正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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『支那事変 戦跡の栞』上巻「事変の発端 盧溝橋事件」より抜粋

■1937年(昭和12年)7月25日、盧溝橋事件

昭和十二年七月七日、この歴史的な夜は七夕だった。
この夜この時限りに日支両国の運命の星は遂に相離れてしまったのである。

その夜、我支那駐屯軍に属する豊台駐屯部隊は
盧溝橋の北方約千メートルの龍王廟付近の草原に夜間演習を実施していた。

屡々我が部隊の演習はこの好適の草原に行われていたのだが、
なんに血迷うてかこの夜十一時四十分頃、
盧溝橋に駐屯する支那軍(宋哲元の指揮する第二十九軍の一部)は
我が部隊めがけて数十発の不法射撃を行って来た。

ここで二十九軍なるものの正体にちょっと触れておこう。
この軍隊は民国十四(1926)年以来、
西北革命軍として馮玉祥の麾下で北伐に参加し、
民国十七年に宋哲元が陝西省主席となると同時に陝西に入り
十九年の反蒋戦に敗れ、同二十一年、
宋哲元が察哈爾省主席に任ぜられた時、全軍は河北省に移駐した。

満洲事変には抗日戦に参加したが喜峯口の一戦に敗れてしまった。
しかし、性懲りもなく、
相変わらず抗日行動の先鋒となって北支民衆を毒しながら、
昭和十一年六月、
中央軍の河北撤退を期として平津地方を完全に保有してしまった。

その兵力十数万、軍長は宋哲元であったが、
まもなく第三十七師長馮治安が軍長を兼任し、
三十七師(師長馮治安)三十八師(張自忠)百三十二師(趙登禹)
及び新編二師より構成され、事変前の配置区域は保定付近が三十七師、
天津付近が三十八師、京漢線沿線の大名付近には百三十二師が分駐していた。

この軍隊は抗日の親玉馮玉祥の麾下であった関係から、
抗日意識は下層まで行きわたっていた札つきの悪質の軍隊であったのである。

さて、我が部隊は演習を中止して人員点呼を行った所、
兵一名が不足しているのを発見したので
直ちにその付近を捜索すると共に豊台駐屯隊長に急報したが、
間もなく不足した兵員は発見され
我が部隊に損害の無いことが明らかになった。

急報に接した豊台部隊は直に現場に急行、
主力を五里店部落付近に集結すると同時に、
盧溝橋駐屯の支那軍に対し交渉を開始したが、
その最中に龍王廟付近の支那兵は再度不法射撃を行い、
今度は迫撃砲弾を交えた数十弾を我が部隊に浴びせかけた。

ここに於て遂に我が将兵の沈黙は破られた。
部隊長の軍刀一尖、暴支膺懲の火蓋は切られ、
漆黒の間を衝いて草原を疾駆、怒涛の如く龍王廟の敵陣に乱入、
忽ちにして龍王廟付近一帯の永定河左岸堤防の線を占領、
盧溝橋及長辛店にある支那軍を監視する態勢を取ったのである。
時に八日午前五時、薄明の盧溝橋畔に皇軍最初の万歳が湧きあがった。

しかし北京駐屯軍隊長は事態を重視、森田中佐を北京より現場に急行せしめ、
宛平県長王冷斎及び外交委員会代表と不法射撃に関する
交渉を開始せしめると共に、
取敢えず演習のため分散していた北京部隊の集結を命じた。

九日午前二時、支那側は我が要求を入れ、
午前五時を期し盧溝橋にあった支那部隊を永定河右岸に
撤退する旨を約したので、我軍はその実行を監視することにした。

しかし支那軍は約束の午前五時が来ても撤退の模様はなく、
かえって兵力を増加して、我軍に対し、時々射撃を行う始末なので、
我軍は更に支那側の協定不履行に対し厳重な抗議を行った。

その結果支那側は已むなく午前七時何族長
及周参謀を軍使として盧溝橋に派遣、
支那軍隊の撤退を促がさしめた結果
同地の支那兵は一小隊を残して同日午後零時十分永定河右岸撤退、
残る一小隊も保安隊到着を待ってこれと交代することとなったのである。

しかし永定河左岸の支那軍はこの頃より次第に兵力を増し、
着々戦闘準備を整えつつあったのである。

即ち十日夕北方衛門口より南下した迫撃砲を有する支那軍は、
前日の誓約を破り、龍王廟を占拠引続き攻撃して来たのである。

ここに至って、牟田口部隊長は決然、主力を第一線に展開、
出撃して龍王廟を占領、爾後主力を盧溝橋東方地区及豊台に終結して、
状況の推移を監視することにした。

これよりさき不拡大方針を堅持する我駐屯軍は盧溝橋付近の情況を憂慮して、
橋本参謀長は一幕僚を従え九日午後四時天津より北京に到着、
冀察側と折衝したが、支那側の態度頑迷で、容易に打開の途なく、
遂に十一日午後交渉決裂を覚悟してひとまず橋本参謀長は離京したのである。

ところが冀察側も我が朝野一致の強硬決意を覚ったらしく、
同日俄かに態度を変えて、当時北京に残っていた松井特務機関長に対し、
日本側の要求を承認する旨申出て来たのである。

我方からの条件は全く正当なもので
「支那側は盧溝橋及龍王廟に駐屯せざること、謝罪及び責任者の処分、
将来の保障として排日行為取締の励行」等の数箇条で第二十九軍代表張自忠、
張允栄の署名調印を以て同日午後八時我が方に手交したのであった。

―――――――――――――――――

かくて事件は小康を得た形であったが、
支那側は着々八寶山付近から京漢線に至る間、
永定河右岸地区に益々兵力を増加しつつあったばかりでなく、
事件の発端地盧溝橋付近から京漢線北側地区、八寶山付近に亙る間に、
三線の陣地を構築、更に永定河右岸長辛店、
及びその西北方高地にも堅固な陣地を占領して、
漸次我方に包囲的態勢をとり抗戦意識極めて旺盛なるものがあった。

一方古都北京の反日意識も意思外に熾烈で事変勃発と同時に戒厳令を布き、
内外城門は勿論、市内の随所は二十九軍兵士の青龍刀に固められて、
城外との交通は全く遮断された。

