処の部隊だね」と驚いて聞いている。

「岡本保部隊だァ」と大声で答えてやった。
「ヘエー、岡本部隊って何処だ。○○の部隊だって?」
といってみんな首をひねっている。

この部隊を追い越して、右の岩と雑草ばかりの山中へ入って行った。
山の中は敵がたったいま逃げた後らしく、
飯盒や皿やが岩陰の陣地に飯を入れたまま放り出してある。

この山を抜けると小さな部落があった。
部落に宿舎をきめていると、
突然、部落の端のクリークを越えて迫撃砲弾が飛んで来た。
迫撃砲弾は部落の道路の上に飛んで民家の壁を半分崩した。

私たちはすぐ散開してクリークの岸へ進んで行った。
対岸でチェコ機銃が鳴って弾が岸の草を薙いだり、
砲弾が私たちの頭の上を越えて後方で土煙をあげたりする。
友軍の機関銃隊が岸の土手に重機を据えて対岸を射ち続けた。・・・

私たちは射ちながら、
「とうとう敵に追いついた。一線に出たぞ」と思い合う。
この敵を追いまくればもう目の前に
聞き知った南京の城門が口を開いて待っているような気がするのだ。

私たちは突撃してこの敵を追いまくりたいと思った。
射ち合っていたのでは犠牲が出るばかりでらちがあかない。
みんな突撃しよう、突撃しようと焦った。
しかし目の前にクリークがある。なんとしても突撃できなかった。

■南京への途、クリーク突破

仮橋を渡って突撃する我が部隊
仮橋を渡って突撃する我が部隊

工兵隊が架橋材料をもってクリーク岸の私たちのところへ這って来た。
廣徳を出て山岳地帯を抜けた部落の端のクリークで、
私たちは追いかけていた敵の尻尾をつかまえてしまったのだ。

南京へ、と気は焦ったが、クリークがあってどうしても突撃できない。
結局工兵の架橋を待つよりほかはないことになった。
私たちは工兵の到着を見てその架橋の掩護のため、
岸からクリークの中の三角州へ飛び出して行った。

三角州には一ぱい葦が生えている。この葦の中へ踊り込む私たちを見て、
対岸の敵は強行渡河されるものと思ったのか、
対岸の一切の火器を動員して慌ててこの三角州を射ちまくった。
それを見て真裸になった工兵が
三角州から離れた下手へ材木をもって飛び出して行った。

友軍の重機が岸から対岸めがけて猛烈に唸った。
私たちは対岸の敵を全部三角州へ牽制して、ここから射ちまくった。
弾は葦に当ってサ、ササササと大雨のような音をたてた。
葦が切れて射たれた矢のように私たちの顔に刺さった。

「ヨイ、ソレ、ヨイショ!」という勇ましい工兵の気合いが聞えて来る。
射って射って射ちまくる友軍重機の音で、
空気がすっかり熱くなったような感じだった。

「いいか、大丈夫か!」と叫んで
衛生兵の小林伍長が三角州と土手の間を走り廻っている。
まだ「小林ッ、衛生兵!」とよぶ声は一つも聞えて来ない。

「伝令!」と呼ばれて私は荒木准尉のところへ駆けよった。
私は○隊本部との伝令もやることになっている。
葦の中で命令を復誦していると、
その声が弾の音で吹き飛んで自分の耳にも聞えないほどだった。

三角州を出て土手に登る。
土手のところに小林伍長が伏せていて、私を見てニッコリうなづいた。
「本部へ行ってみい、兄さんが御馳走しているぞ」といった。

『兄さん』の石原上等兵は、きょうは本部にいるらしい。
弾の中でも食物の話だけは忘れなかった。・・・

本部に飛び込んで命令を復誦して伝えると坂本大尉が、
「よろしい、御苦労だった。あそこで何か温かいものでも喰って行け」
といわれた。隣室で石原上等兵が上着を脱いで鉢巻をしていた。
「サァサァサァ」と手を叩いて、「ゼンザイ、支那酒、御飯にニワトリ、
菜ッパはお汁で、ガチョウの漬物なぞいかが・・・」といった。

満腹して、「架橋完了次第強行渡河して前進」の命令を受けて
本部を飛び出そうとすると、裸の工兵が一人戦友に担がれて入って来た。

工兵の裸の右腕は付け根でしっかりと血まみれの手拭でゆわえられて、
腕から下は膚の色がなかった。
工兵は入ってくるなり、
「オイ、煙草を一本喫わせてくれませんか」としっかりした口調でいった。

煙草に火をつけてもらうと、
立ったままさもうまそうに深々と吸ってプーッと輪を作って煙を吹き出した。

石原上等兵が、「御苦労やのう。まあ坐んなよ」
といって石油箱を持って来ると、
「いや、もう一つ尻ッぺたへも弾めが入っていやがって、
坐るなァ駄目ですたい」といって工兵は笑った。

私が三角州へ駆けつけると、すぐ私たちの○隊は
三角州を出て土手を架橋されたばかりの橋の方へ走った。
月が沈もうとしている。葦がキラキラと光って銃剣もキラキラと光った。

「それッ、歩兵は出ろ!」と工兵が声をかけたので、
一斉に橋の上へ躍り出した。ダダダダダダと機銃が狂い出す。
対岸で月の光をうけてチェコ機銃の筒先きが左右にチカチカと光ながら、
首を振るのがはっきり橋の上から目に入った。

橋はガタガタと足の下で音をたてた。
工兵が水の中へ入って、「歩兵、出ろ出ろ!」と下から叫んでいる。
「すまん!」と叫んでドーッと渡河橋の上を走った。・・・

追いに追いまくって気がつくと、朝がほのぼのと明けていた。
下り坂を走り出した機関車のようにどうにも止まらないさかんな気持だった。

「集結ッ!」と分隊長が呼んでいる――。・・・・・
敵がバタバタと逃げだした。
山を半分も登ると、またどうしても進めなくなってしまった。
ズラリと列んだトーチカが突っ込んでも突っ込んでも抜けない。
私たちは岩の間に転がった。そして、そのまま眠ってしまった。

ふと目を覚ましてみると、
坂本大尉も荒木准尉もみんなグーグーと鼾をかいて寝ていられた。
三時間も突撃のままで眠ると「前進」といって叩き起された。
目を擦って夢中で山を前進する。

敵は一せいに退却していた。
頂上を乗り越えて、逃げる敵を追って山を下るとほのぼのと夜が明けてきた。

轟々と山に響く爆音――
山の下の大きな道を、幾十台という戦車が一列に呻って走っていた。
日章旗がはたはたと朝風にひらめいている。私たちは一気に山を駆け下りた。

戦車はつづき、そして○砲はいくつもいくつも、
すさまじい響きをあげて猛烈な速さで前進していた。
砲車は轟々と軋み、馬は鬣を乱して大道路に蹄を鳴らす。
「それっ! それっ!」と鞭打って進む砲兵の掛け声が、
戦車と砲車の轟音の中に響き渡る。まさに大軍は南京に殺到するのだ。

私たちは食事もなにも忘れて一斉に進撃した。
道の両側の民家は全部火が放たれて燃えあがっていた。
燃え上がる民家は、中に弾薬を隠していたものか、
轟然たる大音響をあげて空に噴きあがったり、
或は焔の中で幾万という小銃弾が次々に炸裂して花火のような綺麗さだった。

私たちはこの中を走って進軍する。進軍しながら石原上等兵が、
「おい、さっきの山のトーチカを見たか」といった。
「そんなもの見とれるかい」
「いやわしは見たがな、どれだけわしらがトーチカを抜いて後へ廻っていても
射ちつづけていやがったろ。その筈だ。
奴ら三人足を鎖で結わえられていたぞ。
弾薬をトーチカ一杯につめられてなァ――」

憮然たるものがあった。

「射つより他に仕方なしさァ」
大軍は南京へ、南京へ! と驀進する。

■南京への途、中華門めがけて殺到

南京城門に立つ我が軍
南京城門に立つ我が軍

「南京中華門まで一里!」
と声がかかった。ただひた押しの進撃だった。・・・・

十二月十一日朝、私たちは南京城の大城門を
二千メートル目前にみて敵と対峙した。

敵は城内と雨花台砲台と両方から猛烈に私たちを射ってくる。
友軍の○砲も一せいに雨花台砲台に向って放列を敷き、
彼我の○砲による大砲戦がつづけられた。晴れてはいたが寒かった。

すでに中華門は五百メートルの近きに聳えていた。南京城に夜が来る。
城内から射ちだす敵の迫撃砲はいよいよ猛烈をきわめて、
軍工路といわず、畑といわず、一面に灼熱した鉄片の花火が散りつづけた。

砲撃の目標となるので火は絶対に焚けない。星が満天に散っていた。
「こごでは死ねねェなァ」と石原上等兵がいう。
「五百メートルづつ走って、あの城壁の上でなら死ねる」
「そうよ、だからここでは死んでも死ねねェ」
にもかかわらず、間断なく射ち下される砲の弾片をかむって
隣の○隊からは数名の戦友が倒れていった。

黒々と目前におおいかぶさる大城壁の上には
間断なくパッ、パッ、パッと一列に火が噴いている。

シュルシュルシュルシュルと迫撃砲弾は休みなく頭上の夜気を震わせ、
「衛生兵ッ!」と呼ぶカン高い声は遠く近くに夜を裂いて、
大城壁の銃火のように私たちの感情を明滅させた。

大南京の敵はただ私たちだけに戦争を挑まれ、
ただ私たちだけに戦いかかっているかのようであった。

おれたちが南京城を攻めている。おれたちが南京城を陥す。
そして、おれたちだけを敵は射ちに射って
この大城壁を盾に叩き伏せようとしている――
そう考えられるほど私たちの戦いは激烈だった。

夜が明けるまでにこの大城壁の前に幾人の戦友が残るだろうか、
と思うほど敵は砲をベタ射ちに射ちつづける。
やがて夜が東の空から白々と明けてきた。

南京城に朝が来た。ふと、周囲を見廻してアッと驚いてしまった。
私たちだけが戦争をしている、と思っていたのに、夜が明けて見たら、
広い軍工路一ぱいに友軍の戦車と○砲が
ひしめきたって城壁に喰いついていた。

当然のことだが、いまさら目を瞠る気持だった。
戦車も、○砲も、もしできたら城壁を乗り越しかねまじい勢いで
ピッタリ一線に喰いついている。まったく「犇めきたつ」という感じだった。

夜が明けるとすぐ城門への突入がはじまった。
前方には城壁をとり巻いて幅三十メートルほどのクリークがあった。
クリークの土手は三間ほどの道路になっていて、そこに塹壕があった。
城門はすでにピッタリ閉されて、泥や砂が一杯積んである。
クリークの土手の敵は、城内に逃げ込む道はなかった。
堪えかねてバタバタバタと城門へ走って行くが、
片っ端から友軍の重機に薙ぎ倒されて、山のように重なって倒れて行く。