見上げれば屋上等には機関銃さえ配置され、
ことに邦人の多く往き交う交民巷付近の街路には、
夜間迫撃砲まで持ち出すという始末であった。
我方の交渉により城門だけは開かれたが、
戒厳令は依然続行して、我軍の通過を許さなかった。

こうした例は数十年来かつて見なかったもので民国革命以来、
内乱戦、事変等は屡々起ったが、
北京の治安はおおむね警察力で維持されていたのであるが、
今回は全く状態が異なり、
悉く二十九軍の銃剣と、青龍刀が北京の街を支配した。

ことに邦人に対する暴圧は言語同断で、或は我が憲兵を検束し、
或は婦女子に迫害を加え、或は住宅に不法侵入し、
或は暴行傷害を加える等々の不祥事が頻発したのである。

かくの如き不法圧迫が北京城内に行われている折も折、
十三日城外馬村付近に於て同地通過の歩兵一小隊に
支那軍は突如不法射撃を行い、
我方は戦死三名を出すという不祥事が惹き起こされたのである。

更にその翌日十四日団河村付近を
我騎兵部隊が通過の際不法射撃を受け兵一名が戦死した。
一日置いて十六日午前八時頃鈴木部隊の一部は安平に於いて
冀殺保安隊の攻撃を受けるなど重ね重ねの不法射撃を受けたのである。

こうした不祥事の頻発に、宋哲元は十八日天津に赴き軍司令官を訪問して
形式的陳謝を行ったが破局は次第に迫りつつあったのである。

かくするうちにも十九日午後六時頃、盧溝橋の支那軍は、
又も西五里店の我が部隊を射撃将校一名を負傷せしめた。
遂にその夜我が軍の断乎たる通告は発せられたのである。
「軍は第二十九軍が、
再び不信行為を繰返す時は二十日正午以後独自の行動を採るべし」

盧溝橋付近にあった我部隊はこの間約一旬、はやる胸を押さえて、
西五里店付近の砂丘一文字山を一歩も出ず隠忍の日を送っていたのであった。

冀殺要人の狼狽を他所に時は刻々と経ち、遂に二十日の夜は明けた。
この日、真夏の太陽はギラギラと輝き、
空は北支独特の青さに澄みかえっていたが、
凄愴の気は盧溝橋一帯を蔽っていた。
午後一時過ぎ宛平県城の支那軍は突如我が部隊に砲撃を開始してきた。

来るべきものは遂に来た。
河辺部隊長の命令一下、一文字山山頂の砲兵陣地からの砲撃を皮切りとして
全線砲口は地軸をゆるがせて真赤な火を吐いた。

折柄一時空を蔽っていた雲は切れて、陽光は戦線を照らしたが、
わが砲弾の威力は物凄く、
宛平県城は、黒煙濛々と立ちこめ、一弾毎に城壁は飛散した。

しかし敵も頑強に抵抗して砲撃をやめなかった。
しかし午後三時過ぎに至って敵もわが砲撃に辟易したものか全く沈黙、
ここで我が方も砲撃を中止したが、日没頃敵は再度砲撃を開始して来た。

我が部隊もこれに応酬して猛烈な砲撃を送り、
忽ち宛平県城の望楼を粉砕した。
ここに至って、敵は全く沈黙するに至ったのである。

かくて二十日は暮れた。
翌々二十二日午後六時過ぎ
三十七師の二百十八団の一営は羅州に向って移駐を開始した。
夕陽の下、機関車に白旗をかかげた列車は一文字山下を通過して、
想い出の宛平県城を左に見て盧溝橋を越えて南へ去って行った。

翌二十三日にもこの敗残の南下列車は続いて、
ここに事態は一時小康を得たのである。
以上が北支事変の発端と、盧溝橋付近の戦闘のあらましである。

当時の一文字山の様子
当時の一文字山の様子

■1937年(昭和12年)7月25日、郎坊事件

昭和十二年七月二十五日午後十一時三十分、
郎坊駅に日支両軍が衝突したのである。

郎坊は北寧線北京と天津の丁度中間の小邑である。
ここに於て屡々我が軍用電線が切断されるので
五ノ井中尉(当時)の率ゆる一部隊は電線補修のため郎坊に到着、
直ちに作業に取りかかったが、郎坊に兵営を持つ張自忠麾下の部隊は何故か、
我が部隊が作業中の郎坊駅を取囲み不穏の形勢を示していたが、
同夜十一時三十分遂に五ノ井部隊に不法射撃を加えたのである。

止むなく同部隊は応戦、小部隊を以って終夜善戦、
二十六日払暁には敢然突撃に移って、
大軍の中に斬って入り、支那軍を駅付近より撃退したのであった。

一方急を聞いた陸の荒鷲は敵兵営を強襲爆撃を敢行した。
これこそ今次事変最初の空爆であった。

その時天津にあつては、軍当局は、宋哲元に対し三十七師を
二十八日正午迄に永定河以西に撤退すべしと厳重に要求していたのである。

■1937年(昭和12年)7月26日、廣安門事件

この日衝突は遂に北京にも起った。
二十九軍との諒解の下に廣部部隊は居留民保護のため
廣安門を通過して北京に入城せんとしていた時である。

時刻は午後七時三十分、三台目のトラックが通り終った途端、
突如全く突如に支那軍は城門を閉し、
城壁直下にある我が廣部部隊に機関銃、手榴弾の雨を降らせたのである。

これが所謂「廣安門事件」である。

この事件が如何に支那側の計画的暴挙であったかは、
当時廣安門にあった人々の身をもって感じた処である。
左にその当時従軍していた同盟記者の筆を借りて当時の大要を記そう。

「不誠意極まりなき支那側は、事前の諒解あるにもかかわらず、
城門を固く閉して土嚢を積み重ね、形勢全く不穏なるを思わせたが、
櫻井顧問の断乎たる交渉の結果、城門は漸く開かれた。

今にして思えばこの時既に
支那軍は皇軍を奸計に陥れるあらゆる準備を完了していたのだ。

午後七時十分、
豊台からのトラックが何等狐疑する処なく、廣安門を通過し始めた。
トラックはスピードを落として一台、
また一台、三台目が城門を通過した途端、
突如全く突如パンパンパンと三発の銃声!
続いて起る機関銃の掃射、堅固な城壁から二十メーター直下にある皇軍の
先頭部隊に真向から暴戻極まりなき猛射を浴びせたのだ。

はっと思ういとまもあらせず、迫撃砲、手榴弾、機関銃、小銃の乱射は、
夕闇ようやく濃い廣安門大街に縦横に閃光を交錯させる。
その物凄さ記者等は全くなす処を知らなかった。

次の瞬間、二人の写真部員はアッと叫んで敵弾に倒れてしまった。
記者はわずかな掩護物を発見して、からくも身をかくしたが
驟雨の如く落下する敵弾に全く生きた心地もない。

このとき敏捷果敢な皇軍は早くも城門を隔たる数百メートルの地点に
間髪を入れず散兵線を展開、
直ちに支那軍膺懲の機関銃猛射を開始したのである。」

以上が廣安門の支那軍の不法射撃である。

かくして我が国政府、並びに軍が堅く不拡大方針を持して
隠忍自重和平招来に尽した一切の努力は水泡に帰したのである。

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『支那事変 戦跡の栞』中巻「上海付近の戦闘」より引用

長江の流域には、数十年来培われた列強の勢力があり、
上海特別市は世界で最も複雑した国際都市である。

しかもこの地方一帯の住民は北方の民族に比べて知識的であり、
多血質であり、多年国民政府の排日教育によって凝り固まって居た。

盧溝橋畔一発の銃声によって、支那事変の発端が開かれるや
時局収拾策に奔命した国民政府は直ちに中支那方面に、
日本軍の軍事行動を拡大せしめ国際紛争を惹起し
御得意の以夷制夷の術策により事態の態勢を有利ならしめんと企図した。

この方策は数年来支那で研究唱導されて居た「抗日決戦策」の
第一案であったのである。
驕慢なる支那軍閥は満洲事変以来の国際状勢と日本内地の状勢を誤断し、
うちには支那軍の近代装備と強化を急ぎ、外には列強の支那支持を恃んで
「日本軍何するものぞ」と皇軍の実力を軽侮し敢てこの方策に出たのである。

蒋介石はこのために支那一流の精鋭軍と誇る直系軍三十個師を
この方面に動員し、戦線四十キロに亘って配置、
一師の防禦担任正面は実に一、三キロと言う世界戦史にも稀な
濃密な布陣をし、戦場一帯に点在する稠密なる小部落と五十メートル
乃至三、四百メートル毎に縦横に交錯する
大小クリークの水濠地帯を利用して要点には悉くトーチカを準備し、
一連の靭強なる大陣地帯を完成して
完全な近代的防禦設備により皇軍を一挙に邀撃せんと試みた。

これに対して日本軍は兵力極めて僅少、
そのうえ戦場の地形は平坦で砲兵の観測所に有利なる地点がなく、
交通は困難、歩砲の協同至難を極めると言う攻撃に悉く不利なる状況で、
一方上海租界を控えて作戦行動にも
重大なる国際上の掣肘を受ける有様であった。

しかも敵軍は逐次兵力を増強して上海付近の戦い中期には
昆山の線以東に実に七十個師の大軍を配して居たのである。
戦況は惨烈を極めた。
世界無比の皇軍にしてこそ始めて
この状況を克服し堅塁を突破したものと断言し得る。

■上海方面戦前の状況

盧溝橋事件の勃発以来、
中南支の各地に於ける支那側の抗日態度は益々露骨化し、
わが居留民の生活は日毎に脅威せられ事態はいよいよ切迫したので、
長江筋に於ては昭和十二年八月一日の
重慶、宜昌、沙市の引揚げを始めとして、
長沙、漢口、九江、蕪湖、大冶、南京、鎮口等の
居留民約二千八百名は同月九日午後一時までに全部上海に引揚げを完了した。

多年営々苦心した居留地を見捨てて引揚げた邦人は上海で頼るに家なく、
そのまま船中に留まる者、身寄りに一時の宿をとる者、
居留民団で設置した臨時宿泊所の東、西本願寺や旅館に宿る者等に分れ、
内地への便船を待っていたが、
何れも支那側の暴状に悲憤の涙に暮れ婦女子は乳呑子を抱いて
オロオロするなど悲惨そのものの有様であった。

上海の空気も亦日一日と緊迫を加え八月初旬以来は
日本人の生活に欠くことの出来ぬ米さえ支那側は不買を強制して、
九日正午からは中部日本人小学校で米の実費供給を開始するの已むなきに至り
九日午後には上海共同租界の目抜通り南京路の各大商店ショウウインドには
一斉に「既に最後の関頭に至れり」との激越な扇動ビラが貼られて
「日支軍衝突」とか「日本人が殺された」等の不穏のデマが盛んに流布され、
市民の動揺、抗日風潮は頓に濃厚となった。

しかもその裏には上海市当部の指導する抗日団体が
積極的活動に乗出して居たのである。

この間、国民政府は八月五日支那全軍に動員を下令し、
六日午後二時からは南京に於て全国国防会議が開催され、
総司令蒋介石司会の下に国民政府の執るべき最後的態度に就いて討議の結果
「対日開戦不可避」と言うに決定した。

■大山中尉射殺事件

日本海軍特別陸戦隊の第一中隊長大山勇夫中尉は
斉藤要蔵一等水兵の運転する自動車により
昭和十二年八月九日午後五時頃、共同租界越界路のモニュメント路通行中
道路上に於て多数の支那保安隊に包囲せられ
機銃、小銃数十発の乱射を受けて即死した。

大山中尉等の身体には頭部、腹部を嫌わず蜂の巣の如くに弾痕があり
自動車は前硝子を滅茶滅茶に破壊、
車体に数十発の機銃弾を打ち込まれ現場は見るも無惨な有様であった。

大山中尉事件でわが方が厳重交渉中、
支那側は例のノラリクラリ戦術で応対し、
一方には積極的抗日策動を益々盛んにして
邦人経営の紡績工場は休業の已むなきに至った。

十一日午後七時には支那側武装保安隊が虹橋路を仏租界方面に進出、
呉淞、寶山県一帯に塹壕を構築し、
上海停戦協定の明瞭なる条文をも無視して協定線内には既に
第八十八師、第八十七師、第八十二師の各師より選抜派遣された
正規兵の保安隊に仮装せる者合計約一万二千が侵入して
数線の陣地構築を開始するに至ったのである。