友軍の工兵が、材木に板をならべた筏のような渡架橋をもって走った。
城壁の上から手榴弾と機銃弾が降ってくる。
渡架橋は水煙をあげてクリークに投げ込まれた。
城壁が轟然と音をたてて爆破される。
大きな坂が出来たように土砂がザーッと崩れ流れた。
ドーッと隣の○隊が飛び出したようだった。

やがて城門を埋めた小山のような泥の坂のところで
日章旗がしきりと打ち振られた。
戦車は轟音をたてて動き、私たちもまた一せいに進軍した。

「十二時十二分!」と小林伍長が叫ぶ。
ただ敵の死体と散乱する軍需品の海だった。・・・・

中華門を抜いたが、通りや広場には
ところきらわず地雷が埋めてあったので、うっかり歩めなかった。

逃げおくれた敵兵が四人、五人とヒョロヒョロどこからともなく現れて、
私たちの前で両手をあげた。
私たちはこの連中を次々と捕え、さっそく地雷堀りに使ってやった。

敗残兵たちは、得々とした顔をして、己が埋めた地雷を掘りかえした。
私たちは地雷を掘ったり、敗敵を捕えたりしながら清涼山に登った。

清涼山には二段、三段と傾斜面を利用して壕がかさねて掘られてあった。
壕と壕との間には小亭などがいくつもあって、
僅かに戦前の面影をとどめていた。

壕の中には銃を捨て、帯剣も捨て、フラフラになった敵が
あちこちに無表情な顔でうずくまっていた。
壕を次々と掃蕩して山頂に登った。

中正路と漢中路の交叉する広場には日の丸の旗をかかげた戦車の
蜿蜒たる列を先頭に、軍旗をかかげた部隊が、
次から次へと、堂々たる行進で集っていた。ラッパの音が聞えている。

この戦線に来てはじめて聞いたラッパだった。
この列を抜けて荒木准尉と中華門へ引きかえして行くと、
ここに○○以来の新しい兵○○名が私たちを待っていた。

この兵たちは私たちよりぐっと年はとっていたが、
日夜私たちを急追したため新しい服もすっかり泥と埃でよごれていた。
ズラリとならんだこの新しい兵隊たちを見て、
「ああ、これだけ古い戦友が死んだり一線を退ったりして行ったのか」
と思った。門の上で大日章旗がハタハタと風にはためく。
しみじみとした感慨だった。・・・・

その翌日、私たちに「前進!」の命令が出た。
太平から蕪湖に行くという。名残り惜しい南京だった。

「もっとここにいたいなァ!」とみんなが考えた。
それも離れる瞬間の名残惜しさだった。

動き出すと、すぐ私たちは南京を忘れてしまう。
当面した新しい事態が全部を支配して、
戦場は私たちをただその瞬間瞬間へ生き生きさせた。

私たちの部隊が宿舎をたって
思い出の中華門をまさに出ようとしたときだった。

突然、だしぬけに「気をつけ!」の号令がかかった。
冗談ばかり云い合って歩いていた私たちにはほとんど予期しないものだった。
行軍をはじめてこんな号令がかかることは戦場へ来ては滅多になかった。
ハッとして歩調をとる。

城門の脇に○○部隊長と○○部隊長と岡本部隊長の
三人が立って私たちの方へ敬礼していられた。

■逃げ場を失った敵大軍

皇軍の保護に浴する敗残兵の大群
皇軍の保護に浴する敗残兵の大群

銃も捨て、帯剣もなく、青や黄色の軍服だけの着の身着のままの敵兵が
百人、二百人と、軍靴もなく裸足で次から次へと道を進んできた。

この場合「進んで来た」という言葉は当てはまらない。
敗戦の打撃と、逃走の焦燥からきた絶望は一切を観念して
ふてぶてしさにまで変わって、逃げるのでもなく、進むのでもなく、
一切の意志を捨てただ浪のまにまに漂う浮草のような動きでしかなかった。

南京から蕪湖への街道はこの絶望的な敗残兵で一ぱいだった。
しかも彼等が戦いの意志を捨てて漂泊するこの街道の左右には、
驚くべき堅固な近代的銃座をもった防禦陣地で一ぱいだった。

街道の両側、畑の中に掘られた蜿蜒たる塹壕、
草をかむったトーチカ、無数に張りめぐらされた鉄条網。

「よくもこの陣地が抜けたもんだなァ!」
と自分たちがやったことではないように思われて、いまさらながら驚嘆する。
この堅固な陣地はいずれも蕪湖方面に向って構築されてあった。

敵はわれわれの一部が蕪湖方面から
南京へ向って進撃するものと考えていたらしい。

ところが南京は他の側面を衝かれ、とっくの昔に陥落して、
われわれはいま敵の陣地の裏を見ながら蕪湖へと進撃しているのだ。
驚嘆すべきこの堅固な陣地は、一発の銃声を放つこともなくして
街道の上へ武器を捨て困憊に打ちひしがれた敵兵を
追い出す『敗残の陣』となっていた。

自分たちが当面したところにしか戦争を感じない私たちは、
いまここに大きな総合的な
戦争というものの大局の一部を見てとったように思った。・・・

逃げ場を失った敗残の敵部隊は、限りなく街道につづいていた。
私たちもまたこれに一発の銃弾さえ用いる必要はなかった。
二百人、三百人と集団をなした敵を素手で捕えてしまう。

そして――私たちはハタと当惑したのだ。
自分たちでさえ糧食の補給がつかない、
蕪湖への進軍だけで手いっぱいだった。

それだのにこの千に余る敵敗残部隊をどうして養い、
そして処理したらいいのだろうか。
私たちに抵抗した南京城内の幾万と知れぬ敵は、
一瞬にして南京城内外の骸の山を築いてしまった。
それだのにこれは――ハタと当惑したのである。

クリークは生々しい敵の骸で溢れ、
私たちは汚れた手を洗う水さえなくなってしまった。
太平に着いて一夜を明かすと、しとしとと雪が降っていた。
凍った飯盒の南京米はポロポロポロと玉砂利のようにころがって
どうしても咽喉をを通ってゆかなかった。

銃は氷よりも冷たく、そして重く霙に濡れて、
どんなに銃把にタオルを巻いても手はすぐ凍えて感覚を失ってしまった。
手はしびれてもこの銃を取り落してはならない。

つい取り落しそうになるのをしっかり握りしめていると、
やがてどこまでが銃でどこからが手かわからなくなってしまう。
休むのが辛かった。
寒風と横なぐりの雪にうたれて休憩するのは堪えられなかった。

どこへでもいいから、せめて歩いていたかった。歩けば足が重かった。
そして背嚢が肩に喰い込んだ。すでに足にも感覚はない。
シャブシャブと雪と氷と水と混じった低地へ入ったり、
横たわった材木にしたたか足の爪を打つ。それでも――希望はあった。
なにか底の底から烈々と湧き上ってくる希望があった。勝利の希望だろうか。
次に来るものへの期待だろうか。
いや――おそらく日本の国民全部が持っている、
なにかはわからぬが、ほのぼのと押しあがって来るあの希望だった。

これが大和魂といわれるものだろうか、私たちは言葉は知らない・・・が、
この希望のようなものは「エイ! エイ!」と腹の底の方で私たちを叫ばせ、
「畜生、畜生!」と歯を喰いしばらせて、
与えられた当面の任務を遂行させてゆく。・・・

宿舎に入ると、もう正月が来る戦地で、正月の用意をしなければならない。
命令が出た。
「○隊は餅米を見つけて来い。×隊は石臼を見つけて来いッ」
お正月がくる!
まったく忘れていたものが目の前へ突然に飛び出してきたようなものだった。
もちろんお正月を忘れていたのではない。
季節についてはみんな毎日毎日「いまごろ故郷では・・・」
と日にちを繰っては不思議なほど敏感だった。

しかし、ただその季節の行事が、この戦場でも行われる――
ということについては、なんら考えてもみなかったのだ。
唐突として目前に故郷の行事が甦った。
「自分たちにもお正月が来る――」
とみんないまさら思いなおした気持だった。・・・・

餅つきがはじまった。今日は十二月三十日。
ペタンペタンと向う鉢巻の石原上等兵の指揮下に
威勢のいい杵の音が銃剣の間から聞えて、街へと伝わって行った。

その街々には住民たちが大半帰って来ている。
リンゴや葱など抱えた物売りの子供たちが兵隊にしつこくつきまとっていた。
私たちは子供のようにうれしかった。正月が来る、お正月が来る!
幾年間か忘れていたあの少年時代のうれしさが、
この戦場に来てはじめてゾクゾクと体の中に甦ってきたのだった。

「オイ、コラコラ、まだ手を触れちゃいかんぞ」
と向う鉢巻の石原の兄さんが、元気のいい声で、
でき上った餅に触れたがる戦友たちに、
子供を叱る親父さんのように怒鳴っている。

その湯気の立ちそうな餅は、
もち米が足らないので普通の米が沢山入っていて、
ブツブツが一ぱいあったが、それでも立派に鏡餅の形をして、
指で押すと靨(えくぼ)のように穴が引っ込んだりした。

夜が明けて正月がきた。
きのう搗かれた小さな鏡餅は部隊全部に配られて、
室々の銃の前に一つずつ飾られた。

するとまた内地からの切餅とリンゴが送られてきて、
一人に切餅二つ、リンゴが一つずつあてがわれた。
敵がいることなどはみんなが忘れてしまっていた。・・・

晴れの石原上等兵が高々とラッパ『君が代』を吹き鳴らす、
捧げる銃にも陽は映えて銃剣が頭上でキラキラと光った。
「天皇陛下万歳!」腹の底から絶叫した。祖国よ、祖国よ!
じいっと銃を捧げつづけていると、
私たちの顔にはぼろぼろと涙が流れてきた。

■支那敗残兵の従卒

雪中の猛攻撃
雪中の猛攻撃

この楽しいお正月は、私たちにもう一つ素晴らしい春の贈り物をもってきた。
それは『敗残兵李君』だった。

南京から遥々とやって来た衛生隊が、二人の敗残兵をつれてきた。
一人は南方人らしい面がまえで丈は小さかった、
ピチピチ動いてよく気の利く悧巧ものだったし、
他の一人は北方人のように丈は恐ろしく高くて
見るからに力のありそうな巨大な体をしていたが、
どこを風が吹くというような顔で少しボーッとしていた。・・・・

「大きい方がいいな」というと、
衛生隊は「じゃ、この大きいのを一時貸してやろう。
君の隊へくれてやるんじゃないぞ、貸してやるんだぞ」
と馬鹿に念を押して、この大男を私の隊において行った。

大男は名を『李』といって、とって二十三歳、支那の軍隊に三年いたという。
背丈は五尺七、八寸もあって、
暮れに餅を搗いた大きな石臼を一人で持ち運んだ。

アッと部隊の連中は驚いていまさらその大男を眺めかえした。
・・・・たちまち『ノッポノッポ』と部隊の人気を集めた。
この『ノッポの李』を私の従卒にして、荒木准尉の当番の用を手伝わせた。

『ノッポの李』は毎晩私と一緒の室で、おなじ寝台で寝た。
私は李に室の隅に机を一つ与えてやった。
すると李は、どこから探してきたものか布でフキンを沢山作って、
ボロ屑屋の帳場のようにこれを机の上いっぱいに列べたてた。

フキンはまだいい、こんどはどこをどう堀りだしてきたものか、
卓上電灯やラジオなどいくつも持ち込んできて、
これをフキンの間へ古道具屋の店先のように列べて得意である。

蕪湖の街はたちまち復興して物売りの数は一日一日と増えていった。
女や男の子供が、玉子や葱などいっぱい籠に入れてしつこくつきまとう。

ベラボウな掛値をいって、葱一束で「拾銭」という。
「二つで拾銭」と指二つだしてみせても、首を振ってなかなかまけない。

私たちは早速、李に十銭もたせてこれを買いにやる。
李は「ウンウン」と合点してすぐ走って行く。

しばらくすると真ん丸い顔の大きな鼻を
ピクピクさせながら葱を五束も六束も抱えてきた。
「これで十銭か?」というと、
平気な顔で合点いて煙草をスパスパふかしている。

十銭でも金をやったのがめっけもの、
李は土民から金をやって物を買ったためしがなかったらしい。

私はキャラメル一箱下給されればそれを半分に割って李にやる。
煙草は私が少しも喫えないので、全部李にやる。
するとしまいには、李は下給品を自分で勝手に半分に割って、
フキンでいっぱいの机の上にならべたてた。
李はフキンのほかに徴発してきた青や黒の服を沢山持っていた。

「李、それをどうした」ときくと、
持っているのが当たり前のような顔をして黙って笑っている。
李はなんでも持ってきた。
どこをどう探すものか、私たちが知らぬ支那街の秘密でも知っているのか、
馬糞と小便壷のほか何もない筈の小屋からも必ず綿入れの一枚、
銀の水ギセル一つくらいは探し出してきた。

「李、どこから持ってきたッ」ときめつけても、
徴発の水ギセルで早速スパースパーとやってそっぽを向いている。

「コラ! あったところへ返してこい」といって銃剣をとってみせると、
なぜおこるのかという風に、真ん丸い頭をひねって不審そうに考えたりする。

いくらひねってもこの真ん丸い大きな頭からはなにも出ないらしいが、
ともかく銃剣が恐ろしくて、やがて素直に返しに出て行く。
李はとても可愛かった。

正月もすぎると部隊には蕪湖北方山岳地帯への討伐命令がでた。
・・・クリークを進んで山の麓までくると、
突然、山上からチェコ機銃が鳴って弾が舟の上を流れて行った。

私たちは舟から飛び出して土手から山へ向う。
雪の土手に伏せると、雪の下にツクシンボウやレンゲ草の小さい芽が
頭をもたげようとしているのが目についた。・・・・

李は頭をかかえて舟の中へ縮こまったきり出てこない。・・・・
山の壕に躍りこむと、チェコ機銃が十挺も転がっていた。
壕を出てさらに山を下って行くと、
突然、側面の山腹から一斉射撃を受けた。

ただ突撃する前面だけに気をとられて
まったく予期しなかった側面の敵だった。
ハッと伏せる。
ころを見てまたパーッと飛び出す。

側面の機銃は雪をはねあげて飛び、
コナゴナになった雪が煙幕を張ったようだった。

五十メートルも走ると「佐々木! 衛生兵、いないかッ!」と叫ぶ声がした。
私の横で、たったいままで目で進退を知らせ合って
走っていた佐々木一等兵がクタクタと足膝ついている。

私は駆けよって見ると、
左足の関節のところがはぜて、噴き出す血の中に真白な皿が現れていた。
「ここへ弾が入った入った」といって佐々木一等兵は、
左手で関節の皿を引きちぎってとろうとする。
「入っちゃいない、弾は抜けたッ!」
と私は叫んで佐々木一等兵の左手を後へねじまげた。

・・・・入隊以来の永い戦友だ。
内地から、そして北の戦線、南の戦線と、
ずーっと一緒に闘ってきた残り少ない初めからの戦友の一人だった。

「李ッ! 李いないかッ!」と私は叫びつづける
雪が山腹に渦を巻くようにして降り出してきた。
抱いて歩くと雪と弾丸が足をとる。
私たちはパタンと雪の上へ転げる。転げたまま抱き合ってじーっと伏せた。

「谷口シャーン谷口シャーン」と呼ぶ声が降りしきる雪の中から聞えた。
「李ッ!」と私がよぶ。李は駆けてくるなり私たちの前でペタペタと坐った。
「谷口シャーン、恁阿恁阿(あなたかあなたか)」と李が泣くように喘いだ。
そして私の体に手を抱くようにかけた。
「射たれたのは僕じゃない、
李ッ、お前はこの人を山の下まで連れて行ってくれ」と私がいった。

李は露骨にホッと安堵した顔色をした。
だが、やがて、李は肯いて佐々木一等兵を背に負った。
馬鹿力のある李は、馬のように岩山を登って行った。
これを見付けてチェコが鳴りわめく。李は我武者羅に駆ける。
真ん丸い顔が真赤になって、
降りかかった雪が鼻の頭でポーッポーッと溶けているのだろう。
「佐々木ッ! いつかまた会うぞ!」と私はあとから吹雪の中へ叫んだ。

■鉄鎖に繋がれた支那兵機関銃手

山麓の部落に突撃する我が部隊
山麓の部落に突撃する我が部隊

チェコ機関銃や水冷式重機など一ぱい分捕って
山岳地帯の討伐戦から蕪湖へ帰ると『ノッポの李』が「飛機来々」と叫んだ。

空を仰ぐと高く雲の間を重爆八機が翼を連ねて飛んでいる。
カモフラージュのしてない真白な
文字通り銀翼がキラキラと陽の光に輝いていた。

揚子江上から軍艦「○○」が○○砲を射ちだした。
爆撃機は心よいエンジンの音を空一ぱいに響かせて私たち頭の上を旋回した。

やがてすさまじい轟音が街はずれに起って、
大きな地ひびきと共に街々の家が地震のように震えた。
爆弾は飛行場に落されたらしい。銃を射っても弾はとどかない。

私たちは荒木准尉と一緒に双眼鏡を目に当てて
この高くて小さな敵爆撃機の姿を眺めた。

やがて敵機は私たちの頭上を横切るとそのまま揚子江に出た。
ここで鳥の糞のように爆弾を落して姿を消した。

「来やがったなァ!」とみんなが顔を見合わせてつぶやく。
ここにはまだ高射砲もなければ友軍の飛行機も一台も来ていなかった。
ただ目で迎えて目で送るよりしかたがなかった。

私はふと気がついて「李ッ!」とよんだ。どこにも姿は見えない。
ハテ? と思って屋上から階下へおりた。
階下の奥の間で李は寝台の下へもぐってちぢこまっていた。
「李ッ! なにをしている」、「飛機来々飛機来々」という。
そして大きな円い顔を青くさせて寝台の下から動こうとしなかった。

ふたたび寧国、廣徳に向って大討伐戦に出動の命令が出た。
いくつもの部隊が続々と蕪湖を発って行った。
一寸ほど延びた麦畑はカラカラに凍って風が鼻を削ぐように吹いて行った。
線路を伝って寧国に向うと、例によって鉄橋が一つ爆破されていた。

鉄橋はたいして大きなものではなかったが、
対岸には立派な掩蓋機銃座が二つ、
鉄橋近くに現れた友軍の道路斥候を見てけたたましく鳴りわめき、
一歩も河を渡らせまいとした。

○砲が河岸まで出て直射でこれを射った。
が、どんなに射っても二つの機銃座は鳴りを沈めない。

強行渡河以外にはないので、燃え残った橋脚を伝わって対岸に突撃、
敵機関銃座を通り過ぎて左へ廻っても敵の機銃は平気で鳴りつづけている。

半分呆れ顔で後方から機関銃座へ躍り込むと、
全身血まみれとなった敵が二人、
ただ前方を視て死骸の中で重機の押し鉄を握っていた。
二人とも固く鎖で足をつながれている。

鉄橋を越えると、
前方の部落まで両側を大きなクリークで挟まれた一本道になっていた。

クリークは深く道は狭くて、どうしても散開はできない。
一本道を進むと前方の部落から掃射されてバタバタと倒れて行く。
○隊機関銃隊が重機をならべてこの部落を射ちつづけた。
陽が大平原の向うに落ちて行く。
まる一日かかって、どうしてもこの一本道が突破できない。

「よし、おれの隊が奪ってみせる」と荒木准尉がいわれた。
准尉は夜が来るのを待って「夜襲!」と命令された。
田崎上等兵が斥候になってクリークを迂回して部落へ近づいて行った。

私たちは二つに分かれて、一つは一本道を、
他はクリークを迂曲して部落の右へ出た、カラカラに凍った畑の上で、
一寸ほどの麦に足をとられてコロリコロリと転んだ。

斥候にでた田崎上等兵はまだ帰ってこない。
「これじゃ田崎はとっくに敵の歩哨線を突破しているぞ」
と荒木准尉はつぶやかれた。そして腰の軍刀をサーッと抜き放たれた。
久し振りで見る准尉の軍刀の色だった。
私たちはじりじりと部落に近づいて行った。・・・・

一本道の方から突然、別働隊の突撃の喚声が聞えてきた。
硝子鉢が叩き壊されて中の水が一時にドーッと流れ落ちたように
ダダダダダダと友軍の重機が一せいに鳴りわめいた。
私たちも同時にワーッと百メートルほど走った。

ハタッと伏せると敵弾が頭上を線を曳いて流れて行った。
再び起きてサーッと走る。
目の前へ黒い影が四つ五つ六つ、バタバタと飛びだしてきた。
体ごと叩きつけるようにしてザクッと刺すと
ボスンという鈍い手応えが手に伝わった。
引き抜いてまた次のを刺す、私の前でバタリと倒れる奴がある。

これも上から火箸で芋を串すようにして刺した。
「ワーッ」とも「キャッ」とも声をあげるものはない。
なにがなんだか自分自身でわからなくなってしまった。
黒い影が飛んできたり、倒れたりした。