続いて十二日には北停車場付近に於てわが憲兵隊員二名が
支那側に拉致され行方不明となった事件が勃発し
翌十三日午前九時半頃中部四川路と北停車場の中間地区に於て
支那兵は遂にわが陸戦隊斥候に猛烈なる射撃を加えるに至ったのである。

―――――――――――――――――

昭和十二年八月十三日午前、閘北の支那前線部隊は続々虹口クリーク、
淞滬鉄路沿線、寶山路方面に兵力を終結増加して機銃、小銃の射撃を断続し、
同日午後四時十分寶山玻璃廠(日本人経営の硝子工場)付近の敵は
本格的に攻撃を開始し来り、
午後四時三十分にはまた八字橋警備の陸戦隊にも攻撃し来ったので、
わが方は断乎これに応戦しここに上海方面の戦端は遂に開かれた。

同夜は早くも彼我の猛撃によって戦線各所が炎上、
戦火は大上海の空を焦して凄烈なる状況を呈した。

十四日午前十時、支那爆撃機編隊は突如として上海空襲を開始し、
一機は先ずわが陸戦隊本部上空に現れ他の敵機はわが総領事館、軍艦
及び船舶、公大紡、裕豊紡等を爆撃し来り数回反復し来ったが
内一機は同日午後三時眞茹上空に於て
日本海軍水上機と空中戦の結果撃墜せられた。

更に午後四時二十三分敵のマルチン爆撃機十数台は
旗艦出雲に編隊爆撃を敢行したが命中せず、
わが高射砲機関銃の猛射を浴びて血迷って
共同租界、仏租界へ所嫌わず爆弾を投下し、多数の支那人及び外人を殺傷し、
英人経営のパレス・ホテル、カセイ・ホテルに
三発まで爆弾を誤り命中せしめた。

我が海軍航空隊はこの暴状に果然憤激、
支那海の怒涛を越えて長躯し十四日午後六時半には
早くも敵の空軍根拠地、筧橋、杭州喬司飛行場を、
同七時半には廣徳飛行場を襲撃し、
更に別動隊は同日午後八時南翔飛行場を襲い
各々果敢なる爆撃、空中戦を敢行し翌十五日には更に鵬翼を伸して、
午前九時半頃杭州を、正午頃南昌を、午後には敵の首都南京を、
折柄の悪天候を冒して空襲し支那空軍根拠地の飛行機、格納庫を爆撃して
反撃し来った敵機数十を撃墜して制空権を我手に握った。

爾後わが海軍は空陸海、相呼応して士気益々旺盛に優勢なる支那軍の攻撃を
撃退し来り流石に多勢を恃んで執拗な敵軍も、
二十日頃には漸く気勢衰え始め戦線は膠着状態に入ったのである。

■上海より羅店鎮の激戦

陸皇軍・中支に出動

これより先、帝国政府は暴戻不信の支那側の態度に対し
十五日緊急閣議を開き同日午前一時十分
「帝国としては最早、隠忍其限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し
以て南京政府の反省を促す為、今や断固たる措置をとるの已むなきに至れる」
旨の重大声明を発し、次いで自衛権発動の目的を以て
陸軍部隊を中支方面に急派して
支那軍に対し徹底的膺懲の鉄槌を加えることとなった。

かくて帝国陸軍部隊は勇躍内地を後にし、
海軍との緊密なる連絡協同の下に八月二十三日早暁、
羅店鎮方面揚子江沿岸及び呉淞鎮付近に於て
果敢な敵前上陸を敢行、中支の地に第一歩を印した。

■羅店鎮方面の敵前上陸

羅店鎮の敵前上陸こそは、
世界戦史上に壮烈無比の一ページを飾るものであった。

二十三日未明、満を持したわが精鋭は海軍軍艦の掩護の下に、
羅店鎮方面の揚子江河岸に忍びより、第一回上陸部隊は
下坂参謀指揮して十数隻の舟艇に分乗、敵岸目がけて猛進した。

下坂隊長は早くもこの時、胸に貫通銃創を受けて居たが屈せず
軍艦に残る部隊長に懐中電灯の信号で
「上陸成功」を知らせ部隊長は第二回上陸部隊と共に上陸、
午前七時部落内で下坂隊長の報告を受けた。

この時敵の飛行機が現れあっと言う間に爆弾二発を投下して飛び去った。
下坂隊長は二発目の爆弾で右肩から左胸へ貫く重傷を負いどっと仆れたが、
深傷に屈せず起直って息も絶絶ながら
報告を続けるという壮烈のうちに息は絶えたのである。

呉淞鎮方面の敵前上陸は二十三日午前三時四十分から
四時間に亘って敢行され、
激烈なる交戦の後遂に午前八時半、見事に完了した。

わが陸軍部隊の上陸に先立ち竹下部隊長の率ゆる海軍陸戦隊の精鋭七十名は
白襷に身を固め一死報国の旺んな意気と共に敵前上陸の先発隊として
艦載艇により江岸にドッとばかり猛進した。
敵は新手の第三十七師及び第三十八師混成の数万に上る大部隊である。
岸壁はすでに敵弾によって爆破されつくし艦載艇の舷側を寄せる術もない。

雨霰と落下する敵砲弾は黄浦江の両沿岸から
集中して艇に命中するもの既に数十発。

しかし遂に岸壁に艇は打ちつけられた。
二尺巾の板が渡されて、白襷の姿が砲火炸裂する暗中へ躍りこんで行った。

かくて死闘数時間、戦友の屍を越えての突撃が繰返された。
この間に陸軍倉永部隊を先頭とする部隊は続々と上陸。

肚烈、言語に絶する猛突撃はいく度か繰返されて、夜は次第に明け放れた。
さしも頑強な敵もわが陸海軍の緊密水も漏らさぬ団結猛撃の前には
闘志を奪われて次第に退却し始めた。
午前七時、停車場付近はわが上陸部隊によって占拠された。

―――――――――――――――――

南京へ南京へ
南京へ南京へ

[南京へ南京へ]