目がモヤモヤとして、飴の中へ頭ごと入って銃剣を振り廻し、
飴を引っ掻き廻しているような気持だった。・・・・
夜襲は見事に成功した。

「荒木准尉の夜襲」と私たちは自慢だった。
大得意で部落に集結すると再び寒さが身にしみてきた。
はしゃぎ切って「寒い寒い」と口々に
うれしそうに言い合いながら火を焚くと、
とたんにこの火を目標に、部落を退った敵が迫撃砲を釣瓶打ちしてくる。
迫撃砲弾は衛生隊の真中に数弾落下して
二十数名の衛生隊員が一瞬の間に肉片となって飛んだ。

「畜生!」私たちは再び部落を出て敵を追った。
クリーク岸へくると水の中を黒々と
人間を満載したジャンクが幾十艘となく走っている。
パンパンと射つとジャンクからダダダダダと軽機を射って来た。
「しめたッ!」と叫んで友軍の重機がクリークの土手へ乗りだした。
重機が気違いのように火を吐く。
ジャンクから黒い影がいくつも水の中へ飛び込みはじめる。

■敵の逆襲で失った戦友の仇討ち

敵弾に傷つく勇士をいたわる部隊長
敵弾に傷つく勇士をいたわる部隊長

廣徳、寧国の討伐をすまして帰ると、蕪湖には酒保が開かれていた。
ドーッと歓声をあげて羊羹やキャラメルなど待ち焦れた甘いものを
争って買い喰いしていると、
間もなくこんどは蕪湖と寧国の間にある石キ鎮という小さな部落へ
警備のため出動命令が出た。・・・・

どうかすると、敵斥候が歩哨線を突破して
私たちの陣地の中までウロウロと迷いこんでくる。
そこで私たちは歩哨線の二十メートルほど前に鳴子をつくって
この迷子の斥候をつかまえることにした。

鳴子は木の枝を立て列べて垣をつくり、
これに針金を引っ張って缶詰の空缶をさげて置いた。

ある夜カランカランと空缶が鳴りだした。
同時にパンパンと銃声が夜の静けさを破って聞えてきた。

ソレッというので鳴子のところへ駆けつけて見ると、
鳴子の針金を足に巻きつけて敵の斥候が二人射殺されていた。・・・
二人の敵斥候は夜目にもまだ年若い兵隊だということがはっきりわかった。
敵でさえなかったら、さぞ善良な少年だろうと思われた。・・・

私は荒木准尉について蕪湖へ帰ることになった。
一線に警備の戦友たちと別れて蕪湖に帰りつくと夜の十一時をすぎていた。
久方ぶりで懐かしい蕪湖の宿舎の飾りたてた室に横になってウトウトすると、
突然、荒々しい靴音がして
「オーイ! 誰か来てくれッ!」と怒鳴る声が聞えた。

私はハッと胸をつかれて飛び起きた、
入口へ上衣なしで駆けて行くと、木村伍長が全身血まみれの姿で立っている。
「どうされましたッ!」「負傷者を連れてきた!」と木村伍長は、
吐き出すように荒い息でいった。「負傷者?」私は棒立ちになった。

私が発つまであんなに静かだった石キ鎮の一線になにか起ったのだろう。
「石キ鎮の警備一線が敵の逆襲部隊に包囲されたんだ。
まだパンパンやっとる。連れてきた負傷兵は十二名だ」と木村伍長が叫んだ。
表の暗がりに片手を手拭でゆわえたまま立ったり、
寝転がったりしている戦友の姿が見えた。

「水をくれんかッ」と誰かが叫ぶ。
「畜生めッ! やりやがった」とまた誰かが叫ぶ。
「谷口ッ!」と木村伍長がまた叫んだ。

そして私の肩に手をかけると
耳に口を当ててささやきながら声を殺して泣いた。
「千場大尉殿は戦死されたぞ・・・」

みんなが黙っていた。声を出せば怒鳴らないではおれない気持だった。
敵逆襲部隊のため友軍の警備一線が包囲されて十数名の戦友が傷つき、
あるいは倒れ、そのうえ、人望を集めていた千場大尉までが戦死された――
この憤懣の情をどう処理したらいいかわからなかった。・・・・

植竹隊は寧国路を突破してまず円形の頂点に当るところで
軽機二挺をならべて退路をピタリと押えてしまった。

私たちは右半円は丸尾隊、左半円は荒木隊と二手に分かれて、
クリークの内側の左右の道路を円の頂点へと向って闇の中を進んで行く。

敵は出口を植竹隊に押えられたとは知らず、
円の両周に伝わって左右から頂点へドンドン逃げて行った。

私たちは細い道路を道路斥候を先頭に進んだ。
敵は燃える部落の火に追われ銃剣に追われて一歩一歩と死地へ走ってゆく。
軽機関銃が先頭へ飛び出してパラパラパラと射っては又進む。
敵は路上に倒れたり、クリークの中へ飛び込んだり、
あるいは火の中へ踏込んだり、
さもなければ自ら軍帽の青天白日の徽章をちぎり取って、
地面に叩き捨てて私たちのところへ飛び込んできたりした。

間もなく円の頂点の寧国路へ出ようというところへくると、
いきなり植竹隊の軽機が猛烈な勢いで唸りつづける音が聞えてきた。

驚いて逃げた敵が逆もどりしてくる。これが私たちと正面衝突だ。
道路の上へ敵の骸が重なってゆく。

「畜生ッ、きたかッ、畜生!」千場大尉を、
そして戦友を失った激怒が一時に爆発した。
夜が白々と明けてくる。
突き、射ち、殴って進みながらふと気がつくと、
黒山のように敵が植竹隊の網に引っかかっていた。

引っかかったものは敵兵だけではない。
部落民も女や子供まで混っていた。
子供や女たちは植竹隊の戦友から乾パンを貰ったりして、
次々と引っかかって来る支那兵をよそごとのように眺めていた。

私たちはたちまち上機嫌になった。
石原上等兵が例によって顔を真赤にしながら、
青くなって手向かって来る敵を片っ端からやッつけている。
『お母さん』の小林伍長が、
「兄ちゃん、もういい加減止さんかい」と宥めた。

すると「なぜいかん?」と『兄ちゃん』の石原上等兵が喰ってかかった。
またまた二人の口喧嘩だ。

「そりァ情知らずというものだ。捕虜にせい、捕虜に・・・」

「なにが情知らずか。貴様、千場大尉や戦友を殺しやがったこの支那兵と、
日本人とどっちが大切なんだ。貴様こそ情知らずというもんだ」

「兄ちゃんは情を知っとるというんかい。
毎朝、早くから起床ラッパなど吹きやがって、
眠いのを叩き起こすくせに、それが情を知ったものというのかい」

「なにッ、えらく俺のことを悪くいうな、
貴様ァ支那へ養子に行く気でもあるんだろう」

私と小林伍長と石原上等兵と、三人がワハハハと笑いだしてしまった。

「養子じゃない、母さんだから後妻の口でも探し当てたんだな」

小林伍長は「なにをいうか間抜けめッ!」
といって石原上等兵を殴る代わりに傍に
キョトンとしていた支那兵の頬をピシャリと殴った。

支那兵は面喰って殴られた頬を撫でながらニヤニヤと愛想笑いした。
みんなが上機嫌ではしゃいでいた。

■支那兵宿命の盗癖

嬉々として行糧を運ぶ捕虜
嬉々として行糧を運ぶ捕虜

お正月に『ノッポの李』を私たちにあづけて行った衛生隊の隊長がきて、
「僕達は明日寧国へ出発する。李を明日までに返してくれ」といってきた。

「谷口しゃん・・・」李が突然、顔のブクブクした筋肉をピリピリと動かした。
「私、あなたと離れてどこへ行きます」

李の顔にポロッと涙が転がった。
大きな掌を真ん丸くして、大きな顔に子供のようにあてた。

宿舎の空を友軍の飛行機が幾台か飛んで行く爆音が聞えている。
荒木准尉が酒をさげて入ってこられた。
「いよいよ李ともお別れだそうだのう。
今晩は李とこの酒でものむといいや」
そして李の肩に手をかけて、
「李、向うへ行ってもたっしゃで、しっかり働くんだぞ」といわれた。

李は濡れた顔を黙って振って合点合点していた。
そこへ坂本大尉が訪ねてこられた。
荒木准尉は大尉と自分の室へ入ってなにか話していられたが、
やがて私を呼んで「ビール一ダース買ってきてくれ」
といって五円紙幣を渡された。

私は早速ビールを買ってくると
おつりの一円八十銭を荒木准尉の机の上においた。
夕方坂本大尉が帰って行かれたので、
荒木准尉と私は宿舎の外まで送りにでた。
再び室に引き返してみると、悲観しきってしまったのか、
李は一人でグーグー寝ていた。しばらくすると荒木准尉が私を呼ばれる。

「谷口、お前さっきのおつりをどこへ入れた?」

「ハッ、この机の上におきました」「机?・・・ない」
私たちは眉をひそめて顔を見合わせた。

「さっき坂本大尉殿を送りに行ったとき李はいたかな」

「ハッ、李は室に一人残っていましたが・・・」

ハッと胸を突かれて荒木准尉を見る。
准尉はうなづいて黙って大きく溜息された。

「いままでどんなことをさせてもそんなことは決してなかったがなァ、
いよいよ別れるというんで、また昔の里心が出たかな・・・」

淋しい声だった。
あれだけ教育して手なづけてもやっぱり李は支那兵でしかなかったのだろうか
・・・淋しかった。裏切られたと思った。

「荒木准尉殿! 私が責任をもちます!」

「いや、君が・・・」

「いいえ、私が責任をもって李の黒白をつけます!」
私はそういい切った。いっているうちに涙がポロポロでてくる―。

私が自分の室に入って行くと、
『ノッポの李』は自分のベッドの上にグーグー寝ていた。・・・・

自分は喰うものも喰わず、なんでも半分にして李にはやっていた。
李は李で、私の心を十分知って、「谷口しゃんと離れて私どうなります」
といって泣いたではないか。それだのにこのざまはなんだ。

李だけは完全に善良な人間の本質を
洗い出してやったとばかり信じていたのに。
三つ子の魂百までとはいうが、李はやっぱり『支那兵』だったのだろうか。

私はいろいろと思い返してみた――
蕪湖北方の雪の山岳戦で、李は傷ついた戦友佐々木一等兵を
助けようとこれを背にして、
集中銃火の中を血まみれになって走り去ったではないか。

石キ鎮では、クリークの中へひっくり返った私を溺れさすまいと
一生懸命になって私を救いあげた。
あのときの李の顔色、私が死ぬかと心配したあの顔色、
そして救いあげて安堵したあの子供のような満足した顔・・・
どうしても私には信じられない。李が今更金を盗ろうとは信じられない。
私は李の肩を叩いた。李は物に憑かれたように驚いて目を開いた。
そして、私を見たが、すぐ視線を外らした。