北上する左翼千葉、山田両部隊は、六日秣陵関を越えて、
叉路口に達し雨花台に迫り、右翼は句容より南京、
杭州街道によって西進する助川、大野の両部隊は、麒麟門の難関を突破し、
紫金山山麓を縫って進撃すれば、その中間を金壇より長躯進撃した脇坂、
下枝等の部隊は、高橋門難関を突破して、
大校飛行場を占領、今や全く南京城壁は指呼の中に迫ったのである。

陰暦四月の弦月は早や西に没して、
快く晴れた星月夜に我が掩護砲撃の音殷々としてしじまを破り、
各部隊は微かに白く浮ぶ高さ十五メートルの城壁めざして
最後の進撃を続けていたのである。

今や太湖南北両岸より長躯、南京めざして進んだ我が部隊将士は、
晴れの入城を目睫に控えて意気愈々軒昂たるものがあった。

[親衛隊の後退]

句容及び秣陵関の一戦に多大の犠牲を出して、脆くも敗れた敵大部隊は、
東方及び東南方より軍工路伝いに雪崩を打って南京城内に殺到してくれば、
蒋介石の親衛隊たる第三十六、第八十七、第八十八の各師の一部も、
六日夕刻過ぎより夜陰に乗じて、対岸へ後退を開始したのである。
尚御大蒋介石も宋美齢夫人同伴親衛隊若干を率いて、
南京落ちを七日早朝行ったと推察された。

[支那軍抵抗線]

我が軍の主力は、南京に通ずる三つの街道を
いづれも南京に向けて攻略の陣を進めつつあったが、
支那軍は六日この我が軍の攻略戦の前面にある湯水鎮、淳化鎮、高家村を
連ねる山岳地帯によって、南京死守の防御陣をかためて、
我が進撃を喰い止めんとしたが、七日朝には我が軍はこの抵抗を排して前進,
棲霞山、青龍山、方山を結ぶ敵の本防禦線を撃破したのである。

この山岳地帯を我が軍が占領すれば、
残るは南京市街を直接に防禦する紫金山、雨花台の最後の防備陣だけである。
支那軍はこの防備陣によって死にもの狂いの抵抗を試みるものと察せられた。

[湯山確保]

南京総攻撃の主力部隊は、七日午後三時湯水鎮を占領したが、
南京政府が近代砲兵の養成所として建設した砲兵学校の校舎も、
同日午後四時には、完全に我が軍の手に帰し、
日の丸の大旗が三階建ての中央校舎に掲げられたのである。

先鋒の大野、片桐両部隊は七日朝来新塘市より湯山の西側に現れ、
湯山に拠る敵に猛撃を加えたが、
遂にこの敵陣を撃破して山岳地帯を縫って前進を続け、
先頭は南京城を距る十五、六キロの距離に迫って、
南京の一部湯山を確保したのであった。

[総攻撃の火蓋切らる]

六日空中よりの偵察によれば、
南京市内は大火災を起こし、凄惨な光景を呈していた。

この頃、強行軍を以て一路南京に進撃中の我が先遣部隊は
六日午後一時、南京東部五キロの高橋門に殺到したのである。

尚六日夜助川部隊は、敵が付近の民家に放火して敗走するを追い、
一方富士井、人見の各部隊は矩容南方張五里村より旧街道の土橋鎮に現れ、
敵の射撃を排除して三隊に分れ、
右翼は山府村を確保し、左翼は旧街道の線に迫ったのである。

南方部隊の漂水を占領した快速隊は、既に禄口鎮を確保し、
敗走する敵を追撃中であったが、
かくて敵の首都南京最後の総攻撃態勢は完成し、
諸方面よりする南京総攻撃は
七日午後一時殷々たる砲兵陣の巨弾を以てその火蓋を切ったのである。

我が寄手の軍勢は助川、大野、脇坂、富士井、人見、下枝、千葉、
山田の面々、東と南から取囲み、
その武者振りは、南京占領前から既に敵を呑むの概があった。

[宣城占領]

一方宣城は七日朝に至って、我が藤山、野副、小堺、片岡の
各部隊によって占領され、各部隊は、
息もつかず前進して、夕刻迄には、蕪湖の敵を脅かしたのであった。

[江陰対岸に敵前上陸]

南京陥落を目睫に控えながら、
江陰対岸靖江の敵は執拗に我が軍の揚子江遡江を阻止すべく猛射を浴せたが、
添田、倉林などの諸部隊は、八日午前五時、揚子江より対岸靖江前面に、
敵の虚を衝いて果敢なる敵前上陸を敢行して、
海、空軍の密接な協力を保ちつつ一挙に敵陣を蹂躙、この奇襲に成功して、
退却の敵を追って靖江の敵主力陣地めがけて肉迫したのである。

[鎮江県城を占領]

一方丹陽より決死の勢を以て、
南京東部要害の鎮江に向った花谷、安達両部隊は張宮渡より更に進撃を続け、
七日新豊鎮を抜き、更に八日早朝前進を開始し、砲兵陣の猛撃と相呼応して、
午前八時頃遂に鎮江城壁に殺到、
城壁を乗り越えて城内に突撃し、残敵を蹴散らし、
午前九時頃掃蕩を終え城壁に日章旗を掲げたのであった。

―――――――――――――――――

[白水橋付近の夜襲]

南京を死守する敵は、湯山の市外付近に蟠踞して、
迫撃砲、速射砲により頑強に抵抗し、且つ高地には永久陣地を構築して、
遮二無二の盲目撃ち、その勢い侮るべからざるものがあった。

その時我が新鋭部隊は野田部隊を以て、
八日午前零時を期し夜襲を決行したのである。
右翼には助川、片桐、左翼には大野部隊、かくて野田部隊の夜襲により、
八日暁までに我が軍の先頭部隊は勇躍南京を距ること二里の地点
白水橋付近に達したのであった。

一方湯水鎮付近三百メートルの高地に蟠踞して、
頑強に抵抗を続けつつあった敵は、
我が三国部隊の砲撃によって、七日午後八時遂に沈黙するに至った。

[城外の一角の突入]

我が助川部隊は七日午後湯水鎮の北方、
南京城外の紫金山後方の山岳陣地に拠る敵部隊を猛撃、
物凄い山岳戦を演じて、これを屠り、南京攻撃三日目の朝には、
既に南京城外陣地の一角に突入したのである。

まだ明けやらぬ八日早暁、南京外周の山野を包む朝霧を衝いて、
愈々南京城正面攻撃の火蓋は切って落されたのであった。

八日朝来の戦況は左の如くである。
南京街道をひた押しに押し進む助川、大野の諸部隊は、
湯山の山腹及び山頂の敵を攻撃、
山麓より徐々に敵を制圧しつつ山腹の堅陣に肉迫した。

索野鎮を突破した下枝、脇坂等の諸部隊は
七日に引き続いて街道を扼する普山の要塞攻撃を続行中であった。

又秣陵関の天嶮をついて北進した千葉、
山田の諸隊は牛耳山の本陣地山麓にとりつき、
肚烈な山岳戦に移り、敵を雨花台方面に圧迫しつつあった。

いずれも戦況有利に展開して、砲声は南京城外の山野を圧し、
戦闘は正午頃に至って益々酣となったのである。

[中華門に迫る]

去る五日、漂水を出発して以来、
無人の境を行くが如き勢いで南京城を目指して、
猛進中の杭州湾上陸部隊の新鋭部隊の先鋒は、
七日午後早くも南京南方六里の秣陵関に達し、
ここに頑強なトーチカ陣地を築き
我が通路を阻む約一千の敵と遭遇して、激戦二時間これを撃破した。

この時新鋭部隊長は部隊を二手に分け、
矢ケ崎、山本両部隊は東南側より南京城を衝くべく
方山の麓を迂回して進撃すれば、
千葉部隊主力は左街道より南京の西南側を目標に、

また山田部隊は漂水、南京間の本街道上を南京城中華門を目指して躍進して、
その先鋒は潰走の敵を急迫しつつ八日午前十時早くも
南京城南八キロの周家村に達したのである。

街道西側の丘陵地帯、殊に本街道の北面将軍山のペトン式トーチカからは、
絶えず火を吐き続けて、我が進撃を必死に阻むが、
鬼神の如き我が軍はその中を猛撃したのである。

[突撃路開く]

八日午前十一時三十分我が陸軍機は、
南京城南面の将軍山一帯のトーチカに拠り最後の抵抗を続けている敵に対し、
猛烈果敢な爆撃を加え地上部隊の進路を開いたのである。

かくて山田部隊の先鋒が勇躍南京城を目指して行動を起せば、
また天城部隊は、雪崩を打って潰走する朱盤山の山岳地帯敵陣を突破して、
疾風の如く北進して、朱盤山一帯に、敵屍の山を築いたのである。

[天生港砲台を占領]

八日未明江陰付近において渡河し、揚子江北岸に上陸せる添田、
倉林両部隊は、陸海空軍及び艦砲射撃の協力の下に、
その攻撃順調に進捗し、午後一時頃その主力以て靖江に突入し、
一部を以て天生港付近の砲台を攻略し、
ここに揚子江航行の安全を確保したのである。

[麒麟門を占領]

我が新鋭部隊は、九日午前五時前進を開始し、
最後の南京突撃戦を敢行したのである。

敵は八日夜より続々退却中で今や紫金山の最後の陣地を餘すのみとなった。
我が片岡、大野両部隊の先頭は、
午前九時半麒麟門に殺到同所を占領したのである。

かくて南京市の一部を占領、城門まで後一里半を餘すのみとなったのである。

[牛首山に日章旗]

秣陵関の関門を突破して敵の右翼に迫った長谷川、竹下両部隊は、
八日、夜戦を以て牛首山及びその南方四キロの丘陵を奪取し、
九日早暁山頂高く日章旗を翻したのである。

更に時を移さず山腹の傾斜面に砲列を布いて、
雨花台方面に潰走する敵に砲火を浴びせかけたのである。

[蕪湖遂に陥落]

片岡、小堺、野副、藤山各部隊の一部は蕪湖西方の道義渡を占領して、
更に西進中九日正午頃蕪湖西方二里の清水河に達したが、

又他の一部は楊村を占領後北西に進み、蕪湖西南方馬鹿湾、
黒湾付近の線に進出、かくて蕪湖攻撃の各部隊と共に、
今や長江の要地蕪湖を完全に包囲し、午後決河の勢いを以て蕪湖に迫り、
午後五時を期して総攻撃に移り、
夕闇迫る城壁上に感激の日章旗を翻したのである。

―――――――――――――――――

[皇軍、最後の投降勧告]

南京は既にわが掌中に在ったが、九日正午松井最高指揮官は、
南京防衛司令官唐生智に対し、二十四時間の期限を付し、
十日正午迄に降伏するよう、情理を尽した投降勧告文を飛行機より投下して、
光栄ある日本武士道の精神を内外に示したのであった。

【勧告文全文】

日軍百万既に江南を席巻せり、南京城は将に包囲の中にあり、
戦局大勢より見れば今後の交戦は只百害あって一利なし、
惟うに江寧の地は中国の旧都にして民国の首都なり、
明の孝陵、中山陵等古跡名所蝟集し、宛然東亜文化の精髄の感あり、
日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも
無辜の民衆及び敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てしこれを冒さず、
東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり、
しかして貴軍にして交戦を継続せんとするならば、
南京は勢い必ずや戦禍を免れ難し、

しかして千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営は全く泡沫とならん、
よって本司令官は日本軍を代表し貴軍に勧告す、
即ち南京城を和平裡に開放し、しかして左記の処置に出でよ。

大日本陸軍司令官
松 井 石 根

本勧告に対する回答は十二月十日正午中山路句容道上の
歩哨線において受領すべし、
もしも貴軍が司令官を代表する責任者を派遣する時は、
該処において本司令官代表者との間に南京城接収に関する
必要の協定を遂ぐる準備あり、若しも該指定時間内に
何等の回答に接し得ざれば日本軍は已むを得ず南京攻略を開始せん。

松井最高指揮官の武士道的見地から礼を尽した勧告文に対し、
唐生智は非礼にも回答期限たる十日正午に至るも
何等の回答を為さざるのみか、却って十日早朝来猛烈なる砲火を以て
我が軍を攻撃応酬しつつあったのである。