「李、ちょっと起きてくれ」
李は寝台の上に腰を下して、キョトンとして私を見る。
私は腰の帯剣を抜いた。
壁によせかけてあった銃を取ってこれに帯剣を付けた。
突然、李が寝台を飛び降りた。

「李! なぜ逃げる?」李は子犬のように寝台の下にもぐって行った。
「李! お前を殺して僕は荒木准尉殿にお詫びしなければならないぞ」
 李は、黙って寝台の下から、私のほうを盗人のようにうかがっていた。

「李、盗人盗人」すると李が突然大きな声を出した。
「盗人没有、盗人没有!」――ちがうちがう――
「嘘だ! お前の持っている金を見せろ!」

銃剣を寝台の下へ突き込むと、李は慌てていざって寝台の上へ逃げる。
上の方へ銃剣を突きつけると、下の方へいざりよる。
「谷口しゃん・・・」李は泣いた。いきなり私の銃剣を握った。
そして、両手を血で真赤にしながら寝台の下から出て来た。

「谷口しゃん・・・」日本の五十銭玉三つと十銭玉三つが
血に塗られた李の掌に乗っていた。
私はいきなり銃を室の中へ捨てて、李の前へペタペタと坐った。

「李、わしは貴様をよう突かん。貴様が泣くよりわしの方が泣けるわい」
李はヒーヒーといって泣くし、私も声をあげておいおいと泣いた。
裏切られた私が悲しかったし、憐れな李の宿命的なものが悲しかった。

真剣になって散々いためつけてみたものの、
綺麗に白状して泣いて謝ってみられると、また李が可愛かった。

いよいよ明朝はお別れだ。
私は昼の間に酒保から買って来て用意していた煙草一箱と、羊羹十本と、
タオルや靴下や、妹が送ってくれて
李がいつでも欲しがっていた私のスエーターもくれてやった。

まだ李が欲しがっていたものがある。
ワラジしかはいていなかった支那兵としては、
私たちの軍靴が何よりも欲しいものの一つだった。
私はこれも新しいのを下給されたので古いのをくれてやった。
それにシャツやズボンも一着づつやる。

荒木准尉が泣き声を聞いて入って来られて、
「李、二度と二たび盗み心は起こすなよ」といって、
盗んだお金のほかにまだ別にお金を渡してやられると、
李は大声をあげて泣きわめいた。

■二度目の敵前上陸

長い蕪湖での生活への別れだった。
『戦争』ということを忘れてしまっていたような楽しい生活だった。
こんな生活ならいつまで続いたっていい――とみんなが思っていた。

この生活に別れを告げて再び私たちは
背嚢と銃をとって新しい戦場へと出発した。

私たちが存えたこの生命を次に賭ける場所はどこだかわからない。
ただ「某地に敵前上陸」を行うというだけだった。

敵前上陸はすでに杭州湾で試験ずみだ。
一切の勝手はわかっていたし度胸もついていた。
こんどこそは、とみんな杭州湾でのことを思い合わせて、
キャラメルだとか角砂糖、羊羹などあの当時
一番痛切に欲しいと思ったものを一っぱい酒保で買って背嚢に詰めた。

夕方五時、私たちは宿舎を発って船に乗った。
蕪湖の街へ帰って来ていた支那の土民たちが、
日の丸の旗を手に私たちを見送りにきてくれた。

そして習い覚えた「バンザイ」を叫んで手に手にその小旗を振ったり、
或は顔馴染みの兵たちと別れを惜んだりした。何か別れが辛い気持だった。
ここでこんな熱烈な歓迎をうけるとは想像もしなかったし、
この土地の人とこんなに別れが辛くなろうとは考えても見なかった。

「第二の出征」――とみんなが思う。
船は揚子江の濁流の中に滑り出した。小旗が岸いっぱいに咲いている。
「バンジャイ!」と叫ぶ。
手を振り旗を振り、支那人と、
そして攻めよせた日本の兵隊とが涙を流して別れ合っていた。
陽が江上に沈もうとしている。

夜が明けて突然船が停止すると、
麦が一面に生い茂った岸と岸の五百メートルほど
向うを走っている大きな軍用路とが見えていた。

「何処だろう?」「和懸の一里手前だ」とどこで聞いたか、
誰かがそう答えた。
軽機関銃が真先に鉄舟に乗り移って岸に進みながら射撃姿勢をとっている。

その後から私たちはゆっくり降りて○○に乗り移った。
岸からパンパンパンと敵弾が散漫に飛んで来る。
弾道は高くて弾は頭上で雀のようにチューッチューッと鳴いた。
岸に着いて散開すると麦は腰までもあった。

パーッと伏せると全身麦に隠れて私たちの姿は敵の照準から消えてしまう。
悠々麦を分けて敵の機銃座に近づいて行った。

気にも十分ゆとりがあったし、敵もほとんど逃げ腰だった。
二度目の経験――というのでこれだけ敵前上陸が落ち着いて
易々と行われるものだとは知らなかった。

二、三十メートルにも近づくと、敵は抵抗を止めてどんどん逃げて行く。
これを追いに追いまくって進むと、
早くもクリークをへだてて和縣の城壁が目の前に覆いかぶさってきた。
城壁の上に歩哨らしい影が三つ四つ銃を持って往き来している。
この影は城屋の上から近づく私たちを見ると、
友軍が帰って来たものとでも感違いしたのか手をあげて、「来々」と言った。
クリークの橋が爆破されている横に民家が一軒あったので
この民家の壁を破って重機の口を出した。

ダダダダと一連発が一気に鳴り終ると、
手を挙げていた敵の歩哨の影は城壁の上から
転げ落ちて見えなくなってしまった。

はじめて「日軍来!」と気がついたのか、
城内から迫撃砲弾が私たちの方へしきりに飛んで来る。
一弾は重機を据えた一軒家の角に炸裂して、
土と火薬の煙の中に堀田一等兵が左の向脛を血に染めて倒れた。

堀田一等兵はこの傷を知らないのか再び立上がって、
「危い危い、やられたものはないか」といった。

そしてちょっと首を傾けて何か考えるような不審気な顔をしたが、
やがて血を噴いている自分の向脛に気がつくと、
「なーんだい、自分かい」といって腰を下すと、ゆっくり手拭で止血をした。
みんなが笑い出して堀田一等兵を後方へつれていった。

敵は城壁から重機を十文字に射って来た。
とうてい真正面から進むことは出来なくなったので、
私たちは高い塔が立っている城壁の右側へ廻った。

ここでも橋が爆破されていてコンクリートの橋脚が崩れて
飛石のようになっていた。
友軍の重機が塔の上から制圧する隙に、私たちは一人づつパーッパーッと
この橋脚の飛石を飛んで城門の中へ入って行った。

城門の中には泥土の城壁に壕が掘ってあって、
ここから血潮が点々と街の方へ流れている。
この血潮を拾って進んで行くと、
あっちの民家、こっちの民家に敵の負傷兵が呻っていた。

橋脚の飛石を伝って城内へ入った私たちは、
こんどは血潮の飛石を伝ってどんどん逃げる敵の尻尾を押えた。

友軍の飛行機が頭上を低く飛んで『和懸占領万歳』と祝詞を落してゆく。
残敵を追う機銃の音が城内一っぱいに響いていた。

ここで一夜を明かすと含山への進撃命令が出た。
坂本大尉を先頭に小さな間道を含山へと進んでいると
友軍の飛行機が低く飛んで来て、
『含山に敵影なし』と書いた通信筒を落して行った。

一気に奪れ――と大急行軍を開始する。
道の両側は、全部水田で田植えが終ったばかりのところらしかった。

この一本道を進んでいると、突然、チェコ機銃が水田の向うの丘で鳴って、
居ない筈の敵が猛烈に抵抗しはじめた。
心に油断があって全くの不意打ちだった。

パーッと水田の中へ散開すると、全部が泥人形になってしまった。
水田は膝までスポスポと入って抜きも差しもならない。
泥の中を這いずって突撃に移った。
ほとんど泥の中を転がるようにして丘まで突っ込むと、
敵は丘一っぱいに死体を残して逃げて行った。

足も手も抜けるようだ。息をすると泥が鼻や口から飛び出す。
丘にヘタバッて隣同士で顔を見合す。誰が誰だかわからない。
顔も体もただ泥一色――ワハッワハッワハッと
あっちこっちで戦友がふき出し合った。

敵の死体は三人、四人と重なり合って転がっている。
泥と血の見分けがつかない。

死体を見て歩いているとふと赤十字のついた薬嚢が眼についた。
オヤ?と思ってこの死体を調べると、
青の襟章が敵の衛生兵であることを物語っていた。
若くて綺麗な顔をしていた。
頭髪を大学生のように延ばして、
油がついて櫛目さえキチンとつけられている。
包帯も薬もみんな立派なものであった。

私は大声をあげた。「小林ッ! ちょっと来い」
衛生兵の小林伍長が、泥鼠が二本足で立ったような恰好で走って来る。

■巣懸から盧州での戦闘

膝を没する泥濘を猛進する騎兵部隊
膝を没する泥濘を猛進する騎兵部隊

巣懸から夏閣を攻め、盧州に向うと、
頑強な掩蓋機関銃座が城壁の外にならんで私たちの進撃を喰い止めた。

鉄道のレールは全部とり外されて掩蓋銃座の材料になってしまっている。
迫撃砲弾と野砲弾が入り乱れて競争するように私たちの周囲に落下していた。

私たちの横を、巣懸から敗敵を一気に急追した騎兵部隊が、
二、三メートルの間隔で馬頭をならべ
田の中の一本道を砂塵をあげつつ城壁に突撃している。

黄塵は濛々と巻きあがって躍りかかるように飛び上がる馬脚は、
これに向われた敵はどうしても陣地に
じーっと止っていることは出来まいと思わせた。

すると、たちまち敵の迫撃砲弾と野砲弾が、
この騎兵部隊の黄塵の渦の真中へ集中されて来た。
矢のように駆ける馬の上から騎兵が
コロリッコロリッと二、三名転げ落ちる。
馬は裸のまま城壁に突進して行く。

再び炸裂する轟音に馬が二頭、空高く吹き上った。
火柱を浴びて倒れる馬の腹は真二つに裂けて
臓物が綺麗に砂塵の上へ崩れ出す。
この臓物を蹴って次の馬が騎兵を背に突進して行く。

「早く、早く! 突撃に移ろう」と歩兵のみんなが叫んだ。
血を全身にしたたらせてまだ駆ける馬、腹を割られながらも首をもたげて、
駆けて行く兵たちを見やったりする馬――
これを眺めていると、どうしても眼頭が熱くなって来て
カーッと全身がのぼせあがるのだった。

友軍の○砲が射程距離まで進もうと
私たちの近くまで陣地侵入をやり出すと、
とたんに敵の野砲弾が前方の大獨山頂から飛んでビューンと空気を裂いた。

馬が三頭バタバタ倒れ、砲車が止まる。
「やりやがったやりやがった!」砲兵は倒れた馬にすがって泣いた。
口惜しい思いだった。
これを見ている歩兵部隊の方がもっと口惜しく煮えくり返る思いだった。

「突撃しよう!」と叫んで乗り出そうとする。
しかしそれは無駄だった。
城壁と射ち合ってじーっと対峙していると後方から
補充された新しい兵が○○名やって来た。

本当は○○名来る筈だったが途中で
ヘバッたり落伍して○○名しか来なかった。・・・・

銃火はいよいよ猛烈になって四方八方から飛んで来る。
ビューッビューッと耳をかすめる鋭い音に、
「とんでもないとこから重機が来るな」と戦友がいった。

やがて反対側からブルーンブルーンと飛んで来る。
「アレ、こっちはダムダム弾を使ってやがるな」とまた戦友がつぶやく。

すると新しい兵が不思議な顔をして、
「上等兵殿、どうしてそんなに弾がわかるのですか」と、訊いた。
「フーム、なるほどな、まだお前らにァわかるまい」と。
上等兵殿少々得意である。

「それはだな、いまにお前らも戦争に慣れるとわかって来るが、
敵の鉄鋼弾は先が鋭いから、ピィーッと固い音をたてて来る。
ビューンと来たらこれは重機の大きな弾よ。
ブーンブルーンと来たらこれは先が真ん丸になっているダムダム弾だなァ」

「そんな弾の音に違いありますか、自分にはみんな同じに聞えます」
「そうだろうな」と上等兵殿、顎の戦塵髯を撫でた。

とたんにピーッピーッピーッピーッと弾が耳元を飛んで行く。
「それそれ、これが鉄鋼弾、オイ、オイ、わかったか。・・・オイ!」
返事がない。聞き手の胸から血が流れていた――。

敵の銃砲火はいよいよ猛烈になって来た。
鉄兜や顔や背負袋をピリンッピリンッと叩くものは、
銃弾なのか砲の断片なのか、
砲弾で飛び散る田の泥なのか殆どわからなかった。

突然、新しく来た兵の一人が大声をあげた。
「上等兵殿!」みんな驚いて返事もしない。

「今晩は休まないのでありますか!」
銃弾が唸りつづける夜気の中をこの頓狂兵の叫びだけが空虚に聞えて行った。

しばらくは言葉を返すものもなかった。
なにかハッシと胸を突かれたような思いだった。

突然石原上等兵が、「ワッハッハッハッハッ」と大声をあげて笑い出した。
みんながビクッとする。
「ワハッハッハッ、お前達、○○でやってた演習とは違うぞ。
ワハッハッハッ」はじめてみんなが一緒に笑い出した。

「戦争じゃ夜になって眠くなったからって、休めねェや、
こっちが休んでも相手様が休まんのじゃ仕様がないぞ」

笑い終って、しみじみと何か胸を打たれる。
初めて飛び込んだ戦場がこの激戦だ、無理もないことだ。

どうして休まないのだろう。
どうして夜になったらこの戦争は休みをしないのだろう。
はては古参の私たちもそう思い詰めて来た。・・・

盧州から大獨山を占領して盧州城外の飛行場を警備していると、
赤十字をつけた大きな飛行機が飛んで来て負傷兵を運んで行った。
赤十字機から降りた若い軍医大尉の方が、
「ご苦労だのう」と私たちに言葉をかけられる。

「こちらも大変だが、他の部隊もいま徐州へ向って大進撃しているぞ」
と話された。
徐州――そこにいま
大殲滅戦が行動されていることを私たちははじめて知った。・・・

しばらく進むと向うの道を土民らしい者が
一ぱい列を作って歩いているのに気がついた。

ハテ?と坂本大尉が双眼鏡を手にとってしばらくじっと見ていられたが、
「オイ、敵だぞ!」と叫ばれた。
そういわれてみればなるほど逃げてゆく敵らしい。
敵が退却している道と私たちが前進している道とは
湖水のようになった水田をへだててはいたが、
この分だと私たちはここ二、三日敵とならんで進んでいたらしいぞ、
と思われた。・・・

敵ははじめて私たちに追いつかれたことを知った様子で、
大きな鍋や機銃や毛布や全部を捨ててあたふたと逃げてゆく。

馬が走ると思うと或は輿に乗って逃げる指揮官らしいのがある。
これを射ちまくって更に翌一日急追すると、
とうとう橋が落ちて氾濫した河水に行手を阻まれた敵大部隊が
ウロウロやっているのにブツかった。

敵は次々と河の中へ飛び込む。これを重機が待ちかまえて掃射する。
完全にこの部隊を殲滅すると本部の無電は「舒城陥落」を告げていた。

更に「桐城へ急追」の命令が出る。
同時に「桐城の敵に更に安慶から廻った五万の敵が加わった」
という情報が入ってきた。また明日から激戦がつづくだろう――。

■決死の伝令

敵弾を浴びながら弾薬を運ぶ勇士
敵弾を浴びながら弾薬を運ぶ勇士

右側の山をとった丸尾隊は隊長以下負傷するし、
前面の歌野隊もまた弾薬がなくなって、ただ肉弾で山を死守している。

左方の倉本隊は夜明けとともに
山麓の軍用道路に伏せたまま一歩も前進できず、
とうとう午後の四時になった。
本部には私を除いて伝令は一人もいなくなってしまった。・・・

やがて○隊本部へ弾薬をとりに行った伝令が、
弾薬箱を背負って血まみれになって這い転がって来た。
「もらったか!」「ハイ、小林一等兵、○隊長殿に
ただいまこれだけ貰って帰りました。終りッ」
「有難う、坂本大尉心から礼を云うぞ」そしてみんなが手をとって泣いた。

「谷口!」坂本大尉が呼ばれる。
「御苦労だが丸尾隊にこれを届けてくれんか」
もちろん私が持って行こうと待ちかまえていたものだった。
これで丸尾隊も歌野隊も救われるのだ。
弾薬を届けてそのまま箱の傍に骸をさらすとも何の思い残すことがあろうか。

「谷口上等兵、弾薬を持って丸尾隊へ連絡に行って参ります」
「御苦労、頼むぞ」弾薬は○○発あった。
私はその箱を左手で背にかつぐ。
右手に銃を持って山を伏せて降りて行った。

前方の二段に高くなった山頂へは一切が目鏡に写ってしまう。
たちまち機銃弾が飛んで来た。迫撃砲弾も落ちて来る。
砲弾は岩をコナゴナにはね上げて、顔や手や咽喉や、
肌の服から出た部分はところ嫌わずチクチクと刺した。・・・・

岩に跳ねた銃弾はブルーンと呻って背の弾薬箱にピシリッとぶつかる。
斜めに飛ぶ跳弾が鉄兜をカンカンと打って
棒で帽子を殴るような衝撃を与えた。
箱の重さも銃の重さもなにもわからなかった。
ただこれを届けてよろこぶ戦友の顔がみたい。・・・

山頂に這い上がると、
一切をなすにまかせて寝転がっている戦友の姿が見えた。
「誰かッ!」「谷口上等兵!」丸尾少尉も戦友も
みんなどこかを血に染めて昼寝でもするように山の上に寝ている。
「谷口!」丸尾少尉が走って来られる。
戦友が二、三名バタバタと駆けて来る。

「谷口上等兵、ただいま弾薬を持って参りましたッ!」
「オ、!」と叫んで丸尾少尉が私の両手をしっかりと握られた。
少尉の血が私の手にベットリと付いた。
「谷口うれしいぞ! 谷口うれしいぞ!」子供のように叫ばれた。・・・・
「谷口、これをよーく見てくれ。坂本大尉殿に頼むぞ!」
そして丸尾少尉がサメザメと泣かれる。私を囲んだみんなが鼻をすすった。

どれだけの敵軍かほとんど推知されなかった。
敵は更に左斜後方の山にも登って私たちの背後を襲おうとする。
友軍の○砲×砲○○砲らが後方でズラリと放列をしいて、
猛烈な射撃を開始し出した。

○○砲はたてつづけに敵の掩蓋銃座に命中して、
線路や材木を重ねた掩蓋を空高く吹きあげる。
生き残った戦友たちが手を打ち涙を流してよろこんだ。

しかし、射てども射てども敵は次から次へと新手を入れかえて来た。
幾十倍の敵かほとんど予測がつかない。
左斜後方の山から私たちの背面を衝こうとする敵陣へ、
他の部隊が突撃を開始している。

私たちの山からこれが手にとるように眺められた。
銃剣や軍刀がキラキラ光って、壕の中へ躍り込む姿が豆人形のように見える。
敵が壕から飛び出してバラバラと逃げて行く。
○○砲がその上へ黒煙をあげている。・・・・

大関を抜いてさらに桐城へと本道上を急追すると、
橋を落された幅百メートルほどの河が行手をさえぎっていた。
空は晴れていたが、
数日前の降雨のため河は増水して濁流が土手スレスレに渦を巻いている。

河の対岸には本道をはさんで左右にひろがる丘陵の上に
掩蓋機銃座がズラリとならんで、
河から向うへは一歩も私たちを近づけさせまいとした。
このままで強行渡河は到底不可能だった。
夜を待ってまたもやこの対岸に夜襲が決行されることになった。・・・・

そーッと小さな水音にも気をくばって河を渡る。
弾薬箱を積んだロバが河に入ったとたんに
水を首で泡だてて形容し難い声で切々と嘶いた。
鳴き声は河を越え、月夜の戦場に私たちの腸をえぐるように響いて行った。

「シマッタ!」と胸をつかれる。
「射て!射て!」と誰かが叫ぶ、が、
営々として私たちの行軍を助けてきたこのロバを、
ただ水冷たさ一声ゆえにどうして殺せよう。・・・・

正面からの夜襲が失敗したので、私たちは背後へ廻るため
敵陣の左端十メートルほどのところを一人づつそーッと這って行った。

泥が服にすれる音さえ気にして息を詰めて這うと、
頭の上二間ほどのところに敵の最左端の機銃が
月の光をうけてチカチカと光っていた。

敵は子供と犬が泣いている前方だけ気にして
左端すれすれに私たちが這いよっていることを知らない。
銃座のある丘陵の左を廻って敵陣五百メートルほどの背後を通り、
私たちはグルーッと敵陣を半廻りして本道に出た。