ここに於て我が軍は十日午後一時遂に総攻撃を実行することに決し、
砲兵の全力を以て砲撃を開始すると共に、
全線一斉に進撃を開始して、南京城を圧するに至ったのである。

[一斉攻撃]

旧街道を驀進した脇坂部隊は、十日午前三時城壁一キロの地点を撃破して、
同三時半南門付近の城壁に達したが、
同じく富士井、下枝の各部隊も午前五時一斉に進撃を起し、
同六時過ぎ南京城中華門(南門)付近の城壁に達し、
各部隊潮の如く城壁に殺到したのである。

一方紫金山を中心とする敵の堅塁に対して、
大野部隊及び戦車隊は十日午前六時戦車隊を先頭に南京街道を、
山砲、迫撃砲物凄き中を驀進して、白水橋を突破し、
中山陵に迫り十日午前八時片岡、大野の各部隊は既に紫金山を占領、
午前九時には大野、野田の両部隊先頭は中山門に殺到したのである。

[紫金山に日章旗]

富士井部隊の一部は、十日午前十一時紫金山の残敵を掃蕩し、
大日章旗は薄曇の中に紫金山頂に翩翻と翻ったのである。

南京城外大校飛行場を占領した脇坂、人見、伊佐、富士井の各部隊は、
九日夜、東南方より光華、通済の両門に肉迫、
光華門に於て敵の戦車一台を拿捕したのである。

また東方紫金山攻撃中の大野、助川、片桐、野田の各部隊は
同夜紫金山を占領すると、息つく間もなく、
同山の背後を迂回して太平門に迫ったのである。

又南方よりは襲撃中の長谷川、竹下、千葉、山田の各部隊が
城壁近く進撃して、今や南京は三方を包囲されて敵は袋の鼠となり、
僅か長江方面の水路に血路を残すのみとなったのである。

[當塗を占領]

丹陽湖を横断して民船小蒸汽等によってクリークを北進し、
一気に當塗付近に進出した長野、山田両部隊は、
十日午前十時一挙當塗城内に突入、周章狼狽する城内の敵兵を掃蕩して、
午前十一時城頭高く日章旗を翻したのである。

[将軍山から猛進]

将軍山攻撃中の竹下部隊、岡本(保)部隊は九日午後、
難攻を誇った将軍山西方高野を夜襲により奪取して、
更に余勢を駆って、夜陰将軍山左方の本街道をひた押しに猛進、
三十数回に及ぶ肚烈なる夜襲に成功して、
払暁までには南京城壁を距る一里半の
クリーク陣地の前線まで進出したのである。

ここに於て左翼部隊として崩壊作戦を執った岡本(鎮)部隊との
連絡に成功し、夜の明けると共に相呼応して南京総攻撃に移ったのである。

[南京城門に大日章旗]

九日(昭和十二年十二月)午前五時半、
南京城光華門前面の城壁間近に到達した脇坂部隊は、
三十六時間の永きに亙って城壁上から猛射を浴びせる敵軍最後の抵抗に対し、
凄壮極まりなき迫撃戦を続けて、
十日午後五時、決死的爆破に成功したのである。

ああ、かくてこの時、
この事あるを熱望した光華門の一部は破壊されたのである。

時を移さず突入して、
十二月十日午後五時二十分、城壁高く日章旗を翻したのである。
世紀の歓喜!仰ぎ見た将兵は感激に泣く。

折から西に沈む夕日を浴びて、
我が一番乗りの勇士が力の限りに打ち振る日章旗は、
敵首都南京陥落を力強く全軍に示したのである。

おお何たる喜びぞ! 何たる一瞬ぞ!
これを眺める将兵の感慨は、弓矢とる身でなければ分かるものではない。
敵はこの城壁を首都防衛の最後の線と恃み、
九日早朝我が軍が城壁下に達するや、続々精鋭を繰り出し、
分秒の隙もなく機銃を撃ちまくり、
明故宮飛行場その他城内の砲兵陣地からは、
重砲や迫撃砲を釣瓶打ちにして、我が軍を悩ませたが、
我が軍はかかる敵の死に物狂いの抵抗に屈せず決死の意気鋭く、
背嚢をかなぐり捨てて唯生の甘藷と弾丸を腰につけて、
敵と対戦したのである。

敵弾雨霰と降りそそぐ中に、後方とは全く連絡を断たれ、
弾薬、糧食の供給は全然不可能になったが、
全将兵は城壁の下から一歩も退かなかったのである。

かくて朝来薄曇の空を衝いて飛来する我が空軍の南京城内爆撃と、
芹澤部隊の砲撃により城壁の一廓が崩れたが、
光華門は鉄扉を以て固く閉ざされ、
その上土嚢を積んで厳重に固められていたので、
我が砲弾を幾つ受けてもびくともしなかった。

午後五時我が決死隊は敵弾雨飛の中をくぐって、
城門に突入爆薬に点火するや轟然たる爆音と共に、
門の一角に穴が開いたのである。

それを見た岸大尉の一隊、続いて葛野中尉の一隊が、
城門に突入して、ここに歴史的南京陥落の一頁は描かれたのである。

見よ! 城頭高く翻る大日章旗!
脇坂部隊の全将士の万歳の声は、南京城頭に谺(こだま)したのである。

[各部隊続々突入]

南京城西門から突入を目指す、快速岡本(鎮)、竹下両部隊は、
十日午後三時遂に蕪湖鉄道を突破、南京城壁五百メートルの地点に達し、
砲列を布き城壁粉砕の火蓋を切ったのである。

藤村部隊の南京城西南角の城壁破壊の大砲集中射撃は、
午後五時半に至るも猛烈に続行され、
敵は火を放って東北方に敗走を始めたのであった。

竹下(義)部隊は、劉園付近の戦闘から十日払暁一気に西方に転戦、
莫愁湖畔に展開し、
壮烈なる白兵戦を演じつつ南京城西門に進撃したのである。

[敵光華門を逆襲]

光華門を確保した脇坂部隊の一部は、
城壁を奪回せんとして夜襲を反復し来れる敵大部隊との間に
数次に亙る夜戦を演じ、我が部隊は飽く迄城壁を死守したのであった。

[総進撃命令]

南京城壁に殺到した我が第一線各部隊に対し、
十一日午前十一時総進撃命令が下されたのである。

この日頑迷なる支那軍に対し、
遂に我が軍は首都南京の潰滅も已むなしとなし、
十一日午前七時砲口を紫金山一帯に列べ、
壮絶豪快な大砲撃戦が展開されたのである。

城内の敵の拠点である主要建物に盛んに命中、
各所に火を吹き黒煙濛濛と立ち上ったのであった。

[中山陵、中山門を占領]

南京総攻撃の先鋒大野部隊の一部は、十一日午前九時中山陵を占領し、
万歳の声と共に感激の裡に日章旗を掲げた。

戦車隊は迫撃砲、チェツコ機銃の集中射撃の中を中山門に殺到したが、
大野部隊の決死隊もまっしぐらに戦車隊と列んで突入したのである。

紫金山より南京城壁に迫る富士井、伊佐両部隊も
十一日朝来頑強に抵抗する敵を斬り伏せて、
午前十一時半一気に中山門に殺到したのである。

尚大野部隊の一部、片桐部隊の一部も、
十三日午前三時、中山門及び中山陵を完全に占領したのである。

[和平門、太平門奪取]

紫金山東北側より南京城壁に迫る野田、大野。片桐、助川等の各部隊は、
十一日朝来の猛攻により、
午前十一時半、相前後して和平門及び太平門の城壁を奪取したのである。

[莫愁湖の激戦]

南京の敵は袋の鼠となり死物狂いで、
我が軍の城内掃蕩を頑強に阻んでいたが、
中華門(南門)の線に向っている長谷川、岡本(保)両部隊は
十一日払暁清家水門付近に激戦を展開したのである。

何しろ同方面は無数のクリークが起伏し、
百数十のトーチカがあって、戦闘は物凄い要塞陣地戦であったのである。

[敵毒ガスで逆襲]

十日夜半より早暁にかけて、光華の伊藤部隊正面に大逆襲し来った敵は、
城壁を奪回せんと、必死の勢い物凄く手榴弾、機関銃の外、
催涙弾を雨注し来り、我が将兵は直ちに防毒面をつけて応戦、
一時は非常な苦戦に陥ったが、肉弾戦を以て之を撃退したのである。

[長江北岸奇襲]

九日當塗を占領した長野、山田両部隊は十日夜陰に乗じて、
一挙に揚子江を渡り、奇襲をもって北岸に上陸、
十一日払暁烏江の敵を急襲して之を占領、
息つく間もなく省境を越えて江蘇省に進入した。

これが為、南京籠城の敵が唯一の血路と恃んだ最後の退路も遂に遮断され、
南京六万の敵は完全に我が包囲下に陥ったのである。

[南門撃破]

わが新鋭部隊の先鋒長谷川部隊は、十二日午後零時十分、
南京城中華門(南門)を破り、城内に突入して、
城内到る処に壮烈なる市街戦を展開したが、
緒方敬之中佐の一隊によって、南門は占領されたのである。
続いて岡本(保)部隊も、中華門に突入したのであった。

[南京完全占領]

かくてわが南京城攻撃軍は、十三日夕刻南京城を完全に占領したのである。
江南の空澄み日章旗は城頭高く夕陽に映え、皇軍の威容は紫金山を圧した。
かくて南京は世紀の感激の裡に見事陥落したが、
各部隊は城内の残的掃蕩と、市内整理に当ったのである。
この南京攻略戦で失った敵兵は、六万を下らぬと推察された。

【南京入場式】

世紀の驚異と、歓喜茲に爆発する南京入場式は、十七日雄渾壮麗に行われた。
この日紺碧の空澄み渡って、雲一つなく、
銃火収まった新戦場には平和の曙光が満ち溢れていた。

陸海軍各部隊は、午後一時中山門より国民政府に至る
南京第一の大通りの両側に参列し、捧げたる軍旗及び軍艦旗は、
光輝燦として、威容長江の浪に映発し、紫金山の霜華一段の光を増す中を、
南京攻撃の最高指揮官朝香中将宮殿下を始め奉り、
松井最高指揮官は中山路に到着して、
ここに歴史的入場式が開始されたのである。

松井最高指揮官は幕僚を従えて堂々閲兵すれば、
陸海軍飛行隊は大編隊を整えて南京の空を旋回、
かくして最高指揮官以下陸海軍各部隊長、
国民政府に入り午後二時政府正門のセンターポールに
高く大日章旗が掲揚されたのである。

全将兵一同東方遥か皇居を拝し奉り、松井最高指揮官が渾身の感激をこめて
「天皇陛下万歳」を三唱すれば、故国へもとどけとばかり、
全将兵は万歳を唱和した。

此の余韻遠く消ゆる時、誰が殉国の忠魂、護国の英霊皆中山門に来たって
此の盛儀に参列せよと心に念じないものがあったろうか。

【陸海合同慰霊祭】

中支方面戦死者の陸海合同慰霊祭は、風寒き十八日午後二時より、
南京故宮飛行場に於て、厳かに執行された。

飛行場の中央に建てられた白木の墓標には「中支方面戦歿者の霊標」の文字が
尊き偉勲を示す中に悲しく読まれた。
陸海軍部隊粛然とと整列し「国の鎮め」の喇叭(ラッパ)が響き渡るや、
厳粛な祭主の玉串奉奠が執行され、
最後に昇神の儀があって、同二時半悲しくも盛んなる式を終わった。

【南京陥落の意義】

かくて抗日首都南京は遂に陥落したのである。
上海、南京一帯の攻略は、江南戦局に一段落を画するものとして、
戦略上重大なる意義を有するもので、如何に巧妙なる宣伝を以てするも、
支那側大敗の実状は今や全く掩うに由なく、
経済中心上海の喪失、北支戦局の進展と相俟って、
彼らの長期抗戦の企図が如何に
暴虎馮河の類であるかを自覚せしむるに充分であった。

日支開戦の当初、南京の攻略には二ヵ年を要するであろうとは
各国軍事専門家の一致した予想であったが、
一国の首都がかく半歳にして陥落したことは、
近代科学戦に加うるに、我が将兵の卓越せる精神力の賜であった。

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戦場手記『征野千里』中野部隊上等兵 谷口勝
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2008/12/21 18:00|年表リンク用資料
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