本道から二尺ほど横の丘に重機を据える。
私たちは本道の土手にピッタリと喰いついて待った。
やがて土手から敵銃座へ擲弾筒を続けざまに打ちこんだ。

チェコ機銃を担いだ敵兵を先頭に本道の上へ敵が駆けてきた。
私たちは飛び出そうと焦った。
すると坂本大尉が手でこれをじーっと止められる。
敵はバタバタバタし私たちの前へ近づいてくる。

一尺と離れまい――と思われたとき、
突如、坂本大尉の左手がパーッと挙がった。
同時に丘の重機がダダダダダと鳴った。
約五分間ほどは絶え間もなく次々と唸りつづける。

ピタリッと重機が鳴りを静めた。

立っている敵の影は一つもなかった。
ただ呻き声が道路一ぱいに溢れて、
累々たる死骸が本道上に二列に月光に照し出されていた。

同時に道路右側にひろがった丘陵の敵陣から敵が一斉に逃げ出した。

重機が再び鳴る。
私たちが躍りかかって行く。
月夜の丘陵一ぱいに思う存分の戦いが展開されて、
やがて月が消え夜が明けて行った。

■ああ『兄さん』の戦死

クリークを渡る部隊
クリークを渡る部隊

潜山で久し振りの宿営だった。
石原上等兵が何か妙に浮かぬ顔をして私の横へ来る。

「兄さん、どうした」「ウーム」空返事をして私の話に乗って来ない。
そして木切れで地面を叩きながら
「オイ、谷口、わしの飯たいてくれんか」といった。

「エー?」と私は自分の耳を疑う。
戦争に次いで、炊事といえばいつでも諸肌脱いで
鉢巻までしたがる石原上等兵が、
これはまた私に飯をたいてくれとは何としたことだろう。

私は眉をひそめて石原上等兵を見た。
「崑山以来だ。久し振りでお前がたいた飯盒の飯が喰いとうなった」
私は不思議に思いながら飯盒二つに粟を入れ、
木を集めてしきりと火を吹いていると、
石原上等兵は傍に腰を下ろしてじーっと私を見つめている。
煙が目に入って涙が出た。

「兄さん、少し今日は変だぞ」飯盒はボーッボーッと湯気を噴いた。
やがて二人で並んでつつくと、石原上等兵は
「うまい、これァうまい。これァ腕がいい」といった。
私はふと胸を突かれる。
自分の腕が自慢で滅多に他人をほめたことのない石原上等兵が、
これはまた何とした優しいことだろう。

何かこの日に限って割り切れないものが石原上等兵にあった。
さて寝ようとすると、石原上等兵は急に背嚢から
新しいシャツを出して着替えはじめた。
「おい兄さん、えらくしゃれるな」「ウーム、ちとしゃれんとな」
そして私の首を抱いた石原上等兵は、寝たまま目を開いて話し出す。

「小林伍長はどうしたろうなァ」「○隊へ付いたからちょっとは会えんぞ」
「ウーム、一体わしら、支那へ来て街をいくつぐらい通ったろなァ」
「兄さん何を云い出すかわからんぞ。街なんて、天津から石家荘、
それに杭州湾、南京・・・つまらんこというな・・・」

私は何か、あまりに不思議な今宵の石原上等兵に腹さえ立つ気持だった。
そこへ「オイ、ここはあいとらんかッ」と声がして歌野曹長が入って来た。
歌野曹長は空席をみつけると、
いきなり、背嚢から新しい褌を出してズボンを下げて取り代え出した。

「曹長殿、お召代えですか」と私は思わず聞く。
「ア、ちとしゃれんとな」私は驚いた。
「おかしいなァ、石原もそんなこといってシャツを代えるし、
曹長殿は褌をかえられるし、今日は一体何でありますか」
「ホー、石原も代えたかい・・・
そりァわしら二人は明日あたり、やられるかな。
それじゃ谷口、貴様帰還したら靖国神社で二人分参らにゃいかんぞ。
今晩のうちにわしが持っとる金を墓参りの旅費がわりに貴様にやっとこうか」
そして三人がワッハッハッと声を出して笑った。

一夜は明けて出発、本道上を潜山へと約三十分も急行軍すると、
クリークの橋が焼き落されていてその対岸の丘陵から敵の機銃が唸りたてた。

クリークには丸太棒がわたされて一本橋が架けられた。
銃弾は岸の草を薙ぎ、更に迫撃砲弾と野砲弾が田の泥を吹きあげた。

岸からはどうしても丸太棒の一本橋へ集まらなければならない。
敵の銃弾はこの一点に集中されて
クリークの幅一ぱいに一線となって水煙があがっていた。

私たちは飛び出す機をうかがってクリークの土手にじーっと伏せていると
「歌野曹長戦死!」という叫びが聞こえて来た。
私は思わず「アーッ」と叫ぶ。
昨夜替えたばかりの新しい褌のことが思い合わされる。
腹部から流れる血潮に新しい褌は真赤に染まってしまったことだろう――
と思われて来た。瞬間

「ラッパラッパ」という叫びが聞こえて来た。ハッと思って顔を上げる。
ラッパ手の石原上等兵が
丸木橋を渡ったクリークの対岸に伏せたまま動かないでいる。
私は夢中で丸木橋を渡った。
石原上等兵は負傷して体じゅうから血を噴いていた。

抱きかかえようにも抱く所がないほどだった。
私は上等兵の手を握って、コワばった掌をもみほぐしてやった。
「谷口、わ・・・わしの腰から下がない」とうめく。
「馬鹿いうな。立派にあるッ!」
と叫んで私は石原上等兵のゲートルをほどき、足を一生懸命にもんでやった。
すると石原上等兵への懐しさが堪えられなくこみ上げてきた。

「なぜ昨夜、シャツなど替えた。なぜ替えたッ」と私は腹がたった。
足を強くもみながら叫びつづけると泣けて来た。
砲弾は泥をはね土堤の死体を四散させる。
やがて石原上等兵は顔を持ち上げてつぶやいた。
「ア、旗がみえる。何処の駅だろ、旗が一ぱいみえる・・・」

潜山を抜くと、敵は潜水の対岸に退って頑強な陣を作って私たちに抵抗した。
幅六百五十メートルの潜水は、河の半分は砂地で埋めて、
その中を大別山系から流れる冷々えとした水が渦を巻いて流れている。

一夜がかりでこの河を渡河すると、
私たちは渡河点の右方にそびえた名も知れぬ山に登って
六安、英山方面からくる大敵を喰いとめた。

やがて潜水の対岸へ若松部隊の一部が進撃して来た。
これと連絡をとらなければならないので、
私は坂本大尉から命令書を頂いて、高田上等兵と二人で連絡に出かけた。

山を裏側へ下ると山麓に押寄せた敵逆襲部隊と、
左右の山による敵の機銃座とが一せいに鳴って私たちの前後に砂煙をあげた。
岩の右側に伏すと左側から背を目がけて弾が飛んで来る。
後へ廻れば左麓からピシリと射ちあげて来る。
私も高田上等兵も一ことも口をきかなかった。

「泳ごう」命令書は戦帽の下へ入れて上からしっかりと鉄兜で抑えた。
水流は見たよりも一層激しく、
渦の中へ私たちを引き入れてたちまち下手へ流して行く。
うっかり流されたらまた敵の陣前へ来てしまう。
ふと岸を見ると、友軍の一人が土手の上へ躍り上って手を振っていてくれた。
一切が夢中だった。誰かが私の手を引きあげてくれる。

「ヨイショ! バンザイバンザイ!」
と叫んでみんなが私を担いで行ってくれる。空の色が目にしみて涙が出る。
若松部隊の○○隊長が坂本大尉の命令書を読んで「ウン」とうなずかれた。

「連絡はとれた。よくやってくれたのう。
もう一つ大役だ、坂本大尉にこのお土産を届けてくれんか。
日夜の御奮戦を若松部隊は心から感謝しとるとよーく伝えてくれ」
そして、ビール瓶に詰めた酒とバット一箱とを渡された。

山にたどりつくと、坂本大尉は岩を転がるようにして下りて来られた。
いきなり私の手を握って「有難う。有難う」と連呼される。
そして私と高田上等兵が差し出す酒とバットを手にされると
「わかったわかった。一となめと一と喫いでもいい、
みんなで呑んでみんなで喫ってくれ!」と叫んでポロポロと涙を流された。

■瀕死の耳に聞かす母の手紙

前線部隊に食糧を投下する海軍機
前線部隊に食糧を投下する海軍機

廣斎を出て間もなく山の下に大きな河が流れていて、
不思議とここは氾濫しない砂原があった。
山腹には例によって頑強な敵の掩蓋機銃座が列んで火を吐きつづけている。

海軍機が四機飛んで来て山の敵陣に猛烈な爆撃を加えていた。
海軍機はウーンと翼を振るわすように呻ると、山をめがけて急転直下に落下、
ヒヤリと私たちが肝をひやす瞬間、ヒラリと機首をあげて
爆弾を叩きつけざま再び呻って空に直線を描きながら上がって行った。

一機急降下するとつづいてまた一機が急降下する。
繰返し繰返し山腹に這う蛇でも見付けた鷹のように
鋭く落下しては爆弾を叩き込んだ。

その度に噴きあがる黒煙にまじって掩蓋の鉄材や木や岩や、
そして重機や敵兵やが目の前で空高く舞い上る。
外間伍長が倒れ、藤本伍長が血を吐き、山口上等兵が呻き、
次々と砂原を戦友の血に染めさせたこの敵陣が、
いま目前で木端微塵に噴き上る――私たちは涙も出したい気持で、
「有難う有難う」と空を見て叫び、地を叩き踊るのであった。

外間伍長も藤本伍長も頭を真赤に染めて一言の言葉もなく倒れてしまったが、
山口上等兵は腹に大きな穴をあけて、
「お母さん、リスがいるリスがいる、お母さん」
と叫んで砂原の上へ転がって青い空を見上げていた。

私たちが炎熱に喘いで急進撃するこの大別山麓には、
何処の部落にも樹の上をスルスルと走って一っぱいリスがいた。

山口上等兵はこの敵の逆襲かと間違わせるリスのガサゴソした動きを、
急行軍の辛さの中にも網膜に焼きつかせていたのだろうか。
それとも山口上等兵の故郷にはリスがこのように沢山いたのだろうか・・・
「お母さん、リスがいる」という叫びは、
何か私たちに忘れていたものを呼び起させた。

廣斎の近くで私たちは久方振りに内地からの便りを貰っていた。
山口上等兵の血にまみれた上衣のポケットには手紙が二通入っている。
私たちはこれを大声で山口上等兵に読んでやる。

「山口、お母さんからの手紙だよ。
・・・畑の茄子に花が付いたのはお前様にこの前に御報せしましたかしら。
いま畑に茄子が一ぱい出来て居りますよ。茄子はちぎって町へ出しましょう。
一本杉の伯父様が毎朝籠に積んで町へせっせと出して下さいます。
善吉が戦地へ行ってからはお前も帰って
人手がふえたろと伯父様が笑われますよ。
だからお母さんはちっとも不自由をしてはいません。
ただお前様が一生懸命に、お国のために働いてくれさえしたら、
もうそれでお母さんは何も心配することはありません。
お前様がこの茄子さえ喰えずに戦地で働いている、
とそうお母さんは考えては毎朝大きな茄子をちぎって居ります。
お前様が帰る日はこの茄子に、また花が付くころか実がなるころか―」
手紙を読む声はつづかなかった。

「お母さん、リスがいるよ・・・」と、また山口上等兵が叫ぶ。

海軍機は隼のように突き降りて爆弾の轟音は砂原を震わせた。
木が飛び敵兵が飛ぶ。
「山口! みろ、海軍の飛行機がお前の仇を討ってるぞ!」

すでに山口上等兵は返事をしなかった。
冷たくなってもう「お母さん、リスがいる」とも叫ばない。
風が山から吹いて来た。

山にはしっきりなしに狂ったような高射機関銃の音が鳴りわめいていた。
私たちを苦しめ抜くこの敵陣を、高射機関銃の雨をくぐって
急降下で爆撃してくれる海軍機への感謝と声援は、
地上の全部隊を蔽っていた。

私たちは海軍機に感謝しつつこの隙にと砂原で飯盒炊事にかかった。
すると「オヤ、変だぞ!」と誰かが叫んだ。
高射機関銃が狂人のようにわめいている。

海軍機が一機、友機を離れてしきりと私たちの頭上を廻っていた。
エンジンの音がかすれたように変だ。
「ハテな?」と思ううちにピタリとエンジンの響が止った。
海軍機は空中滑走をするように旋回して下りて来る。
「アッ! 墜ちる墜ちる!」とみんな叫んだ。総立ちになった。

私たちを助けてくれたこの海軍機を墜落さすわけには絶対にゆかない。
どうしょう――といって、地上では何としても手の出しようがなかった。
海軍機は音もなく空に舞って
私たちの頭上三百メートルほどの低空へ降りて来る。
「この砂原へ降りるつもりだ。みんな砂原をあけてやれ!」
と坂本大尉が叫ばれた。私たちはバラバラと岸の方へ走った。

しかし、海軍機はもう二百メートルもの低空で、
砂原に降りるかのような姿勢をみせたが、
炊事をしている私たちの頭上へはどうしても降りる気になれないのか、
また機首を向き変えてフラフラと風に吹かれるように河の方へ流れて行く。

「ア、駄目だ。ここへ降りろ!
俺たちの一人や二人はいつでも死んでやる。ここへ降りろ!
アア墜ちる墜ちる」
とみんなが手を振って叫ぶ。
すると飛行機の上から真白いハンケチがヒラヒラと振られた。
あれが私たちへの訣別だろうか――
白いハンケチは花弁が風に震えるようにヒラヒラと振られつづけた。

やがて、砂原から百五十メートルほど横手の河へ
飛行機の機首がサーッと突きささった。
ガーンと音がして、傍の大木の枝が三つ折れて遠くへ飛んだ。

私たちはそちらへ一斉に駆けつける。
翼が二つに折れて、プロペラもエンジンも真ッ二つに、
そして脚は何処かへふッ飛んでいる。
壊れた飛行機から飛行帽と飛行服を着けた海軍の兵隊が
二人ノコノコ這い出して来た。私たちは思わず目を瞠る。
「やー御心配かけました」と海軍の兵隊は二人とも笑って挙手の礼をした。

やがて友機三機が、
消えた一機の安否を気づかってしきりと空を旋回して探しはじめた。

「オイ、みんな集れ、いま恩返しをしろ!」と坂本大尉が叫ばれる。
私たちは上衣を脱ぎ白いシャツだけで原の上へ列んで
『ヒトハブジ――人は無事』と人文字を書いた。

これが読めたのかグーッと低く下がって来た友機から
頻りと手を振って応えていた。

「万歳!」と私たちは叫んで駆け出す。
人文字の濁点の場所に列んだ連中が真先に駆け出したため、
人文字は濁点を失って『ヒトハブシ――人は武士――』となった。

■無念!遂に戦傷の谷口上等兵

山形を崩す我が砲
山形を崩す我が砲

◆全滅を期して敵陣へ

「今度は後続部隊は来ない。弾も補給されない。
落伍したらそれでおしまいだ。
どんなことがあっても決して落伍しないように・・・」

と坂本大尉から訓示があった。
田家鎮はまだ十里近くも前方と思われるのに、
大きな砲弾が田家鎮から空を裂いて私たちの頭上を越えて、
後方に猛烈な勢いで落下していた。巨きな砲弾だった。

要害田家鎮から敵の要塞砲が撃たれているらしい。
要塞砲はウーウーウーと獣が呻るように
腹にしみわたる音をたてて飛んで来た。

前進を開始すると、来る山々で敵は猛烈に抵抗する。
一つの山をとると、敵は周囲の山から囲むようにして
山砲、野砲、迫撃砲を目茶苦茶に浴せ、
果ては堂々と逆襲を繰り返して来た。

みんなに「このまま前進したらどうなる」という気が起きて来る。
「どうなってもいい、全滅なら全滅しよう、
そしてこの敵を撃退しよう!」と考える。

敵は大別山から大部隊を繰出して田家鎮へ進む友軍の側面を襲おうとした。
私たちはラクダ山を裏へ廻って突撃した。
山頂をとると同時に、敵はこの山めがけて
前方、後方、左右、数段に構えた山の陣地から、
あらゆる砲を動員して集中射撃を送って来る。

友軍の○砲が放列をしいたが、霧が深くて敵の陣が射てない。
敵はただかねて知り覚えたラクダ山を距離だけで盲射ちすればいい、
ラクダ山に砲が当れば必ずこの山にいる友軍の何処かに命中するのだ。
一弾は倉本隊の○○名を一時に空へ噴き上げた。

「負傷! 負傷!」の声はあちらでもこちらでも
ひっきりなしに叫ばれて全山を埋めた。
このままいたら山の土くれと運命を共にして部隊は全滅しなければならない。
一層、前方の佐山を奪ろうということになった。

佐山は山の頂上が二百メートルほどの間隔をおいて三つの瘤に別れていた。
・・・散開して一度に佐山へ突進したのでは
山頂へ行くまでに全滅するだろうと思われたので、
私たちは一人パーッと飛び出して伏せると、
次がまたパーッと走る――という風に交互に前進する方法をとった。

佐山の麓の部落から次々と左右を見合って交互に走り進むと、
山頂から手榴弾が投げつけられたり、コロコロと転がされたりして来た。

岩を跳ねて下へ下へと転がり落ちる手榴弾は
私たちの近くまで来るとダーンと炸裂する。
破片は降りしきる雨と競って鉄兜を打った。

私たちが頂上の最初の瘤をとると、
さきに負傷された丸尾少尉は傷の癒えぬ手に
抜刀して第二の瘤にとりつかれた。

これも先ごろ負傷された植竹少尉が包帯姿で
部下を引きつれて第三の瘤に突進される。
手榴弾は跳ね上って、
運動会で紅白にわかれて籠にマリを抛り入れるあの競技のように思われた。

やがて第一と第二の瘤をめがけて敵の焼夷弾が打ち込まれて来た。
もう敵も味方もなかった。
野砲、山砲、重砲、迫撃砲、あらゆる砲弾は生きているものも死体も、
敵味方を一緒くたにして吹きあげたたきつけた。

山田一等兵が第三の瘤に行く途中の岩陰で負傷していた。
私は駆けよって負傷個所をしっかり押さえつけた。
血が指の間から噴水のように噴き出す。
山田一等兵は私の手をのけようとする。

「いかんいかん、山田!」やがて山田一等兵の手に力がなくなった。
「・・・お母さん・・・」そしてガクリと首を下げた。

◆無念! 遂に戦傷

第三の瘤の端までゆくと、
下から敵が銃を向けながらめじろ押しに列んで這い上がって来る。
敵も歯を喰いしばり目を見開いて
どんどん岩から岩へと山を這い上がって来た。

私は○○発の弾をまたたく間に射ちつくしてしまった。
射てども射てども次から次へと敵は這い上がって来る。

・・・私は長い戦闘の経験で逃げる敵はみたが
こんなに突入して来る敵は見たことがない。
立場が逆になって突入される身になってみると、
何ともいえぬ不思議な気持になった。

守り終そう、どんなことがあってもこの線は守り終そう――一
一切が一瞬間の想念だった。・・・

やがて左の目がジーンと焼火箸を突き刺されたように痛くなった。
右の手から石がパタリと落ちる。右の目に血が一ぱい流れ込んで来る。

「ア、目をやられたな」と思うと左の手から銃がドサリと落ちた。
ハッとして右手を左腕にやってみる。
服が腹まで裂けていた。
つづいて右手を左の目に当てると、
掌にトゲのように目に刺さった弾片がサラサラと触った。
抜こうとしたが血ですべってどうしても抜けない。
銃を右肩にかけて、進んで来たと思う方へ退って行った。

顔と足にグチャグチャと柔らかいものが触れる。
敵の死体だろう。
五十メートルも這うと「谷口! やられたか」
という坂本大尉の当番兵である一ノ口上等兵の声がした。
「本部はここだな」と思う。
手で右の目を拭くと、血がとれて坂本大尉の顔が見えた。

「敵はつづけて這い上がって来ております。
味方で立って戦えるものは一人も居りません、
谷口上等兵状況報告オワリッ!」
と叫ぶとボーッとして何もわからなくなってしまった。

――ふと呼びもどされたように思って気がつく。すると
「丸尾少尉殿負傷! 植竹少尉殿負傷!」
「坂本大尉殿と桑原曹長、迫撃砲弾で即死!」
とたてつづけに報告する声が聞えていた。

私が山麓の野戦病院に寝ていると
「谷口!」と叫んで小林伍長が飛び込んで来た。
小林伍長も右手を包帯で首から吊っていた。

「目とは残念だぞ!」と小林伍長が泣く。
やがて懐からサツマ芋を出して
「お前が負傷したと聞いてお前のために持って来てやった。喰え」といった。

どうしても泣けてサツマ芋は口に入らなかった。小林伍長は言葉をつづける。

「よぅく守ったな。あればかりの兵でよぅく守り終えたなァ、
○○部隊長も××部隊長も泣いてよろこばれたそうだぞ。

アーそうそう、田家鎮は陥ちたよ。漢口はもう目の前だぞ!」

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特別編集 『軍用犬「幸(さち)」』
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2008/12/22 18:00|年表リンク用資料
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